2011年12月15日木曜日

母ゆずり


介護生活も12年目を迎え、この夏、誕生日がくれば父は95歳、母93歳、そして私は64歳になります。父は相変わらず、死が避けがたい現実であることを絶対認めず、体は年々次第に弱ってもう自力ではイスからベッドへ移動することもできないくせに「自転車はまだ乗るから捨てるな」と口だけは達者です。

文学少女だった母は若いころからおりにふれエッセイを書きためていましたが、70代の終わりごろから認知症が徐々に進み始め、80歳のとき、岡山女子師範学校の国語教師だったN先生への追悼文を書いたのが最後のエッセイになりました。

現在でもこじゃれた文章などで「山が笑う」という比喩にお目にかかることがよくあります。母が女学生時代、あこがれのN先生の授業でのこと。「山が笑う」という漢文の一句にみんなが感心するなか母は「山がゲタゲタ笑うなんてナンセンス」と抗議。「そうか、ふーん、アハハハハ」、先生は大声で笑われた、と最後の記憶をふりしぼってN先生追想集に言葉を寄せています。

話変わって私自身のこと。昨年は牛窓の「てれやカフェ」で文芸学の第一人者である西郷竹彦先生から直々に石川啄木、宮沢賢治、夏目漱石、森鷗外の名品を例に西郷文芸学の手ほどきを受けました。まもなく92歳になられる先生ですが、いささかの衰えもなく理路整然と作品を分析・解説され、生徒にもちゃんと考えることを要求されます。

鷗外の「山椒大夫」を読んだときのことです。厨子王が盲目の母と佐渡で再会を果たす感動的な場面。「安寿恋しや、ほうやれほ。厨子王恋しや、ほうやれほ」と鳥を追い払いながらつぶやいている母の前にうつ伏す厨子王。「その時干した貝が水にほとびるように、両方の目に潤いが出た」と鷗外は母の様子を描写しています。私は異議を唱えました。

「イメージとして分からないこともないが、干した貝が水を得てほとびるというのは目の比喩としてちょっと変じゃないですか」と。先生は「君はつまらないことに引っかかるなあ」と笑っておられましたが、いくら名作中の名作といわれる作品でも陳腐な言い回しには「ナンセンス」と言わずにはおれないところは我が母ゆずりです。両親には今年も元気で過ごしてもらいたいと願わずにはいられません。
  

2011年も終わりに

   年々、一年が過ぎていくのが早くなっているような気がするのはいつものことですが、今年に限っては若い世代の人々も同じようなことを言います。なぜあっという間に一年が過ぎてしまった気がするのか、その理由をちょっと考えてみました。

千年に一度の大震災と原発爆発という日本の歴史上かつてなかった大惨事が3月に東日本で起きて以来、首相交代程度のつまらないニュースにはいちいち心が動かなくなりました。いわば空前絶後の悲惨な事態を前にして、ほかのいっさいのことがかすんでしまい、まるで記憶に残るような大きな事件は何もなかったかのような錯覚におちいってしまった、これが日本人に共通した心理状態ではないでしょうか。こんなとき時間は駆け足でむなしく過ぎていきます。

狂ってしまった時間感覚を正常に戻すためには、震災からの復興と原発に対して今後どう対処していくのか国民が覚悟を決めることが一番だと思います。政府と東電が脱原発に対してはっきりした方針を示さないまま場当たり的な事故収束に明け暮れるなか、年末になって地方が動き始めました。

福島県の佐藤知事は11月30日に記者会見を開き「国と東電に対して、県内の原発10基すべての廃炉を求める」と復興計画に明記することを発表。大英断です。知事の決断に先立って10月、県議会が全原発廃炉の誓願を賛成多数で議決していますので福島県民の決意はほんものです。

私は内心、いったん原発マネー依存体質になったら、例え今回のような重大事故が起きても全廃に踏み切ることは困難ではないかと思っていたのですが、県民総意で全廃を打ち出したところに福島の深い絶望と再生への希望を見る思いがします。

一方、原発銀座と呼ばれる福井県は福島ほど危機感がないのか、高速増殖炉「もんじゅ」の廃炉を除いて、脱原発の話は聞こえてきません。しかし関電の筆頭株主でもある大阪市長に市民の圧倒的な支持を得て橋下徹氏が当選し、記者会見で橋下さんは株主の権利を行使して関電に脱原発を求めていくと話しています。

主体的に動かない政府と東電に対しこれら地元が明確な態度を表明したことで、やっと狂った時計がまた正常な時を刻むようになった気がします。来年に希望がでてきました。

2011年11月26日土曜日

早くも年の瀬に

なんだかあっという間に年の瀬です。今年は東日本大震災と原発メルトダウン、紀伊半島の台風禍と天災、人災がうち続き天皇の病気入院までありました。私の家でも秋に父が体調不良になり、10月ごろ入院しました。94歳という年齢を考えるとじり貧のまま、退院することなく終わるのではと思っていたのですが、ひと月ほど病院暮らししたあと元気になって家に帰ってきました。

それでも、だんだん寂しさに絶えられなくなってきたのか、私が台所や書斎にいると幼児が母親を呼ぶように、5分おきぐらいに呼ぶので往生します。年老いていろんな条件や制約から、自宅で家族といっしょにいようが施設にいようが病院にいようが、老人になるということはどうしようもない寂寥感にさいなまれるということのようです。

こうしてみると長生きが絶対的にいいわけではなく、若くして死ぬことが絶対的な喪失かというとそうでもない面があるような気がします。
しかしホーキング博士(Stephen William Hawking, 1942年1月8日-)が「来世があるなどというのはおとぎ話にすぎない」と言っているように、たぶん、おそらく、100%死語の世界などというものは存在しないでしょう。そういう意味では苦しくても生きているうちが花だと思います。

***

天皇の病気が意外に深刻なのではないかという憶測からまた皇室典範を変えようという話が持ち上がってきました。男系男子にこだわるのなら徳川大奥ではないけれど側室制度を復活させる以外問題解決の方法はありません。(NHK大河ドラマの見過ぎ?)

ついでにデヴィ夫人の「皇太子廃嫡署名運動」などというけったいな週刊誌記事もありました。皇太子一家バッシングはだれにでもできることですが、よりによってなぜデヴィ夫人がこういうセンシティブな問題に立ち上がったのかよく分かりません。ちなみに彼女の本名は根本七保子。女性はすごいですね。名前も運命も自力で変えていくのですから。
http://ameblo.jp/dewisukarno/day-20111115.html

2011年11月22日火曜日

甘柿、渋柿、苦い柿


今年は寒波の襲来が遅く、11月下旬になってやっと朝晩冷え込みがきつく、日中も晴天下、空っ風が吹くようになりました。干し柿づくりに絶好の季節です。まだ大気の中に晩秋のぬくもりが残っているとき柿を干すとカビがきて失敗します。

しかし我が家の干し柿ができるのを心待ちにしているのは人間様ではなく野鳥とネズミたちです。父は腎不全でカリウムの多い柿は禁忌、私は糖質制限ダイエットの最中で糖質のかたまりの果物はほとんど口にしません。

そんな食べもしない干し柿なんか命がけで梯子に登り、徹夜で皮むきしてまで作ることはないのですが、柿の実を木の上に放置しておくとカラスがつつきに来て食べ残しをベチャベチャ道に落としていくし、腐った柿の実が自然に落ちて学校帰りの小学生でも直撃したらおおごとです。

数年まえの大豊作の年にも柿の処分に困って動物園の猿や象に食べてもらおうと甘柿を段ボール2箱に詰めて持っていったのですが、動物園にしてみればその程度の量の柿などありがた迷惑だったようで、以後動物園に持ち込むのは自粛しています。

さらに昔の苦い苦い柿の思い出。まだ大阪の大学図書館で働いていたころ、週末岡山に帰り収穫した柿をリュックサック一杯詰め込んで大阪に持ち帰ったことがあります。重さにして10数キロあったでしょう。新大阪駅で満員の地下鉄に乗り換え、重たいリュックを「よいしょ」と網棚に乗せた……はずだったのに、あろうことかリュックはスローモーションの軌跡を残しながらそのままドスっと座席に座っていた着物姿の中年女性の頭の上に落ちました。

なんと棚には金属製の横棒はあったのにそこだけ網が張ってなかったのです! 平身低頭謝罪を繰り返す私に周囲の乗客達の嘲笑と忍び笑いが聞こえてきて穴があったら入りたい思いでした。おばちゃんはカンカン。「あんた、電車、降りてんか!」。

病院、警察、慰謝料…と最悪の展開を覚悟しました。ところがです、私の職業を聞かれたので「xx大学で働いています」と答えたら、なぜかほんのり、おばちゃんの顔から怒りが緩み「あら、xx大学なの。まあ今日のことはええわ」と無罪放免してくれました。このときほど我が職場の名前に感謝したことはありません。

2011年11月19日土曜日

赤壁賦


中国古典のふるさと武漢にわずか4時間ほど滞在しただけですが、そこで得たインスピレーションは大きく、高校時代の漢文の教科書をひっぱりだして読み返しています。熟年になって昔訳もわからず習っていたことを読み返すのも楽しいものです。

高校時代に習った漢文に蘇軾の「赤壁賦」というのがありました。「前赤壁賦」、「後赤壁賦」と二つのパートに分かれていて、時期的には「前」が7月、「後」が三ヶ月後の10月に書かれています。ともに友人を誘って長江の赤壁(三国志の赤壁ではなく少し位置が違う)で徹夜で飲酒・船遊びをしたようすを賦(文章の形式)にしたものです。

漢文の時間に先生の解説を聞きながら、「この詩はすばらしい!」と感激に浸ったことが昨日のことのように思い出されます。とりわけ気にいったのは、前赤壁賦ではここの部分、

客に洞簫を吹く者有り。

歌に倚って之に和す。

其の声嗚嗚然として、怨むが如く慕うが如く、泣くが如く訴うるが如し。

余音嫋嫋として、絶えざること縷の如し。

幽壑の潜蛟を舞わしめ、孤舟の婦を泣かしむ。
                                        りふ
蘇子 愀然として襟を正し、危坐して客に問うて曰く、何為れぞ其れ然るや。
(蘇子愀然正襟、危坐而問客曰、「何為其然也。」)

(以下省略)

一番最後の行の、「何為其然也。」(なんすれぞ、それしかるや)という言葉の使い方が非常に凝っているというか哲学的でさすがは中国という気がし、40数年間頭の奥にこびりつくように記憶していました。

日本語に直訳すると、「どうしてそうなのですか?」になり、アリストテレスの「本質」to ti en einai (それは元来、何であったのか、ということ)を彷彿とさせます。内容的にも前赤壁賦では、月は満ちたり欠けたりするが月そのものがなくなることはない、などとアリストテレス的世界観そっくりです。

この難解な表現「何為其然也。」は前赤壁賦の文脈に沿って言えば、客の笛の音が「怨むがごとく、慕うがごとく、泣くがごとく、訴うるが如く、余韻嫋々(じょうじょう)として、絶えざること糸のようだ」であることに対し「どうしてそんなにも悲しい音色で奏でられるのか!」と感嘆の声を上げているような意味だと思います。

***

「後赤壁賦」は「前赤壁賦」の形而上学的雰囲気から一転し、深夜、切り立つ崖を蘇子ひとりロッククライミングしたようなことが書かれています。船遊びに出かけた経緯と鶴のビジョンを見たなど宇宙的な感覚とリラックスした雰囲気が渾然一体となって素敵です。

酒のサカナ(文字通り魚が捕れた!)が手に入り、そこにもってきて出来のいい奥さんが、「あなたが急に酒が要るということもあろうかと思って一斗樽を用意しておきましたよ」と機嫌良く亭主を船遊びに送り出してくれたので、蘇軾は客とまた赤壁に出かけます。一晩ドンチャン騒ぎをして寝込んでいたら、鶴がクァーと鳴いて飛んでいくビジョンを見る。すると夢のなかに道士がでてきて「赤壁之遊樂乎」(赤壁の遊びはたのしかったですか?)と問う。蘇子(蘇軾)が「あなたはいったい誰ですか、もしかしてあの鶴ですか」と尋ねたら道士は笑って去っていった、という結末です。

私にもだれか尋ねてくれないかな? 「上海之遊樂乎」。(上海での遊びは楽しかったですか?と)

