2011年11月26日土曜日

早くも年の瀬に

なんだかあっという間に年の瀬です。今年は東日本大震災と原発メルトダウン、紀伊半島の台風禍と天災、人災がうち続き天皇の病気入院までありました。私の家でも秋に父が体調不良になり、10月ごろ入院しました。94歳という年齢を考えるとじり貧のまま、退院することなく終わるのではと思っていたのですが、ひと月ほど病院暮らししたあと元気になって家に帰ってきました。

それでも、だんだん寂しさに絶えられなくなってきたのか、私が台所や書斎にいると幼児が母親を呼ぶように、5分おきぐらいに呼ぶので往生します。年老いていろんな条件や制約から、自宅で家族といっしょにいようが施設にいようが病院にいようが、老人になるということはどうしようもない寂寥感にさいなまれるということのようです。

こうしてみると長生きが絶対的にいいわけではなく、若くして死ぬことが絶対的な喪失かというとそうでもない面があるような気がします。
しかしホーキング博士(Stephen William Hawking, 1942年1月8日-)が「来世があるなどというのはおとぎ話にすぎない」と言っているように、たぶん、おそらく、100%死語の世界などというものは存在しないでしょう。そういう意味では苦しくても生きているうちが花だと思います。

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天皇の病気が意外に深刻なのではないかという憶測からまた皇室典範を変えようという話が持ち上がってきました。男系男子にこだわるのなら徳川大奥ではないけれど側室制度を復活させる以外問題解決の方法はありません。(NHK大河ドラマの見過ぎ?)

ついでにデヴィ夫人の「皇太子廃嫡署名運動」などというけったいな週刊誌記事もありました。皇太子一家バッシングはだれにでもできることですが、よりによってなぜデヴィ夫人がこういうセンシティブな問題に立ち上がったのかよく分かりません。ちなみに彼女の本名は根本七保子。女性はすごいですね。名前も運命も自力で変えていくのですから。
http://ameblo.jp/dewisukarno/day-20111115.html

2011年11月22日火曜日

甘柿、渋柿、苦い柿


今年は寒波の襲来が遅く、11月下旬になってやっと朝晩冷え込みがきつく、日中も晴天下、空っ風が吹くようになりました。干し柿づくりに絶好の季節です。まだ大気の中に晩秋のぬくもりが残っているとき柿を干すとカビがきて失敗します。

しかし我が家の干し柿ができるのを心待ちにしているのは人間様ではなく野鳥とネズミたちです。父は腎不全でカリウムの多い柿は禁忌、私は糖質制限ダイエットの最中で糖質のかたまりの果物はほとんど口にしません。

そんな食べもしない干し柿なんか命がけで梯子に登り、徹夜で皮むきしてまで作ることはないのですが、柿の実を木の上に放置しておくとカラスがつつきに来て食べ残しをベチャベチャ道に落としていくし、腐った柿の実が自然に落ちて学校帰りの小学生でも直撃したらおおごとです。

数年まえの大豊作の年にも柿の処分に困って動物園の猿や象に食べてもらおうと甘柿を段ボール2箱に詰めて持っていったのですが、動物園にしてみればその程度の量の柿などありがた迷惑だったようで、以後動物園に持ち込むのは自粛しています。

さらに昔の苦い苦い柿の思い出。まだ大阪の大学図書館で働いていたころ、週末岡山に帰り収穫した柿をリュックサック一杯詰め込んで大阪に持ち帰ったことがあります。重さにして10数キロあったでしょう。新大阪駅で満員の地下鉄に乗り換え、重たいリュックを「よいしょ」と網棚に乗せた……はずだったのに、あろうことかリュックはスローモーションの軌跡を残しながらそのままドスっと座席に座っていた着物姿の中年女性の頭の上に落ちました。

なんと棚には金属製の横棒はあったのにそこだけ網が張ってなかったのです! 平身低頭謝罪を繰り返す私に周囲の乗客達の嘲笑と忍び笑いが聞こえてきて穴があったら入りたい思いでした。おばちゃんはカンカン。「あんた、電車、降りてんか!」。

病院、警察、慰謝料…と最悪の展開を覚悟しました。ところがです、私の職業を聞かれたので「xx大学で働いています」と答えたら、なぜかほんのり、おばちゃんの顔から怒りが緩み「あら、xx大学なの。まあ今日のことはええわ」と無罪放免してくれました。このときほど我が職場の名前に感謝したことはありません。

