2010年12月5日日曜日

本が読めない理由


図書館の新着図書コーナーでみかけた本を4冊借りる。

1.吐き気:ある強烈な感覚の理論と歴史 法政大学出版局。メニングハウス著。医学的な「吐き気」ではなくもっとインターナルな問題として800ページも記述されているのにまず辟易。やはりこういう本は20代のころか30歳ごろでないと読めない。

2.音楽嗜好症 オリヴァー・サックス 早川書房。「レナードの朝」の著書。これも上記同様、音楽と神経の関係についてこれでもかと論を展開。寝たきりの母に母が好きだった宮城道雄の琴のCDを聞かせて見ようとおもう。

3.Pascal Quignard, Boutès, Éditions Galilée, 2008. 90ページに満たないフランス語の本が今や読もうとしても読めない。知らない単語がいっぱい。辞書を引いてもよくわからない。現代のフランスがわからない。パスカル・キニャールは私と同じ年生まれ。ゴンクール賞2002年(Les Ombres errantes(『さまよえる影』)に対して) この本の邦訳はまだないが、高橋啓という人が精力的にキニャールを翻訳している。
http://www.paperblog.fr/1090895/pascal-quignard-boutes/

県立図書館ではどのようにして外国語図書を選定しているのか知らないが、英語、中国語、韓国語、フランス語、ドイツ語図書が少量とはいえ継続的に購入されていることは高く評価したい。本国で文学賞を取ったような定評のある作家の本を購入しているようだ。

4.アラビア語の歴史 水谷周 国書刊行会。これは読める。人間が生み出したもっとも奇怪な言語がアラビア語だと思っていたが、そうでもないかもしれないことがわかった。アラビア語入門のその前に読む本。

2010年12月4日土曜日

ページビュー 1111回

2010年6月以来のページビューがちょうど1111回になりました。
最近右肩上がりでのぞきにきてくれる人が増えたような気がします。

ではどのようにしてビューアーがこのブログにたどり着いたのでしょう。

1.知り合いに「ひまなら見てください」とメールした効果。
2.グーグルやヤフーによる検索でたまたま引っかかった。
  たとえば「鶴亀算」というキーワードでグーグルを検索するとこのブログがかなり上位で出てきます。でも私の記事は算数の問題を解くのにはあまり役にたちません。
3.グーグルの検索システムには本当に驚かされます。新しい記事を投稿したらすぐにキーワード検索に引っかかるようになっています。

コメントを書き込んでくれる人がほとんどいないのが寂しいのですが気楽に書いてもらえればさいわいです。ブログ本文は堅い雑誌に掲載しているので文体も堅くなっているのですが、それはあまり気にされずに。

2010年12月2日木曜日

新語・流行語

 毎年12月になると新語・流行語大賞なるものが発表されます。今年は「ゲゲゲの~」、「ととのいました」、「~なう」などが選ばれました。しかし必ずしも時代の特色を鮮明に捉えているわけでもない言葉はあっというまに忘れ去られます。昨年の新語にどんなものがあったかなど遠い記憶の片隅にさえありません。

 それでも今年の流行語のなかでは若者が携帯メールで使う「~なう」は便利かなと思いました。語源は英語の”now”で「渋谷なう」(今渋谷にいるよ)のように使うとか。

 この「~now」で思い出したのがベトナム戦争を描いたフランシス・コッポラ監督の「地獄の黙示録」です。原題は”Apocalypse now”(現代の黙示録)。ベトナム戦争で見られた人間の悪魔性についてこんなにも直観に訴える作品は他になくおぞましさのあまり映画館の巨大なスクリーンを直視できませんでした。

 ウィキリークスによって最近暴かれたアメリカ兵によるイラク住民虐殺シーンの映像を見ると今も米軍前線は「地獄の黙示録」の時代と少しも変わりません。

 今年はこのウィキリークスだけでなく、日本では菅内閣が理由もないのに公開を拒んだ尖閣映像が海上保安庁職員によってユーチューブに投稿され大騒ぎになりました。また尖閣ビデオ以上に深刻な影響があったのが警視庁から流出したといわれる「公安テロ情報」です。

 スパイ、密告とその見返りとしての保護、イスラム系外国人の行動監視などまるで東西冷戦時代の007シリーズさながらの背筋が寒くなるような公安活動が平和ボケの現代日本で大規模に行われていることが白日のもとにさらけ出されました。

 さてインパクトのない今年の新語・流行語に私がぜひ付け加えたいのが中国外交部の報道官が口にした「雰囲気」という言葉です。ハノイでの日中首脳会談を尖閣問題を理由にドタキャンした中国側の言い草は「日本側の行動が中日両国の首脳会談に相応しい雰囲気を壊した。日本側は責任を負うべきだ」でした。(中国国際放送2010年10月29日より)

 使える言葉です。浮気がばれて離婚を迫られ高額な慰謝料を突きつけられてもあわてず騒がず「お前の焼きもちが夫婦間の良好な雰囲気を壊した。慰謝料を払うのはお前の方だ」と堂々と言えばいいのです。

2010年11月25日木曜日

 カラスの「おカツ」


 例年年が明けて県北の里山が雪に覆われるころカラスが県南に移動してきます。ちょうどそのころ渋柿の渋が抜けて甘くなるのをカラスはよく知っています。ところが今年はまだ11月というのにカラスがどこからともなく集まって我が家の近くでもやかましく騒いでいます。村里に出てくるクマ同様山ではエサが不足しているのでしょう。

 いつお迎えがきてもおかしくない高齢の両親の介護をしている私にとって家の周りにヒッチコックの「鳥」のようにカラスが集まっているのを見るのは心穏やかではありません。石を投げるふりをしておどしてもそんなものは最初からバカにして逃げるそぶりもみせません。

 私がまだ小学校に行くかどうかというころ家でカラスを飼っていたことがあります。カラスの子が洗濯竿に止まっていたのを父が餌付けしたのです。父は「おカツ」という名前を付けました。川で釣ってきたフナやハエをおカツにやるとおカツはすぐには全部を食べないで土に穴を掘って上手に隠していました。

 父が逃げないように片足をひもでくくってみたのですがひもを解くなど朝飯前。そこで結び方を変えてくちばしで引っ張ると余計ひもが締まるようにしてもそんな人間の小細工などすぐに見破ってちゃんと解いてしまうのにはすっかり感心しました。

 昼間おカツは近所で遊んでいたようです。ある日同じ村内の人から苦情がきました。「うちには病人がいて病状も思わしくないのに朝っぱらからお宅のカラスがやってきて軒先でカァカァ啼く。まったく縁起でもない」。ほどなくその家から葬式が出たところを見るとカラスにはやはり予知能力があると思います。

 成長して手に負えなくなったのか近所の苦情のせいか父はおカツを自然に返すことにしました。おカツを自転車に乗せて3キロほど離れた林の中で放鳥しやれやれと思って家に帰ったらおカツの方が先に帰っていて家じゅう大笑いになりました。その後おカツが家にずっといた記憶もないので結局は野生に戻っていったのでしょう。

 93歳になった父は今でもおカツのことを思い出しては「カラスはかわいい」と言いつつも「いったん人の臭いが身についたカラスは仲間外れにされる、おカツは無事野生に戻ったかどうか」と心配しています。

2010年11月20日土曜日

天然真昆布


 北海道各地で採れる昆布は産地によって真昆布、羅臼昆布、利尻昆布、日高昆布などと数種類の昆布に分類されます。これらのうち出汁昆布として最高の品質を誇り大阪でもっとも人気があるのが真昆布です。

 なかでも道南の内浦湾(噴火湾)に面した町、川汲(かっくみ)や尾札部(おさつべ)で採れる天然ものは最高品位とされています。川汲には川汲川という短い川がありわずかながらもサケが遡上するそうです。

 さて料理好きの私ですが、どうも出汁がうまく取れないのが長年の悩みでした。スーパーで買ってくる昆布に問題があるのかそれとも出汁の取り方に問題があるのか原因を突き止めるためにまずは最高級の昆布を使用してみなくてはと考えました(こういう発想法がいかにも男子の厨房です)。

 そこで川汲浜の天然真昆布を扱う店をネットで検索したら創業百有余年のなにわの老舗が見つかりました。「こんぶ土居」という店です。びっくりしたのはこの店は私が30年近く大阪で暮らしていたころ日常的に買い物をしていた谷町の空堀商店街にあった店でした。日ごろ塩コンブを買っていた店が大阪一、いや日本一の店だったとは!

 さっそく川汲浜で採れる天然真昆布をそのままの姿で干したものを取り寄せました。羅臼昆布のような分厚く豪快な昆布ではなくいかにも繊細で独特の品と格を感じます。人間に例えるのは変ですが、早稲田の斎藤佑樹投手のような佇まいです。

 「こんぶ土居」のご主人は毎年川汲浜へ通って漁師や現地の高校生などと交流を続け、昆布収穫期の夏には船に乗って昆布漁の手伝いもされているほどの入れ込みよう。

 豊かな森林が川に栄養をもたらしその水が海にそそいで最高の昆布を育てるのでしょう。そして海のミネラルを森に運ぶのが産卵のために遡上して卵を産んだ後死んでいくサケたちです。豊かな自然のサイクルのなかから川汲浜ブランドの昆布が生まれてきます。

 さてさてお味の方はというと、到着した昆布の美しさを今しばらく眺めていたいのでまだ封を切っていません。おせち料理を作るときまで待つことにしました。心配なのはふだん「ダシの素」なども平気で使っている私には本物は頼りない味に感じられるのではないかということです。

2010年11月11日木曜日

JA山手直売所


 山陽道倉敷インターを降りて国道429号線を10分ほど総社方面に走ったところにJA岡山西の山手直売所があります。近くには備中国分寺の五重塔があり四季を問わずしみじみ美しい田園風景がひろがっています。

 私はだいたい週1回ぐらいこの直売所に野菜や果物の買い出しに出かけます。農家の人が毎朝持ち込む野菜は新鮮そのもの、種類も豊富で価格はスーパーの半額以下です。それにスーパーでは扱っていない季節ごとの本物の食材が見つかるのも大きな魅力です。以下私のお気に入りをいくつかご紹介しましょう。

 原木シイタケ。山手直売所ではスーパーではお目にかかれない原木シイタケが手に入ります。シイタケは本来、ナラやクヌギの枯木に着生するキノコで人工栽培といっても原木に種駒(種菌)を打ちこんで手間ヒマかけて栽培されてきました。しかし現在では市中に出回っているシイタケのほとんどは工場で菌床栽培されたもので、シイタケ本来の滋味ゆたかな風味に欠け安くてもちょっと手が出ません。

 美星町産の米。数種類の玄米の中から水と空気がきれいな美星町のコシヒカリをその場で精米してもらいます。平野部でとれる米より昼夜の気温差が大きい山間地の米の方がおいしいような気がします。

 白桃。岡山名産の果物はたくさんありますが、昔から清水白桃とマスカットが双璧をなしてきました。私の母は昔、大勢いる東京の親戚に重病人が出るとお見舞いに桃やマスカットを送っていましたが、口の悪い親戚の伯母さん連中は「岡山から果物が届くといよいよ危ない」などと言いあっていたとか。

 私も母にならって遠方の友人に岡山の桃やブドウを送ることが多いのですが、果物の選定は本当にむずかしく、送ったあとも当たり外れが気になります。桃が好きという大阪の年若い友人にこれまでも何度かいろんな店から桃を送りました。しかし反応は今ひとつ。そこで今年は旬を見計らって山手直売所から“赤秀”印の清水白桃を送ってみました。

 届いたともなんとも言ってこないのでしびれをきらしこちらから電話しました。「今年の桃はどうだった?」 -- 「今までの桃とは全然違う。最高においしかった。これからはいつもこのレベルのものをお願いします」ですと!