2011年11月18日金曜日

「B型はなぜか、お腹が痛い…」


サナダムシを恋人とし彼女たちを自分のお腹のなかに飼ったことがあるユニークな免疫学者、藤田紘一郎先生がまたまたトンデモ本を上梓しました(三五館、2011)。いやトンデモ本というのはいわれなき中傷で、先生によると血液型は人間の免疫システムと密接な関連があるとのこと、いわゆる「血液型占い」などとは一線を画すもの、だそうです。

先生が特に関心をもっているのはB型の血液型で、B型は腸が弱く、サルモネラ菌や大腸菌に対する抵抗力がほかの型の人に比べ劣っていて、お腹をこわしやすい。このことは科学的に実証されているそうですが、私自身、幼少期から大学を出るころまですぐに下痢してガリガリにやせていたことが思い起こされます。

独創性に優れる反面、好き嫌いが激しく気まぐれ、協調性がない、追い込まれないとやる気がでない、などいわゆるB型性格も免疫学的に説明がつくそうです。そして、そもそもこうしたB型のルーツは一ヶ所に定住しない遊牧民に由来し、定住農耕民に多いきちょうめんでゆうずうがきかないA型はB型の最大の天敵だと先生は力説します。

実際問題、私には2歳年上の兄がいますがA型の兄はまさに私の天敵です。親の介護をめぐって兄は手抜きなどしたくてもそんな才覚はなく、応用動作や機転をきかすことがまったくできません。寝たきりの母の部屋が乾燥するのを防ぐために加湿器をおいていますが、雨の日でも加湿器がフル稼働しています。

母に飲ます薬も、兄は医者の処方どおりきちっとしていますが、私は母の体調を見て日によっては薬の量をさじ加減することがあります。私の行動は兄にすれば「正気の沙汰とは思えない」ということになります。

天敵A型のことはともかく、B型のルーツは果てしない大草原を疾駆する遊牧民です! 介護生活に息が詰まり、年中「旅に出たい」とため息をついている私ですが、深夜少しでも時間があると意味もなく車を走らせて夜明けの宍道湖を見ては満足し朝帰りしたりします。

夢は蒙古かチベットか、この次中国に行くときは、上海からウルムチあるいはチベットのラサまで延々50時間の列車旅行をしたい、「遊牧民の血が騒ぐ」、などとすぐにその気になってしまうところは典型的なB型の思考・行動パターンですね。

秋の珍味2種


 1.マコモタケ

台湾や中国の秋の食材のひとつにマコモタケがあります。濃厚な中華料理の中でマコモタケを使った一品はあっさり味で季節感たっぷりのヘルシー食材です。このマコモタケ、その親は日本を含む東南アジアの湿地帯でごくふつうに見られるマコモというイネ科の大型水生植物であり、この植物にクロホ菌が感染すると茎が膨らんで柔らかくなることに昔の中国人が目をつけたものです。

 しかし世界の珍味が集まる日本でなぜかあまり話題にならないこのマコモタケ、最近村おこしの特産品としてあちこちで栽培・販売されているらしいことをネットやテレビの地元情報番組で知って以来その存在が気になっていました。

先日たまたま立ち寄ったブルーラインの「道の駅」一本松展望園で地元産のマコモタケをついに発見! よく太ったものが4,5本入りで300円と珍味にしてはお安く早々購入しベーコン巻にしてバターでソテーして食べました。いくらでも食べられそうな秋の味覚でした。生でも食べられるぐらいクセのない食材で炒め物や天ぷらにしてもいいそうです。

2.珍果ポポー

北米原産で明治期に日本に導入された温帯落葉果樹のポポーですが、昭和30年代ある種、ポポーブームのようなものがあり農家の門先などによく植えられていました。

初夏、大きな葉っぱが広がるとまもなく紫色の花を咲かせ、やがて9月ごろにはアケビに似たポポーの実が熟します。その味は、人いわく、バナナとマンゴーをミックスしたような甘くとろけるトロピカル味! 珍しい果物なので、昔の人はポポーのことをわざわざ“珍果ポポー”と呼んでいました。

インターネットの通販サイトを見ると日本中でひとつかふたつの果物商が9月限定で生のポポーを販売しています。しかし今やどこのスーパーでもいろんな熱帯果樹があふれています。ミカンや柿しかなかった子供時代に胸が高鳴った“バナナとマンゴーのミックス味”という殺し文句はすっかり威光を失い、めんどうな通販にまでは手が出ません。

それでも庭に優美なポポーの木があればそれだけで庭がエキゾチックな趣を帯びてきます。庭先に実るポポーは今でも十分“珍果”と呼ばれるだけの存在感があります。 

中国鉄道体験記

  10月に続いて11月初旬再び中国を訪れた際、内陸の武漢(武昌駅)から長沙まで約300キロの距離を鉄道で移動しました。

長い行列の末やっとたどりついた切符売り場窓口で「長沙まで1枚」というと「指定席は売り切れです、立ち席ならあります」というので立ち席切符を購入しました(54元=700円)。座席は1列3-2の5人がけで通路が狭く立ち席といってもつかむところもありません。

女性車掌が「奥に詰めろ」と客に命令する様はまさにプロの技。しかし庶民は強い。キップ切りのハサミを車両ボディーにカンカン叩きつけながら「入口に立ち止まらんと奥まで詰めんかい!」と怒鳴る女性車掌のど迫力にも乗客は知らん顔です。

車内はもちろん、トイレ前、デッキ、連結部まで人がいっぱいで押し合いへし合い、そこへ弁当売り、飲料水売り、果物売り、土産物売りのカートが入れ替わり立ち替わりやってきます。そのたびに私はつま先立ちになり腹を引っ込めてカートをやりすごさなければなりませんでした。

そんな混んだ車内でも乗客はみんなハッピー、高揚した旅行気分がこちらにも伝わってきます。網棚もカバンや運び屋の荷物でいっぱい。さすがに生きた鶏を持ち込んだ人はいませんでしたが、よく太った上海蟹が20匹ほど詰まったネットの周りには見物人が集まりカニの足をつついたりしながらの大賑わいでした。

老いも若きもよく食べ、よくしゃべり、よくケータイ(?)。弁当だけでは足りず次々とカップ麺を袋から取り出しては人ごみをかきわけデッキまでお湯をそそぎに行きます。

おばちゃんが何やらごそごそカバンから取り出したものは昔なつかしい魚肉ソーセージ。なかなか取れない包装フィルムをガシッと歯で食い破りラーメンに投入。豪快です。またたくまに車内はゴミの山と化し、トイレラッシュが続きます。

沿線は三国志の赤壁、洞庭湖、「岳陽楼に登る(杜甫)」の岳陽、屈原が身投げした泪羅(べきら)と中国屈指の名勝・旧跡が連続する区間ですが、外の風景よりも車内で繰り広げられる人間劇場に飽きることがない5時間でした。中国パワーのみなもとはあの偉大な食欲から発していることは間違いありません。終着駅の恵州までまだ700キロ残し、夕闇迫る長沙駅で列車を降りました。

バンコク冠水


タイの洪水はますます勢いを増し、ついに首都バンコクも広範な地域で冠水が始まったようです。ほとんど海抜ゼロの真っ平らなバンコクでは洪水は、日本のように降った雨が鉄砲水になって襲いかかるのではなく、じわじわ町全体を浸潤してきます。こうなってはじたばたしても逃げようがありません。

実際、洪水に襲われているバンコク市民の日常風景をテレビで見ると、たくましいというか肝が据わっているというかおよそ日本では考えられないような光景です。

屋台で食事をするいつもの見慣れた光景、でもよく見るとお客も料理を作っている店の人もすねから下は水に浸かっているのです。川の泥水に生活排水がミックスした不潔な水、養魚場から逃げ出した魚やエビが泳いでいそうな水に足を浸けながらよくものんびり飯なんか食えるなと感心します。

しかし長引く洪水に対して有効な対策を取れないインラック政権に市民の不満は爆発寸前。が、そもそもタイの洪水は何も今に始まったことではなくもともとチャオプラヤ川のデルタ地帯にできた巨大都市にとって水問題は第一の政策課題であるにもかかわらず今まで有効な手立てをしてこなかった歴代政権の失政によるものであることは明らかです。

かつてバンコクの市街地にはベネチアのように運河が縦横に走っていました。小さな船が交通の主要な手段であり、人々も半水上生活に適応していました。これなら少々洪水がきても水が自然に引くのを待っていればよかったのです。ところが現在ほとんどの運河は埋め立てられ、市街地は排水機能を失いました。夕立の雨さえすぐに行き場を失って道にあふれてきます。

今年は日本でも東日本大震災では広範な地域が巨大津波に流され、また秋には台風にともなう大雨によって紀伊半島に大きな被害がでました。それでも日本は古来、治山、治水を国是としてきた甲斐があって今バンコクで起きているような事態に国民が苦しめられるようなことはまずありません。

岡山でも洪水被害者に対する募金活動が始まりましたが、日本がタイにできる最大の援助はこれまで日本が培ってきた高度な治水技術のノウハウを資金とともに提供することではないでしょうか。

ILLサービス

   図書館のサービスのひとつにILL(Inter Library Loan)というのがあります。図書館間相互協力のことで、探している本や雑誌記事が近くの図書館で見つからない場合、全国の公共図書館、大学図書館間で資料を貸し借りして利用者に提供するサービスです。

この制度は昔からあることは知っていましたが、このたび県立図書館で初めて利用してみました。探していたのはもう何十年も前私が高校を卒業するころ公開されたオードリー・ヘップバーン主演の「いつも二人で」という映画の原作シナリオです。1967年にイギリスで出版されたシナリオはとうのむかしに絶版になっていて買うこともできません。

そこで全国の大学図書館の所蔵データが検索できるWEBCAT(総合目録データベース)を検索したら何と日本で唯一、大阪大学附属図書館にこの本があることが分かりました。もちろんこうした検索は近くの図書館に行くなり電話するなりして司書の方に「こういう本を探しているのですが」と依頼すれば快く探してくれるのですが今はインターネットでだれでも簡単に探すことができます。

さて、阪大にあることが分かったシナリオですがここで威力を発揮するのがILLサービスです。さっそく県立図書館に電話をかけてみました。「大学図書館が貸し出しに応じてくれるかどうかは確約できませんが…」という前置きがあったものの、一週間ほどで「到着しました」という電話をいただきました。よかった!

閲覧が図書館内に限定されたらちょっと困るなと思ったのですが、貸出しもOKということで今その本は私の手元にあります。図書館が機械化する以前は本の裏表紙の内側に貸出し記録用紙が貼ってあり誰が借りたか一目了然だったのですが、届いた本は一度も貸し出された記録がありません。阪大の書庫で半世紀近く寝ていたこの本の最初のそしてたぶん最後の読者が岡山に住んでいる退職市民であることにも感激です。

それにしても図書館のサービスはすごい。日本に一冊しかないような貴重な本を借りるのに契約書も誓約書も手数料も要求しないのですから。このありがたいサービスが成り立つのは図書館間の信頼、図書館と利用者の信頼関係があってのことはいうまでもありません。ILLは奇跡のサービスだと思います。

物忘れを超えて

  山陽新聞のちまた欄に「物忘れは知識多いせいか」というなかなか含蓄ある投稿が掲載されていました(2011.10.12)。

78歳になる筆者、片山さんによると、歳をとって物忘れがひどくなるのは果たして単純に老化現象と言ってしまっていいものか、長い人生でため込んだ知識が膨大すぎて取り出すのに手間取っているだけではないか、その点若者がすっと答えを出すのは失礼ながら知識のストックが少ないから、だと理屈をつけておられます。

これを読んで私は自分に当てはめて納得すると同時に最近のパソコンがまさにこれといった気がしました。数百ギガバイトのハードディスクにため込んだ雑多なデータから必要なものを取り出そうとするとパソコンは熱を出して動かなくなったり、頼みもしないのに勝手に通信回線を通じて外部と連絡を取り合って広告を割り込ませたり、セキュリティに問題があるなどと指摘してきて肝心の仕事はちっともはかどりません。

30年前、パソコンがとても若かったころ彼らは本当に自分の手足のように忠実に働いてくれました。今のパソコンがまるでパソコン自身に意思があり、人格を獲得したかのように勝手なふるまいをして持ち主の気分を害するのとは大違いです。

