2013年12月15日日曜日

(号外)ターナー展でのハプニング

先日上京したとき上野の東京都美術館で開催中のターナー展を見ました。チケットを買うために美術館の窓口に並んだとき“事件”が発生しました。

窓口は1,2,3,4と4列分(5列?)ぐらいあるのですが、開いていたのは2と3の二つでそれぞれ相当長い行列ができていました。3番窓口の列に並んで、あと5,6人で買えるというときになって、係員が「1番窓口を開けますので、前の人から全体的に右(1番)方向にずれてください」と言いました。

右の列の人が1番にずれたので隙間ができ私は2番列に「流れた」のですが、すると同じぐらいの年代のオバハンが「割り込みしないで!」と後ろから大きな声で怒るのです。ムカッときて(大人気ないことです)、オバハンに「割り込みちゃうわ、あんた、係りの指示ぃ聞かなんだん?」と言い返したものの、「そないなこと言われなあかんのなら元の列に戻るわ、ほんま腹立つ!」と言って3番に。そしてオバハンを見たら何とオバハンは1番の列に流れてもうチケットを購入しているではありませんか。殺意を感じたわ。

***

ターナーはジョン・コンスタブルと並んでイギリスを代表する画家で、風景画や嵐に翻弄される船の絵なんかが日本人の嗜好にあいファンが多いと思います。1970年代初めにロンドンのテート・
ギャラリーを訪ねたときはお客もほとんどいなくてゆっくり鑑賞できました。宗教画にいささか食傷気味になっていたので、ターナーやコンスタブルの風景画にほっとしたものです。その後テート・ギャラリーはテート・ブリテンとテート・モダンに別れました。ナショナル・ギャラリーを含め入館料無料でした。今でも無料のようです。文化大国ですね。

そんなことを思い出しながら絵を見ていたら先ほどのオバハンとのバトルが悲しくなってわずか15分で都立美術館を後にしました。ターナー展としては空前の規模なので見応えがありましたが、他の英国画家の傑作も少し混ぜてくれていたらいいのになと思いました。(12月18日まで開催中)

2013年12月14日土曜日

中学生の社会体験

 夫婦で高級メロンを通年栽培している河口君は小学校の同級生です。朝10時半ごろ、私が両親の朝の介護を終えていつもの喫茶店に休憩に行くと、河口君夫妻も温室での重労働からリフレッシュするためにコーヒーを飲みにやってきます。

幼なじみとたわいのない話で盛り上がるのは楽しいものですが、お互い65歳を過ぎればパッとした話題はなく、やれ介護に疲れただの重油価格が高騰し大変だのと愚痴の披露合戦になるのは致し方ありません。

ところが先日喫茶店に入ったら大きな丸テーブルに河口夫婦と中学生の男の子2人が座っていました。聞いてみると今時の中学校のカリキュラムにはいろんな職場で社会体験をする科目があるらしく、この中学生たちはメロン栽培農家での体験学習を希望したとのことでした。

私も同じテーブルに着いたもののふだん中学生と話す機会がなく何をしゃべったらいいのかドギマギしました。彼らはクリームがたっぷり乗ったカフェラテを飲んでいたのですが、ふと思って「君たち、この店のケーキはとびっきりおいしいよ、オジサンがおごってあげるけどどのケーキがいい?」と声をかけたら素直にチョコレートケーキをリクエストしました。

手作りのチョコケーキを一口食べた途端中学生は「ウメー!」と感嘆の声を発し、一瞬にして大きなケーキが皿から消えました。私たち大人は飲み物だけ飲んでいたのですが、喫茶店のマドモアゼルが気を効かせて我々にもハーフサイズのチョコレートケーキを出してくれました。

まだ食べ足りなさそうな中学生の前でケーキを食べるのは酷かなと思い「これも食べる?」と聞いたら「はいッ!」と答えてパクリ。私はと言えば中学生の4倍もの年月を生きてきて今やケーキぐらいじゃ感動できない体質になってしまった……。

中学生たちは4日間、温室のガラス掃除などいろいろ体験し、毎日高級メロンを腹一杯食べさせてもらって大満足で社会体験を終えたそうです。中学生たちのお世話から解放されて河口君夫婦もやれやれだったようですが話には続きがありました。

何とその中学生たちは実習はもう終わったのに後日自主的に手伝いに(遊びに?)きてメロンを食べて帰ったそうです。彼らにはとてもオイシイ社会体験だったようです。
 
(河口メロンの通販はこちらから)
 

初冬の日光


 暮れに東京まで出かけたついでに栃木県日光を訪ねてみました。学生時代に一度行ったことがありますが、有名な陽明門も華厳の滝も何ひとつ記憶になく、初めての観光地に出かけるようなわくわくした気持ちで東武鉄道の特急電車に乗りました。

 日光駅に到着したとき金髪の白人青年が地図を見ながら思案顔をしていたので話しかけてみました。大学生のヴィタリー君、極東ロシアからきたそうです。東京にマリコという彼女がいるそうで、マリコさんは仕事があるので昼間一人で鎌倉や日光を観光しているとのことでした。

 “旅は道連れ”、いっしょに日光東照宮、華厳の滝、中禅寺湖を巡ることにしました。ロシア人青年がきらびやかな陽明門を見たら腰を抜かすかな、などと思いつつ東照宮に到着。しかし何たるチア!陽明門は6年に渡る大修理が始まったばかりで白いシートに覆われていました。でも他の建造物も東洋のバロックの名に恥じない華麗な装飾が施してあって2人とも大満足でした。