2011年11月19日土曜日

赤壁賦


中国古典のふるさと武漢にわずか4時間ほど滞在しただけですが、そこで得たインスピレーションは大きく、高校時代の漢文の教科書をひっぱりだして読み返しています。熟年になって昔訳もわからず習っていたことを読み返すのも楽しいものです。

高校時代に習った漢文に蘇軾の「赤壁賦」というのがありました。「前赤壁賦」、「後赤壁賦」と二つのパートに分かれていて、時期的には「前」が7月、「後」が三ヶ月後の10月に書かれています。ともに友人を誘って長江の赤壁(三国志の赤壁ではなく少し位置が違う)で徹夜で飲酒・船遊びをしたようすを賦(文章の形式)にしたものです。

漢文の時間に先生の解説を聞きながら、「この詩はすばらしい!」と感激に浸ったことが昨日のことのように思い出されます。とりわけ気にいったのは、前赤壁賦ではここの部分、

客に洞簫を吹く者有り。

歌に倚って之に和す。

其の声嗚嗚然として、怨むが如く慕うが如く、泣くが如く訴うるが如し。

余音嫋嫋として、絶えざること縷の如し。

幽壑の潜蛟を舞わしめ、孤舟の婦を泣かしむ。
                                        りふ
蘇子 愀然として襟を正し、危坐して客に問うて曰く、何為れぞ其れ然るや。
(蘇子愀然正襟、危坐而問客曰、「何為其然也。」)

(以下省略)

一番最後の行の、「何為其然也。」(なんすれぞ、それしかるや)という言葉の使い方が非常に凝っているというか哲学的でさすがは中国という気がし、40数年間頭の奥にこびりつくように記憶していました。

日本語に直訳すると、「どうしてそうなのですか?」になり、アリストテレスの「本質」to ti en einai (それは元来、何であったのか、ということ)を彷彿とさせます。内容的にも前赤壁賦では、月は満ちたり欠けたりするが月そのものがなくなることはない、などとアリストテレス的世界観そっくりです。

この難解な表現「何為其然也。」は前赤壁賦の文脈に沿って言えば、客の笛の音が「怨むがごとく、慕うがごとく、泣くがごとく、訴うるが如く、余韻嫋々(じょうじょう)として、絶えざること糸のようだ」であることに対し「どうしてそんなにも悲しい音色で奏でられるのか!」と感嘆の声を上げているような意味だと思います。

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「後赤壁賦」は「前赤壁賦」の形而上学的雰囲気から一転し、深夜、切り立つ崖を蘇子ひとりロッククライミングしたようなことが書かれています。船遊びに出かけた経緯と鶴のビジョンを見たなど宇宙的な感覚とリラックスした雰囲気が渾然一体となって素敵です。

酒のサカナ(文字通り魚が捕れた!)が手に入り、そこにもってきて出来のいい奥さんが、「あなたが急に酒が要るということもあろうかと思って一斗樽を用意しておきましたよ」と機嫌良く亭主を船遊びに送り出してくれたので、蘇軾は客とまた赤壁に出かけます。一晩ドンチャン騒ぎをして寝込んでいたら、鶴がクァーと鳴いて飛んでいくビジョンを見る。すると夢のなかに道士がでてきて「赤壁之遊樂乎」(赤壁の遊びはたのしかったですか?)と問う。蘇子(蘇軾)が「あなたはいったい誰ですか、もしかしてあの鶴ですか」と尋ねたら道士は笑って去っていった、という結末です。

私にもだれか尋ねてくれないかな? 「上海之遊樂乎」。(上海での遊びは楽しかったですか?と)

2011年11月18日金曜日

「B型はなぜか、お腹が痛い…」


サナダムシを恋人とし彼女たちを自分のお腹のなかに飼ったことがあるユニークな免疫学者、藤田紘一郎先生がまたまたトンデモ本を上梓しました(三五館、2011)。いやトンデモ本というのはいわれなき中傷で、先生によると血液型は人間の免疫システムと密接な関連があるとのこと、いわゆる「血液型占い」などとは一線を画すもの、だそうです。