しかし機械も人も歳をとっていきます。パソコンが制御不能なデータで身動きならなくなってきたように私自身歳月とともに脳に刻んだ膨大な知識を生活に生かすために取り出すことが難しくなってきました。そればかりか古くて役にたたない知識でいっぱいになった脳は新たな知識が進入してくることを頑強に拒み老化は確実に進行していきます。

老化というのっぴきならない事態にどう対処したらいいのか、それが問題。ひとつにはガラクタ知識を捨てること。脳の奥深くにこびりついている記憶や概念を捨てるのは簡単ではないかもしれません。しかし少なくとも「自分は何も知らない、これは始めて体験することだ」という意識を持つことによって既知のことも未知のこととして感動できるようになるのではないでしょうか。

もうひとつは実際に未知の国を訪ね未知の人々に出会うこと。私にはこれが一番性に合っています。過去を捨て旅に出ること。遅くなり過ぎないうちに、と思います。

2011年10月8日土曜日

春秋航空高松便


高松空港から上海へ飛んでみました。上海へは岡山から中国東方航空の便が毎日あるのですが個人で切符を買うとなると燃油サーチャージ込みで往復約6万円になります。一方春秋航空高松便は日曜日と木曜日の週2回の運航で使い勝手は悪いものの料金は岡山発の半額以下で、新幹線で岡山東京を往復するのと大差ありません。

客層は7割ぐらいが中国人観光客、2割が高松からのパッケージツァー、残りが私のような個人客のようでした。空港には狭いながらも免税店があり、中国人御一行様が最後のショッピングをしていました。皆さん例外なく電気がまを最低2個買って機内に持ち込むので通路側に座っていると電気がまの段ボール箱が容赦なく肩に当たります。

おそらく預入荷物のなかにも炊飯器が3,4個は入っているはずで、なぜこのキッチン用品がこんなにも中国人の心を捉えるのか本当に不思議です。免税価格といってもそんなに安くはないし、中国でも買えるはずなのに…お土産として親戚中に配るとか、転売して旅費に当てるとかいろんな説がありますが真相はどうなのでしょう。

座席はどうやら中国人と日本人が隣り合わせにならないように配慮しているらしく往復とも機内で中国人に日本の感想やお土産の謎を聞くチャンスはありませんでした。

機内サービスはすべて有料というのは従来型のフライトに慣れている人にとってはやや違和感があるかもしれません。しかしわずか2時間のフライトに食事は邪魔だし居眠りしようとしたらお茶で起こされるのもわずらわしくサービスゼロというのは合理的だと思います。

ほどなく上海に到着。以前は空港から市内まで時速400キロのリニアモーターカーに乗りさらに地下鉄2号線に乗り換えていたのですが、今は2号線が空港まで延伸されていてあえて運賃が高いリニアカーに乗る必要はなく移動が非常にスムーズでした。

10月1日は国慶節でしかも今年は辛亥革命100周年記念の年であり繁華街は大変な人出でした。火の消えたような日本から見た中国はまさに今が絶頂期、パワーが渦巻いていました。

あまりに広大で奥深い中国の入口として上海ほど便利な都会はほかになく、春秋航空は上海を起点に多数の国内路線を張っています。11月には再度訪中し漢詩でおなじみの武漢あたりへ出かけてみようと帰国と同時に8500(片道)で上海便に予約を入れました。

上海旅行


両親の介護というおそろしく単調な生活をしていると無性に旅をしたくなります。ヨーロッパやアメリカまで出かけるのは日程的に無理がありこの10年、飽きもせず繰り返し台北、上海、バンコクに出かけてきました。

今日もこれから久しぶりに上海へ向かうところですが、震災で就航がのびのびになっていた中国の格安航空会社、春秋航空が高松路線を設け7月から飛び始めたのでそれを体験してみるのも旅の目的のひとつです。

最近ダイエットして10キロほどスマートになったのでまさか体が狭い席に収まらないということはないと思うのですが少し心配。インターネットでチケットを購入した際、一番前の足元が広い席が2千円アップで売られていたのが気になります。格安航空に乗る以上は何でも切り売りしてくる各種有料サービスの誘惑にのらないという自分なりのポリシーに従って座席は指定していません。出たとこ勝負です。

上海といえば先日地下鉄で衝突事故が発生したばかりですが、どんどん路線を拡大する地下鉄に乗らないで旅行することはできません。信号システムに問題があるといっても、毎日朝から晩までちゃんと走っているのだから、乗らないという選択をするほど危なっかしいものではないでしょう。ただぶつかってもぶつかられてもサバイバルできるように列車の真ん中の車両に乗るように心掛けたいと思います。

中国での度重なる鉄道事故やトラブルに対して、日本は新幹線が開業して以来約半世紀、事故による死者はゼロであることを強調していますが、在来線では鉄道史上もっとも悲惨だった鶴見事故(1963)が起き161名の乗客が死にました。私の母方の従姉妹もこの事故の犠牲になりました。

そして2005年の福知山線尼崎駅の事故では107名の方がなくなりました。中国のことを笑えない悲惨な歴史の上に今の日本の安全な鉄道があることを忘れてはいけないと思います。

思えばアジアの都市の魅力というのは上海の例のようにほんの30年前はお話にならないぐらい前近代的だった街があらゆる矛盾をかかえたまま最先端都市に変貌していることにあるのではないでしょうか。

昨年のバンコクの大規模デモ、最近の中国の鉄道事故…みんな日本が30年か40年前に体験してきたことだからこそ、いまアジアの熱気がせつなくもあり、また“なつかしく”思われるのかもしれません。

2011年9月11日日曜日

台風12号

岡山は日本では例外的に自然災害が少ない土地柄です。“台風が来たって四国山地が衝立のようにそびえているので岡山を直撃することはないだろう、津波も内海に入ってくるあいだにずいぶん勢力をなくすに違いない”と思っていましたが今回の台風はまるで岡山に吸い寄せられたかのような進路をたどりました。
しかし台風が岡山に上陸したというまさにその日、その時間は土曜日の昼間でしたが商店も病院も喫茶店もいつもどおり営業していました。一方、テレビは岡山市南区全域に避難勧告が出たとテロップを流していましたが緊迫感はゼロ、いったいどこの話かという感じでした。そして午後には風雨は収まり台風はそのまま鳥取に抜けていきました。(高谷岡山市長は台風来襲時にスポーツジムで汗を流していました)
翌日の新聞で岡山市北区や倉敷、玉野で浸水被害があったことを知って岡山県でも被害があったことに驚きましたが岡山県だけは死者、行方不明者ともゼロでした。大騒ぎした割には大したことはなかったというのが率直な印象です。逆に遠く離れた紀伊半島で死者行方不明者が100人を超したことを考えれば、やはり岡山は自然災害から元々まぬかれていることが実感されます。
全国的に防災意識が高まるなか岡山市南区で避難勧告に応じて避難所に逃げた人はたった数百人だったことに対していろいろと議論があります。そもそも南区の全員が避難する場所もないのに全域に避難勧告を出したのはおかしいと行政の不可解な判断を責める意見とともに危機感にとぼしい住民意識を嘆く意見などがとりざたされています。
しかし私には今回の岡山の人々の行動は事態を冷静に観察し現実的な判断をした結果であって、あれでよかったとしか思えません。へたに避難行動をとれば用水路に落ちたり、吹き飛んでくるトタン板で頭を切ったり、狭い避難所でのストレスで体調をくずすのが関の山です。
今後また岡山に台風が来たり高潮や津波の害が予想されることは必ずありますが、行政は南区全域などとおおざっぱな指定をするのではなく過去に浸水した地区を中心にピンポイントで指示を出すべきです。そして避難勧告を出す以上は周知徹底してもらいたいと思います。東日本大地震では日頃の安易な津波警報に慣れた住民がいちばんの犠牲者になったことは悲しくまた重い教訓です。

2011年9月3日土曜日

高速道路入口案内標識



高速道路の無料社会実験が行われていたころよく岡山道を利用しました。岡山道の全線が無料だったのですが、全線走ってしまうと無料ではありませんでした。なぜなら終端部分の岡山ジャンクションあるいは北房ジャンクションから降りることはできず山陽道なり中国道を走行した分が有料だったからです。

せっかくの社会実験というのにお役人の考えることは杓子定規だなあと思いました。山陽道、中国道の最初の出口まで無料にすればもっと利用が増え、高速利用の需要予測が正確にできていたのではないでしょうか。

さてそういう事情もあって私は一番家に近い早島インターではなく総社インターをよく利用しました。ところが岡山市撫川あたりから吉備路方向へ向かって県道270号線を西進しつつ総社インター入口を探しても標識があるべきはずのところになくいつも国道429の方へ大回りさせられていることに気付きました。具体的に言えばコンビニのサンクスがあるT字路のところです。総社インターに最短直行するこの場所になぜ標識がないのか? 県の道路課に電話してみました。

応対に出た職員は最初「何のこと? それどこ?」という感じで私は場所の説明をくどくど、「サンクスがあるT字路…」、理由をくどくど、「地元ドライバーだけでなく吉備路を訪ねてきた他県ドライバーも高速の入口が分からなくて困っているはず…」などと標識が必要な理由を述べたところ、「高速の標識は西日本高速道路の管轄ですからそちらへどうぞ」と話しは打ち切りになりました。

高速道路会社の担当者は「県道の標識は県にどうぞ」とこれまた似たり寄ったりの返事で、標識ひとつお願いするのも容易ではないなと思ったしだいです。

6月で社会実験も終了し岡山道も有料に戻りましたが、先日サンクスのあたりを走っていたらふと緑色も輝かしい“総社インター入口”案内のサインボードが取り付けられているのに気付きました。「言った甲斐があった! お役人は安請け合いできないから逃げ口上みたいなことを言うけどちゃんとやってくれるものだ」とちょっと感激しました。

カーナビをもっていない私にとってこれでもう迷わずに済む喜びとともに、市民の公共財産をひとつ増やすことに貢献した満足感がありました。

2011年8月27日土曜日

テレビの見方


私自身はテレビのアナログ放送が終了して以来テレビなし生活をしていますが、番組を見ていないというわけではありません。

親の家に入れた新しいテレビはブルーレイ録画機能(BD)が内蔵されているのに加え外付けハードディスク(HDD)にも対応していて、見たい番組を片っ端から予約しておいてあとで親が病院に行っているあいだに見るようにしています。

アナログ時代にもたまにはビデオ録画することがありましたが地デジになって以来、録画という行為に何か質的な変化がおきた気がします。端的にいうと、録画の目的が以前は貴重な映像を保存するためだったのが今ではむしろ見たい番組を見たいときに見るためにとりあえず大容量のHDDに何でも録画しておくように録画のスタイルが変わりました。

実際そういう用途に的を絞った高級機種もあります。丸1日分の番組がすべて自動的にHDDに録画されるそうで、こうなると昨日の新聞のテレビ欄を広げて見たい(見たかった)番組があるとその瞬間番組が開始するという夢のようなテレビです。

番組の私的アーカイブ化が可能な時代になったわけですが、もうここまできたのならテレビ局がすべての放送済み番組をオンデマンド放映してくれないかと思います。ちょうど出版物に関しては国立国会図書館がすべての出版物を保管し、国民に公開しているように放送についてもだれでもいつでも過去の全番組アーカイブにアクセスできたらと思います。

一方、地デジ技術をはじめテレビの放送技術はもうこれ以上望めそうもないレベルに到達したというのに最近の番組のつまらないことといったらどうでしょう。民主党代表選のドタバタ劇、紳助引退茶番劇のしつこいワイドショーなど見たくもありません。

私も60代半ばに近付いてきて過去を振り返ることが多くなってきたせいか、本や映画だけでなくテレビについても本当に興味がもて、心からおもしろいと思える番組はすでに何年も前に放映済みのドラマやドキュメンタリーの中にしかないような気がします。

ともかく、親の家のテレビ用HDDは1テラバイトでしたが、すぐに満杯になりました。3テラのHDDもずいぶん安くなったので買い替えようと思います。

織江の唄

お盆のころ3日間両親の介護を兄に任せて九州北部を訪ねてドライブしてきました。筑豊、伊万里、唐津、平戸、佐世保、有田、吉野ヶ里遺跡と駆け足で巡ったのですが、中でも五木寛之の小説「青春の門:筑豊編」の舞台となったかつての炭坑の町、田川は印象深いところでした。