 華厳の滝を見たあとそば屋に入り親子丼を注文。西洋人は取っ手がついたカップ以外の食器は決してテーブルから持ち上げてはならないとしつけられているので、テーブルの上の親子丼相手に箸で格闘しています。ここは日本式食べ方の手本を示さなくちゃ。「こうやってどんぶりを手に持って箸でかき込むんだよ」。「あっ、本当。とてもおいしい」と感激してくれました。

 “マリコはいつも「ダメダメ、恥ずかしい」と言うんだ。なぜ日本の女の子はみんな抵抗してみせるの?”と、どんぶりをかき込みながらロシア人青年がたずねてきます。どうやら公園など人前でキスしようとするとかなり抵抗されるらしいのです。

いちいちの段階でダメダメと言うくせに結局は拒絶しない大和なでしこ特有の振る舞いは日本で遊んでいる外国人には有名な話ですが、日本滞在2週間のヴィタリー君には謎であり新鮮な驚きだったようです。
 そんなたわいもない話をしながら中禅寺湖の渚を散策していたらあっという間に夕日が男体山に沈んでいきました。神々しいまでに美しい光景でした。別れる前に私が日光は気に入ったかとたずねたらロシア語で「オーチン・ハラショ!」と答えていました。ロシア人青年にとっても日光は大変結構だったようです。

2013年11月27日水曜日

天皇陛下と宮殿

  ここ十数年、皇室トピックと言えばいいにつけ悪いにつけ雅子さまをめぐる話題が中心だったような気がします。ところが秋の園遊会で山本太郎参議院議員が天皇陛下に突然手紙を渡すという前代未聞の珍事が発生し、不敬であるとして山本議員に対する懲罰や天皇の政治利用に関してさまざま議論されました。

この秋、庶民でもあまり考えたくない自分の葬儀や埋葬に関して両陛下ご自身が質素かつ現代にあわせたスタイルでやってほしいと発言され大きなニュースになりました。

そして明るい話題としてはケネディ米国大使着任にともなう馬車行列と信任状捧呈式がありました。宮殿正殿・松の間での伝統と様式美に彩られた国事行為をテレビを通じて垣間見ることができました。

山本議員の手紙事件はまったくほめられた行為ではありません。別に園遊会のような特別な席でなくても型が決まった行事の最中での唐突でぶしつけな行為はそもそもマナー違反ですが、まるで火の手があがるように山本議員の軽率な行為に対し議員辞職まで迫る非難の嵐が起きたのは行き過ぎだと思いました。

この事件がどのように決着が付くのかなと思っていたら、任期中は皇室行事への参加禁止という訳の分からない処分で火が消えました。なぜ強硬な懲罰要求が引っ込んだのかというと、私の想像ですが、山本議員あてに刃物が入った郵便物が届いた事件があり、陛下が議員のことを心配されているというニュースが伝わったからではないかという気がします。人間的に暖かく、深い思慮と無私の思いやりにあふれた方を陛下としていただいていることを奇跡のようにありがたく感じました。

天皇の存在は我々が普段意識している以上の恩恵を日本にもたらせているのはいうまでもありません。それなのに国事行為の本丸、「宮殿」なるものがなぜあのように質素なのでしょう?外国の新任大使も「宮殿」と聞いて出かけたのに家具調度品ひとつない板の間が「正殿」だったとはびっくり仰天ではないでしょうか。

伊勢神宮も驚くほど簡素な建物であることを考えるとあのシンプルさこそ日本をよく表現しているといえなくもないのでしょうが、せめて迎賓館(旧赤坂離宮)クラスの宮殿を皇居に置いてもバチは当たらないのではないかと思います。

2013年11月14日木曜日

ザワークラウト

  テレビ番組でコンスタントに視聴率が取れる定番に料理番組があります。イケメンタレントが実現不可能な凝った料理を作ったり、うるさい大阪のおばはんが講師の横から機関銃のように口を挟んだり、3分とか5分というわずかな時間でたちまちよだれがでそうなごちそうができるものなどいろいろ。

でも残念なことにテレビを見ながら真似して作ってみたいと思っても材料が複雑すぎたり、何を何グラムとメモしなければどうにもならないものばかり、もっぱら目で楽しみ忘れます。ところが最近たまたまチャンネルを回していたらNHKの「きょうの料理」でドイツ名物ザワークラウトの作り方をやっていました。

講師は日独ハーフの門倉多仁亜(かどくらたにあ)さん。料理はやはり本場の人から習うのが一番です。ザワークラウトは“酸っぱいキャベツ”という意味でキャベツを乳酸発酵させたドイツを代表する漬け物ですが、これにソーセージとビールがあったら文句なし。梅干しとおにぎり並の相性の良さです。レシピは超簡単、すぐ覚えられました。

材料: キャベツ1個、塩はキャベツ重量の2%、ローリエ1枚、ジュニパーベリー3粒(あれば)、キャラウェイシード少々とのことです。

ここで“はて?”と思われる方が多いと思われるのがジュニパーベリーでしょう。日本ではあまりなじみのないものですが、洋酒のジンの香り付けに使われる松ヤニっぽい香りの香辛料です。デパートでもなかなか取り扱っていません。

ところがこれは実は日当たりのいい近場の里山のどこにでも生えている針葉樹の実。和名「ネズ」です。岡山では「モロウ」とか「モロ」と呼ばれ、私が子どものころはこの木を切ってきてクリスマスツリーにしたものです。ジュニパーベリーがどこにでもあることを知っているのは不肖、私ぐらいのものではないかとちょっと得意気な気分です。

