2010年3月19日金曜日

有能な弁護士とは

 松本清張生誕100周年記念作品『霧の旗』という2時間ドラマをテレビで見て久しぶりに興奮しました。
 主演はテレビドラマ初出演の市川海老蔵。降りしきる雨の中、土下座し汚泥に額をこすりつけながら、女に証拠品のライターを渡してくれるよう懇願するシーンは圧巻でした。
 さすがは当代きっての梨園のプリンス、下手をすればクサくなる場面を海老蔵は何のためらいもなく完璧にやってみせてくれました。
 ドラマは、冤罪事件を2度まで勝ち取った敏腕弁護士のところに「冤罪で獄中にいる兄を助けて」と女が押し掛け、すげなく断られるところから始まります。
 貧しい自分たちのために動こうとしなかった弁護士に対する女の憎悪と復讐劇。社会派清張の作品らしくエリート弁護士は泥にまみれ、ひたすら転落していきます。
 しかし女の依頼を拒否した海老蔵・弁護士のスタンスは横柄で間違っていたのでしょうか。
 そもそも弁護士とは社会正義の実現を目指し、他人の救済のために働くべき存在なのか。三島由紀夫は『暁の寺』の中で弁護士、本田が弁護士として成功した理由を次のように書いています。
 「他人の救済ということを信じなくなってから、彼は却って弁護士として有能になった。情熱を持たなくなってから、他人の救済に次々と成功を納めた。民事であれ、刑事であれ、富裕な依頼人でなければ引受けなくなった」(新潮文庫版21p)と。
 そして「弁護士に報酬も払えないような人間に法を犯す資格はない」(同上)とまで言い切っています。 そう、弁護士とは貧乏人が気軽に依頼するような存在ではないのです。私も何かことがあったら最後は弁護士に相談しようなどと甘く考えていました。しかし私には三島の言葉どおり、犯罪を犯す資格もないし相続争いなどトラブルを起こす資格はありません。
 私には清張の人間学より三島の現実的なアドバイスの方がありがたいです。

2010年3月10日水曜日

句点


 読売新聞に平野啓一郎の小説『かたちだけの愛』が連載されています。会話の文体に独特のリズムがあることに気付き、それが何なのか、字面を凝視していたら句点 “。”の使い方に特徴があることが分かりました。
 「若くないですよ、もう。」(第183回掲載分より)
 この1文に違和感を感じたらそうとう読書の達人だと思います。大多数の出版物では次のようになっています。
 「若くないですよ、もう」 
違いは句点があるかないかです。いったいどちらが日本語として正しいのか、どうでもいいような問題ながら気になります。
 こうした国語の表記問題に基準となる指針を出しているのが文化庁ですが、“「 」の中でも文の終止にはうつ”とうたっているものの出版界などにそれを強制してきた事実はありません。
 実際、教科書等では文化庁の指針どおり“。」”方式で教えているのに対し、新聞、出版、雑誌メディアは句点を付さないという社内指針を設けているようです。
 ではなぜ晦渋な擬古典調の文体を駆使する平野氏が句点を積極的に使っているのかというと、おそらく氏にとって“」”には文の終りを示す機能がないとの確信があってのことだと推察されます。
 そう思ってあらためて平野氏の小説を読んでみると、「句点があるのもなかなかよいではないか、文章に締まりがあって……」と思えてきました。
 ところで上の行にある“…”にもちゃんと名前がありました。「3点リーダー」。いままで私は適当に “・・・”(中黒3つ)や“、、、”でごまかしていましたが、3点リーダーを2個使うのが業界の慣例とか(点の数は全部で6個)。
 平野氏の小説をきっかけに、国語の正書法があれこれ気になり始めました。私も内容はともかくせめて“かたちだけ”でもプロっぽい文章が書けたらなと思います。

2010年3月3日水曜日

山岳観光と環境行政


 昨年の晩秋、何十年ぶりかで信州・上高地に出かけました。雪をかぶった穂高の山々を背景に軽やかに流れていく梓川の静謐。天国とはきっとこんな場所に違いありません。
 ところが松本からのアクセスは電車とバスを乗り継ぐのがメインで、自家用車は上高地のはるか手前にある駐車場に置いてシャトルバスに乗り換えなくてはなりません。松本からはバスで往復4千4百円!日本一の絶景にたどり着くには交通費も相当なものです。
 上高地にはバス、タクシー以外の車が進入できないのはそれはそれで理解できます。また障がい者特例もあるようです。しかし観光客がひしめいている河童橋からさらに奥へ遊歩道をたどろうとするともはや自分の足で歩くしかありません。
 環境省はせめて電動カートを用意してお年寄りや足腰の悪い人でも上高地の大自然の息吹を思う存分味わってもらえるよう工夫できないのかと思います。
 実は梓川沿いには横尾山荘あたりまで立派な道路があり、環境省職員やコネのある人、業者は堂々と車を乗り入れています。あまりいい感じはしません。大自然は万人のものであるし、大自然に直に触れる権利はすべての人にあることが忘れられているのではという気がします。
 何かにつけ規制と特権がセットになった日本に比べ、山岳観光の先進地域であるヨーロッパやカナダでは、自然のもっとも奥深い地点、可能なかぎり高い地点までだれもが簡単に行くことができるだけのインフラを整備しています。
 ヨーロッパ最高峰のモンブランの観光ポイント、エギュ・デュ・ミディの標高は富士山より高い3千8百メートル。しかしふもとのシャモニーから空中ケーブルカーに乗ればでわずか20分で到着します。
 ヨーロッパの山岳観光地がすばらしいのは、そういう高い場所でもちゃんとしたレストランがあり料理の値段も手ごろ、暖房のきいたトイレは水洗で快適このうえありません。足の悪い人でもお年寄りでも、夏冬問わず4千メートルの高みからヨーロッパアルプスの壮大な光景を堪能できます。
 ひるがえって我が富士山。登山客が出す糞尿をそのまま垂れ流している山を世界“文化”遺産に指定しろと言ってもそれは無理な相談です。