先生が特に関心をもっているのはB型の血液型で、B型は腸が弱く、サルモネラ菌や大腸菌に対する抵抗力がほかの型の人に比べ劣っていて、お腹をこわしやすい。このことは科学的に実証されているそうですが、私自身、幼少期から大学を出るころまですぐに下痢してガリガリにやせていたことが思い起こされます。

独創性に優れる反面、好き嫌いが激しく気まぐれ、協調性がない、追い込まれないとやる気がでない、などいわゆるB型性格も免疫学的に説明がつくそうです。そして、そもそもこうしたB型のルーツは一ヶ所に定住しない遊牧民に由来し、定住農耕民に多いきちょうめんでゆうずうがきかないA型はB型の最大の天敵だと先生は力説します。

実際問題、私には2歳年上の兄がいますがA型の兄はまさに私の天敵です。親の介護をめぐって兄は手抜きなどしたくてもそんな才覚はなく、応用動作や機転をきかすことがまったくできません。寝たきりの母の部屋が乾燥するのを防ぐために加湿器をおいていますが、雨の日でも加湿器がフル稼働しています。

母に飲ます薬も、兄は医者の処方どおりきちっとしていますが、私は母の体調を見て日によっては薬の量をさじ加減することがあります。私の行動は兄にすれば「正気の沙汰とは思えない」ということになります。

天敵A型のことはともかく、B型のルーツは果てしない大草原を疾駆する遊牧民です! 介護生活に息が詰まり、年中「旅に出たい」とため息をついている私ですが、深夜少しでも時間があると意味もなく車を走らせて夜明けの宍道湖を見ては満足し朝帰りしたりします。

夢は蒙古かチベットか、この次中国に行くときは、上海からウルムチあるいはチベットのラサまで延々50時間の列車旅行をしたい、「遊牧民の血が騒ぐ」、などとすぐにその気になってしまうところは典型的なB型の思考・行動パターンですね。

秋の珍味2種


 1.マコモタケ

台湾や中国の秋の食材のひとつにマコモタケがあります。濃厚な中華料理の中でマコモタケを使った一品はあっさり味で季節感たっぷりのヘルシー食材です。このマコモタケ、その親は日本を含む東南アジアの湿地帯でごくふつうに見られるマコモというイネ科の大型水生植物であり、この植物にクロホ菌が感染すると茎が膨らんで柔らかくなることに昔の中国人が目をつけたものです。

 しかし世界の珍味が集まる日本でなぜかあまり話題にならないこのマコモタケ、最近村おこしの特産品としてあちこちで栽培・販売されているらしいことをネットやテレビの地元情報番組で知って以来その存在が気になっていました。

先日たまたま立ち寄ったブルーラインの「道の駅」一本松展望園で地元産のマコモタケをついに発見! よく太ったものが4,5本入りで300円と珍味にしてはお安く早々購入しベーコン巻にしてバターでソテーして食べました。いくらでも食べられそうな秋の味覚でした。生でも食べられるぐらいクセのない食材で炒め物や天ぷらにしてもいいそうです。

2.珍果ポポー

北米原産で明治期に日本に導入された温帯落葉果樹のポポーですが、昭和30年代ある種、ポポーブームのようなものがあり農家の門先などによく植えられていました。

初夏、大きな葉っぱが広がるとまもなく紫色の花を咲かせ、やがて9月ごろにはアケビに似たポポーの実が熟します。その味は、人いわく、バナナとマンゴーをミックスしたような甘くとろけるトロピカル味! 珍しい果物なので、昔の人はポポーのことをわざわざ“珍果ポポー”と呼んでいました。

インターネットの通販サイトを見ると日本中でひとつかふたつの果物商が9月限定で生のポポーを販売しています。しかし今やどこのスーパーでもいろんな熱帯果樹があふれています。ミカンや柿しかなかった子供時代に胸が高鳴った“バナナとマンゴーのミックス味”という殺し文句はすっかり威光を失い、めんどうな通販にまでは手が出ません。

それでも庭に優美なポポーの木があればそれだけで庭がエキゾチックな趣を帯びてきます。庭先に実るポポーは今でも十分“珍果”と呼ばれるだけの存在感があります。 

中国鉄道体験記

  10月に続いて11月初旬再び中国を訪れた際、内陸の武漢(武昌駅)から長沙まで約300キロの距離を鉄道で移動しました。

長い行列の末やっとたどりついた切符売り場窓口で「長沙まで1枚」というと「指定席は売り切れです、立ち席ならあります」というので立ち席切符を購入しました(54元=700円)。座席は1列3-2の5人がけで通路が狭く立ち席といってもつかむところもありません。

