2011年4月22日金曜日

最後の花見

 メメント・モリというラテン語の警句があります。「死を思え、人は必ず死ぬ存在であることを忘れるな」という意味ですが、古来より人はそんなことは分かっているが自分が死ぬことなど考えたくもない、自分だけは何とかして死から逃れたい、不老不死の薬が手に入るならたとえ地の果て海の果てでも探しに出かけたものです。

 しかしそんな薬などこの世に存在しないことが明白になると人類は「あの世」を発明しました。多くの宗教は貧困、孤独、死別、病気など苦悩に満ちた現世に対し来世における輝かしい永遠の命と幸福を約束しています。

 ところが世の中にはそんな約束などまったく信じない種類の人がいます。満93歳の父は人工透析を受けながらやっと生きている状態なのに「あと30年は生きる」と宣言し、身近に死の影が浸潤してくるのを断固拒否しています。

 親不孝者の私はそんな父に死を思い起こさせるような嫌味ばっかり言っています。病院へ行く途中満開の桜を横目で見ながら「お父さん、『願はくは花の下にて春死なん、そのきさらぎの望月のころ』(西行、山家集)のような風雅な心境になりませんか?」などとからかってみると父はさっと顔を曇らせます。

 世のお年寄りはある程度の年齢になると本心かどうかは分かりませんが「早くお迎えにきてほしい」などという言葉を家族の前で聞こえよがしにつぶやくものです。ところがわが父はそんなセリフは口が腐っても言いません。

   とはいえ、父はせっかくの長寿を日々楽しんでいるようすもありません。週3回透析に行く以外家から出ようともしないし、最近ではテレビも飽きてきたらしく、食べることと寝ること以外これといったこともしないで暇をもてあましています。

   例年、桜が満開になる4月と晩秋の紅葉のころには、私も息子としての義務のようなものにつき動かされて父を桜や紅葉の名所までドライブに誘っています。「お父さん、今日は天気もいいし花見に行こう!」と言ったら父はボソッとつぶやきました。「最後の花見か……」。

   「お父さん、“最後の花見”とはまた急に弱気になったね」と心配になって声をかけたら「今年最後の花見という意味じゃ」と叱られました。

2011年4月14日木曜日

田舎・ことばおじさん

 NHKの“ことばおじさん”(梅津正樹アナ)ではないけれど世の中には気になる言葉がいっぱいあります。しかし気になるからといって必ずしもそれらが間違いかというとそうでもなかったり、単なる世代間の感覚の相違だったりで、自称“田舎・ことばおじさん”の悩みは尽きません。2,3例示してみます。

1.繋ぐ(つな)ぐ、繋げる

高校野球のインタビューなどでよく耳にするのが、「繋ぐ、繋げる」です。「今日の勝利を明日の試合に繋げたい」と勝ったチームの主将はほぼ例外なく同じセリフで答えていますが、とにかく中・高校生スポーツマンは繋ぐのが大好き。「きょうの試合に勝てたことがうれしい、明日もがんばります」などと言うのは幼稚でかっこ悪いのでしょうか。

 2.(勇気を)与える

 これもスポーツインタビューでよく聞く言葉です。「自分がサッカー(野球、ゴルフ…)で活躍することで被災者に勇気と感動を与えたい」などというのを聞くたびに「与える」とは一体何事ぞ、お前は何様のつもりか、と田舎・ことばおじさんのアンテナがぴくぴくします。もちろん「勇気を与える」と言っている人に悪気はないのですが、その言葉に高いところから人を見下しているニュアンスや押しつけがましさを感じないのでしょうか?

 広辞苑によれば「与う」とは「①自分のものを他人に渡してその人のものとする。やる。②(影響・効果などを)受けさせる。蒙らせる」となっています。ありていに言えば「犬に餌をやる」の「やる」です。

 ではお前ならこんな場合どう言うのか? と問われればこれがまた簡単じゃない。そもそも「与える」という言葉に対応する尊敬語、ていねい語は存在しないのではないか? もしそうだとしたら「勇気を与える」に代わる適切な表現・言い回しを見つけなければなりません。

 そんなおりふと美しい言葉がテレビから聞こえてきました。被災地で家族も生活の場も何もかも失った人に向かってその若者は言いました。「勇気や希望をもっていただけたらと思います」と。

スポーツ選手だったか地場産業の経営者だったかよく覚えていませんが、「願わくば被災地の方々のお役に立ちたい」という謙虚な言葉におじさんはとても感動しました。

2011年4月9日土曜日

カチカチ山の狸

 今回の東日本大震災は世界中の人々に衝撃を与えました。特に福島原発に関しては大気中や海に放出した放射能汚染物質がアメリカをはじめ各地に拡散している証拠結果が出てきて、彼らは効果的な対策がとれない日本に対し大変危惧し、また不信感を増大させています。

外国のなかでもとりわけ神経をとがらせているのはアメリカ、フランス、ロシア、中国などの核大国です。いずれの国も第2次大戦終了直後から1960年代にかけて原爆や水爆実験を繰り返した国であり、特に米国とロシアは悲惨な原発事故を経験しています。

そうした国々が今回の事故を当事国の日本以上に深刻に受け止めているのはおそらく彼らは原爆実験や原発事故の本当の恐ろしさを知っているからではないでしょうか。つまり直接の被害だけでなくその後何十年と追跡調査した結果出てきた恐るべき被害実態に照らし合わせて福島の現在と将来をきわめて悲観的に捉えているからに相違ありません。

一方、日本政府は水や農産物から検出される放射能、大気中の放射能数値に対して「ただちに健康に影響する数値ではない」という決まり文句をこだまのように繰り返し、われわれもなんとなく痛くもかゆくもない放射能汚染を「大したことはない」と思いこんでいます。