今は田園風景が広がる田川ですが、田んぼの下には廃坑となった縦穴、横穴がモグラの巣のように広がっているそうです。三井田川鉱業所がそのままの形で「田川市立石炭・歴史博物館」になっていましたが、博物館がなければここが「筑豊」の中心地だったとは気付かないでしょう。

「青春の門」の主題歌で五木寛之自身が作詞した「織江の唄」。山崎ハコの哀愁漂う、やや投げやりな声の調子に昭和30年代の筑豊の悲しみが余すところなく込められています。歌に出てくる遠賀川、ボタ山、カラス峠、田川、香春岳(かわらだけ)などが博物館のテラスから遠くに近くに手にとるように見えました。

あまりに暗く、あまりに貧しく、あまりに悲しい昭和の物語です。いや炭坑の町、筑豊だけが貧しかったのではなく昭和という時代そのものが貧しかったのでしょうか? つい最近亡くなった日吉ミミは「恋人にふられたの、よくある話じゃないか…」と暗く歌っていたし、「十五、十六、十七と私の人生暗かった」と歌ったのは藤圭子(宇多田ヒカルの母)、「暗い目をしてすねていた弟よ」と歌ったのは内藤やす子。極めつけは「昭和枯れすすき」の「貧しさに負けた、いえ世間に負けた」でしょう。

でも昭和という時代は本当にこれらの歌に歌われたように暗かったのかというと、実際は所得倍増政策がとられ、高度成長経済を謳歌した時代でした。すでに貧しさから脱却しつつある自信があったからこそ思いっきり暗い歌を歌えたのかもしれません。

ところが東日本大震災後、いつまでも目に見えない不安が消えない放射能の影におびえる現代という時代にあって、はやり歌の歌詞を見ると「夢、希望、空、風、明日、未来、友達、勇気、力、信じる…」と歯の浮くような言葉のオンパレードです。皮肉にも現実が救いようのない時勢だから夢とか希望と歌っているのでしょう。今こそ暗い歌、悲しい歌、心に響く歌が欲しいと思います。
(織江の唄)
http://www.youtube.com/watch?v=hOGUHjdDPek

2011年8月15日月曜日

イディオシンクラシー


映画のワンシーン、ニューヨークのインテリ家庭。売れっ子詩人である才能豊かな妻に嫉妬する無能な亭主に妻が吐き捨てるように言います。「あなたのイディオシンクラシーにはもううんざりよ」。

idiosyncrasyとは辞書には「特異性、性癖」などと載っていますが、分かりやすい例を挙げると、例えば近所のおばあさんが毎日洗濯機を回しているが中に洗濯物はなくて水だけ回っている……。そういう意味不明の奇妙な性癖がイディオシンクラシーです。

当年65歳になる兄のイディオシンクラシーには親の介護を巡って私の悩みは深い。車を離れるとき決まってカーエアコンをOFFにする癖、食器棚の皿を変に並べ替える癖、なぜどうでもいいことにいちいちこだわるのか理解に苦しみます。そして94歳の父のために地デジ対応の大画面液晶テレビを購入したのが予期せぬ新たな悩みの始まりでした。

ハッとするほど美しい地デジ映像ですがさらに5種類ほど映像モードが選択できるようになっています。私には映像が抑え気味の[普通]がいちばん見やすいし、自然な色調で目が疲れないので目が弱ってきている父のためにも[普通]にしています。そもそも工場出荷時の設定がいちばんきれいな絵作りになっています。

ところが兄が帰ったあとは必ず画面がギラギラ、テカテカ。目が痛くなります。そう、憎っくき[ダイナミック・モード]に画質を変えているのです。そもそも兄が父のテレビなど見ているわけでもないのに何というおせっかい。本当にイライラ。

こうして[普通]→ [ダイナミック]→ [普通]→ [ダイナミック]とエンドレスの戦いが始まりました。何だか子供のころのチャンネル戦争の再来の観があります。ところが無限に続くと思われたこの戦争、意外な結末を迎えました。

私が父に[普通]と [ダイナミック]のどちらが見やすいか尋ねたら予想に反して「ダイナミックの方がきれい!」というのです。何だそうだったのか!、これからは私が兄をイラつかせる番です。私が介護を担当したあと[普通]にしておく、兄がイラついて[ダイナミック]に戻す……、でも以前との違いはイライラ作戦の主導権を持っているのは私です。

弟の私も相当イディオシンクラティックな人間でしょうか?

2011年7月25日月曜日

草食動物の勝機


 3月11日に東日本を襲った巨大地震と津波、そしてそれによって引き起こされた福島原発のメルトダウンという千年に一度あるかないかの大惨事に国全体が打ちひしがれているなか、なでしこジャパンがワールドカップで優勝するというこれまた百年に一度あるかないかの快挙はみごとでした。

 優勝候補のドイツ、スウェーデン、アメリカ人選手のあの高さ、あのガタイ、スピード、パワーをまえにしてか弱い“なでしこ”に勝機があるとはだれも想像していませんでした。

 ちょうどドイツ戦の前日、たまたまドイツの友人ウド君が私の誕生日祝いにメールをくれていたので、お礼の電話をかけました。ひととおりよもやま話をしたあと、ウド君が「ところで明日のサッカーの日独戦どう思う?」と聞いてきました。

 正直いって女子ワールドカップにほとんど注目していなかった私は返答に困りながらも、「身長差があれだけあるのははなはだ不利ではあるけれど、ドイツの選手は背の低いチーム相手の試合には慣れてないだろうから、その辺が日本にとって有利かもしれない…」などとコメントをしました。そして日本はそのように勝ち進みました。

圧倒的なパワーとスピードを誇る欧米チームに伍して金メダルに輝いたのはわが“なでしこ”。勝因をめぐってはいろいろ専門的な分析がなされていますが、私なりに考えてみると、欧米チーム対日本の戦いは肉食獣対草食獣との戦略の違いのようなものがあったのではないかということです。

 ライオンやチータなど肉食獣がサバンナで群れをなす草食獣に狙いをつけて忍び寄る光景。草食獣に勝ち目はないと思われるのですが、案外草食獣は機敏に方向転換を図りながら逃げ切ります。最初の一瞬を逃した肉食獣はすぐにスタミナ切れをおこして長追いはできません。

 ねばりにねばって延長戦に持ち込んで競り勝った日本の戦いぶりは理にかなったものだっと思います。映像的にもピッチの上で何か種類の違う2種類の競技が行われているような印象を受けました。

 こうしてみると来年のオリンピックに向けたアジア予選はある意味欧米チーム相手より手ごわいかもしれません。草食同士、おのずと戦術に工夫が要りそうです。

2011年7月13日水曜日

朝食ビュッフェ

 旅の楽しみはいろんな土地でいろんな食べものに出会うことに尽きるといっても過言ではありません。ところが国内でも国外でもホテルの朝食といえばセルフサービスのビュッフェと相場が決まっています。

所狭しと並べられた大皿は遠目にはどれも豪勢に見えるのですがいざ自分の皿にとって見るとベーコンエッグ、焼き飯、パン、サラダ、スパゲッティ、ワカサギの甘露煮、チンゲン菜のうま煮、シュウマイ、ライチ・・・と突飛な組み合わせの食材がゴテゴテ盛られ何だか食べる前から残飯状態です。

でも団塊世代の人間としては仕方ありません。子供時代ずっと食べるものに事欠いて育ったせいか大皿いっぱい並んでいる料理を見たらたちまち理性をなくしてしまい、経験的にはかなりの高級ホテルの朝食と言えども大したことはないと分かっているのに、とりあえずひととおり取ってみないと気がすまないのです。そして常に満足感なき満腹感とともにレストランを後にします。

それでもたまにはビュッフェで珍しいものに遭遇することがあります。先日台北のホテルで思いがけず生まれて初めてベーコン巻のマコモを食す機会がありました。タケノコとアスパラガスをミックスしたようなさっぱり味の珍味で、日本ではお目にかかったことがありません。大皿に20本ほどあったのを1人で3本もとってきました。

ノルウェーの小さなホテルでは朝食にニシンの酢漬けやスモークサーモン、ボイルした手長エビなどがハム、ソーセージ、チーズなどとともに並べられていました。そこの朝食は世界標準のビュッフェ料理とは一線を画す印象深いもので、ひとつひとつの素材に料理人の魂と土地の味がこもっているような気がしました。

日本の観光旅館のさりげない朝食も捨てがたい魅力があります。夜の宴会で名物料理をたらふく食べ最後は雑炊までかきこんで身動きならない状態のまま寝たというのに、朝になれば食欲は復活しています。

炊きたてのご飯にアジの干物、ノリ、卵、つくだ煮、味噌汁で構成された旅館の朝食をご飯一膳で済ますことは不可能。外食チェーン店のチリ産のサケを使った焼き魚定食とは比較にならない美味しさです。やはり素材のレベルが10倍ぐらい違うからだと思います。

2011年7月9日土曜日

古紙再生工場


 いつのまにか書斎や廊下に重苦しくたまる新聞や雑誌の山。さっさと資源ゴミ回収の日に捨ててしまえばいいのに、月1回の資源ゴミ回収日に合わせて段ボールを折りたたんだり、新聞をひもでくくるのはなかなか大変で山はどんどん成長します。

 そんなおり、耳寄りな話を聞きました。近所の製紙工場が段ボール、新聞紙、雑誌、雑紙、アルミ缶をいつでも引き取ってくれおまけにポイントまでくれるというのです。岡山市南区大福にあるアテナ製紙という古くからその場所にある製紙工場が行っているサービスです。

 アテナ製紙株式会社の沿革を見てみると昭和11年に同地に創業したそうで、私が子供のころは「日清製紙」という名前でした。“日清”というのは「日清製粉株式会社」の関連企業でそのような名前になったそうですが、地元の人は単に“製紙”と呼んでいました。

今は岡山市になっていますが、昔は“製紙”があったあたりは純然たる農村(都窪郡福田村)でした。“製紙”は村で唯一の近代産業工場で、村の財政にとって“製紙”がもたらす税収は少なくなかったと思います。ただ一般の村民には製紙工場との関わりはほとんどなく、広大な敷地は近寄りがたい場所でした。ところが時は流れ、今やエコの時代、“製紙”は一般人が資源ゴミを気軽に持ち込めるとてもありがたい場所に変身していました。

梅雨の晴れ間、車に新聞紙と段ボールを積み込み出かけてみました。初めてで要領が分からなかったのですが、受付の女性が手順を説明してくれ、現場では男性職員が懇切丁寧に指導してくれ無事ポイントカードも手に入りました。10キロの古紙で70ポイントget! 500ポイント貯まれば500円の商品券に交換してくれるそうです。

古新聞や段ボールが片付いてほっとしたところで缶コーヒーを買って飲みましたがこちらは120円。車のガソリン代などコストを計算すると少々のポイントでは割に合いません。

でも気になる資源ゴミを安心して任せられる場所にお返しでき気分は爽快。捨てるのがためらわれる雑誌やパンフレット類もこの工場にお任せしたらきれいな段ボールに生まれ変わるのだと思うとがぜんポイント集めに熱が入りそうです。

白夜と狂気、ムンク


 昨日は夏至でした。夕方5時過ぎ牛窓に行った帰り、薄曇りの天気の中、国道2号線を倉敷方向に向かって車を運転して、ふと今の時間太陽はどこにあるのだろうと思いました。しばらくして雲の間から現れた太陽は思いのほか高い位置にありました。さすがは夏至です。

 もうかなり昔のことですが夏至のころノルウェーを旅したことがあります。首都オスロではちゃんと夜があったのに対し北方のロフォーテン諸島は北極圏にあるため深夜零時を回っても外は明るいままでした。

といっても昼間の明るさとは違う陰影のない間接照明のような明るさです。深夜窓から入ってくるこの異様な光にさらされていると精神錯乱を起こすのではないかという気がし、ベッドから起き出して町に出てみると何だかにぎやか。過疎地の島なのに人々は町の中心に集まり白夜を騒いでは楽しんでいました。