2010年11月7日日曜日

晩秋のカマキリ

 2季咲きのジャーマンアイリスが満開になりました。そこにカマキリがやってきてたたずんでいました。もうほとんどのカマキリは卵を残して死んでしまったと思っていたのですが、今年はいつまでも暑かったせいでこのカマキリは冬支度もせず5月の花のジャーマンアイリスに夏を予感しているのかもしれません。

 カマキリは英語でMantis というそうです。語源はギリシャ語で「預言者」。顔が似ているのかな。

The scientific name Mantodea comes from the Greek words μάντις meaning a prophet, and εἶδος for form or shape. The name was coined in 1838 by the German entomologist Hermann Burmeister. The common term mantis is also from the Greek word μάντις for prophet.

From Wikipedia, the free encyclopedia

2010年11月5日金曜日

まもなく300回になります

 このエッセイを書き始めてもう7年になろうとしています。最初は月3回でしたが、今は掲載誌が週刊誌になって月4回、原稿に追われる日々です。
 新しくこのブログを目にしてくれる人のために一番最初の記事を再度掲載しました。一口に7年といっても長い年月ですが、当初夢見た「実り豊かな夕べ」はいまだ訪れてはくれません。

 (写真は若き日の筆者。1979年3月ドイツ旅行中に友人のGerhard Krebs君が撮影してくれもの。今年30年ぶりに交流が復活しました)

***

スローライフ=午後4時の窓辺から(2004年1月1日号)

 午後4時。昼と言うには遅すぎるし、夕方というには早すぎる時間。私は中島みゆきの名曲「時代」を初めて聞いたとき、メロディーの美しさに酔うとともに歌詞のマジックに驚かされました。「回る、回るよ、時代は回る」これが私の耳には、「回る、回る、4時台は回る」と聞こえたのです。

 子供のころ両親とも教師で鍵っ子のハシリでした。5時を回らないと帰ってこない母を待って不安な4時台を一人寂しく過ごしていました。中島みゆきはそんな4時台の不安、やるせなさを詩にしたのだと勝手に思っていました。

 しかしながら、この真昼でもないし夕方でもない時間帯は本を読んだり、だれにもじゃまされないで音楽に聞き入ったりすることができる時間でもありました。その後の私の情操や価値観の中枢を形作った大切な時間だったように思えます。

 今私は55歳。年老いた両親の介護のために長年務めた大学を辞めふる里の岡山に帰ってきました。人生の真昼は過ぎてしまったけれど、夕闇が訪れるにはまだ多少時間があります。まさに人生の4時台です。介護にも自分自身の生き方も「肩肘はらず、もっとスローに」をモットーに生きていこうと思います。やがて実り豊かな夕べが訪れることを信じて。

(中島みゆき 時代 YouTubeより)
http://www.youtube.com/watch?v=-KBK8TeT-gI&feature=related

2010年11月2日火曜日

高松から上海へ

 11月1日、香川県が中国の格安航空会社(LCC)「春秋航空」と高松-上海間に定期路線を開設することで合意した、と新聞やテレビが報じていました。羽田空港の国際化のニュース以上に岡山市に住む私にはうれしいニュースでした。

 春秋航空と言えば開港はしたものの閑古鳥が鳴く茨城空港から上海までチャーター便の往復チケットをたったの4千円で売り出して注目をあびている会社ですが来年3月末に開設予定の高松便は日本初の定期便路線になるとか。

 高松便にも4千円の席が登場すれば上海が一気に近づきます。それにしてもJRマリンライナーと空港バスを利用して岡山駅から高松空港まで往復で約4千円ですからいったい空のお値段はどうなっているのだろうと思います。

 LCC(Low Cost Carrier)会社がコストを低く抑えられる理由は、保有機種をひとつに限定して機体整備にかかるコストを徹底的に削減、機内サービスは有料、席と席の間隔を詰めてキャパシティーを極限までアップするなど合理的な理由によるものとされています。さらにLCCは機体がオンボロかというとその逆で、燃費のいい最新鋭のジェット機を使用しているとのことです。

 背が高く横幅も1.5人分ぐらいある私にとって席が狭いのが一番の問題点ですが、ふつうの飛行機のエコノミー席も十分狭くどんぐりのせいくらべに過ぎません。それに正月やお盆の帰省ラッシュのときに東京まで新幹線で3時間以上立ったままがまんを強いられることに慣れている日本人にとっては狭くても座れるだけ天国、上海までの飛行時間も2時間弱で問題ありません。

 この高松便の開設にあたっては浜田香川県知事自ら上海の春秋航空本社を訪れ会長と会談した結果だそうです。香川県のがんばりに比べて岡山県は新規路線誘致にどんな努力をしているのでしょうか。

 1年ほど前に岡山空港の出国ロビーで県の職員がアンケート調査をしていました。開設希望都市名を書く欄に私はバンコクと台北を記入したのですが、ぜひ岡山とこの2都市を直結する路線を実現していただきたいと願っています。かつて広島に乗り入れていたバンコク航空は撤退してしまいましたが、高松-上海便のようにLCCなら十分勝算はあると思います。石井知事の尽力を切に望みます。

2010年10月29日金曜日

汗入(あせり)


 岡山市南区妹尾の県道児島線沿いに汗入という場所があります。私立の進学校、岡山中学・高校があり登下校時には生徒や送り迎えの車でごった返しいつも若やいだ気(き)があふれている地区です。

 ところが50年前私が小学生だったころは本当に寂しい場所でした。生ゴミの集積場があったのですが、当時ゴミは処理されることなくただそこに野積みされているだけで悪臭が漂い、視界が真っ黒になるほど蝿がわいていました。

 ここの蝿は追い払って逃げるような生やさしい代物ではなく、雨の日傘をさしてそこを通ると蝿が何十匹も傘にへばりついて家に着くまで逃げていきません。そのうえ未舗装の県道を走るトラックが砂煙をあげ砂利を跳ね飛ばして通り過ぎていくのが幼い私には大変な恐怖でした。

 この付近、江戸時代には処刑場があったとかで、今でも岡山中学・高校の校門近くを流れる妹尾川にかかる小さな橋の欄干には「地獄橋」というおどろおどろしい名前が刻まれています。罪人が渡るその橋の向こうには地獄が待ち構えていたことは今でも何となく雰囲気で分かります。

 数ある歌舞伎の演目の中でも傑作中の傑作「東海道四谷怪談」をこの夏新橋演舞場まで2回も見に行きました。海老蔵、勘太郎、獅童ら豪華俳優陣によるすばらしい舞台でしたが、クライマックス「砂村隠亡堀の戸板返し」の場を見て妙なデジャビュ(既視感)に捕らわれました。
E
 「隠亡堀」などという気色の悪い川で釣りをする伊右衛門(海老蔵)の眼前に戸板にくくり付けられたお岩さん(勘太郎)の遺体が流れ着きます。伊右衛門があわてて戸板をひっくり返したら今度は小平(という男)の死体が!

 この場面は戸板の裏表に張り付けられた男女の遺体の役を同じ役者が一瞬のうちに早変わりで見せる四谷怪談最大の名場面ですが、私には「砂村隠亡堀」が汗入の地獄橋のイメージに重なって震えあがりました。

 最近、その近くにおしゃれなカフェができ、けさ初めて寄ってみました。開店まもないピカピカの店になぜか蝿が一匹。しばらくして私のテーブルに止まりました。追い払おうとしても逃げません。「そうか、お前はここで私を50年も待っていてくれたのか!」となつかしい蝿にあいさつしました。

忘却パワー


 日本人はなぜこうも「忘れない」という言葉にこだわるのかと思うことがあります。小学校や中学校でクラスメートが病気や事故で亡くなると、教室では「○○君のことはいつまでも忘れません」という寄せ書きを書きます。いや低学年ではそう書くよう心やさしい教師からアドバイスされるのかもしれません。

 「決して忘れない」という言葉をあえて弔辞や卒業式で口に出して誓うのは、裏返して言えばどんな悲劇でも悲しみでもそのうち忘れてしまうものだということを人はよく知っているからでしょう。

 しかし考えてみれば「忘れる」能力は大切なことです。もし人間に悲しい出来事を時間とともに忘却する能力が備わっていなかったら今度は生きていくのが苦しくなります。

 自宅で手厚く介護してきた91歳になる母が6月末突然体調を崩し3か月あまり入院しました。当初人工呼吸器の助けを借りて弱々しく息をしていた母が適切な治療の甲斐あって平癒したことは驚くべきことでした。

 ところが、重篤な症状で必ずしも命の保証がなかった母の入院中、母の顔を見に病室をのぞいたのはほんの数えるほどでした。9年前に母が骨折で2か月間入院したときは毎日のように病院に寝泊まりして看病したのに……。病院近くのスーパーに出かけてもなぜか病院に寄るのはおっくう……。きっとまる10年の介護生活を通して私もやっと親離れができてきたのかなと都合よく解釈して落ち込まないようにしました。

 93歳の父はとっくの昔に女房離れができているのか、母が3か月ぶりに家に帰ってきたというのに母の存在を忘れているかのようです。そのくせ私がプリントしてあげた両親の新婚時代の写真をながめては「お母さんはきれいじゃったろう!?」と何度も同意を求めてきます。

 私はそれには答えず「お父さん、お母さんが『私が退院して帰ってきたというのにお父さんはなぜ顔を見せないの?、私の入院中に1人で先に天国に行ってしまったの?』と聞いているよ」とからかうと「腰が痛うてお母さんの部屋まで行けんのじゃ」と間髪いれず言い訳します。

 屁理屈と健忘症と言えば一筋縄でいかない仙谷“総理”の必殺技ですが、父も政治家だったら官房長官が務まったかもしれません。恐るべき忘却パワーです。

奇跡の生還


 チリの地下鉱山でおきた落盤事故は全員が家族の元へ生還するというまさに奇跡としか思えないハッピーエンドを迎えました。

 8月の事故発生当初、33人の作業員が地底に閉じ込められているというニュースを知って以来、気の弱い私はこの事故に関するニュースからはなるべく目をそむけてきました。とうてい助からないだろうという感じがし、あまりにも痛ましい光景は見たくなかったからです。

 地下700メートルの蒸し暑く狭くて暗い空間に閉じ込められた人の心境はどんなものだったかは今後インタビューやドキュメンタリーを通して明らかになってくると思いますが、彼らには想像を超えるたくましさ、精神力の強さが備わっていたことはいうまでもないことでしょう。