荒く刻んだキャベツに塩をして上記材料を加え重石をして暖かい部屋で3,4日発酵がすすむのを待ちます。静かにホツホツと泡立ちながら発酵してたちまち本場のザワークラウトが完成です。おいしい! キャベツ2個で作ったのにすぐに食べ尽くし、今度は4個、大きな瓶(かめ)で作りました。「ソーセージとビールをこれに持って参れ!」と独り言。

安全神話よ、いつまでも

 昔から日本は“安全と水はタダ”と言われてきました。水道水はたしかに有料ですが1立方メートルの水が1リットルのミネラルウォーターより安いのですからタダ同然。これが中国などへ行くと何はともあれコンビニを探して2リットルとか4リットル入りのミネラルウォーターを買い求め、飲料はもとより歯磨きにも気を配らなければならないので大変な労力とコスト負担になります。

 これに反し“安全”の方は日本でもずいぶん高くつくようになりました。至るところ監視カメラが設置してあり、警備保証は成長著しい産業になりました。しかし、それでも日本は訪日観光客が驚き、感激するぐらい安全が保たれている社会であることには相違ありません。

 日本でふつうに暮らしていて、空港以外の場所で持ち物をチェックされることなど経験したことがありませんが、これが一歩外国に踏み込むとそうでもありません。上海やバンコクの地下鉄改札口にはエックス線透視装置が設置してあって、始発から終電まで、係員のおじさんやおばさんからバッグやリュックを装置に通すよう指示されます。

地下鉄ですらこの調子でセキュリティチェックをされ、うっとうしいことこの上ないのですが、長距離列車が発着する上海駅などでは一段と厳しいチェック体制がとられています。駅がまるで空港のような構造になっていて、切符をもっていない人はそもそも駅構内に入れません(切符売り場と駅構内は完全に分離されています)。

乗客は列車の行き先ごとに待合室に入れられ、列車がホームに入ると係員の誘導でホームに移動して指定の車両に乗車する仕組みです。列車が出たあとホームには人っ子ひとり残っていないことを確認して次ぎの列車が入ってきます。

もし日本の新幹線で上海並に荷物検査なんか始めたら5分おきに列車を出すことなど到底不可能になり鉄道による高頻度・高速大量輸送体制が成り立たなくなります。けれども本当は危ない。でも知らんぷり。
爆発物や危険な化学物質が入った荷物が網棚に放置されているかもしれないのにひたすら安全神話にすがって運行されている日本の新幹線。おそらく何か起きないかぎり今の便利で自由な乗車システムは維持されるでしょう。安全神話よ、永遠に。

2013年11月4日月曜日

菅原道真あれこれ

“菅公学生服”(岡山市)は学生服のトップメーカーでその歴史は大正時代にさかのぼるそうです。私が中学生だったころ(昭和30年代)も“菅公”とか“カンコー”というロゴの看板をよく見かけました。「カンコーって何だろう? 変な名前だなあ」などとその摩訶不思議なブランド名をいぶかったものですが、それが菅原道真にあやかった名前だったことに気づいたのはずいぶん後年になってのことです。

 菅公すなわち学問の神様の名前を学生服のブランド名にしたのはなかなか気がきいています。政治家として、学者として、また詩人として才能がありすぎたために不遇な最後を遂げた悲劇の人。死した後いったんは怨霊として恐れられたもののその後一転神様に祭り上げられた日本史の中でも最大級の卓越した人物。

 天神様、菅原道真はおよそ上記のような経歴で知られ、ちょっと堅いイメージがあるのですが、道真が残した膨大な量の漢詩を読むととてもみずみずしい感性の持ち主で千年以上も昔の人とは思えません。『菅家文草』という漢詩集にこういう七言詩(部分)があります。

 紈質何為不勝衣
 謾言春色満腰囲 (春娃無気力)

紈(しらぎぬ)なす質(かたち)の何せんとてぞ衣(ころも)に勝(た)えざる
謾(いつわ)りて言えらく春の色の腰の囲りに満てりと

この2句の意味はおよそ次のようになります。

舞姫たちのすべすべ肌は薄衣さえ耐えられないように見えるのは何故?
春の気が彼女たちの腰のまわりにまとわりついているからだと? 嘘おっしゃい!

(つまり)
スケスケ衣装の舞姫たちがこの上なく色っぽいのは、春の陽気のせいですか? いいえ(彼女達が発散させるフェロモンのせいです)……などと超訳すると身も蓋もありませんが、平安時代初期、すでに道真は現代フランス象徴詩に匹敵する詩を大量に残していることはもっと知られていいと思います。

 話変わって、10年ほど前まで「とうりゃんせ……、天神様のお通りじゃ」の曲が大阪で盲人用信号に広く使われていました。私は当時の磯村大阪市長あてに「こんな暗くて脅迫的な短調の曲は盲人用信号に使うな、ピッポーにせよ」という主旨のメールを出しました。メールを出したことすら忘れたころ大阪の信号が「ピッポー、ピッポー」に変わりました。万歳!