白夜の季節太陽はいったいどういう動きをするのかというと、夕刻太陽は西の地平線に沈むのではなく地平線上を北の方向に水平に移動していき、やがて日付が変わるころ真北の地平線ぎりぎりのところで沈むと見せかけてそのまま今度は東に移動しつつ高度を上げていきます。つまり北の空で太陽は楕円の輪を描くようにぐるぐる回っているという感じでしょうか。

一年を通して東の空から昇りやがて西に沈む太陽しか知らない日本人の私にはロマンチックな白夜もなんだか空恐ろしく不気味なものに感じられました。いや日本人だけでなくノルウェーの人々にとってもあの沈まない太陽は狂気を誘う存在ではないか? オスロ市立美術館を訪ねて「叫び」をはじめおびただしいムンクの傑作を見たときそう思いました。

ムンクが描く太陽はギラギラした光線を意地悪く放射するだけで、四季折々暖かく、情熱的に、穏やかに、さわやかに大地を照らす日本の太陽ではありません。でもなぜか日本人はムンクが大好き、毎年どこかの美術館でムンク展をやっています。これは日本人にも極北の白夜の下で暮らしていた民族の血がいくらか流れているせいかもしれませんね。

8月まで東京の出光美術館においてオスロ市立美術館蔵のムンクが3点見られるようです。http://www.idemitsu.co.jp/museum/honkan/index.html

2011年7月1日金曜日

父の本音

3泊4日で台北に行ってきました。短期間の旅行でも高齢の両親を病院に預け、留守番の12匹の猫たちに餌、水を十分与え、また締め切った家の中で熱中症にならないように空調にも気を使い、戸締りその他万事OKであることを確認して関西空港へ向かいました。それでも新幹線が岡山駅を出てまもなく台所においてある糠床を冷蔵庫に入れるのを忘れていることに気付きましたが時すでに遅しです。

一事が万事、気になることをあれこれ気にしていては旅になど出られません。父は私の旅行に異議は唱えませんがきっと心の中で「あのバカ息子は親を病院に放り込んでおいて台湾とはけっこうなことですな」と言っているに違いありません。

台北では特に行きたいところも見たいものもなく、ただ街に溶け込んで骨休めにつとめました。泊まったホテルの隣に北京ダックの有名店があったので友人と2人で出かけました。

日本で食べる北京ダックは皮はほんのちょっぴり、味など分かりません。しかしさすがは本場、ローストされたアヒル一匹丸ごと持ってきて見せて「これをさばいてきます」といったん退場。ほどなく大皿の上にきれいに並べられた皮と薄餅(バオビン)、ネギ、味噌ダレがやってきました。さっそくひと口。「うーむ」。

正直言ってフグのミリン干しの方が美味かな?などと思いつつ、大の男2人黙々とノルマを果たしていると今度は肉がドーンと運ばれてきました。皮だけでも食べきれないのにとんでもない誤算でした。

楽しい時間はすぐに過ぎ去り猫12匹が待つ家に帰りました。猫たちは私の不在に腹を立てているようすもなくあくびしながら「どこか行ってたの?」という顔でお出迎え。そして翌日両親を迎えに病院に行きました。

私の到着を待ちながら父は看護師さんたちに私のことをしゃべっていました。たぶん「孝行息子さんを持ってしあわせですね」ぐらいのことを言われたのでしょう。父は「バカ親から生まれたバカ息子じゃ」などと本音らしきことを看護婦さんたちに漏らしていました。

私が「どこのバカ息子の話?」と言いながら病室に入って言ったら、それでもうれしそうに「やっと来てくれたのか」と生き返ったような顔になりました。

2011年6月21日火曜日

害獣動物園

体中あちこちかゆくてたまりません。庭の椿に毛虫が大発生したのを放置していたら1週間もしないうちにやつらは葉を食い尽くし、椿の大木は枯れ木のような哀れな姿を梅雨空にさらしています。

毛虫といえども無闇な殺生はしたくない私の優しさ(決断力のなさ)が災いしたと思い知らされ、遅ればせながら殺虫剤を散布し家の中に入って昼寝しました。

なんだか変。首筋がチクチクすると思って起きてみたらシャツの上を毛虫が3,4匹ぞろぞろはっているではありませんか。表だけでなくシャツと肌の間に入り込んでいるのもいます。殺虫剤をお見舞いしたことに対する彼らのリベンジは手強く、風呂に入って全身の毒毛を洗い流してやっと一息つきました。

夜、猫のちびちゃんが天井を見上げて大興奮。私には何も聞こえないし見えないのにちびちゃんは何かを感知しています。と、ちびちゃんがテレビの上に飛び乗りそこを足場に本棚の上板にジャンプ。そして長押伝いに天井近くを移動しながら5センチほどのヤモリを捕まえて降りてきました。

ヤモリは特に悪さをするわけではないのですがちびちゃんの野生の本能を大いにくすぐるらしく散々いたぶり回しています。あわててちびちゃんからぐったり仮死状態になったヤモリを取り上げ窓の隙間から庭に逃がしてやりました。

夜中またもガサゴソと怪しい音に目が覚めました。視野の片隅にウルトラマンに出てくる昆虫のような触手をもった巨大怪獣が登場。人間より大きい怪獣の出現に私は「これは夢に違いない。何かの悪夢だろう」と思っていったん目を閉じたもののすぐに我に返って飛び起きました。

巨大怪獣の正体は目の横3センチに迫った大ムカデでした。こんな化け物に目玉をやられたら間違いなく失明します。事実昨年も梅雨の時期寝ていてムカデにやられ、手がグローブのように腫れ上がり大変な思いをしました。

天井裏には正体不明の大型動物か魔物が生息している気配がします。そして屋外の電気温水器は野良猫の寝床に。しとしと雨の降る夜、我が家はさながら害獣動物園です。何とか手を打たなくてはと思いつつも梅雨があけて彼らが出ていってくれるのをただ待つだけの日々です。

2011年6月16日木曜日

旅芸人パオロ

先日東京に行った帰り、岡山行きの飛行機に乗りました。隣には白人の中年男がTシャツ姿で座っていました。日本人同士なら見知らぬ隣人とお互い取り立てて話なんかしないものですが、外国では飛行機や列車で隣り合わせた人とはあいさつ程度の会話をするのはマナーで、日本でも外人さんの横で黙っているのは妙に落ち着かないものです。

離陸してまもなく、お茶が配られるころ隣人は私に日本語で「寒い」と話しかけながらバッグからしゃれたシャツを取り出して着始めました。私も「ナイス・シャーツ!」と言葉を返しそこから会話が始まりました。聞けば翌日倉敷でシャンソンを歌うというのでコンサートかと思って聞き返したらそうではなく、天満屋倉敷店で開催中のイタリアン・フェアーで歌うとのことでした。

シャンソンを歌うというのでフランス人かと思ったのですが、モナコ生まれで当年60歳、パオロと名のり、在日40年の波乱に満ちた半生記を岡山空港に着くまでの小1時間興味深く聞かせてもらいました。

「バブル絶頂期のころ初めて日本に来て毎晩赤坂のコパカバーナでシャンソンやカンツォーネを歌っていたよ。ギャラのほかにお客さんが気前よくチップをくれるんだ、一晩で20万、30万になったよ。それが今じゃリヤン(nothing)! ゼロさ」。

「今は2度目の妻とのあいだに女の子がいて27歳になる。最初の妻とは出会ってすぐ結婚して、毎日ケンカしてすぐ別れた。お互い若すぎたせいだろう。今のとは平和だよ」。バブルのころ日本人ギャルがガイジンさんにまぶれついていた(岡山弁?)光景が目に浮かびます。

「ところで社長さんは何の仕事をしているんだい?」。「社長さん」という言葉にバブルの余韻があります。「両方とも90を過ぎた親の介護をしている。それで時々こうして東京へ息抜きに行ってるんだよ」。

「そうか、介護は金がかかるから大変だな。うちも女房の親の介護で金は出ていくばかりさ」。ラテン気質まるだしで右手をふところに突っ込んでは出し突っ込んでは出しして金が逃げていく仕草をします。

かつてコパカバーナでブイブイ言わせていた伊達男も昨日は長崎、今日は倉敷とギターを抱えて旅暮らし。「お互い今が正念場。がんばろうね」と言って別れました。

2011年6月9日木曜日

コーヒー

学生時代以来還暦をとうに過ぎた現在までわが人生で一貫しているのはコーヒーに対する度を過ぎた執着です。銘柄やいれ方にこだわる“通”なんかではなくインスタントでもおばちゃん喫茶のモーニングでも何でもOK。でもフレンチローストのような濃いコーヒーかエスプレッソがあればいっそうしあわせです。

1日に7、8杯飲むとしてこれまでの40年間で10万杯のコーヒーが貴重な時間とともに胃袋の中に流れていった勘定になります。

適度な量の酒は体によいというのが通説ですが、コーヒーはいったい体にいいのか悪いのか、もし悪いのならすでに相当健康を害しているはずですが胃腸はいたって快調。こころの健康にとっても必須です。

そんな楽観論を裏付ける研究が最近アメリカの権威ある医学誌に掲載されました。(Wilson, Kathryn : Journal of the National Cancer Institute, May 17, 2011)

論文の要旨は1日に1~3杯のコーヒーを飲む男性は前立腺ガンになるリスクが全然飲まない人に比べて30%減るというもの。しかも6杯飲んだらリスクが60%も減るというおよそ学術論文としてはにわかには信じがたい内容です。しかしコーヒー中毒の私には願ってもない朗報であることに違いありません。

今まで、過度のカフェイン摂取は本当は体によくないのではないかと密かに心配していたのですが、コーヒーには体に害をなす要素はとくにないばかりか中高年男性にとって一番の気がかりである前立腺ガンを予防するというのですからますます喫茶店通いに拍車がかかります。

むかしパリによく行っていたころかの地でもカフェは私にとって唯一快適な居場所でした。歩道にはみだしたテーブルでデミタスを飲みながら絵はがきを書くけだるい愉楽。とどのつまり、才能や名声、富に恵まれていようがいまいが人生の究極のしあわせとはこういう瞬間にあるのではないかといつも実感します。

今ふるさとの岡山に住んでいてほとんど毎日、ときには午前と午後の2回出かけるのが岡山市南区妹尾崎にある喫茶店ロッキーマックスです。マドモアゼルがいれてくれる1杯のエスプレッソ。すっかり忘れていた若き日のなつかしい記憶が次から次ぎへと脳裏によみがえってきます。閑雅な午後のコーヒータイムです。

2011年5月30日月曜日

我が青春のフレンチポップス : マリー・ラフォレ(3)

マリー・ラフォレはアメリカのフォークも英語で歌っています。フランス語で "h" は綴りがあっても発音しないのでときおり "ハ" が "ア" になったりします。冒頭の How many が “アウメニー”になっています。しかしその後は“ハウメニー”になっています。

風に吹かれて
http://www.youtube.com/watch?v=PUiGQfnCLSQ&feature=related

朝日の当たる家
http://www.youtube.com/watch?v=5ej-kK8-kTg&playnext=1&list=PLF65B84D24DDF589E

カントリーロード(フランス語)
http://www.youtube.com/watch?v=aE5ZWZTlTwE

我が青春のフレンチポップス : マリー・ラフォレ(2)

Marie Laforet - Cabastrero
マリー・ラフォレの高音がとても美しい曲です。カバストレロとはスペイン語で牛飼いのことかな?
哀愁を帯びたギターも効果的です。

http://www.youtube.com/watch?v=MiRqKaMZhGE&feature=related

Camino del llano viene
Puntero en la soledad (bis)
El cabastrero cantando, ay
Su copla en la madrugá (bis)

Ahó... a... a...
El toro pita la vaca
Y el novillo se retira
Como el novillo era toro
La vaca siempre lo mira
Mariposa, nube de agua

La luna busca la sombra
Y no la puede encontrar(bis)
Porque la sombra se esconde
Aaaa Detrás de la madrugá(bis)

Ahó... a... a...
No llores más nube de agua
Silencia tanta amargura
Que toda leche da queso
Y toda pena se cura
Lucerito nube de agua

Ya viene la mañanita
Cayendo sobre el palmar
Y el cabestrero prosigue
Con su doliente cantar

Ahó... a... a...
Mañana cuando me vaya
Quien se acordará de mi
Solamente la tinaja
Por el agua que bebí
Lucerito nube de agua

我が青春のフレンチポップス : ブリジット・バルドー(2)

「ハーレー・ダビッドソン」

ハーレーに乗っているとき
誰もいらない
ハーレーに乗っているとき
誰も目に入らない

道路でマシーンの振動を感じるとき
欲望が腰のくびれに向かって
突き上げてくるの・・・
http://www.youtube.com/watch?v=ai2As4XFZDY&feature=related

Harley Davidson

Je n'ai besoin de personn'
En Harley Davidson
Je n'reconnais plus personn
En Harley Davidson

J'appuie sur le starter,
Et voici que je quitte la terre,
J'irai p't'être au Paradis,
Mais dans un train d'enfer.