女性車掌が「奥に詰めろ」と客に命令する様はまさにプロの技。しかし庶民は強い。キップ切りのハサミを車両ボディーにカンカン叩きつけながら「入口に立ち止まらんと奥まで詰めんかい!」と怒鳴る女性車掌のど迫力にも乗客は知らん顔です。

車内はもちろん、トイレ前、デッキ、連結部まで人がいっぱいで押し合いへし合い、そこへ弁当売り、飲料水売り、果物売り、土産物売りのカートが入れ替わり立ち替わりやってきます。そのたびに私はつま先立ちになり腹を引っ込めてカートをやりすごさなければなりませんでした。

そんな混んだ車内でも乗客はみんなハッピー、高揚した旅行気分がこちらにも伝わってきます。網棚もカバンや運び屋の荷物でいっぱい。さすがに生きた鶏を持ち込んだ人はいませんでしたが、よく太った上海蟹が20匹ほど詰まったネットの周りには見物人が集まりカニの足をつついたりしながらの大賑わいでした。

老いも若きもよく食べ、よくしゃべり、よくケータイ(?)。弁当だけでは足りず次々とカップ麺を袋から取り出しては人ごみをかきわけデッキまでお湯をそそぎに行きます。

おばちゃんが何やらごそごそカバンから取り出したものは昔なつかしい魚肉ソーセージ。なかなか取れない包装フィルムをガシッと歯で食い破りラーメンに投入。豪快です。またたくまに車内はゴミの山と化し、トイレラッシュが続きます。

沿線は三国志の赤壁、洞庭湖、「岳陽楼に登る(杜甫)」の岳陽、屈原が身投げした泪羅(べきら)と中国屈指の名勝・旧跡が連続する区間ですが、外の風景よりも車内で繰り広げられる人間劇場に飽きることがない5時間でした。中国パワーのみなもとはあの偉大な食欲から発していることは間違いありません。終着駅の恵州までまだ700キロ残し、夕闇迫る長沙駅で列車を降りました。

バンコク冠水


タイの洪水はますます勢いを増し、ついに首都バンコクも広範な地域で冠水が始まったようです。ほとんど海抜ゼロの真っ平らなバンコクでは洪水は、日本のように降った雨が鉄砲水になって襲いかかるのではなく、じわじわ町全体を浸潤してきます。こうなってはじたばたしても逃げようがありません。

実際、洪水に襲われているバンコク市民の日常風景をテレビで見ると、たくましいというか肝が据わっているというかおよそ日本では考えられないような光景です。

屋台で食事をするいつもの見慣れた光景、でもよく見るとお客も料理を作っている店の人もすねから下は水に浸かっているのです。川の泥水に生活排水がミックスした不潔な水、養魚場から逃げ出した魚やエビが泳いでいそうな水に足を浸けながらよくものんびり飯なんか食えるなと感心します。

しかし長引く洪水に対して有効な対策を取れないインラック政権に市民の不満は爆発寸前。が、そもそもタイの洪水は何も今に始まったことではなくもともとチャオプラヤ川のデルタ地帯にできた巨大都市にとって水問題は第一の政策課題であるにもかかわらず今まで有効な手立てをしてこなかった歴代政権の失政によるものであることは明らかです。

かつてバンコクの市街地にはベネチアのように運河が縦横に走っていました。小さな船が交通の主要な手段であり、人々も半水上生活に適応していました。これなら少々洪水がきても水が自然に引くのを待っていればよかったのです。ところが現在ほとんどの運河は埋め立てられ、市街地は排水機能を失いました。夕立の雨さえすぐに行き場を失って道にあふれてきます。

今年は日本でも東日本大震災では広範な地域が巨大津波に流され、また秋には台風にともなう大雨によって紀伊半島に大きな被害がでました。それでも日本は古来、治山、治水を国是としてきた甲斐があって今バンコクで起きているような事態に国民が苦しめられるようなことはまずありません。

岡山でも洪水被害者に対する募金活動が始まりましたが、日本がタイにできる最大の援助はこれまで日本が培ってきた高度な治水技術のノウハウを資金とともに提供することではないでしょうか。