4月最初の終末、鎌倉と東京に出かけました。桜やボタンが満開になるなか、初夏のような古都鎌倉の参詣道を歩いていたら素敵なカフェが見つかりました。カフェで出された涼しげな水を飲んだらたちまち「水道水に些少の放射能毒が入っていてもどうってことはない」という心境になりました。

新宿や渋谷は相変わらずのにぎわいでした。ただ街が暗く駅のエスカレーターが休止しているのが多少不便なくらい。要するに東京では日常生活が営まれているのですが、今でも多くの国の大使館は関西に疎開したままだし、鎌倉でも東京でも外国人観光客が少ないことに、彼我の原発事故に対する温度差を感じます。

「今すぐ岡山からドイツに引っ越してこい」と心配してくれるドイツの友人には「西日本は大丈夫、Im Westen nichts Neues(西部戦線異状なし)だよ」と返事を書きました。彼らには日本人はカチカチ山の狸に見えているに違いありません。

2011年4月4日月曜日

生涯学習

 昔は学生と言えば二十歳前後の若者と相場が決まっていました。ところが日本も成熟社会になって生涯学習が定着し今ではどこの大学でも社会人や定年退職組学生が教室の前の席に陣取り年若い先生の講義を本職の学生より熱心に聞いています。

 ただ私自身まだ若かったころ、かなりの年配の人たちがなぜまた大学なんかに出かけて勉強するのかピンときませんでした。「人生、他にすることはないのか?」などと冷ややかな目で見ていたものです。

ところが妙なことに自分自身還暦を過ぎて体力的にも頭脳的にも限界を感じ始めたころから、昔勉強し損ねたことをそのままにして死ぬのは心残り、という気がしてきてまだ思考力があるうちに難解な本を読んだり新しい外国語に取り組もうという気になってきました。老いと死が現実のものになってきたからでしょう。

しかし若いころ2回も大学に行った経験を振り返ってみて大学というところは実に効率の悪い教育機関であることが身にしみて分かっています。同じ過ちを3度犯すにはもう年を取り過ぎているので私なりにやり方を考えてみました。一番いいのはかつて齧っても歯が立たなかった本を読み返すこと。例えば、世界的に著名な言語哲学者、井筒俊彦先生の「意識と本質」(岩波文庫、1991)。

この本は単に難解なのではなく華麗に難解であることが最大の魅力で死ぬまで読んでも飽きないでしょう。こうした古典の名著のありがたいことは1冊読むことで同様のレベルの本を100冊読んだのと同じ効果があり大変時間の節約になります。

読書とならんで頭脳活性化に有用なのは超一流の人の話を聞くこと。最近、牛窓の喫茶店(てれやカフェ)で文芸学の権威で国語教育界の重鎮、西郷竹彦先生の石川啄木と宮沢賢治に関する連続講義(全8回)を聴講する機会に恵まれました。

当年91歳の西郷先生は最先端の文芸理論を駆使して、毎回3時間の長丁場を飽きさせることなく、啄木や賢治の作品にまったく新たな光を当てて現代に生き生きと甦らせます。

そこには“生涯学習”などという変に気取った言葉でくくられるようなうそっぽい真面目さなんか入り込む余地はありません。先生は生涯現役の学者にして言葉の魔法使いなんですね。次回は夏目漱石の奥処を見せてくれるとのことです。

中国企業に思う

東日本大震災の影響で3月27日に就航予定だった中国のLCC(格安航空)、春秋航空の高松・上海便の開設がキャンセルになりました。私は就航を見越して予約開始と同時に上海便の切符を購入していたのでとてもがっかりでした。

ところが就航キャンセルを発表した2,3日後「予定通り就航する」というニュースが流れ、さらに今度は「就航は4月に延期」とめまぐるしく方針が変わっていきます。予約したのは4月1日の上海行きの便であと1週間もありません。いったいどうなっているのか春秋航空の茨城支店に電話してみました。

そもそも高松空港発の便を飛ばすのに高松に支店を置いてなく、こちらからコンタクトを取るのがとても困難です。予約済み客に対しメールによる案内もないし、「まったくケシカラン、電話で文句を言ってやろう!」 しかし何度かけても話し中でなかなか埒があかなかった末にやっとつながった茨城支店の中国人スタッフは明るく「ニーハオ!」。早くも戦意喪失です。

 1回目にかけたときは、「4月1日は飛ぶからキャンセルしなくていい」でした。しかし空港を管理する高松空港事務所に聞いてもフライトに関して何の情報もないとのことで、私はまた茨城支店に電話しました。

 「ニーハオ、あなたの選択肢は二つです。ひとつはキャンセル、もうひとつは旅行日程を日延べすることです。4月1日に飛ぶかどうかは分かりません」。まもなく4月というのに会社の方針が不明なのです。恐るべきいいかげんさ! 一事が万事これでは墜落事故でも起こした日には最低限の補償も最初から望み薄でしょう。

 しかしながら私は中国企業のこのいいかげんさ、おおざっぱさ、信用など気にもとめない体質、なによりも実利本位に徹したやり方に感嘆しています。皮肉でもなんでもなくこういう資質(?)こそ日本人にいちばん欠けていると思われるのです。

 中国のLCCに対し、全日空もかなり以前から格安便を飛ばすといいながらなかなか実現しません。きっと何から何まできちんと用意万端整え、複雑な政府の許認可を得るために膨大な資料を作成しているのでしょう。これでは春秋航空のように片道3千円からという最高のユーザーサービスは実現不可能です。