Je n'ai besoin de personn'
En Harley Davidson
Je n'reconnais plus personn'
En Harley Davidson

Et si je meurs demain
C'est que tel était mon destin
Je tiens bien moins à la vie
Qu'à mon terrible engin.

Je n'ai besoin de personn'
En Harley Davidson
Je n'reconnais plus personn'
En Harley Davidson

Quand je sens en chemin
Les trépidations de ma machine,
Il me monte des désirs
Dans le creux de mes reins

Je n'ai besoin de personn'
En Harley Davidson
Je n'reconnais plus personn'
En Harley Davidson

Je vais à plus de cent,
Et je me sens à feu et à sang,
Que m'importe de mourir
Les cheveux dans le vent !

Que m'importe de mourir
Les cheveux dans le vent !

我が青春のフレンチポップス : ブリジット・バルドー(1)


ヌーベルバーグ映画女優として有名なバルドーですがシャンソン歌手としても一流でした。レコードがたくさん残っていてこのごろコマーシャルでよく耳にします。
1968年私が早稲田に入った年ですが、Je reviendrai toujours vers toi. (いつも貴方のもとへ帰っていくわ)もこの年の作品です。バルドーのフランス語はとても美しく聞き取りやすいので当時ナマのフランス語に接する機会が少なかった私はバルドーのレコードを聞きながらフランス語を覚えました。

遠くに運ばれた波が
帰ってきては岩を打つように
なぜだか分からないけど
いつも貴方のそばへ帰っていく・・・

Comme la vague emportée
Revient battre le rocher
Je ne sais pas pourquoi
Mais je reviens toujours vers toi

Je me suis désenchantée
D'avoir voulu t'oublier
Je m'en veux chaque fois
Mais je reviens toujours vers toi

Tout ce que tu peux me reprocher
Je le sais
Je ne te demande pas ce que tu as fait
La nuit cache bien le jour
Qu'elle le fasse pour mon retour
Encore une autre fois
Car je reviens toujours vers toi

Qu'importe si au matin
Notre voyage prend fin
Je sais qu'au fond de moi
Je reviendrai toujours vers toi

Tout ce que la vie peut nous donner
Prenons-le
En ne pensant qu'à l'instant présent
Si tu veux

L'amour apporte l'amour
Tu vois déjà il fait jour
Je crois que cette fois
Je vais rester tout près de toi
Je vais rester tout près de toi

我が青春のアメリカンポップス : ナンシー・シナトラ

リー・ヘーゼルウッドとナンシー・シナトラの「サマーワイン」を覚えていますか?今はこんな渋い男もいけてる女も絶滅しました。

いちごとチェリーと天使のキス・・・そんなものでできているワインを女に飲まされて財布をすっかりやられたのね。残っている動画がまたすばらしい。
http://www.youtube.com/watch?v=mQiDs9tKZv4&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=Ib_eW9VSUwM
(NANCY):
Strawberries cherries and an angel´s kiss in spring
My summer wine is really made from all these things
(LEE):
I walked in town on silver spurs that jingled to
A song that I had only sang to just a few
She saw my silver spurs and said lets pass some time
And I will give to you summer wine
Ohh-oh-oh summer wine
(NANCY):
Strawberries cherries and an angel´s kiss in spring
My summer wine is really made from all these things
Take off your silver spurs and help me pass the time
And I will give to you summer wine
Ohhh-oh summer wine
(LEE):
My eyes grew heavy and my lips they could not speak
I tried to get up but I couldn´t find my feet
She reassured me with an unfamiliar line
And then she gave to me more summer wine
Ohh-oh-oh summer wine

我が青春のカンツォーネ : ペピーノ・ガリアルディ

“あの人は今?”芸人のヒロシのメロディで有名になりましたが、もとはこのナポリ生まれのペピーノ・ガリアルディのヒット曲。日本でもロードショー公開された「ガラスの部屋」(1969)の主題歌として使われました。

アルジェリアで働いていた学生時代(1972)、正月休みにアルジェから飛行機でローマに行きナポリのレコードショップでガリアルディのカセットを買いアルジェリアに帰ってからテープがすり切れるぐらい聞いていました。

「ガラスの部屋」Che vuole questa musica stasera (今宵この楽の音は何を求めているのか?)
主演のレイモンド・ラブロックは映画公開とともに日本でアイドルになりました。

http://www.youtube.com/watch?v=T30Iidel_6s&feature=related

「九月」(Settembre)もどうぞ。
http://www.youtube.com/watch?v=H0Srb7Qv4Qc&feature=related

Sempre, sempre(永久に君を愛す)
http://www.youtube.com/watch?v=J4HwNwxiJxA
canzone

va nel buio della notte
porta in giro un po' di azzurro
che hai rubato agli occhi suoi
canzone
sta piangendo anche la luna
e piove
tanta luce intorno a me
per sempre t'amero'
per sempre sognero'
tutto l'amore che
hai dato a me
io portero' con me
soltanto un po' di te
ma e' tanta la tristezza
che mi dai
parole
dei miei giorni piiu' felici
parole
che chi ama capira'
il tempo passera' ma
non cancellera'
i sogni che ho vissuto
insieme a te
sempre, sempre
non amero' che te
nella mia vita
orchestra
parole
dei miei giorni piu' felici
parole
che chi ama capira'
il tempo passera' ma
non cancellera'
i sogni che ho vissuto
insieme a te
sempre,
sempre
non amero' che te
nella mia vita...

我が青春のジャーマンポップス : ウド・ユルゲンス Udo Jurgens

1960年代、西ドイツにウド・ユルゲンスというシンガーが現れました。
「インドラ」 (下に原詩掲載)
http://www.myvideo.de/watch/8010364/Udo_Juergens_Indra

「メルシー・シェリー」
http://www.youtube.com/watch?v=1iaROib5Wb0

「夕映えの二人」(別れの朝)(Was ich dir sagen will)
http://www.youtube.com/watch?v=aNBclxqlU7Y
日本でもこの歌は有名になりました。



Heiß war der Tag,

von der Sonne durchglüht.
Heiß war mein Herz,
doch einsam und so müd'.
Da sah ich sie
und empfand das Glück,
denn ich sah INDRA!

Die Augen grün
und so schwarz ihr Haar!
Schön wie ein Traum,
dem sie entstiegen war,
der wie ein Lied
das Herz erfüllt,
und sie hieß INDRA!

Ich sah sie an
und sprach kein Wort.
Ich hatte Angst,
dann liefe sie mir fort.
Sie war so fremd,
doch so vertraut,
und sie hieß INDRA!

Dann kam der Tag,
ich mußte fort von ihr.
Ich sah sie an,
und ihr Blick sprach: "Bleib bei mir!"
Der erste Kuß
war auch der Abschiedsgruß,
für mich und INDRA!





2011年5月29日日曜日

我が青春のフレンチポップス : マリー・ラフォレ(1)

マリー・ラフォレがビートルズの名曲タイトルを織り込んだ素敵な歌を歌っています。「イエスタディの上に雪が降る」。下に歌詞を載せて置きます。ビートルズゆかりの固有名詞がたくさんちりばめられていますね。イエローサブマリン、ジュード、チェルシー、ジョンとポール・・・
http://www.youtube.com/watch?v=cHy3TrSv0a4&feature=related

ミック・ジャガー、オリジナルのPaint it black. のフランス語バージョンも素敵です。
Marie douceur, Marie colere. 「優しいマリー、怒りのマリー」というタイトルです。
http://www.youtube.com/watch?v=bbk-4MBkcPE&feature=related

「メリー・ハミルトン」
http://letras.terra.com/marie-laforet/1344088/


(イエスタディの上に雪が降る)
Il a neigé sur Yesterday le soir où ils se sont quittés
Le brouillard sur la mer s'est endormi et Yellow Submarine fut englouti

Et Jude habite seule, un cottage à Chelsea
John et Paul, je crois, sont les seuls à qui elle ait écrit
Le vieux sergent Pepper a perdu ses médailles
Au dernier refrain d'Hello Goodbye, Hello Goodbye

Il a neigé sur Yesterday le soir où ils nous ont quittés
Penny Lane aujourd'hui a deux enfants
Mais il pleut sur l'île de Wight au printemps.

Eleanor Rigby, vos quatre musiciens
Viennent séparément vous voir quand ils passent à Dublin
Vous parlez de Michelle, la belle des années tendres
De ces mots qui vont si bien ensemble, si bien ensemble

Il a neigé sur Yesterday le soir où ils se sont quittés
Penny Lane, c'est déjà loin maintenant
Mais jamais elle n'aura de cheveux blancs.

Il a neigé sur Yesterday, cette année-là, même en été
En cueillant ses fleurs, Lady Madonna
A tremblé mais ce n'était pas de froid

Il a neigé sur Yesterday, cette année-là même en été
En cueillant ses fleurs, Lady Madonna
A tremblé mais ce n'était pas de froid

Il a neigé sur Yesterday, cette année-là même en été
En cueillant ses fleurs, Lady Madonna
A tremblé mais ce n'était pas de froid

Il a neigé sur Yesterday...

お気に入り動画(1) キャットファイト

キャットファイトとはふつう女のケンカを意味します。
しかしここでは本物のキャットファイトをお見せしましょう。
http://www.youtube.com/watch?v=-CezNIRYYGY

BJ対コニャックの試合の結末はいかに?

2011年5月27日金曜日

昭和36年ごろの妹尾駅

 ときおり新聞の県内版に小さく“山陽線でオーバーラン”といった記事が掲載されます。列車が駅の所定位置に停止しなかったという“事故”を伝えるものです。こうした見出しを見るたびに岡山の中学校に列車通学していた50年前のことがなつかしく思い出されます。

 当時の宇野線妹尾駅では朝の通勤通学時間帯、今よりはるかに多くの人でホームはあふれかえっていました。そこへ4両編成の電車がやってくるのですが毎日のようにホームを行き過ぎてはまたバックします。

 連日オーバーランするので子供ごころに電車というものは行き過ぎないと止まれない構造になっているのかと思いこみそうになったぐらいです。しかしこの常習オーバーランに文句をいうお客など全然いませんでした。昨今、電車がオーバーランしたぐらいでいちいち新聞沙汰になるなんて今の運転士はちょっと気の毒な気がします。

 後年大学生になり東京郊外に下宿し、電車通学するようになって初めて電車はホーム所定の位置から3センチもずれることなくピタリと停止しなければならないものだと知りました。そういえば電車を待つ人が見事な行列を作って一糸乱れぬ動きをすることも東京で初めて知りました。

 昭和36年。宇野線にはまだ蒸気機関車が牽引する列車があり終点の大阪駅まで各駅停車で朝夕往復していました。そのころ米の流通は政府が厳重に管理していたのですが、闇米の担ぎ屋が毎朝妹尾駅のホームに3,4人いて大阪行きの鈍行列車に米袋を積み込んでいました。食い倒れの街大阪に闇米をタダで運ぶのはおいしい仕事だったのでしょう。

 担ぎ屋の腕の見せ所はわずかな停車時間のうちに何十もの米袋を客車に素早く積み込むことでしたので、彼らはあらかじめ列車の乗降口が来そうなところにねらいをつけ米袋をホームに積み上げてスタンバイ。

 ところが蒸気機関車の機関士の腕もなかなかのものでした。担ぎ屋のウラをかくために乗降口が米袋の山があるところから一番遠くになるように列車を停止させるのです。すると担ぎ屋のおじさんおばさん達は額から汗を流しながらドアまで重たい米袋を運んでいました。