 私にとって一番の驚きと謎は33人もの男達が長期間狭い場所に閉じ込められていたにも関わらず和気あいあいとしていた様子がうかがえることです。小さなケンカのひとつやふたつはあったのかもしれませんが、これが日本人の集団だったらきっと相当ひどいことになっていたのではないかと想像されます。

 ウマが合う、合わないで小さなグループができて反撥しあう、仕切り屋が出てくる、イジメがおきる、ケンカが始まる、暴力行為がエスカレートする、絶望的な状況のなか食欲不振や下痢で一気に体調を崩す、自殺者が出る、小競り合いから殺人事件もあるかもしれません。

 私など平和な日常生活のなかにあってさえ、いつも土足で踏み込んでくる近所の世話焼きおばさんにかなりイライラさせられ、彼女のすることなすことすべてが“余計なお世話、放っておいて”です。

 とてもじゃないけど、自己主張もしながら世話焼きおばさんに歩調をあわせてうまくやっていこうなどという殊勝な気持ちにはなれません。しかし、こうした私の“病気”は多かれ少なかれ日本人に共通した社会病理を反映してのことではないでしょうか。

 どうしたら奇跡の33人のように統率がとれしかもギスギスしないでやっていけるのでしょう?日本人の礼儀正しく優しい性格と表裏一体をなす陰湿かつサディスティックな性向をどうしたら改善できるのか、危機管理の側面からもパニック下の日本人の行動様式の解明と人間関係のトレーニングが必要だと思います。

野焼き

 
 従弟からかなり広い面積の休耕田を借りうけ野菜や果物を作っていたのですが、ここ4,5年両親の介護が忙しくなったのに加え、野菜作りに以前ほど情熱を燃やすことができなくなって草や雑木が繁茂するのにまかせていました。

 荒れ果てた田んぼについに近隣から苦情が出てきたので9月中旬ごろ、まだ暑いさなか草刈りを始めました。

 またたくまに伐採した木々の枝や刈り払い機でなぎ倒したセイタカアワダチソウの山がいくつもでき、その処理について岡山市の廃棄物担当課に相談しました。

 市の説明では樹木は直径12cm以下のもので長さは60cm以下に切ったものを束ねて可燃ごみの日に出すようにとのことでした。気が遠くなるような話です。庭木の剪定枝ならともかく2反の田んぼから出た草木は並み大抵の量ではありません。近所の人や農家の友人などとも相談した結果、田んぼで野焼きするしかないという結論に至りました。

 ところが最近野焼きに対して行政や警察の対応が厳しいといううわさがあり、とりあえず消防署に相談してみました。消防署は当然のことながら火災防止という観点から物事を考えていて、燃やす場所、日時、消火対策、連絡先等を届ければOKということでした。

 そして、消防署のお墨付きをもらった上で煙が届きそうな近隣の人に野焼きをさせてもらいたい旨お断りして火をつけました。9月の残暑でカラカラに乾いた草や木の枝が快調に燃えていきます。火というものは形あるものをことごとく焼きつくしていき、心の中にあった憂さやモヤモヤ、ストレスまでいっしょに燃やしてくれます。

 と、ここまでは調子良かったのにやはり来ました、ミニパトカーが。「近隣の方から苦情がきています」

「近所の方にはちゃんとあいさつしているし、消防署にも届け出ているのですが……」

 消防署に届けてあるというのが効果あったのか、警官は現場を確認し、私の名前や住所・連絡先を聞いただけですぐに帰りました。やれやれです。

 再度市役所に野焼きは法律違反なのかお尋ねしたところ、農業、林業、漁業にともなうものは例外的に認められているが、近隣から苦情が出ないことが必須の条件のようです。

サレンダー

 
 尖閣諸島近辺で海上保安庁が拿捕した中国漁船を巡る中国の反応はまさに常軌を逸したものでした。とんでもない隣人をもったものだというのが正直な気持ちです。

 民主党代表選のさなか中国が意図的に仕掛けてきた事件なのかどうか真相はよく分かりません。しかし事件後の中国の対抗措置を見てみるとあの国は長年培ってきた信頼関係をいとも簡単に破る国だということを全世界に知らしめたという意味では中国が失ったものは大きいと思います。

 昔、デンマークを旅行したおりに知り合いのデンマーク人の家に泊めてもらったことがあります。クリスチャンと言う名の大学生でしたが、彼の友人の外交官も加わり夜遅くまでいろんな話をしました。

 私がデンマークはソ連(当時)という強国にバルト海を挟んで隣接していて脅威を感じないか、もしソ連が侵攻してきたらどうするつもりか尋ねたことがあります。すると東京に赴任したこともあるという青年外交官氏はこともなげに“surrender”と答えました。
 
 “サレンダー”とは“降伏する”という意味です。戦わずして白旗を揚げるなどと外交官が言うのはとても違和感がありましたが、考えてみると人口わずか550万人のデンマークにとって武力で超大国に対抗する選択肢など存在しないのでしょう。

 今では記憶が薄くなってしまってクリスチャンが言ったのか外交官が言ったのかはっきりしませんが、“デンマークがソ連に占領されたところでデンマークの文化や魂が消えてなくなるわけではない”とも付け加えました。

 私は彼らの言うことを聞いて、デンマーク人というのは誇り高く賢明で自信に満ちた強い民族だなあと思いました。実際その後あっけなく崩壊してしまったのはソ連の方で同じくバルト海に面したバルト3国は独立し中世以来のハンザ同盟の美しい西欧の都市の表情を取り戻しました。

 さて日本の場合、北欧諸国とは国情が違うにしても、帝国主義的隣国が領土問題(不法占拠)を引き起こした場合、悪夢のような“surrender”が現実味をおびてきます。日本は憲法の定めによって、国際紛争を解決する手段として戦力を永久に放棄していますから。
(photo: Kristian)

バンコク・ソウル



 9月中旬、雨季のバンコクを訪れました。5月の暴動で壊滅的被害を受けたはずの中心部の商業施設や高架鉄道駅にその痕跡はほとんどなく、相変わらず活気にあふれた街に私は融けていきました。

 にぎやかな通りに面したホテルのロビーでのんびり民主党代表選結果を報じる衛星版読売新聞を読んでいたら顔見知りのボーイさんから声がかかりました。

 「いつからお泊りですか?」

 「2日前に来て明日はもう日本に帰るつもり。ところで、今年1月に来た時はいなかったよね、ここはもう辞めてしまったのかと思ってたけど……」

 「1月?、1月はタイ北部の故郷へ帰ってそっちで働いていたのですが4月にまたバンコクに帰ってきたんです。ところでハイネケン、もう1杯いかがです?」

 新しいハイネケンをぐずぐず飲み終えようとする頃合いを見計らってボーイさんがまたやってきます。

 「タイ北部というと故郷はチェンマイ?」

 「チェンマイじゃないけど、その近くの何とかという町です。ところでハイネケン、お代りいかがです?」

 たわいもない話をしながらゆっくり時間が過ぎていきます。ここにはふだん親の介護に追われ、24時間あせりまくっている自分はもはやなく、いっさいの思考力が抜け落ちていく私があるだけです。熱帯のけだるく物憂い午後が何よりも好き。管直人721ポイント……、そんなことどうだっていいや。

 ソウル。20年ぶりのソウルは見違えるほど街がきれいになっていました。空港から市内中心部までは高速鉄道と地下鉄の乗り継ぎで快適に移動できます。地下鉄車内の光景は大阪風でした。

 おばちゃんが4,5人乗車してきました。世話焼きさんが「あんた、あそこの席に座り!」などと指図しながら自分は大きなお尻でぐいぐい両隣に陣地を拡大していきます。

 私がおじいさんに席を代わってあげたら「ミヤナムニダ」(すみません)と感謝され、次の駅でほかの席が空いたら、おじいさんは私に「あそこに座って」と言ってくれました。私は「若いですから」と遠慮したら今度は若者が立って「ここに座れ」と席を譲ってくれました。そうか、私も十分年寄りでした。

旅の準備


 
 高齢者を介護する日々というのは、これといった特別忙しいことがあるわけではないのに家事全般の雑事、病院への送迎、病院やケアーマネージャーとの打ち合わせなどが次から次へと襲ってきて、ほんの2,3日の小旅行に出かけるのさえ時間の調整が大変です。

 でもそんなことを言っていたら旅になど永久に出かけることはできません。1週間前デルタ航空のマイルの蓄積がアジア内を旅行するのに必要な2万マイルにあと少しというところまできていることに気付きました。日航や全日空ではできないことですが、デルタはマイルの販売もやっていて、足りない分を5千円で購入し、ソウル経由バンコクまで出かけることにしました。
 
 岡山空港からソウル便が出るのはいまから3時間後。旅の準備はまだできていません。昨日、介助なしでは数歩も歩けない親父を風呂にいれようとうながしたところ「入らない」と抵抗。てこでも動かないようすなのであきらめ、大根とにんじんの種まきをしました。

 炎天下、汗だくになりながら農作業が終わり、さあシャワーを浴びようと家のなかに入ってみると風呂場の前に親父がぶっ倒れていました。何度転んでも大したケガをしない父の頑健な体には敬服しますが、何度同じような事故をしてもちっとも学習しない父に猛烈な怒りがこみあげてきます。

 「自分で風呂になんか入れないのに何でこんな馬鹿なことをするのか」と私が怒ると、「お前が風呂に入れといったからじゃないか」と反論だけは立派にしてきます。

 こんな緊急事態のさなかであっても、互いに相手を非難しあう親子のあさましい姿。しかしそこには60年ものあいだいがみあってきた親子のあいだの介護の難しさがあり出口のない絶望感がただよいます。

 結局、旅の準備といっても、出発間際までいろんなハプニングや雑事が襲ってくるので、「これから4日間の旅にでかけるのだ」という情緒もなければ楽しい気分にひたれる余裕もありません。

 パスポートと財布の中身を確認し、リュックに着替えのシャツや下着を2,3枚入れて、あとは猫に4日分の餌と水をたっぷり用意すればそれで十分とします。飛行機が飛び立つまであと2時間になりました。

たまご考


 9月になっても猛暑続きの毎日です。この異常な暑さにダウンしたのは人間様だけではなく、牛やニワトリも相当数が死んだそうです。それでもこれといって牛乳やたまごの値段が上昇したという話を聞かず、近所のスーパーは相変わらず“2千円以上お買い物をした人はたまご1パック1円”キャンペーンをやっています。

 私もかつて何度か“1円たまご”を買ったことがあるのですが、あれは品質や鮮度に問題はないのでしょうか。1円たまごを目玉焼きにしようとコンと割ってみると白身も黄身も弾力がなく、ダラっとフライパンにひろがり鮮度に疑問符がつきます。

 ふつうのたまごも1円たまごほどではないにしてもどうもプリプリ、もっこり感に欠ける気がし、私が買うのは決まって“初産みたまご”という初卵をパックしたものです。コレステロールが高い私にはサイズが小さな初産みたまごは好都合です。何よりも若くて元気なニワトリが生むたまごには独特の臭みがないし、白身も黄身もしっかりしています。