* * *

道真のこの詩は唐の詩人、白居易の『長恨歌』の影響を受けているものと思われます。

 春寒賜浴華清池(chi)
 温泉水滑洗凝脂(zhi)
 侍兒扶起嬌無力(li)
 始是新承恩澤時(shi)

   春まだ寒いころ、華清池の温泉を賜った。
 温泉の水は滑らかに白い肌を洗う。
 侍女が助け起こすとなよやかで力ない。
 このとき初めて皇帝の寵愛を受けたのであった。

高等学校の漢文の授業で先生は次のように解説されました。
「楊貴妃がお湯からあがろうとしたときぐったりして力が入らなかったのは、何も温泉で湯当たりしてのぼせたからではないよ」(先生はその後国士舘大学教授になられた)

この華清にある温泉は今でもお湯が出ているそうです。西安には行ったことがないのですが、一度はその温泉や兵馬俑博物館を訪れてみたいと願っています。
(写真は華清宮。楊貴妃の像が史跡のイメージをぶっ壊しています)


2013年10月24日木曜日

食材偽装と食品公害事件



ホテル阪急インターナショナルといえば大阪を代表する高級ホテルです。ところがこのホテルだけでなくグループ傘下のレストランで供されていた料理に多種多様の偽装食材が使われていたことが判明しました。

解凍魚を鮮魚として供するのはまだ序の口、トビウオの卵をレッドキャビア(マスの卵)と偽る、ふつうの白ネギ、青ネギを京都名産の九条ネギと詐称、既製品のハンバーグは手捏ねハンバーグに変身。商道徳云々以前にこの企業の品のなさ、危機管理能力のなさにあきれます。

高級ホテルのレストランは家族や友人と気軽に食事をする場所というより結婚式の披露宴とか大切なお客の接待等に使われることが多いものです。今頃接待した人達は恥ずかしさのあまり顔を赤くして(いや青ざめて)いるのではないでしょうか。

冷静に考えればトビウオの卵(とびこ)とマスの卵は大きさが違うので偽装に気づくかもしれませんが、今までクレームが出なかったのはそこが一流ホテルのレストランだから。つまりはブランドという包装紙が企業価値そのものなのにその包装紙をいったん汚してしまったら100年の歴史もパアーです。伝説の名経営者、小林一三が作った「阪急」ブランドがこれほど傷ついた事件はほかになくいったん傷ついた信用を回復するのには100年かかります。

私が子どものころ森永ヒ素ミルク中毒事件(1955)という大変悲惨な食品公害事件がありました。130人もの赤ちゃんが猛毒のヒ素が混入したミルクを飲んで死に、13千名の赤ちゃんがヒ素中毒になりました。粉ミルク製造工程で添加物として純度の低い安ものを使用し、その添加物の中にヒ素が混じっていたのです。

もう半世紀も前のできごとですが、私は同世代の何万人もの赤ちゃんとその家族を今も苦しめている同社製品を買ったことがありません。森永ヒ素ミルク事件ほど深刻な被害はなかったのですが、プリマハム事件というのもありました(1967年)。

ハムの原料にコレラワクチン製造に使った払い下げ豚肉を使用していたという恐ろしい事件。しかしこの事件をきっかけにそれまでほとんど無名メーカーだったプリマハムが全国区に。私は「焼け太り」という言葉をこの事件で初めて学びました。

阪急は100年、200年かけてブランド力を取り戻して欲しいと思います。

2013年10月20日日曜日

増税と年金削減に思う


  デフレからの脱却を目指したアベノミクスは家計収入が増加するまえに増税と年金削減で庶民の生活をおびやかしつつあります。

消費税が8%になることについて国民の過半数はこれを是としています。平成元年に日本に消費税が初めて導入されたときのような反発や怒り、混乱はもはやみられないでしょう。あきらめの境地です。

一方、年金は物価スライドのタイムラグとかの理由で今後2.5%支給額を削減することが決まったようです。おまけに父(96歳)のような旧恩給制度が年金額に反映された世代の年金受給者はこの10月から支給額が10%カットされました。

今の若い人たちからは「我々の将来と違って、もともと恵まれた年金をもらってきたくせに少々減らされたからと言って文句をいうな」という批判があるかと思いますが、恩給という制度が約束されていたからこそ、安月給の公務員に甘んじてきた経緯もあったでしょう。あと10年もすれば恩給世代は完全にいなくなるのでそれまで待つことができなかったのかと思います。

消費税が増え年金が減らされるのと引き替えに少しでも現役世代に恩恵が及ぶのであればそれはそれで結構なことです。しかしながら、増収分は膨大な国の借金の返済と非効率かつ肥大化する一方の行政コストという暗黒星雲に吸収されるだけ、という悪い予感がします。

ところで日本国内において消費税を払わなくてもいい例外的な場所があります。空港の国際線出発ロビーにある店です。酒やタバコ、ブランド商品が免税になっていることは皆様よくご存じだと思いますが、雑誌やジュース、お菓子なども消費税抜きで販売されていることは案外知られていないのではないでしょうか。

ところがこのお得な免税店があるのは日本では出発ロビーだけですが、タイのバンコクなどでは到着ロビーにも免税店がありけっこうにぎわっています。そこで提案です。日本でも入国審査前の到着ロビーに免税店を設置してはいかがでしょう。ブランド店だけでなくスーパーやコンビニがあればなおうれしいです。

雑貨類は20万円まで無税なので相当な量の日用品が購入可。大赤字の空港会社にとって収益源になるとともに、旅行者にもささやかな免税のプレゼントになります。

魅惑のビオレソリエス



3,4年前からイチジクにニューフェースが登場しました。フランスから導入されたビオレソリエスという濃い紫色のとても甘いイチジクです。岡山ではまだこの品種が店頭で売られている光景を見かけませんが、通販では佐賀や新潟産が有名です。

イチジクの中で最高の品質だと聞くとどうしても自分で育ててみたくなり、どこかで苗木が入手できないものかと探していたら、赤磐市にある山陽農園さんが苗木を販売していることが分かり、3年ほど前赤磐の農園まででかけました。

山陽農園は苗木商としては割とマニアックな店で必ずしも岡山の風土にあっていない珍しい果樹の苗も多数扱っています。若い苗木だけでなく、フランス流に枝を整え、すでに実がなっているものまで売られていて見て回るだけでも楽しいもの。