 「ざまを見ろ!」と担ぎ屋を見下していた中学生の自分が今ではちょっと恥ずかしい気がします。

自家製キムチ


 大阪にいたころ精神的に落ちこんだり体調がしゃきっとしない日が続いたら決まって鶴橋のコリアン・マーケットに出かけました。キムチやイカの塩辛など韓国食材を買い込むとそれだけでパワーが出てくるのですから不思議なものです。

 岡山に帰ってからはスーパーのキムチをときおり買って食べるぐらいでしたがどうもいまいちパワー不足です。こうなったらそれらしきものを自分で作る以外ありません。

 本場、韓国でもキムチは家庭の味(おふくろの味)で家によって味や具材はいろいろだとか。何年かの試行錯誤の結果たどりついた私流のやり方はあまり手間がかからない上に美味だと自分では思っています。

 簡単に手順をご紹介しましょう。白菜は大きなものを1株用意します。根本から十文字に包丁を入れ4つ割りにして、カメに下漬けします。塩の量は翌日か翌々日には水が上がる程度でOK。重石はしっかりと。

 白菜が漬かるあいだに具を作っておきます。ここで役にたつのが市販の“キムチの素”です。どこのスーパーでも売っていますがメーカーによって塩分量に倍近く差がありますので要注意。塩分が少ない方のブランドが経験的にはお薦めです。塩辛さが勝つとトウガラシのうまみとからみが死んでしまいます。

 さて、市販の“キムチの素”はそれ自身完成された商品ですが、それだけではパワーが出るようなキムチにはならないのでリンゴやタマネギ、イカの塩辛、アミの塩辛、ニンニク、ニラ、セリなどを加えます。リンゴとタマネギは1個ずつすり下ろします。ニラやセリは3cmぐらいに切りそろえておきます。

 イカの塩辛はぜひ自家製で。鮮度のいいスルメイカ2杯を買ってきて胴体と足を細切りにしそこにキモを絞り出して混ぜます。塩は味見しながら適量加えて冷蔵庫へ。

 下漬けが終わった白菜は水に浸けて適宜塩出しします。さあここで一気に塩漬白菜がキムチに変身します。葉のあいだに上記具材を全部あわせたものをていねいに挟み込んでいきます。それを容器にきれいに詰めて冷蔵庫へ。2,3日もすれば生臭い塩辛や強烈なにおいのニンニクやニラなどが絶妙なハーモニーを奏でる自家製キムチの完成です。材料費を考えるととても贅沢な食品でパワーが出るはずですね。

2011年5月12日木曜日

正しい土下座

 このごろ土下座が大はやりです。福島の避難所を訪れた東京電力の清水社長に避難民から怒号が飛びました。「清水! 土下座して謝れ!」。すると社長以下幹部連中がそろって土下座している様子がテレビに映し出されました。エリート人生の頂点にあった清水社長がまさかこんな屈辱的な姿を天下にさらさなければならないとはこれも「想定外」の出来事に違いありません。

 東電社長に続いて今度は280円ユッケ食中毒事件を起こした焼き肉チェーン店の社長がパフォーマンス過剰の土下座をしていました。地べたに潜り込まんばかりのハデなアクションです。

 元来、土下座シーンなど見たくもない光景ですが今回2人の社長の土下座の仕方を見ていると微妙にスタイルが違うことに気付きました。いったいこの極めて日本的な「かたち」には確立された様式(美)があるのかどうか疑問に思いネットで調べてみました。

 よくできた動画サイトがありました。「日本の形」というシリーズでもともとは、お茶とか折り紙、宴会、鮨屋の入り方などを外国人に紹介するシリーズ作品がYouTubeに流れてきたもののようです。そのなかのひとつが「土下座編」で、ラーメンズというお笑いコンビがシリアスに演技しています。3分ほどの作品なので動画サイトでご覧になってください。可笑しくそして悲しくなること請け合いです。

 動画によると様式美は完成されたもので、①何かしでかす。②すがるような目で申し訳なさを表現する。③一気に5歩下がる…⑦頭を床上1センチのところまで一気に下げる。土下座した人が見せる背中の美しさが相手の慈悲のこころを誘う……。

マニュアルは続きます。頭を上げてからも気を許してはならない。涙は流すのではなく、涙ぐむ程度が効果的であり、本当は反省していないことが悟られないよう注意しなければなりません。そして相手が去ったあとでひざを払い、軽蔑を込めて唾を吐く……。以上があらましです。

とりわけ大切なのは最後の「軽蔑を込めて唾をはく」の部分です。土下座してしまった自分の自我、自尊心が傷つくのを防ぐためには必須の所作です。お立場ある方にはいつ何時東電社長の悲劇が訪れるか分かりません。必読のマニュアルです。

2011年4月22日金曜日

最後の花見

 メメント・モリというラテン語の警句があります。「死を思え、人は必ず死ぬ存在であることを忘れるな」という意味ですが、古来より人はそんなことは分かっているが自分が死ぬことなど考えたくもない、自分だけは何とかして死から逃れたい、不老不死の薬が手に入るならたとえ地の果て海の果てでも探しに出かけたものです。

 しかしそんな薬などこの世に存在しないことが明白になると人類は「あの世」を発明しました。多くの宗教は貧困、孤独、死別、病気など苦悩に満ちた現世に対し来世における輝かしい永遠の命と幸福を約束しています。

 ところが世の中にはそんな約束などまったく信じない種類の人がいます。満93歳の父は人工透析を受けながらやっと生きている状態なのに「あと30年は生きる」と宣言し、身近に死の影が浸潤してくるのを断固拒否しています。

 親不孝者の私はそんな父に死を思い起こさせるような嫌味ばっかり言っています。病院へ行く途中満開の桜を横目で見ながら「お父さん、『願はくは花の下にて春死なん、そのきさらぎの望月のころ』(西行、山家集)のような風雅な心境になりませんか?」などとからかってみると父はさっと顔を曇らせます。

 世のお年寄りはある程度の年齢になると本心かどうかは分かりませんが「早くお迎えにきてほしい」などという言葉を家族の前で聞こえよがしにつぶやくものです。ところがわが父はそんなセリフは口が腐っても言いません。

   とはいえ、父はせっかくの長寿を日々楽しんでいるようすもありません。週3回透析に行く以外家から出ようともしないし、最近ではテレビも飽きてきたらしく、食べることと寝ること以外これといったこともしないで暇をもてあましています。

   例年、桜が満開になる4月と晩秋の紅葉のころには、私も息子としての義務のようなものにつき動かされて父を桜や紅葉の名所までドライブに誘っています。「お父さん、今日は天気もいいし花見に行こう!」と言ったら父はボソッとつぶやきました。「最後の花見か……」。

   「お父さん、“最後の花見”とはまた急に弱気になったね」と心配になって声をかけたら「今年最後の花見という意味じゃ」と叱られました。

2011年4月14日木曜日

田舎・ことばおじさん

 NHKの“ことばおじさん”(梅津正樹アナ)ではないけれど世の中には気になる言葉がいっぱいあります。しかし気になるからといって必ずしもそれらが間違いかというとそうでもなかったり、単なる世代間の感覚の相違だったりで、自称“田舎・ことばおじさん”の悩みは尽きません。2,3例示してみます。

1.繋ぐ(つな)ぐ、繋げる

高校野球のインタビューなどでよく耳にするのが、「繋ぐ、繋げる」です。「今日の勝利を明日の試合に繋げたい」と勝ったチームの主将はほぼ例外なく同じセリフで答えていますが、とにかく中・高校生スポーツマンは繋ぐのが大好き。「きょうの試合に勝てたことがうれしい、明日もがんばります」などと言うのは幼稚でかっこ悪いのでしょうか。

 2.(勇気を)与える

 これもスポーツインタビューでよく聞く言葉です。「自分がサッカー(野球、ゴルフ…)で活躍することで被災者に勇気と感動を与えたい」などというのを聞くたびに「与える」とは一体何事ぞ、お前は何様のつもりか、と田舎・ことばおじさんのアンテナがぴくぴくします。もちろん「勇気を与える」と言っている人に悪気はないのですが、その言葉に高いところから人を見下しているニュアンスや押しつけがましさを感じないのでしょうか?

 広辞苑によれば「与う」とは「①自分のものを他人に渡してその人のものとする。やる。②(影響・効果などを)受けさせる。蒙らせる」となっています。ありていに言えば「犬に餌をやる」の「やる」です。

 ではお前ならこんな場合どう言うのか? と問われればこれがまた簡単じゃない。そもそも「与える」という言葉に対応する尊敬語、ていねい語は存在しないのではないか? もしそうだとしたら「勇気を与える」に代わる適切な表現・言い回しを見つけなければなりません。

 そんなおりふと美しい言葉がテレビから聞こえてきました。被災地で家族も生活の場も何もかも失った人に向かってその若者は言いました。「勇気や希望をもっていただけたらと思います」と。

スポーツ選手だったか地場産業の経営者だったかよく覚えていませんが、「願わくば被災地の方々のお役に立ちたい」という謙虚な言葉におじさんはとても感動しました。

2011年4月9日土曜日

カチカチ山の狸

 今回の東日本大震災は世界中の人々に衝撃を与えました。特に福島原発に関しては大気中や海に放出した放射能汚染物質がアメリカをはじめ各地に拡散している証拠結果が出てきて、彼らは効果的な対策がとれない日本に対し大変危惧し、また不信感を増大させています。

外国のなかでもとりわけ神経をとがらせているのはアメリカ、フランス、ロシア、中国などの核大国です。いずれの国も第2次大戦終了直後から1960年代にかけて原爆や水爆実験を繰り返した国であり、特に米国とロシアは悲惨な原発事故を経験しています。

そうした国々が今回の事故を当事国の日本以上に深刻に受け止めているのはおそらく彼らは原爆実験や原発事故の本当の恐ろしさを知っているからではないでしょうか。つまり直接の被害だけでなくその後何十年と追跡調査した結果出てきた恐るべき被害実態に照らし合わせて福島の現在と将来をきわめて悲観的に捉えているからに相違ありません。

一方、日本政府は水や農産物から検出される放射能、大気中の放射能数値に対して「ただちに健康に影響する数値ではない」という決まり文句をこだまのように繰り返し、われわれもなんとなく痛くもかゆくもない放射能汚染を「大したことはない」と思いこんでいます。

4月最初の終末、鎌倉と東京に出かけました。桜やボタンが満開になるなか、初夏のような古都鎌倉の参詣道を歩いていたら素敵なカフェが見つかりました。カフェで出された涼しげな水を飲んだらたちまち「水道水に些少の放射能毒が入っていてもどうってことはない」という心境になりました。

新宿や渋谷は相変わらずのにぎわいでした。ただ街が暗く駅のエスカレーターが休止しているのが多少不便なくらい。要するに東京では日常生活が営まれているのですが、今でも多くの国の大使館は関西に疎開したままだし、鎌倉でも東京でも外国人観光客が少ないことに、彼我の原発事故に対する温度差を感じます。

「今すぐ岡山からドイツに引っ越してこい」と心配してくれるドイツの友人には「西日本は大丈夫、Im Westen nichts Neues(西部戦線異状なし)だよ」と返事を書きました。彼らには日本人はカチカチ山の狸に見えているに違いありません。

2011年4月4日月曜日

生涯学習

 昔は学生と言えば二十歳前後の若者と相場が決まっていました。ところが日本も成熟社会になって生涯学習が定着し今ではどこの大学でも社会人や定年退職組学生が教室の前の席に陣取り年若い先生の講義を本職の学生より熱心に聞いています。

 ただ私自身まだ若かったころ、かなりの年配の人たちがなぜまた大学なんかに出かけて勉強するのかピンときませんでした。「人生、他にすることはないのか?」などと冷ややかな目で見ていたものです。

ところが妙なことに自分自身還暦を過ぎて体力的にも頭脳的にも限界を感じ始めたころから、昔勉強し損ねたことをそのままにして死ぬのは心残り、という気がしてきてまだ思考力があるうちに難解な本を読んだり新しい外国語に取り組もうという気になってきました。老いと死が現実のものになってきたからでしょう。

しかし若いころ2回も大学に行った経験を振り返ってみて大学というところは実に効率の悪い教育機関であることが身にしみて分かっています。同じ過ちを3度犯すにはもう年を取り過ぎているので私なりにやり方を考えてみました。一番いいのはかつて齧っても歯が立たなかった本を読み返すこと。例えば、世界的に著名な言語哲学者、井筒俊彦先生の「意識と本質」(岩波文庫、1991)。