 スーパーでは1円たまごサービスデーには初産みたまごは商品棚から撤去されるので、毎度店員さんにお願いして奥の方から出してきてもらうほどのファン。Sサイズの初産みたまごを見ていると数年前自宅で飼っていたヒヨちゃんたちが産んでいたたまごのことがなつかしく思い出されました。ニワトリはじょうぶな生き物だと思っていたのに案外短命でした。今のニワトリは年中空調の効いた部屋のなかでしか生きられないのかもしれません。

 ところで“たまご”の表記法には3通りあります。たまご(タマゴ)、玉子、卵。混同しても大して差支えないことですが、ひまにまかせて使い分けを考えてみました。

 たまご(タマゴ):一般的な意味や概念。例、スーパーのたまご売り場、医者のたまご。

 玉子:料理名や調理方法に関連して使われる。玉子焼き、玉子ご飯。

 卵:卵子の卵(らん)とか有精卵のように生物学的な存在。医者は卵からふ化して誕生するわけはないのでやはり「医者のたまご」でしょう。

 ニワトリが産み落とした“卵”は養鶏場で梱包され出荷されるときは“たまご”という商品に変わっています。そしてキッチンでゆでられたり割られた瞬間、“たまご”は“玉子”に変身するのです。

幽霊戸籍問題


 この夏、東京で発生した所在不明高齢者問題は偶発的、散発的な事例ではなくその後全国至るところで同様のケースがあることが分かりました。大家族制度の崩壊や年金詐取といった背景も指摘されていますが、一番の問題は縦割り行政の弊害で個人情報を一元的に把握することができない今の行政システムにあると思います。

 この問題を抜本的に解決するためには戸籍、社会保険、課税問題を語るときいつも話題になりながら批判が多くて実現できない国民総背番号制の導入しかないと思います。

 さて、幽霊高齢者の問題は今になって突然発生したわけではなく、これまでも戸籍を管理する現場では問題に気付きながらもいかんともしようがなかったのではないか、そんなふうに思います。

 今年の初めごろカナダの親戚から自分達のルーツを知りたいので明治14年生まれの祖先の戸籍を取ってくれないかという依頼を受けました。散々苦労したあげく鹿児島県にある本籍地をさぐり当て代理申請したところ、折り返し戸籍の写しが私あて郵送されてきました。

 それによると平成16年に、「高齢につき死亡と認定、某月某日除籍」と注が付されていました。ちょっと計算してみるとおおよそ125歳で除籍処分されたことになります。実際にはこの人は20代のころカナダに移民し、後年カナダ国籍を取得し、しかもその事実を日本政府に届けていなかったために、日本での消息が消えたあともおよそ100年間のあいだ戸籍の上で生き続けました。

 なぜ100年も? いったん除籍したあとで行方不明の人が出現したときの責任論や手続きの煩雑さを考えると簡単には除籍できないと代々の担当者が考えたに違いありません。

 いっぽう、私の伯父も若いころカナダに移民し、カナダ国籍を取ったのですが、万事几帳面な性格だった伯父はカナダ国籍を取得したことを当時ウィニペグに置かれていた日本国領事館に届けました。領事館は本籍地の役場に報告書を送り、役場は除籍手続きをしたうえで、除籍の経緯を戸籍に記載して今に残してくれました。

 戦前においてさえ、日本の役所は届け出さえすればこんなにもきちんとした対応をしてきたことは高く評価されるべきです。

危険な車椅子


 先日、父を病院に迎えに行って家に帰り着いたときのことです。いつものように父を車から降ろし、車椅子に乗り換えてもらって玄関までの坂道を押していこうとしたら、車のエンジンがかかったままになっているのに気付きました。

 父が座っている車椅子のブレーキをかけ、自動車の方へ行こうとした瞬間、まるでスローモーションのように車椅子もろとも父が後方に回転しながらひっくり返りました。ありえない事故でした。いやあってはならない事故だったのに、車椅子から道路の上に投げ出されてぶっ倒れているのは93歳の我が父。

 もうダメかと思いましたが結果的には肘やすねの皮をすりむいたぐらいで、翌朝医師の診察を受けた結果では脳の損傷は今のところ認められないとのことでした。大変な自己嫌悪に陥り、何て自分は不注意だったんだろうと後悔することしきりです。

 ところが大阪府で介護行政を担当している友人に電話して愕然としました。車椅子の後方転倒事故は日常茶飯事だそうです。その理由は車椅子のホイールの中心が背もたれの真下にあって後ろに倒れやすい構造になっているからというのです。たしかに後ろには簡単に倒れます。自動車はもちろん、自転車、ベビーカーに至るまで安全基準が厳しい我が国にあってなぜ車椅子だけこうも安全に対して無防備なのかとあきれます。

 そもそも私が両親の介護に関わりはじめて以来、車椅子の安全性について、ケアの専門家からも介護用品レンタル業者からも「後ろに倒れやすいので絶対介助者は車椅子から手を離してはいけません」と言った説明はひとこともありませんでした。

 父には申し訳ない気持ちでいっぱいです。普段動作が鈍くなった父をせき立てては文句ばっかり言っている私ですが、今回ほど父に素直に率直に謝ったのは生まれて初めて。

 父は、「何ぃ、どこも痛うないし気にせんでええ」と言ってくれるのがとても辛く、息子の横着と不手際を責めない父は本当の人格者だと思いました。私のしおらしさは何日もつやら分かりませんが、とにかくこれから先2ヶ月ぐらい慢性硬膜下血腫のおそれがなくなるまでは贖罪の日々です。

 ひとつだけ救いなのは1日過ぎたら父はもう恐怖の転倒事故のことを忘れているらしいことです。

マラケシュ


 この夏の異常な暑さにはほんとうにまいります。俳句の季語にちりばめられた情緒豊かな日本の夏の風物詩などとは縁のない過酷な夏。悪意に満ちた太陽がきょうも朝から照りつけています。

 20年ほど前、同じような暑さを体験しました。モロッコの古都マラケシュ。世界文化遺産の町のど真ん中にあるジャマ・エル・フナ広場近くの安ホテルに宿をとりました。夕方近くになると広場がにぎわってきます。オレンジやスイカを売る屋台、ヘビ使いの怪しいおじさん、アクロバットを見せる辻芸人の若者たち、そして喧騒をいっそううっとうしいものにするのがいつ果てるともないアラブの民族音楽です。

 安ホテルにはエアコンがなく、開け放した窓からは広場の騒音とシシカバブを焼く脂と獣肉のにおいが容赦なく襲ってきます。夜もかなり更けたというのにこの部屋の暑さはいったい何だろうと思って壁にさわってみたら壁が熱い。壁だけではなく床からも天井からも熱波が放射されてきて、まるでパン焼き釜の中に放り込まれたような息苦しさ。

 フウフウ言いながらロビーに出たら、アメリカ人の若者が「屋上で寝たら涼しいよ」と教えてくれました。

 アトラス山脈を望み、空気がカラカラに乾いたマラケシュの夜空の何と美しいこと。陳腐な表現ですがまさに自然のプラネタリウムです。

 マラケシュに滞在したあと、現地で知り合いになったベルベル族の大学生たち3人でレンタカーを借り、アトラス山中にある彼らの故郷の村に行きました。電気も水道も電話もないところでしたが一家総出でウサギ肉のシチューやクスクス料理で歓待してくれました。

 夜になると屋敷の中庭にカーペットを敷いてそこで雑魚寝したのですが、これがまた夢の中の出来事だったような素敵な眠りでした。空には満天の星、狼の遠吠え、大理石のひんやりした感触……。

 翌朝、目が覚め、水洗式(手水でお尻を洗う)トイレで用を足し、家の周りをみたらいたるところにコウノトリの巣がありました。高い塔の上で風にあおられながら子育てしていたコウノトリの姿が今でも目に浮かんでくるようです。

 異常に暑い今年の日本の夏、しかしこの暑さが昔の懐かしい放浪の旅を思い出させてくれました。

夏の食卓

 
 今年の夏の暑さは異常です。食欲も落ち夏バテになり何の苦労もしないで自然にダイエットできるかというとそうはうまくいきません。連日の猛暑にバンコクの屋台料理の刺激的な匂いが思い起こされ、猛烈にタイ料理が食べたくなりました。自作の激辛タイ料理に食欲は増進するばかりです。

 タイの有名な料理にソムタムというパパイヤ・サラダがあります。未熟なパパイヤを千切りにしたものやトマトなどの野菜を独特のドレッシングで和えたサラダです。

 作り方は簡単。すり鉢に落花生、ニンニク、トウガラシを入れてすりこぎでたたき潰し、ナンプラー、砂糖、マナオ(すだち)の果汁を適当に入れてパパイヤの千切り、トマト、刻んだササゲをミックスするだけ。

 ササゲというのは正式にはジュウロクササゲというらしいのですが、岡山では昔から“フロウ”と呼び、お盆のときにハスの葉の上にナスやキュウリといっしょにお供えする野菜です。長さが30cmぐらいあります。

 このササゲはおそらくかなりの高齢の人しか知らない食材で煮てもあまりおいしくなく、スーパーでもほとんど見かけませんが、お盆のこの時期だけ例外的に近所のマルナカの店頭にも毎日3把ほど並びます。

 ササゲを生のまま刻んでサラダにして食べることを思いついた東南アジアの人々は天才です。ソムタムにすると青臭い豆が妙に動物性食品めいたコクを帯び激しく食欲を刺激します。きっと辛、酸、甘が絶妙に調和したドレッシングがササゲに魔法をかけているのだと思います。

 さて話を台所に戻し、実際にソムタムを作るときの工夫をご紹介しましょう。入手難の青パパイヤの代わりに私は“そうめん瓜”を使います。固めに茹でたそうめん瓜の肉質は何となく青パパイヤに似ています。またマナオ(タイのすだち)の代わりにはライムを。それも面倒なら普通の食酢でOKです。トウガラシの代わりに豆板醤を大匙1杯入れてもすばらしい辛みが出ます。調味料の比率はすべて同量で、お好みにあわせて加減を。

 50年来、私にとって摩訶不思議な食材であったササゲの唯一の正しい食べ方をタイで発見し、タイの食の奥深さにあらためて感動する夏の食卓です。

地デジ移行


 来年のいまごろテレビのアナログ放送は完全に終了しているのでしょうか。私自身地デジ問題がさしせまっているというのに何も考えていないし身近な人に聞いても多くのひとが何もしていないといいます。

 これまでの技術革新の歴史では新しい方式のものが導入されてもただちに古い方式が棄てられるということはありませんでした。1925年に放送が開始されたラジオはおよそ100年後の今でも基本的には原初のスタイルを保っています。

 子供のころ雑誌を見ながら組み立てた鉱石ラジオや真空管ラジオは探せば物置の片隅にまだあると思いますが、ちゃんと放送を受信するはずです。FM放送が開始されたからといって中波や短波がなくなったわけではなく、今後も永遠に今の方式は続くでしょう。