私が購入したビオレソリエスも値段の高い大苗の鉢植えでしたが翌年はカミキリの幼虫が幹に穴をあけて芯を食い荒らし樹勢が衰えてしまいました。そこでカミキリの穴から殺虫剤を噴射し穴をチューインガムで密封し、さらにイチジクの木を鉢から庭に移してやりました。

昨年は木が育つのに精一杯だったのか収穫なし。ところが今年は9月になって実が熟してきました。黒っぽい紫の小ぶりの実があちこちに見えます。イチジクのいいところは桃などと違って実が一斉に熟さないことです。2,3日にひとつというぐあいに出し惜しみしながら秋の日にゆっくりゆっくり熟れていきます。

 その味は文句なしの美味! 試食してもらった訪問歯科の先生は「これは桃だ!」とおっしゃっていました。南フランスの海辺の丘陵に吹く風のにおいが漂ってきます。

同じ西洋イチジクでもスーパーでよく見かける「桝井ドーフィン」というイチジクは甘みが足りず水っぽく要求水準の高い日本の果物市場でなぜこれが生き残っているのか不思議。低品質のものを作り続けるよりビオレソリエスのような高級品にシフトすべきです。

佐賀や北国の新潟でできるものが岡山でできないはずがありません。現に私はビオレソリエスを庭先に植えてこれといった手入れもしていないのに最高の品質の実を収穫しています。ぜひドーフィンを作っている農家の皆様、ビオレソリエスの栽培にチャレンジしてみてください。

2013年10月2日水曜日

命がけの人命救助


 
9月、台風18号で増水した淀川の濁流にのみ込まれた小学生男児を厳俊さんという中国人留学生が果敢に川に飛び込んで奇跡の救出をなしえたニュースは近年中国に対して不信感や嫌悪感を増長させている日本人の心を深く揺さぶりました。

 常日頃尖閣問題をめぐって中国のことを口汚くこきおろしているネトウヨ(ネット右翼)たちも「感動した!」と絶賛一色。なかには「もう尖閣は中国にくれてやる。ついでに沖縄も付けたる」などと過激な言葉を吐くやからもいました。これは何かと政府に注文を付ける沖縄県知事に対する当てこすりでしょう。

 それはともかく自らの命を顧みない厳さんの無心かつ無償の行動はプロの政治家や外交官が何千人束になってかかっても太刀打ちできないような圧倒的な力で中国のイメージアップに貢献したという気がします。

 そして何よりもこの話がすがすがしかったのは流された男児も彼を助けた中国人青年もともに無事だったことです。これに反して10月1日に横浜で起きた踏切事故は何ともやりきれない悲しみを残しました。

 電車が迫ってくる線路上にうずくまった老人を見殺しにすることができずとっさに救出した40歳の女性は即死でした。女性の父親はけなげにも、娘は犠牲になったけれどおじいさんが助かってよかった、とマスコミに語っていましたがご両親の無念さ、喪失感はいかばかりか。助けられたおじいさん本人もその家族もまたつらい気持ちで生きていかなければなりません。

 「こういう場合、あなたならどうする?」だれも答えを出せない究極の難問です。もし救出行動を取らないで目の前でおじいさんが電車にはねられるのを看過したら、そうするしかなかったにせよ、悔恨が残り、その後の人生にその光景がつきまとって苦しむでしょう。だからと言って救出に駆け出したら今回のように最悪の結果になる可能性はきわめて大です。

 自分ならどう行動する(した)だろうか?淀川の場合は警察なり周りの人を呼ぶのが限界。でも踏切のケースでは助けに向かう気がします。そしてうまくやり遂げてみせると根拠なく想像します。以前交通量の多い交差点で亀が道路を渡っているのを発見したときクラクションの嵐にもめげず亀を助けた私ですから。
 

2013年9月27日金曜日

「半沢直樹」意外な結末


長いあいだテレビドラマの不振が続いていましたが「半沢直樹」は驚異的な視聴率をたたきだしました(最終回は関西地区で50%)。

「倍返しだ!」の決めゼリフで陰謀うずまくメガバンクで不正を働く上層部にケンカを挑む主人公はかっこいいです。

私自身は大学図書館という出世競争とか権力抗争とあまり縁のない世界でしか働いた経験がないのでああいうドロドロした人間関係のありようがピンときません。日本の大企業社内ではドラマのようなどなりあいや土下座などという粗暴な行為が日常的に行われているのでしょうか。

銀行といえば30年ほど前ある大手都市銀行の支店長と預金口座の取り扱いをめぐってもめたことがあるのですが、支店長はお客の私に電話で怒鳴り声をあげていました。

ある日支店長から「車を差し向けるからおいでいただきたい」という連絡がありました。私はうかつにそんな車に乗ったら最後大阪湾の埋め立て地に連れて行かれ生き埋めにされるのではないかと本気で心配しました。実際は銀行もいつまでももめるのはよくないという結論に達したのか、二流半のケチな料亭に和解の席が設けられていました……。

どなったりなだめたり手のひらを返すようににこにこしたりよくそんなことが平気でできるものだなあと当時思ったものですが「半沢直樹」を見ていて昔の不愉快な記憶がトラウマのようによみがえってきました。

この作品の雰囲気は原作者の池井戸潤さんが「バブル入行組」の元銀行員ということなのであながちドラマゆえの誇張ではなさそうです。

さて痛快な「半沢直樹」の最終回は意外な結末でした。半沢自身あるいは彼の仲間たちもが半沢の2階級特進を信じていたのに証券子会社への出向が待っていたのです。やはり結末はこうでなくちゃ! 中野渡頭取の采配には徳川300年の太平の世を保証した巧妙な統治論的戦略が見て取れます。お上の不正を直訴、告発したものはごほうびをもらえるどころか彼自身もまた秩序を壊した罪を問われました。