この本は単に難解なのではなく華麗に難解であることが最大の魅力で死ぬまで読んでも飽きないでしょう。こうした古典の名著のありがたいことは1冊読むことで同様のレベルの本を100冊読んだのと同じ効果があり大変時間の節約になります。

読書とならんで頭脳活性化に有用なのは超一流の人の話を聞くこと。最近、牛窓の喫茶店(てれやカフェ)で文芸学の権威で国語教育界の重鎮、西郷竹彦先生の石川啄木と宮沢賢治に関する連続講義(全8回)を聴講する機会に恵まれました。

当年91歳の西郷先生は最先端の文芸理論を駆使して、毎回3時間の長丁場を飽きさせることなく、啄木や賢治の作品にまったく新たな光を当てて現代に生き生きと甦らせます。

そこには“生涯学習”などという変に気取った言葉でくくられるようなうそっぽい真面目さなんか入り込む余地はありません。先生は生涯現役の学者にして言葉の魔法使いなんですね。次回は夏目漱石の奥処を見せてくれるとのことです。

中国企業に思う

東日本大震災の影響で3月27日に就航予定だった中国のLCC(格安航空)、春秋航空の高松・上海便の開設がキャンセルになりました。私は就航を見越して予約開始と同時に上海便の切符を購入していたのでとてもがっかりでした。

ところが就航キャンセルを発表した2,3日後「予定通り就航する」というニュースが流れ、さらに今度は「就航は4月に延期」とめまぐるしく方針が変わっていきます。予約したのは4月1日の上海行きの便であと1週間もありません。いったいどうなっているのか春秋航空の茨城支店に電話してみました。

そもそも高松空港発の便を飛ばすのに高松に支店を置いてなく、こちらからコンタクトを取るのがとても困難です。予約済み客に対しメールによる案内もないし、「まったくケシカラン、電話で文句を言ってやろう!」 しかし何度かけても話し中でなかなか埒があかなかった末にやっとつながった茨城支店の中国人スタッフは明るく「ニーハオ!」。早くも戦意喪失です。

 1回目にかけたときは、「4月1日は飛ぶからキャンセルしなくていい」でした。しかし空港を管理する高松空港事務所に聞いてもフライトに関して何の情報もないとのことで、私はまた茨城支店に電話しました。

 「ニーハオ、あなたの選択肢は二つです。ひとつはキャンセル、もうひとつは旅行日程を日延べすることです。4月1日に飛ぶかどうかは分かりません」。まもなく4月というのに会社の方針が不明なのです。恐るべきいいかげんさ! 一事が万事これでは墜落事故でも起こした日には最低限の補償も最初から望み薄でしょう。

 しかしながら私は中国企業のこのいいかげんさ、おおざっぱさ、信用など気にもとめない体質、なによりも実利本位に徹したやり方に感嘆しています。皮肉でもなんでもなくこういう資質(?)こそ日本人にいちばん欠けていると思われるのです。

 中国のLCCに対し、全日空もかなり以前から格安便を飛ばすといいながらなかなか実現しません。きっと何から何まできちんと用意万端整え、複雑な政府の許認可を得るために膨大な資料を作成しているのでしょう。これでは春秋航空のように片道3千円からという最高のユーザーサービスは実現不可能です。

2011年3月15日火曜日

“計画停電”

阪神大震災の記憶もまだ薄れてないのにそれをはるかに上回る東北関東大震災の惨状を見てことばもありません。神戸の場合は地震直後から救援と復興が始まりました。しかし今回の震災では福島県の原発が次々とコントロール不能に陥るという信じがたい事態を引き起こし、政府の対策本部は地震と津波による被災者対策に専念できない状態です。

そこへもってきて東電は電力不足を回避するために“計画停電”なる暴挙にでました。夜になって突然明日から計画停電すると通告された東電サービスエリア内の住民の驚きと混乱はいかばかりかと想像されます。

数時間後には始発電車を走らせるはずの鉄道事業者、器械で生命を維持している患者をかかえている病院はもちろんのこと、すべての人にとって停電の宣告にはお手上げだったに違いありません。

私の母は気管切開をしているので2,3時間ごとに痰を吸引しないと窒息死します。今までは停電と言えば雷が落ちたときほんの2,3分電気が止まるぐらいのものと軽く考えていましたが、これからは本気で非常時の電源確保を考えないといけないと痛感しました。

東電の場合、電力の不足は1千万キロワットで需要の25%に相当するそうです。深刻な事態ではあるけれど、地震や原発事故対策に忙殺される政府・自治体に余計な負担をかけず、また市民生活や企業活動を混乱させないだけの知恵がなぜ東電にないのでしょう。

例えば電気使用量を前月比で25%減らすよう目標を設定し、それをオーバーした利用者にはペナルティとして割増料金(税)を課す、とでもしたら賢く良識ある国民はその人に合ったやり方で節電するはずです。いきなりの停電ではどうしようもありません。

大地震、大津波、原発事故と今回の災害は神戸震災に比べトリプルの規模になりました。そこにもってきて首都機能のマヒです。原発事故と停電に関し枝野官房長官がたびたび記者会見に応じていますがまるで東電のスポークスマンの観があります。

枝野氏が原発問題に対し不眠不休で奮闘していることはよく分かります。しかし目下の官房長官の急務は何万もの行方不明の人の捜索と50万の被災者救援に陣頭指揮を執ることではないでしょうか。

2011年3月11日金曜日

あえかな名前


いつのころからか日本の安全神話は崩れ去り、殺人事件がない日がないような状況になりました。今では月並みな殺人事件を報じる新聞記事など目にも留まりません。しかし3月3日、ひな祭りの夜、熊本のスーパーから行方不明になった3歳の女児が翌日遺体で発見されたというニュースには心が痛みました。

私はこうした事件が報じられるといつも最初に被害者の名前に注目します。今度の事件では心(ここ)ちゃんという愛らしい名前の幼女が犠牲になりました。

この子が産まれたとき両親はどこの親もするとおり、かわいらしくユニークでおしゃれな名前を考えたに違いありません。平凡な名前や時代遅れの名前、またタレントの名前を借用したことがすぐわかるようなものは避けようという配慮もあったでしょう。しかしたいていの場合イメージ先行で漢字は半ば当て字です。心愛(ここあ)なども同工異曲。

日本には昔から言葉に宿る霊の存在(言霊)にとりわけ気を使ってきた歴史があります。保元の乱の後、讃岐に流され怨霊となった崇徳天皇は最初からそうなるように運命づけられていたのではないか、「崇徳」の「崇」の字に不吉なにおいがある、ウかんむりの部分を上下ひっくり返すと「祟」になるではないかと作家、井沢元彦は力説しています。

長年子宝に恵まれなかった豊臣秀吉はようやく生まれた長男に「鶴松」というめでたい名前をつけたものの夭折されてしまい、次男の秀頼には「拾丸」という幼名を付けました。

拾い子は育つという俗信を頼りにいったん我が子を捨ててすぐ拾い戻したのです。けれども運命の神はそういう人間の小細工なんぞ難なく見抜きます。立派に成人した秀頼も結局は徳川勢に破れ母淀君と自刀して果てました。

名前が運命を決めるのか、運命は名前と関係なく最初から決まっているのか分かりませんが、犯罪の被害者になった少女たちはどこかはかない名前の子が多いような気がします。

実例を挙げるのは不謹慎かもしれませんが、彩、花、菜、音などの字がついた少女たちが犠牲になるたびに「またか」と思います。単にそういうあえかなイメージの名前がこのごろの子供に多いせいでしょうか? 悪霊に目をつけられないためにはありきたりで平凡な名前が一番です。

2011年3月5日土曜日

関東平野と“魔の山”

 2月末、夜行バスで東京に行きました。朝9時に新宿に到着したものの用事がある夕方5時まで時間はたっぷり。その日は月曜日だったので美術館や博物館はどこも休館で行くあてもないまま西武新宿駅から本川越行きの急行電車に乗りました。

 埼玉県川越市は小江戸と呼ばれ近年観光名所として脚光を浴びている町です。蔵造りという独特の家並みがよく保存され、東京では見られない江戸の雰囲気を今に伝えています。(観光所要時間は2、3時間程度)

 川越に限らず関東平野に散在する小都市へはどこも電車で1、2時間で行けますが沿線のだだっぴろい散文的な風景を見ていると何故か二度と帰ってこられないような遠い場所に出かけている錯覚におちいります。

 学生時代、東京には5年間住みましたが岡山育ちの私には広漠として捕らえどころのない関東平野の空気が苦手でまちがっても休日に奥多摩、秩父や北関東の山々を散策しようなどという気にはなれませんでした。

 岡山市のように町全体が京山、東山、芥子山、笠井山、金甲山といった低山で囲まれているところでは晴れの日でも雨の日でも東西南北が常にはっきり分かり、決して方向感や距離感を失うことはありません。

 このことは単に車を運転していて道を間違えないですむといった実用的な面だけでなくそこに住む人々の精神的支えにもなっているはずです。岡山平野で生まれ成長した人は人生において滅多に道を踏み外すことがないかわり冒険心に欠けているのはおだやかで心優しい風景に包まれて育ったからに違いありません。

 さて再び東京周辺の風景に戻りますが、関東平野の行き着く果てには筑波、赤城、妙義、榛名、浅間、秩父などの山がそびえています。いずれも関東を代表する日本の名山です。

 しかし、なぜかこうした山の名前はいつも凶悪事件とセットで耳に入ってきます。連合赤軍リンチ殺人事件、あさま山荘事件、連続幼女殺害事件、カルト集団事件などここ40年ほどの間に関東で起きた凶悪事件の犠牲者たちは決まってこれらの山の麓に埋められていました。

 先頃、連合赤軍リンチ殺人事件の主役だった永田洋子死刑囚が獄死したとの記事が新聞の片隅に小さく載りました。事件が風化するどころか時間が止まってしまった遺族たちにとって群馬の山々は依然として“魔の山”であるに違いありません。
                             榛名山と榛名湖

2011年2月26日土曜日

ジャスミン革命

チュニジアに端を発した長期独裁政権打倒の動きは瞬く間にエジプト、リビア、イエメンなどに飛び火し、ついには中国の民主化運動にまで火が着きそうな勢いになりました。私が1971年から72年にかけて約半年滞在したアルジェリアでもデモが起きています。

71年当時のアルジェリアはフランスから独立してまだ10年も経ってなく、悲惨な独立戦争を戦い抜いたものの片足を失った人や浮浪児などがたくさんいました。日本人の顔を見たら「1ディナール(70円)頂戴」と声をかけてくる子供達。そんな彼らに私が通訳として働いていた石油精製プラントの日本人エンジニアが説教を垂れました。

「アルジェリアは独立国だろう?独立国の国民は誇りを持たなくちゃ。他人にお金をねだるのは恥ずかしいことなんだよ」と。エンジニアは小さな男の子をやさしく諭していました。

「子供に、独立国の国民は誇りを持て、なんて言ったところでそもそも独立国って何のことかこの子には理解できないだろうな」、私は冷ややかにコトの成り行きを見ていたのですが、はたして少年はキョトンとした顔をして相変わらず「1ディナール頂戴」と手を出していました。

そんな子供たちとは対照的にプラントの発注者である国営炭化水素公社の幹部候補生たちは明治維新の官僚のようにみな若くフランスやイギリスの大学で身につけたエリート風を吹かしていました。人が話しかけてもニコリともしない人種。洋の東西を問わず高級官僚はだれもが同じ無表情の仮面をかぶっています。

2011年春、40年が経ちあの子供たちももう中年のおじさんになっているでしょう。たぶんずっと日の当たらない人生を送りながら。

私が働いていた建設中のプラントはいったん稼働しだしたら建設費は2、3年でペイすると当時教えられました。しかし巨大プラントが生み出す莫大なオイルマネーは底辺のアルジェリア人民を潤してはいません。だからこそ隣国のネット革命に人々が共鳴したのではないかと遙か遠い日本から心配しています。

 まもなく地中海沿岸の果てしない大地は赤、白、黄色の花で覆い尽くされます。中東全域のジャスミン革命がハッピーエンドに終わることを祈らずにはおられません。