 電話もそうです。固定電話は今やジリ貧というか最初からそんなものは設置していない世帯も多いのですが、だからといって50年前の黒電話が使えなくなるということはありません。

 それなのになぜかテレビだけが現行の方式を完全に棄てるという暴挙にでました。VHFの電波帯を他のメディアのためにより有効に使うという大義名分は一見もっともらしいのですが問題はいろいろあります。

 年寄りには地デジの意味さえ理解できません。子供らが最新式のデジタルテレビを買ってあげてもあまりに複雑なリモコンにはお手上げです。お年寄りにとっては使い慣れたリモコンですら次第にチャンネルが換えられなくなり、そのうちエアコンのリモコンとの区別がつかなくなります。

 地デジ移行は性急すぎます。ベータ方式のビデオデッキが消えていったように、そしてVHSも過去の遺物になりつつあるように自然にアナログ受像機が消えていくのを待つべきではないでしょうか。

 とにかく、来年7月には200万から300万世帯の人がテレビ難民になるのは明白で私もその一人です。しかしものは考えよう。いざとなればワンセグがあるし、そもそもテレビに時間を盗まれない分だけ豊かな生活が始まるのではないかという期待もあります。

 アナログ放送の終了はそのままテレビ時代の終焉の始まりであるような予感がします。

老いの風景


 両親の介護を始めてそろそろ10年目になります。今また91歳の誕生日を目前に母は感染症を起こして久しぶりに入院中です。ふと生じた小休止の時間。孤軍奮闘の10年の間に起きたいろんなことが思い出されます。

 私が仕事を辞めて郷里の岡山に帰ってくるのを待ってましたとばかりに、母は風呂上がりに転倒し、大腿骨を折ってしまいました。

 入院先の母の病室でラジオを聞いていたら大阪教育大池田校で児童が何人も殺傷されるという信じがたいニュースが流れてきたのが今でも鮮明に記憶に残っています。「お母さん、大阪で恐ろしい事件が起きたよ。テレビをつける?」

 認知症が出始めた母のためにテレビのリモコンの使い方を説明しました。「NHKを見るには“5”のボタンの上を指で押したらいい」と私。ところが母は“2”を押すので画面はザーザー。「お母さん5の上を押さにゃー」、母「じゃから5の上を押しょうるが……」。

 確かにリモコンのチャンネルボタンの5の上は2でした。このときほど母の仕草をいとおしく思ったことはありません。「ごめん、ごめん、5の上じゃなく、5のボタンそのものを押すんじゃあ」。でもそのころからリモコン操作ができなくなりました。

 骨折も何とか治癒して家に帰ったあと母は私を何度も笑わせてくれました。通院の途中、助手席に座った母が交番の電光掲示板を読みあげます。「暴力団ナンバーワン」、電光掲示板の文字は「暴力団No!」でした。さらに「暴力団を利用しよう!」という。電光掲示板には「暴力団を利用しない!」という文字が流れていきました。母お得意の先読みでした。

 しだいに日常のことがままならなくなった母のトイレ介助をしながら、「お母さん、ぼくのような孝行息子を生んでおいてよかったね」と話しかけたら、母はしばらく考えたうえで「そういう意味ではお父さんの存在理由があったわね」と若き日の理屈っぽい文学少女に戻っていました。

 その父もまもなく93歳です。ドアの向こう側で父が猫のチビちゃんに話しかけています。「ドアのそばに座っているだけではダメ、おっちゃん(私)を呼ぶのならドアをトントンとたたかなくては」。60年も続いた父・息子の葛藤もようやく幕を降ろしつつあります。

占いタコ


 物事の吉凶や勝負事の行く末を動物に占わせるのは東洋の専売特許かと思っていたのですが、今回のワールドカップではタコのパウル君というのがドイツの勝利を次々に言い当て話題になりました。

 しかし、準決勝の対スペイン戦を前に彼はスペイン国旗が付いた箱に入ってしまい何やらドイツの行く末に一抹の不安を投げかけました。果たして結果はパウル君の予想どおりスペインの勝利に終わりました。

 タコは海の霊長類と言われるほど賢い動物です。強そうな魚の姿に変装したり体の色を周りの岩や砂そっくりに変えて獲物に襲いかかる狩りの名手。

 しかしいくら賢いタコでもワールドカップの勝ち負けまで予言することはできないでしょう。タコもそんなに暇じゃない。今までドイツの勝利を完璧に言い当ててきたのは超能力によるものではなく、タコはアクリルの餌箱に取り付けたドイツ国旗の色や模様を覚えていたからではないかと私は想像しています。

 タコが色彩や模様を認識する能力が著しく高いのは海中での行動記録によって実証済み。きっと水族館の人が賢いタコを事前に特訓したのでは?餌を常にドイツ国旗の模様が付いた方に入れておいて。

 それが今回うまくいかなかったのはスペインの国旗とドイツ国旗はともに赤と黄色のストライプがあってまぎらわしかったせいではないか。でも結果的にはパウル君はスペインの勝利を予測したのだからやはりすごいタコです。

 先日テレビで人類が滅亡したあと地球上の生物はどうなるのかという番組をやっていました。都市はすぐに崩壊し始め、高層建築やエッフェル塔も崩れ落ちます。人間が作ってきた文明はまさに跡形もなく消えていくという恐ろしい未来図。しかし人間の消滅とともに豊かな自然がたちまち復活してくるというのはある種の救いでした。

 そんな未来、しかも1億年ぐらい先の未来世界に君臨する動物界の王者は、おそらく陸に進出したタコではないでしょうか、占いタコのパウル君を見ていたらちょっとそんな気がしました。

 さてW杯の優勝はスペイン、オランダのどちらに?居酒屋のタコ料理がしみじみおいしいスペインの方が有利かなと思います。

韓流スターの死

 
 ワールドカップ、対パラグアイ戦の惜しい結末を報じるスポーツ紙の巨大な見出しに割って入ってきたのが韓流スター、パク・ヨンハの自殺です。品のある顔立ち、誠実な人柄、甘い声。「冬のソナタ」で一躍日本女性のハートをつかみました。

 自殺の動機として推測されているのは父親の病気、事務所のもめごと、多忙なスケジュールからくるストレス、目の病気ゆえに兵役を免除されたことに対する世間の非難…等々、しかしどうもピンときません。

 私が今までに出会った韓国人はみんなたくましく感情をストレートに出してきます。フランス人と結婚した女性など亭主が他の女をチラッと見ただけでフライパンで打ちのめすという怖いうわさが会社で拡がったりしたものです。

 しかし、日本人に比べ自己主張が激しいと思われている韓国人も表向きよりずっと他人の目を気にし、すべての人にとって「いい人」でありたいという願望が強いようです。ここ2,3年だけでも、知人に高利で金を貸したとか整形疑惑があるとネットに書かれただけで有名女優が自ら命を絶ちました。

 その点日本人は京都人を頂点に世知に長けているというか妙に覚めているところがある。人には浮き沈みがあるし人間には裏表がある、いや裏の裏があるのが人間だということを長い文化を通してよく了解しているようにみえます。

 例えば民話に出てくる「飯食わぬ女房」。美人で働き者であるうえに飯も要らぬという女性に出合い大喜びで結婚したケチな男がどうも米櫃の減り方がはげしいことに気付く。ある日天井裏から女房の様子をうかがっていたら、女房は米を一升も炊いて、頭のてっぺんの髪をかき分けそこに現れた巨大な口に釜の飯をいっきに放り込む。

 人間とはこの女房みたいなもの、都合のいいことばかりじゃない、表があれば裏もあるのが人間の本質であると民話は教えています。

 韓国の風土では困難なことかもしれませんがパク・ヨンハにはもう少し気楽に、もう少し“いい加減”に、これからの長い人生を生きてほしかったと思います。いい人、誠実な人であることに息苦しくなっていたのなら髪をパカッと割ってみせて「これが本当の私だ、文句あるか」と言えばよかったのです。合掌。

パリのめぐり逢い


喫茶店で新聞(読売6月21日)を何気なく見ていたら「顔」というコラムに目がとまりました。そこにはこの春東京丸の内にオープンした三菱一号館美術館初代館長に就任した高橋明也(あきや)氏(56)のプロフィールが紹介されていました。真新しい美術館の館長さんとは一面識もないのになぜか初対面という気がしません。

もう30年も昔のことですが、ヨーロッパ旅行中、パリにも2、3日立ち寄りました。ホテルはコンコルド橋を渡ったところにある国民議会の壮麗な建物(ブルボン宮)の近くにありました。

人気(ひとけ)のない早春の午後、散歩に出かけブルボン宮の横にさしかかったとき向こうからダンディな日本人紳士が歩いてくるのが目に入りました。あっ!早稲田の高橋彦明先生、大学1年のときフランス語を教えていただいた!それはほぼ10年ぶりの再会でした。

「先生、近くのホテルに滞在しているのですが、コーヒーでもいかがですか?」とお誘いしました。マンモス大学で第2外国語としてのフランス語を履修しただけの学生を覚えておられるとはとうてい思えなかったのですが、先生は「覚えているよ」とおっしゃってくださいました。

私が大学図書館で働いていると申し上げたら「うちの息子は芸大の大学院に行っているけれど、学芸員の就職口が全然なくてねえ。本当に困っているよ」としみじみ心配されていました。それは大学教授の顔ではなく温かい父親のまなざしでした。

その息子さんというのが高橋明也氏で、お父さんの心配をよそにちゃんと国立西洋美術館に職を見つけ、「バーンズ・コレクション展」や「ジョルジュ・ド・ラ・トゥール展」を企画されるなど大活躍され、また19世紀のフランス美術に関する著作物を多数書かれています。

学生時代にお世話になった先生に後年パリの街角で偶然再会し、その時話題になった息子さんに今また新聞紙上で出会う不思議さ。いや不思議でもなんでもない、こんなこと、人に話しても「それがどうしたの?」という類の話でしかないかもしれません。

しかし、それでも時折こうして何かの摂理によってなつかしい人にめぐり逢うことがあるのはやはりある程度長い人生を生きていればこそ、と思わずにはいられません。



6月のうれしいニュース


 市民運動を始めたころから総理大臣になることに強い意欲を持ち続けたという菅直人はラッキーな人だと思います。民主党の支持率はV字回復し、当初ぼろ負けが予想されていた参院選は上げ潮ムード。菅総理は重要法案を積み残したままいそいそと国会を閉じてしまいました。

 おりしも新政権誕生に花を添えるように、日本の小惑星探査機“はやぶさ”が往復7年の旅を終えて帰ってきました。“はやぶさ”が打ち上げられたときの記憶が全然ないのは、まさか本当に7年後に小惑星の石や砂を拾って地球に帰ってくることなど信じられないと思っていたからかもしれません。

 ともかくここ数年、国際社会の中で日本の地位が低下する一方の状況のもと、日本という国、社会システムに対してだれもが明るい展望をもてなくなっていたところへ、“はやぶさ”は国民に再び夢や希望を語る元気を与え、どんなに絶望的な場面でもあきらめないことの大切さを教えてくれました。

 ワールドカップ、カメルーン戦の勝利も思いがけないものでした。サッカーというスポーツ、激しい運動量の割に点を取ることが難しく、ゴールの決め手は選手たちの頭脳と身体能力のたまものであるとはいえ、私には偶然の支配が決定的であるように思えます。カメルーンの強烈なシュートがクロスバーに跳ね返されたときは偶然の神に感謝しないではおれませんでした。

 勝てば実力、負ければ運が悪かったというのはすべてのスポーツの基本……とはいえ、ワールドカップはやはり実績がある国が順当に勝ちあがっていきます。来たる2試合目、オランダ戦の結果はいかに?