中野渡頭取の顔が何だか徳川家康に見えました。自分の地位と銀行を守るためには理想主義では対処できません。中野渡のリアリズムがドラマに信憑性をもたらしましたね。続編への期待が高まります。

Tokyo2020 安倍さんの大芝居


 10年ほど前、当時の東京都知事だった石原さんがオリンピック誘致に名乗りをあげたとき、そんなこと本気で言っているのかと疑いました。

石の上にも3年、いや10年も同じことを言っていれば夢も実現するものですね。

  ブエノスアイレスで行われた最終プレゼンは翌朝録画したものを見たのですが、選考過程が分かりにくく一瞬東京は落選したとだれもが思ったようです。プレゼンする方はどんな些細なミスも許されない雰囲気なのに、選ぶ側は何とずさんなことをやっていることかと思いました。

 今やIOCは地上最強の絶対君主です。各国首脳がまるで就職面接を受ける大学生さながら小さく縮こまっているのですから。

もともと日本人は“プレゼンテーション”などという芝居がかった振る舞いには否定的な価値観をもっていました。「巧言令色、鮮し仁」という論語の言葉に従って生きてきた日本人。言葉たくみなやつのいうことは信用できない、というほどの意味でしょうか。あるいは「沈黙は金」などとも言われてきました。

ところが今回のプレゼンでそんなものは美徳でもなんでもない、黙っていたらだれからも見向きもされないという西欧流の価値観を今や日本人がしっかり受け入れ、さらにその流儀で勝てるだけのテクニックを身に付けていることが証明されました。

いやですねえ。人は服装、持ち物、学歴、自己PR能力で評価されることを認めるなんて。今回の勝利も綿密な戦略をたて、スピーチ・コーチまでつけて特訓していたのですね。

パラリンピックの佐藤真海さんがつらい経験をスポーツで克服した体験をつたない英語でスピーチしたことが感動を呼びました。しかしあとでイギリス人コーチと徹底したトレーニングを積んだという番組を見て少々白けた気分になりました。もちろん彼女のパフォーマンスはすばらしかったのですが。

プレゼン最大の立役者安倍総理の「アンダーコントロール」にはひっくり返りそうでした。誰の目にも大ウソなのに、何となく世界を説得してしまった安倍さんは恐ろしい人です。将来戦後最高の宰相だったと言われるかもしれません。「やっぱり巧言令色、鮮し仁だったか」と後で言われることがないよう廃炉問題だけは片を付けてくださいね。

2013年9月6日金曜日

痛みに効く薬がありました

 この夏96歳の誕生日を迎えた父の深刻な悩みは体中どこであれ他人が少しでも触れると激痛が走ることでした。いや触れられなくてもベッドで横になっているだけで背中が痛み、「起こしてくれえー、起こしてくれえー」と深夜、早朝かまわず私を呼びます。寝不足の私はすっかり介護ノイローゼになりました。

 仕方なく、ベッドから起こして椅子に座らせても10分もしないうちに背中が再び痛み出し今度は「寝かせてくれえー」の連呼です。

 「お父さん、寝ていても痛いし、起きていても痛いんじゃどうしようもないじゃない。苦痛から解放されるためにはあの世に行くしかありません」と、腹立ちまぎれに父に冷たい言葉をかける私は鬼でした。

医師も鎮痛薬や湿布をいろいろ処方してくれているのですがどれもほとんど効き目がなく途方にくれる毎日。

ところが昨年私自身腰痛に悩まされたとき整形外科の若い医師が処方してくれた薬に「リリカカプセル」という乙女チックな名前の薬がありました。この薬は今までの薬と作用機序が異なるそうです。痛みの場所に作用するのではなく脳内の痛みの情報を伝える場所での神経伝達物質の放出を抑制するというものです。いわば向精神薬の一種でしょう。

私自身はリリカを最低量(25mg)飲んだだけで幻覚症状が出たのですぐ服用を中止し、結局従来の鎮痛剤で腰痛が治ったのですが、今の父にはもうこれしかないという気がして父の主治医にリリカを試してほしいと願いでました。

期待以上の効果がありました。痛みを訴えることがぐっと減り、椅子に座って1時間以上テレビに集中しています。表情も明るくなり、楽しい会話が成立するようになりました。もはや親子心中しかない、とまで思い詰めていたのがうそみたいです。父が朝までぐっすり寝てくれるので私もよく寝られるようになりました。

リリカカプセルはほかの薬同様様々な副作用があります。しかも高齢で腎不全の患者での治験データなど存在しないでしょう。そもそも父のような患者にこの薬が処方されることはありえないと思います。

しかしあえてそこに突破口を開いて父の地獄の苦痛を取り除くことに成功したのは息子の蛮勇です。ただそれは医学や介護の常識を逸脱した行為かもしれませんが。

「はだしのゲン」問題

  第二次世界大戦が残した悲惨なモニュメントの双璧が広島とアウシュビッツでしょう。ともに目をそむけたくなるようなマイナス遺産です。広島をめぐっては学校図書館での「はだしのゲン」の扱いが議論を呼んでいます。

この作品を閉架書庫にしまいこんで児童の目にふれにくくすることは戦争という現実から目をそらすことであり反対という意見と、いたずらに子供に恐怖心を植え付けるだけで何の教育的効果もなく弊害が大きいとする立場が対立しています。

1982年、戒厳令下にあったポーランドに2週間ほど滞在したことがあります。ポーランド人の友人の案内で古都クラコフの中世の町並みを堪能したところまではよかったのですが、その後訪問したアウシュビッツは大変衝撃的な体験でした。