ILLサービス

   図書館のサービスのひとつにILL(Inter Library Loan)というのがあります。図書館間相互協力のことで、探している本や雑誌記事が近くの図書館で見つからない場合、全国の公共図書館、大学図書館間で資料を貸し借りして利用者に提供するサービスです。

この制度は昔からあることは知っていましたが、このたび県立図書館で初めて利用してみました。探していたのはもう何十年も前私が高校を卒業するころ公開されたオードリー・ヘップバーン主演の「いつも二人で」という映画の原作シナリオです。1967年にイギリスで出版されたシナリオはとうのむかしに絶版になっていて買うこともできません。

そこで全国の大学図書館の所蔵データが検索できるWEBCAT(総合目録データベース)を検索したら何と日本で唯一、大阪大学附属図書館にこの本があることが分かりました。もちろんこうした検索は近くの図書館に行くなり電話するなりして司書の方に「こういう本を探しているのですが」と依頼すれば快く探してくれるのですが今はインターネットでだれでも簡単に探すことができます。

さて、阪大にあることが分かったシナリオですがここで威力を発揮するのがILLサービスです。さっそく県立図書館に電話をかけてみました。「大学図書館が貸し出しに応じてくれるかどうかは確約できませんが…」という前置きがあったものの、一週間ほどで「到着しました」という電話をいただきました。よかった!

閲覧が図書館内に限定されたらちょっと困るなと思ったのですが、貸出しもOKということで今その本は私の手元にあります。図書館が機械化する以前は本の裏表紙の内側に貸出し記録用紙が貼ってあり誰が借りたか一目了然だったのですが、届いた本は一度も貸し出された記録がありません。阪大の書庫で半世紀近く寝ていたこの本の最初のそしてたぶん最後の読者が岡山に住んでいる退職市民であることにも感激です。

それにしても図書館のサービスはすごい。日本に一冊しかないような貴重な本を借りるのに契約書も誓約書も手数料も要求しないのですから。このありがたいサービスが成り立つのは図書館間の信頼、図書館と利用者の信頼関係があってのことはいうまでもありません。ILLは奇跡のサービスだと思います。

物忘れを超えて

  山陽新聞のちまた欄に「物忘れは知識多いせいか」というなかなか含蓄ある投稿が掲載されていました(2011.10.12)。

78歳になる筆者、片山さんによると、歳をとって物忘れがひどくなるのは果たして単純に老化現象と言ってしまっていいものか、長い人生でため込んだ知識が膨大すぎて取り出すのに手間取っているだけではないか、その点若者がすっと答えを出すのは失礼ながら知識のストックが少ないから、だと理屈をつけておられます。

これを読んで私は自分に当てはめて納得すると同時に最近のパソコンがまさにこれといった気がしました。数百ギガバイトのハードディスクにため込んだ雑多なデータから必要なものを取り出そうとするとパソコンは熱を出して動かなくなったり、頼みもしないのに勝手に通信回線を通じて外部と連絡を取り合って広告を割り込ませたり、セキュリティに問題があるなどと指摘してきて肝心の仕事はちっともはかどりません。

30年前、パソコンがとても若かったころ彼らは本当に自分の手足のように忠実に働いてくれました。今のパソコンがまるでパソコン自身に意思があり、人格を獲得したかのように勝手なふるまいをして持ち主の気分を害するのとは大違いです。

しかし機械も人も歳をとっていきます。パソコンが制御不能なデータで身動きならなくなってきたように私自身歳月とともに脳に刻んだ膨大な知識を生活に生かすために取り出すことが難しくなってきました。そればかりか古くて役にたたない知識でいっぱいになった脳は新たな知識が進入してくることを頑強に拒み老化は確実に進行していきます。

老化というのっぴきならない事態にどう対処したらいいのか、それが問題。ひとつにはガラクタ知識を捨てること。脳の奥深くにこびりついている記憶や概念を捨てるのは簡単ではないかもしれません。しかし少なくとも「自分は何も知らない、これは始めて体験することだ」という意識を持つことによって既知のことも未知のこととして感動できるようになるのではないでしょうか。

もうひとつは実際に未知の国を訪ね未知の人々に出会うこと。私にはこれが一番性に合っています。過去を捨て旅に出ること。遅くなり過ぎないうちに、と思います。