運や偶然の力も味方につけて、岡田ジャパン、オランダには負けるな!(勝てとまでは言わないから)。“はやぶさ”が満身創痍になりながらも完璧にミッションをこなしたようにサッカーでも日本の底力(そこぢから)を示してほしいと思います。

 菅首相は国会での質問に答えて、仕分け済みの“はやぶさ”後継機の予算を復活させると明言しました。またワールドカップのおかげでテレビや3D録画機が飛ぶように売れているとか。政権発足とともに明るいニュースに恵まれた菅首相には鳩山ダッチロール政策と決別し、実のある政策をお願いします。

ロックの日


 6月9日はゴロ合わせで“ロックの日”だとか。ロックンロールのロックではなくカギのロックです。

 こういう記念日ができた理由はおそらく、あまりにもセキュリティに無頓着な家が多く、「外出時にはちゃんとカギをかけてくださいよ」、「古いタイプのカギはプロの手にかかるといとも簡単に開くので最新式のものに取り替えてください」などと啓発する意味合いがあってのことだと思います。

 ところが“ロックの日”は年に1回ですが、私にとっては、現在のマンションに入居以来13年間、そしてこの先ずっと毎日が“ロックに悩まされる日々”です。というのも、お隣さんが外出時、玄関ドアをロックしたあと決まって3回ガシャン、ガシャン、ガシャンと思いっきりドアノブを引っ張って確認するのです。

 どういうきっかけでこのような行動をするようになったのか知りたい、できれば止めてくれないか、もしくは重低音の地響きが我が家の平穏を破るようなやり方ではなくもっとそっとできないものか、お隣さんに尋ねてみたい。

 毎朝9時前になってそろそろガシャン、ガシャンが始まるぞ、と思うと本当に憂鬱。私はパソコン作業を中断し用もないのに地響きが一番届きにくいリビングの端っこまで避難することを余儀なくされています。

 お隣さんの性格なら確認などしなくてもカギの閉め忘れはありえないだろうし、無意味な行動に思えるのですが……。

お隣は夫婦2人暮らし。亭主が奥さんにこの奇行を強要したのか、あるいはその逆なのか不明ですが、今では2人ともちょっとコンビニに出かけるときでもガシャン、ガシャンやっています。

 一度苦情を言ってみたい。「お宅がドアをガシャン、ガシャンやるたびに壁に細かいひびが入り、これが100年も続けばついにはマンション全体が大崩落を起こすに違いない」と。でもそれを言ったらおしまい。今までの平和で無関心な隣人関係が一気に崩れます。

「お宅こそ、ペット禁止のマンションでいったい何匹猫を飼っているんですか。私たちが猫に迷惑してないとでも思っているのですか」と逆襲されかねません。ロック騒音には大音量のロック・ミュージックで対抗すべきか悩みは深いです。

(写真はセックスピストルズのシド・ヴィシャス。シドの“マイウェイ”はこちら)
http://www.youtube.com/watch?v=WIXg9KUiy00

捕鯨問題

 

日本が南氷洋で行っている調査捕鯨に関して、私は民主党政権ができたとき、従来の政策が変更されることを期待したのですが、農水省は相変わらずオーストラリアやニュージーランドなど反捕鯨国の神経を逆なでする調査捕鯨を継続しています。

 いまどき「クジラを食べるのは日本の食文化」などという言葉にどれほどの重みがあるでしょう。農水省は捕鯨産業や利権団体の圧力だけを代弁せず、国民全体の意見を政策に反映してもらいたいものです。

 先日おもしろい話を聞きました。

県内のある中学校でのできごとです。ネイティブによる英語教育を推進するために、その学校にはアイルランドから女性教師が派遣されています。

 生徒たちが給食に出された肉料理に全然手をつけないので、アイルランド人教師は怒って「あなたたち、ちゃんと肉を食べなさい!」と指導しながら彼女は給食を残らず食べたとか。

 後でその肉というのがクジラだったことを知った先生は、まるで敬虔なイスラム教徒がだまされて豚肉を食べてしまったかのようなショックを受けたそうです。

 笑ってしまいました。農水省が「鯨肉は日本の伝統食材」などと外国人に訴えようが肝心の日本の子供たちはそんなものに目もくれません。

 それに対し、「クジラを殺すのは野蛮人」と心情的、教条的に理解しているアイルランド人の先生は目の前に出てきたクジラ料理をおいしいと思って食べたのです。

 捕鯨問題についていろいろ議論はあるでしょうが、世界のほとんどの国の人がクジラやイルカを殺すべきでないと考えている以上、やはり日本はそれに従うべきです。海の王者にして哺乳類の頂点(そして食物連鎖の頂点)に位置するクジラを砲艦と変わらない捕鯨船で捕獲するのは自然に対しあまりにも畏れを知らない行為だと私は思います。

 2010年5月、環境省水俣病総合研究センターは、捕鯨の町和歌山県太地町で実施した大規模健康調査の結果から、この地区の住民の頭髪には全国平均の4倍超の水銀が蓄積している事実を公表しました。

 給食のクジラ肉に手を付けなかった子供たちはそういう危険を本能的に知っていたのです。

高速ツアーバス


 今もっとも旬の輝きを放っている市川海老蔵の芝居を見るために夜行バス2連泊で東京に出かけました。海老蔵の男伊達ぶり(助六)はひたすらカッコよくしびれましたが、歌舞伎の話は別の機会に譲るとして、今回はツアーバスに初めて乗った印象を記します。

 ツアーバス最大の売りはバス会社が運航する高速バス代のほぼ半額という格安料金にあります。低価格を実現するためにいっさいの無駄なサービスが廃され、かえって新鮮な旅情を味わうことができました。

 夜11時20分、岡山を出発したバスにはトイレがなくしかも最初の休憩は名神・養老サービスエリア(岐阜県)という案内に真っ青。ペットボトルのお茶もちびりちびり口を湿らす程度にしておかなくてはなりません。 

 狭い4列シートの隣人が窮屈さに耐えかねて腰をクネっとよじるとでかいケツがわが方を侵略。生温かい感触がたまらなく不快であっても、おじさんのお尻を押し戻すことはできない。そこでこちらも同じように腰をクネっとひねり相似形の体勢になってわずかなスペースを確保。

 姿勢を自由に変えることもままならず悶々としているうちに早くも空が白み始めました。2回目の(最後の!)の休憩は横浜インター手前の海老名SAでしたが、この間満員の乗客のだれひとりとして臨時トイレ停車を要求しなかったのは実に見上げたものです。

 朝7時、最初の降車地である横浜駅で半分ぐらいのお客が降りていきました。旅慣れた人達です。というのもそのあとバスは朝の渋滞に巻き込まれ、東京駅に着いたのは9時半でした。もし横浜で電車に乗り換えていたら7時半過ぎには東京駅に着いていたでしょう。

 喫茶店でしばしくつろいだあと、午前11時から午後9時15分まで海老様の芝居に酔いしれ、午後10時半、またバスに乗り岡山に向け出発しました。今度はトイレ付でガラ空き、シートもデラックスで天国!、しかも料金は往路の地獄バス同様6千円ぽっきりでした。

 ツアーバスにはもう懲り懲りかって?いいえ、新幹線や飛行機より時間が有効に使え、すっかりファンになりました。

春の食材、タケノコとヒラ


 ここ十数年、耕作放棄地にどんどん竹が進出し竹林の面積は増える一方だそうです。タケノコの消費量も増加しているので、それはいい具合だなと思ったらそうでもなく、売られているタケノコは中国からの輸入物が主流とか。

 そんな新聞記事を読んで、そういえばもう何年も見に行っていない我が家の竹林はどうなっているのか気になり4月のある日、タケノコ掘りにでかけました。

 京都のブランド・タケノコなどとは全然違う野生味満点のタケノコはさぞエグイかというとそうでもなく、わざわざ糠でゆでなくてもそのまま味付けして大丈夫でした。

 とはいえ、同じ竹林のタケノコでも素性のいいものとそうでないものがあります。おいしいタケノコを見分けるコツとは?

 竹林にはずんぐりとたくましいタケノコに混じって少し“不健康で虚弱体質な”タケノコがあるのです。ちゃんと丈夫な竹に育つのかなあという感じがしますが、食べてみるとアクもエグミもなく美味、第一掘り取るときあまり抵抗しません。

 具体的に言うと、タケノコの断面が楕円形にひしゃげた感じがするものが極上品。節と節のあいだも多少間延びした感じがするものがいいのです。

 無理にこじつけ話をするつもりはないのですが、このごろ学校子供にこういうひ弱なタケノコ型の児童が増えているようです。

 体育の授業で擦り傷を負って家に帰ると親が学校に文句を付ける現代の日本。しかし近い将来大きな破局が来るのが避けられそうもない世界情勢の中では、骨太でアクが強くエグイぐらいの子供でないと生き残れません……。

 さて5月はモウソウチク(孟宗竹)に代わってスレンダーなハチク(淡竹)がほんの一瞬市場に出ます。ハチクはヒラの酢魚、エンドウとともに春のばら寿司には欠かせない食材です。

 岡山のヒラは最近流行のサワラよりもしっかりした食味の魚で煮付けにすると最高なのですが、小骨が多いためか若い人にあまり人気がないのがちょっと残念です。

2010年10月28日木曜日

裁判傍聴記



 裁判員制度が始まって1年が過ぎましたが、私自身あるいは知人友人の中にもだれ一人裁判所から呼び出しがあったという話を聞きません。正直なところ裁判とか裁判所に縁のない一生を送れたらいいなと思います。

 ところが最近生まれて初めて裁判の傍聴をしました。中学校時代の恩師があろうことか刑事被告人として法廷に立たされたのです。 教科支援員として派遣されていた小学校で児童を転ばせ全治10日間のケガをさせたという容疑です。書類送検された結果、いくばくかの罰金を払うよう略式命令が出たのを不服として本訴したのです。

 児童の親にしてみれば子供が学校でとんでもない目に遭わされたという怒りを抑えられず警察に被害届けを出したのでしょう。教育現場においてさまざまな不祥事が頻発する昨今、両親が「訴えてやる!」といきまくのを止める権利はだれにもありません。

 ところが事件が略式命令で済まず公開の法廷で本格的な論戦になってしまった今、被害者サイドは事態が予想もしない方向に泥沼化していることに当惑しているのではないかと思います。

 裁判所は証人としてこの春中学生になった被害者本人および両親、当時の担任や校長を次回以降法廷に喚問することを決めました。中学生を大人の裁判所に呼び出し証言させるとはこれまた残酷な話です。(生徒の喚問について被告弁護人は教育的配慮から不要と主張したが……)