かつての収容所がそのまま博物館になっていて当時の姿のまま保存されています。ヨーロッパ中から集められたユダヤ人捕虜たちから奪った眼鏡の山、頭髪の山、犠牲者の脂肪から製造した石鹸、義足の山……こうしたものが黙示録のように人間の悪魔性を物語っています。

なかでも近づくことさえ耐え難いものがガス室と火葬炉でした。合理主義者のドイツ人が設計しただけあって実にシステマティックにできていて、いったんガス室に入れられた人が生還できる可能性はゼロでした。炉付近に捧げられたたくさんの赤い花束が今も目に浮かびます。

アウシュビッツを訪れて以来、いまだにその記憶がトラウマになっていて果たしてアウシュビッツ訪問は自分にとってよかったのか悪かったのか、必要だったのかそうではなかったのか、よく分かりません。ただ2度とこのようなことを起こしてはいけない、戦争は絶対悪だ、という確信を持つようになったことだけは確かです。

このように、大の大人でもアウシュビッツのようなものを見せられたら夜中に引き付けを起こすぐらい心に傷を受けます。「はだしのゲン」については、いくら広島で現実に起きたことを描いたとはいえわざわざ児童の目につく場所に置いておくことに私は反対です。読みたいと思ったときに書庫から出してもらって読めば十分でしょう。平和記念館のジオラマを撤去する話もあるそうですが、ぜひそうしてほしいものです。

永青文庫 細川家の名宝展


岡山県立美術館で開催された永青文庫展は期間中展示替えがありました。最初(前期展示期間中)行ったときはお目当ての菱田春草の「黒き猫」が展示してなくちょっとがっかり。しかし今回の企画展は一度では十分みることができないぐらい充実したものだったので再度出かけて名宝をゆっくり堪能できよかったです。

私が「黒き猫」に最初に出会ったのは中学校か高校の美術の教科書においてでした。ずっと実物を見てみたいと思いながら50年が過ぎ、このたび思いがけずこの岡山で願いがかないました。

「黒き猫」、我が家のクロちゃんは雄の立派な猫ですが心優しくいつもほかの猫から身を一歩引いて餌を食べ、遠慮がちに私に甘えてきます。いつの時代でも黒猫は人間に何かを訴える特別な能力があるのかなと絵を見ながら思いました。

本物の「黒き猫」は教科書などの図版では分からなかった猫の表情が生き生きと読みとれ美術館に来たかいがありました。「うちのクロちゃんの方が男前だな」などと思ったのは親ばかのせいでしょうか。

さて細川家に伝わる美術工芸品の数々を収容した永青文庫は東京都文京区目白台の旧細川侯爵邸の中にあります。細川邸に接して和敬塾という男子学生寮があり兄がそこに住んでいたので兄を訪ねていくとき細川邸をよくのぞき見したものですが、そこに念願の「黒き猫」があったなんてまったく知りませんでした。

ちなみに和敬塾とはかつての細川邸のかなりの部分をある篤志家が購入して学生のために作った大規模な寮です。村上春樹の「ノルウェイの森」に和敬塾での学生生活の様子が生き生きと描かれています。

戦後、学生用住宅事情が最悪だった時代に暖房完備の良質な寮建設のために広大な屋敷を提供した細川家の英断について語られることがあまりないのでここにご紹介しました。

細川邸、和敬塾、田中(角栄)御殿、野間邸(講談社創業者一族)、椿山荘(ホテル)、日本女子大学、学習院、東京カテドラル教会、神田川、早大キャンパスとこのあたり一帯はかつての武蔵野の面影が色濃く残っている場所で今もケヤキやクスノキの大木がうっそうと茂っています。しかし現在の東京の森の主人公は黒き猫ではなくカァカァやかましいカラスの大群です。

日中、日韓関係


 今年も8月15日が近づき首相や閣僚が靖国神社にお参りするかどうか中国と韓国が固唾を飲んで注視しています。

中国や韓国の世論がどのようなものかを直接知る手がかりとして「サーチナ」という情報サイトがあり、日本に関する極東の隣人達のブログ発言が適宜日本語に翻訳されて掲載されています。また韓国の主要新聞である中央日報と朝鮮日報のオンライン日本語版は無料で閲覧可能です。

これらのブログや新聞記事をひまにまかせて毎日読んでいると同じ反日と言っても中韓では相当ニュアンスが異なることが分かります。中国人が日本を批判する論調には手厳しいものがあるとはいえ、中国政府による情報統制の中にあっても相当程度理性的、客観的であろうとする姿勢が常にうかがわれます。

また日本を攻撃するポーズをとりつつも実は共産党政府に対するかなりきわどい批判や皮肉を込めるという政治的に高度な技を披露する場としてブログが活用されているようにも見受けられます。

これに対し韓国メディアの日本に対する攻撃はきわめて感情的、没理性的、非論理的であってとにかく日本のなすことすることすべてが憎い、腹立たしい、羨ましい、妬ましいというまるで○の腐ったような社説が前述の「クォリティ紙」に堂々と掲載されていることに驚かされます。

常に上から目線の論調であるにもかかわらず彼らの本音は「日本よ、もっと自分たちのことをかまってくれ、関心をもってくれ」という悲痛な叫び声のように聞こえます。そしてストーカーのように日本の小さな出来事まで追ってきます。

中央日報には読者がコメントを書き込むことができ、日本語版なので当然多くの日本人が記事に対するコメントを書き込んでいますが、これが差別用語、侮蔑表現のオンパレードでここに引用することも憚られます。ひどい記事とそれに見合う品のないコメントは屁合戦さながら。