 そして裁判の結果、罰金刑が確定してもそれは国庫に入るだけで被害者が慰謝料を請求するためにはまた一から民事で争わなければなりません。まさに典型的な勝者なき戦いです。

 私が中学生のとき廊下を走っていたら背後から両耳がちぎれるぐらいのバカ力で引っ張るやつがいる。振り向いたら先生でした。先生、50年前とは親も子も違いますよ。今は冗談も愛の鞭もそんなもの通用しないんですよ。

 とにかくこの裁判、新聞で報道されたような事件だったのかどうか、そして生身の人間が裁かれる法廷とはいったいいかなる場所なのか最後までつきあってみようと思います。

2010年4月23日金曜日

讃岐気質



 ときおり瀬戸大橋を渡って讃岐に行くと岡山と隣合っているといっても人も風景もそうとう趣を異にしていることに気付きます。どう違うか、感じたままを率直に述べてみたいと思います。決して悪口ではないので讃岐の皆さま悪しからず。
 まず風景。なだらかな里山が続く備前・備中とは対照的に讃岐にはその名も讃岐富士、飯野山が平野から唐突に立ち上がっています。山としては小さくても自己主張の激しい風景です。
 人間が作り出した田園風景も違います。田んぼと田んぼの境界をなすあぜ道が岡山あたりでは自然の土でできているのに対し、讃岐ではきっちりコンクリートで固めています。
 水に恵まれない讃岐では、命より大切な水が隣の田んぼに逃げていかないようコンクリートを打って防御。それに岡山弁でいう“げし”(土手とかノリ面)が耕地面積を著しく減少させるのを防ぐためにもコンクリで垂直に仕切るのはある意味理にかなっています。しかしその代償として、讃岐の田園は殺風景です。春がきてもあぜ道やゲシにタンポポやレンゲの花が咲くということがありません。
 自然環境の制約は骨相学にも影響します。岡山人がどちらかというと面長なのに対し讃岐人は丸顔が多い。鼻も低い感じですが、これらの特徴はどんぶりからうどんを効率よくすするのに一番適した形態であることに私は気付きました。
 では、なぜかの地ではかくもうどんの消費が多いのか、それは水不足の土地柄ゆえ米を食べようにも米作は難しく乾燥に耐える小麦栽培が盛んであったという歴史的事実を反映してのことでしょう。
 岡山でうどん、そば、お好み焼きのような粉モン文化が他県に比べ未発達なのは米が豊富で小麦やそばをつくる必要があまりなかったからに他なりません。
 生きる苦労を知らない岡山県人は屁理屈をこねるのは日本一うまいけれど根性がなく、反対に讃岐人は逆境を跳ね返すバイタリティーにあふれ商売上手。岡山資本のスーパーがつぶれた跡には決まって讃岐資本の店がオープンします。

鳩山さんの「いのち」とは

 鳩山無責任内閣の迷走と無策ぶりにはあきれるばかりです。それでもせっかくの政権交代なのでもう少し長い目で見守っていくつもりでした。
 しかし、中国において日本人死刑囚が覚醒剤密輸事件で刑を執行されてしまった件に対して日本政府がとった態度を見て私の心はきまりました。もはや民主党政権には何も期待しない、一刻も早く政権の座から降りてもらうべきだと。
 4人の日本人死刑囚に対する近日中の執行が通告されたというのに政府は「懸念を表明する」という屁みたいなコメントを表明しただけで、「内政には干渉しない」というとんでもない物わかりのよさで応じました。これは昨年末イギリス人死刑囚の執行が予告されたときブラウン首相が激怒して30回近く強硬に抗議したのとまったく対照的です。
 まだ記憶に新しい鳩山さんの施政方針演説「いのちを守りたい」とはいったい何だったのかと思います。たしかに中国の法を犯したかもしれないけれど国際的に見れば死刑相当とは言えない日本人犯罪者のいのちは簡単に見捨てていいのでしょうか。鳩山さんには「中国が死刑を強行した場合は上海万博には行かない」ぐらいの脅し文句の一つでも言うだけの根性はなかったのでしょうか。こういう人に「いのちを守りたい」などという夢みたいなことを何十回も聞かされたくないと思いました。
 伝統的に帝国主義的な外交政策で評判の悪いアメリカも自国民救出には国務省が総力でかかるし、アヘン戦争の原因を作ったイギリスは中国に対して言わば「脛に傷を持つ」身ながら上述のとおり人権問題にはなりふりかまわず抗議します。こういうところがアングロ・サクソン人の立派なところだと思います。
 今回の執行予告に関して日本のマスコミで正面きって中国批判をした新聞はひとつもなく、現地からの特派員報告の形で事実だけ手短に伝えていました。こうした報道姿勢も中国政府にどんなに勇気を与えたことか、桜は満開なのに気分は重いです。

2010年4月3日土曜日

高橋大輔・トリノ2010


 バンクーバーオリンピックでは惜しくも銅メダルだった高橋大輔がトリノのフィギュアスケート世界選手権大会でついに金メダルを取りました。浅田真央とともに男女とも優勝という文句なしの快挙です。しかも今年は第100回の記念すべき大会でした。
 目の肥えたヨーロッパの観客に高橋はどう映ったのか、それはYouTubeにアップされたイタリアやフランスのテレビ動画を見ればよく分かります。解説員がすっかり興奮して「素晴らしい」、「最高」、「お見事」、「音楽性と技術が完全に溶け合っている」などと絶賛。
 日本のテレビはオリンピックに比べると世界選手権の扱いが小さく、なかなかノーカットで放映してくれないのですが、YouTubeなら好きなだけ繰り返してみることができます。
 ヨーロッパで絶賛されるだけあって、高橋の演技はもはやフィギュアスケートというスポーツの枠を超えて鳥肌が立つような身体パフォーマンス芸術の域に達していると思います。華麗なステップはもちろんのこと、小さな指先の動き、首の振り方、表情に至るまでこんなすごい役者は私も見たことがありません。
 高橋の今シーズンのフリーの曲目がフェリーニの名画「道」のテーマ曲(ニーノ・ロータ作曲)であったこともイタリアの観客を狂喜させました。
 第二次大戦直後、日本に負けず劣らず暗く貧しかったイタリア。なんとかその日1日の食事にありつくために人々が必死で生きていた時代の悲しみや憩いのひとときを現代の日本の若者が魔術師のように再現してみせたのですから、イタリア人が喜ばないわけがありません。
 花1輪をジャッジ席に差し伸べアピールするシーンについて高橋は「今日はジャッジが全員男性だったので困った」と朝のワイドショーで笑わせていました。
 観客の興奮をよそにやや抑え気味にインタビューに答える高橋はユーモアのセンスも一流です。来年の東京大会ではどんな魔法を見せてくれるのか今からワクワクします。

カリカリ・ベーコン


 当たり前のことですが、町の肉屋さんでは日常食べる食肉は牛、豚、鶏(トリ)など種類を問わず扱っています。ところが学生時代、初めてフランス文化に接して、どうもフランスには日本のように一口に肉屋と言ってしまえるような店がないのではないか、ということに気付きました。
 教育熱心で怖いフランス人の女性教授が私にフランス語で質問しました。「牛肉はどこで買いますか?」…「デパートで買います」。マダムの顔が一瞬歪み「牛肉を売っているのは“ブシュリー”です!」と厳しく訂正されました。
 後年フランスに行って先生が言おうとされた意味がやっと分かりました。牛肉は“ブシュリー”(牛肉専門店)で売っていました。同様に豚肉および豚肉加工品を売っているのが“シャルキュトリー”です。
 最近では牛・豚の垣根は低くなっていると思いますが伝統的には牛肉屋と豚肉屋は店の雰囲気からしてまったく別物です。シャルキュトリーに入ると、商品の多彩さにまず感動します。
 生の豚肉以上に充実しているのが豚肉製品。ハム、ソーセージ、ベーコン、パテ、その他もろもろの日本の肉屋では見たこともない加工品が、このうえなく洗練されたディスプレイで売られています。
 私はフランスに行くと肩の凝るレストランで一人寂しく食べるより、市場でハムやソーセージ、チーズ、パンそれにワインを買いこんでホテルの部屋で食べるのが大好き。正味で本場の食文化の奥深さを味わえます。
 最近では日本でも地産地消ブームですばらしい豚肉加工食品が通販等で手に入るようですが、私はベーコンだけは函館の「カール・レイモン」から離れられません。ベーコンをカリカリになるまでこんがり焼いて朝食に食べる幸せ!(普通のベーコンはカリカリにならずべたつくのです)
 まもなく菜園のアスパラガスが芽を出します。もぎたてのアスパラガスをベーコンと炒めて食べるのは最高の春の贅沢です。

2010年3月19日金曜日

有能な弁護士とは

 松本清張生誕100周年記念作品『霧の旗』という2時間ドラマをテレビで見て久しぶりに興奮しました。
 主演はテレビドラマ初出演の市川海老蔵。降りしきる雨の中、土下座し汚泥に額をこすりつけながら、女に証拠品のライターを渡してくれるよう懇願するシーンは圧巻でした。
 さすがは当代きっての梨園のプリンス、下手をすればクサくなる場面を海老蔵は何のためらいもなく完璧にやってみせてくれました。
 ドラマは、冤罪事件を2度まで勝ち取った敏腕弁護士のところに「冤罪で獄中にいる兄を助けて」と女が押し掛け、すげなく断られるところから始まります。
 貧しい自分たちのために動こうとしなかった弁護士に対する女の憎悪と復讐劇。社会派清張の作品らしくエリート弁護士は泥にまみれ、ひたすら転落していきます。
 しかし女の依頼を拒否した海老蔵・弁護士のスタンスは横柄で間違っていたのでしょうか。
 そもそも弁護士とは社会正義の実現を目指し、他人の救済のために働くべき存在なのか。三島由紀夫は『暁の寺』の中で弁護士、本田が弁護士として成功した理由を次のように書いています。
 「他人の救済ということを信じなくなってから、彼は却って弁護士として有能になった。情熱を持たなくなってから、他人の救済に次々と成功を納めた。民事であれ、刑事であれ、富裕な依頼人でなければ引受けなくなった」(新潮文庫版21p)と。
 そして「弁護士に報酬も払えないような人間に法を犯す資格はない」(同上)とまで言い切っています。 そう、弁護士とは貧乏人が気軽に依頼するような存在ではないのです。私も何かことがあったら最後は弁護士に相談しようなどと甘く考えていました。しかし私には三島の言葉どおり、犯罪を犯す資格もないし相続争いなどトラブルを起こす資格はありません。
 私には清張の人間学より三島の現実的なアドバイスの方がありがたいです。

2010年3月10日水曜日

句点


 読売新聞に平野啓一郎の小説『かたちだけの愛』が連載されています。会話の文体に独特のリズムがあることに気付き、それが何なのか、字面を凝視していたら句点 “。”の使い方に特徴があることが分かりました。
 「若くないですよ、もう。」(第183回掲載分より)
 この1文に違和感を感じたらそうとう読書の達人だと思います。大多数の出版物では次のようになっています。
 「若くないですよ、もう」 
違いは句点があるかないかです。いったいどちらが日本語として正しいのか、どうでもいいような問題ながら気になります。
 こうした国語の表記問題に基準となる指針を出しているのが文化庁ですが、“「 」の中でも文の終止にはうつ”とうたっているものの出版界などにそれを強制してきた事実はありません。
 実際、教科書等では文化庁の指針どおり“。」”方式で教えているのに対し、新聞、出版、雑誌メディアは句点を付さないという社内指針を設けているようです。
 ではなぜ晦渋な擬古典調の文体を駆使する平野氏が句点を積極的に使っているのかというと、おそらく氏にとって“」”には文の終りを示す機能がないとの確信があってのことだと推察されます。
 そう思ってあらためて平野氏の小説を読んでみると、「句点があるのもなかなかよいではないか、文章に締まりがあって……」と思えてきました。
 ところで上の行にある“…”にもちゃんと名前がありました。「3点リーダー」。いままで私は適当に “・・・”(中黒3つ)や“、、、”でごまかしていましたが、3点リーダーを2個使うのが業界の慣例とか(点の数は全部で6個)。
 平野氏の小説をきっかけに、国語の正書法があれこれ気になり始めました。私も内容はともかくせめて“かたちだけ”でもプロっぽい文章が書けたらなと思います。

2010年3月3日水曜日

山岳観光と環境行政


 昨年の晩秋、何十年ぶりかで信州・上高地に出かけました。雪をかぶった穂高の山々を背景に軽やかに流れていく梓川の静謐。天国とはきっとこんな場所に違いありません。
 ところが松本からのアクセスは電車とバスを乗り継ぐのがメインで、自家用車は上高地のはるか手前にある駐車場に置いてシャトルバスに乗り換えなくてはなりません。松本からはバスで往復4千4百円!日本一の絶景にたどり着くには交通費も相当なものです。
 上高地にはバス、タクシー以外の車が進入できないのはそれはそれで理解できます。また障がい者特例もあるようです。しかし観光客がひしめいている河童橋からさらに奥へ遊歩道をたどろうとするともはや自分の足で歩くしかありません。
 環境省はせめて電動カートを用意してお年寄りや足腰の悪い人でも上高地の大自然の息吹を思う存分味わってもらえるよう工夫できないのかと思います。
 実は梓川沿いには横尾山荘あたりまで立派な道路があり、環境省職員やコネのある人、業者は堂々と車を乗り入れています。あまりいい感じはしません。大自然は万人のものであるし、大自然に直に触れる権利はすべての人にあることが忘れられているのではという気がします。
 何かにつけ規制と特権がセットになった日本に比べ、山岳観光の先進地域であるヨーロッパやカナダでは、自然のもっとも奥深い地点、可能なかぎり高い地点までだれもが簡単に行くことができるだけのインフラを整備しています。
 ヨーロッパ最高峰のモンブランの観光ポイント、エギュ・デュ・ミディの標高は富士山より高い3千8百メートル。しかしふもとのシャモニーから空中ケーブルカーに乗ればでわずか20分で到着します。
 ヨーロッパの山岳観光地がすばらしいのは、そういう高い場所でもちゃんとしたレストランがあり料理の値段も手ごろ、暖房のきいたトイレは水洗で快適このうえありません。足の悪い人でもお年寄りでも、夏冬問わず4千メートルの高みからヨーロッパアルプスの壮大な光景を堪能できます。
 ひるがえって我が富士山。登山客が出す糞尿をそのまま垂れ流している山を世界“文化”遺産に指定しろと言ってもそれは無理な相談です。

2010年2月25日木曜日

早春の歳時記




 実家周辺には至る所リュウノヒゲが自生しています。スズランの仲間で初夏に白い花を咲かせ、晩秋に深い青色の真珠のような実をつけます。岡山での俗称は「くす玉」。
 
 2年ほどまえ、畑のあぜにあった大きな株を抜いて花壇の縁どりに植えました。大して手もかからず、肥料をやらなくてもどんどん株が増えるのはいいのですが、手入れを怠ると黒髪に白髪が交じるように緑の葉に黄色く枯れた葉が混じり貧乏くさくなります。
 
  暖かな2月末の午後、枯れた葉を一本一本抜いてやることにしました。気の遠くなるようなエンドレスの作業ながら何か楽しい。 花壇の縁に腰をおろし、早春の優しい日の光を浴びながら枯葉を抜いていると、いつも何かに追われるようにセカセカしているのが嘘みたいに心が静まります。頭脳は休止状態なのに指だけが動いていきます。
 
 この数年、両親の介護がいよいよ精神的にも体力的にも限界に近づいて心に余裕がなく、自然をゆっくり眺めることも、自然とともに時を過ごすこともなくなっていました。心が次第に枯れてしまっていたようです。
 
 ところがリュウノヒゲの白髪抜きをきっかけに、少し庭の手入れをしてみようという気になり、きょうは枝が伸び放題に伸び、道路にまではみ出てしまった柿の大木の剪定をしました。
 
 青空に根を張ったようなかっこうの柿の木に梯子をかけ、屋根より高い場所でパチンパチンと枝を切っていきます。子供のころ父がいつも「柿の木はさけーけー、落ちたら死ぬでー」とよく言っていました。いちいち干渉してくるのに腹を立てて、私は「落ちたりすりゃーせん」と怒っていたものです。
 
 今や、超高齢の父は家の外に出てきて還暦を過ぎた息子の庭作業を干渉することもなく、テレビでオリンピックを退屈そうに見ています。
 
 今年も春、夏、秋を無事に過ごしやがて晩秋になって柿の実を収穫するころ、また親父の「柿の木はさけーけー・・・」という説教が聞けたらと思います。

   

2010年2月18日木曜日

高橋大輔


 高橋大輔のショートプログラムには堪能させられました。点数的には僅差で3番手でしたが、内容的にはダントツ他を寄せ付けないカリスマ性を発揮していました。

 いい表現が浮かばないのですが、何やらあの妖しい雰囲気は、「臈長けた」(ろうたけた)という形容詞がぴったりという感じです。「年功を積み、気品ある美しさを備えた」意味で使うのが本義でしょうが、そこに退廃的なくずれかけの美が加わり、リンクに大輔フェロモンを充満させていました。

 さすがは歌舞伎を生み出したお国柄の選手だけのことはあります。フリーで4回転を決め、金メダルを取ったらそれ以上のことはありませんが、ずっこけても私的には評価は変わりません。

 腰パン、「チッ、うっせーな」発言で物議をかもした國保和宏も予選で高得点を叩き出したとたん、テレビコメンテーターたちは手の平を返したように絶賛し始めました。見苦しいことです。

ゆうちょ“銀行”


 偶数月の15日は全国の年金生活者にとって2ヶ月ぶりに年金が振り込まれるうれしい日です。銀行や郵便局の窓口には朝からお年寄りの長蛇の列ができています。

 私も1昨年から共済年金を郵貯口座で受け取っていて、2月の支給日に郵便局に出かけました。ふと目に止まったポスターには“公的年金受給者向けに金利を0.1%優遇”と書かれていたので、わずかな優遇でもないよりはましと思って定期貯金の申し込みをしました。

 そしてトラブル発生。「年金をこの通帳で受け取っていることが確認できないので年金証書を見せてください」と言う。「えっ?2ヶ月毎に送金されていることは“コウリツ ネンキン”という印字を見ればあきらかじゃないですか」と応えても「証書を持ってこい」の一点張り。

 民間の金融機関なら、この種の金利・手数料優遇サービスをするのにいちいちお客に「この“ネンキン”が公的年金であることを証明しろ」などとは言いません。念のため某3メガバンクに尋ねたら、通帳印字で十分とのことでした。

 いったいゆうちょ銀行は何のためにこんな高飛車な態度で金利優遇キャンペーンをやっているのでしょう。本気で年金口座や定期貯金を獲得しようという気があるのでしょうか?

 実際、いくら多額の貯金を受け入れても運用先も運用のノウハウもないゆうちょ銀行は国債を買って利ざやをかせぐぐらいしか能がありません。民営化したと言っても国の保護のもと、官業時代の感覚そのままの緊張感のない経営をしているゆうちょ“銀行”は今まさにその存在理由が問われていると思います。

 すったもんだのあげく、0.1%優遇の年金定期は成立したのですが税引き利息はたった400円。この間窓口一つが1時間ストップし、私も含め10人以上のお年寄りが被った時間的損失ははかり知れません。

2010年2月16日火曜日

シベリア鉄道中継


 グーグルがシベリア鉄道の沿線風景をモスクワからウラジオストックまで延々9300キロ撮影し公開したと2月15日付けの東京新聞夕刊が報じていました。

 私はシベリア鉄道に乗ったことはなく、これから先もないと思いますが、この映像を10分ほど見てもう十分という気がしました。(上海ーウルムチの夢は捨てきれずですが)
 新聞記事はこれ。

 録画再生はここ。 

 飽きてきたらマウスで列車の位置を動かすと撮影場所も変わります。単調な風景の中でもっとも心ひかれるのはバイカル湖でした。詳細な地図で列車が湖の岸辺に位置していることを確認しないと森しか見えません。

2010年2月13日土曜日

個性


きょうからバンクーバーオリンピックですね。岡山出身の高橋大輔には4回転ジャンプに挑戦し成功させてほしいと祈っています。

---

(個性考)

 公立私立を問わず、小学校や中学校の教育目標によく「個性を育てる」という標語が掲げられていますが、社会の本音は「個性豊かになってもらっては困る」であるように思えます。

 「個性」の問題については「バカの壁」の中で養老孟司は「若い人への教育現場において、おまえの個性を伸ばせなんて馬鹿なことはいわない方がいい。それよりも親の気持ちがわかるか、友達の気持ちがわかるか、ホームレスの気持ちがわかるかというふうに話を持っていくほうが、余程まともな教育じゃないか」と書いています。

 しかし、文明の進化は常に養老孟司のような個性豊かな人々が、オーソドックスなものに対して挑戦してきたおかげで今日があるのにもかかわらず、個性を伸ばせと言われて個性的になった人に世間の風はきびしいですね。
 
 実際、個性豊かな朝青龍は引退せざるをえず、今またバンクーバーオリンピックのハーフパイプ・國保和宏は腰パン、ネクタイ緩め、「反省しまーす」発言等々で激しく非難され橋本聖子団長も國保擁護に必死。在籍校の東海大学までがこんな公式コメントを出しています。


 現実の國保和宏のパーソナリティーはきっとくそ生意気でどうしようもないやつで隣人や知人に持ちたくないタイプの典型のような気がしますが、それでも個性豊かな若者がオリンピックの舞台に立つのだから応援しようと思います。

 むしろ参議院議員の橋本聖子は国会開会中にいったい何日間国会を休むのか、こっちの方が問題じゃないでしょうか。トリノ大会へは「政治経済情勢視察」という理由で出かけたとか。個性とオーソドックスのaufhebenが橋本聖子なのでしょう。