要は、中国は日本のライバルとして、また対等につきあう相手として無視できない。しかし韓国に対して日本ができることは何もないように思えます。何をしても「1000年怨みます」の国に日本が言えることは「日本にかまわないでくれ、甘えないでくれ、親子でも兄弟でもないのだから」ではないでしょうか。

2013年8月1日木曜日

屁合戦絵巻



例年なら梅雨明け10日は申し分のない晴天に恵まれ登山やキャンプに絶好の季節ですが今年は「経験したことのない豪雨」があちこち列島を襲っています。家屋や車はおろか道路まで洪水に流される映像を見ていると日本の天気はいったいどうなったのかという気がします。

 それに加えて山口県の山間部集落で起きた不気味な大量殺人事件は何か人ごととは思えません。長期間に渡る孤立無援の介護、いなかの人間関係のうっとうしさ、疎外感、自分自身の老いと孤独。山口の男と同じ境遇にいながら爆発寸前で踏みとどまっている人は多いでしょう。

 いったいこんな状況の中で本当に気張らしになり、気分転換になるものなんてあるのだろうか?と日々思っていたらネット上で室町時代ごろ描かれたと思われる「屁合戦絵巻」に遭遇しました。江戸時代の写本が早稲田大学図書館に現存し、デジタル化した画像が広く公開されています。まずは作品を早大図書館ホームページでご覧いただきたい。


 最初の数シーンではふた手の貴人たちが何やら作戦会議を開いています。屁の原料である芋を仕込み大きな鍋で煮ていよいよ戦闘開始です。双方のチームともお尻丸出しで強力な屁ビームを発射。ビームの威力は防御板をぶち抜き、馬をひっくり返し、猫を空中に飛ばせます。応戦する男女はうちわで屁ビームをはね返し、鼻をつまみながら敵陣深く尻を差し入れ強烈な一発をお見舞い。

 行司役の男は敵味方双方の女性が放つ屁に空中2メートルぐらい浮き上がっています。試合を有利にすすめるためにあらゆる努力を惜しまず工夫する男女。試合の結末はどうなったのかこの36枚のカットではよく分かりませんが、感想をひとことでいうと中世の日本人はすごい! 人生を楽しんでいます。

 考えてみれば当時も世相は暗く、血で血を洗う争いに明け暮れていた時代でした。でもこの絵巻の作者はそうした世相を「屁合戦」として芸術に昇華させることに成功しました。

現代の日本が関わる国際紛争も実弾ではなく屁ビームで平和裡に決着つけてほしいものです。日本人にはそういう知恵が古来あることをこの絵巻は語っているように思います。「まず笑うこと」。いかがです?

2013年7月18日木曜日

釧路女流文学の系譜



昔は芥川賞や直木賞を受賞するとかなり大きなニュースになり世間が騒いだものです。今では書店に特設コーナーができるもののそんなに売れているようすはありません。先日2013年の直木賞に釧路が舞台になった作品が選ばれちょっと興味をもちました。桜木紫乃という女性が書いた「ホテルローヤル」という作品です。(まだ読んでいません)(*)


ところで、釧路文学と言えば原田康子(1928-2009)の「挽歌」が1956年に発表され大ベストセラーになり、北海道の地方都市にすぎなかった釧路は全国から押し寄せる文学ファンでにぎわったそうです。古い価値観から解放された世相を背景に早熟な少女(兵藤怜子)が魅力的な設計士一家(桂木夫妻)に近づき、桂木を挑発し、その結果夫妻を破滅へと向かわせます。

この原田康子の源流をたどればフランスの女流小説家・サガンの「悲しみよこんにちは」に行き着きます。サガンの影響かどうか「挽歌」の主人公(怜子)は会話の地の文に「アミ」(友達)だの「コキュ」(妻を寝取られた男)だの、フランス語の単語を唐突に口にします。今読むとそういう箇所では背中に悪寒が走りますが……。

独特の文体といい背伸びした怜子のエキセントリックな行動といい、アプレゲール(戦後世代=不良)時代のかっこよさだったのかもしれません。しかし、霧につつまれた陰鬱な釧路湿原、霧笛が寂しく響く町の情景をそれぞれに不幸な登場人物たちの心象風景にぴったり重ねて描ききっているところは原田康子にしかなしえなかったことだと思います。

今回直木賞を受賞した桜木さんはどうやらこの原田康子に触発されて作家になったようです。「挽歌」では今でいうラブホテルがセッティングとして効果的に使われていますが、桜木さんの実家はラブホテルを経営しているとか。釧路の才女達には何かと運命的な共通点があるようです。近いうちに「ホテルローヤル」を読んでみたいと思います。

数年前、あまり国内旅行をしない私ですが「挽歌」にあふれるフランス趣味と現実の釧路の間にどんな結びつきがあるのか興味がわいてはるばる釧路まで関空から飛んだことがあります。夏でも気温が15度ぐらいしかない釧路はフランスというより北極圏に近いノルウェイの港町に似ているなと思いました。

*10月に斜め読みしました。つまらない作品でした。

老齢基礎年金

 七夕の日は私の誕生日でした。終戦直後、食料も物資も極端に不足しているなか、しかもこんな暑い日に私を生んだ母の苦労は相当なものだっただろうと想像されます。

産婆さんを呼びに行った父が途中で道草をくって、ようやく産婆さんが駆けつけたときにはすでに私はぽんと生まれていたそうです。

兄を生んだとき難産で死ぬ思いをしたのに比べお前は生まれるときから親孝行だったといつも言っていた母(の介護)を裏切ることはできません。あと10日ほどで94歳になる母は私をひとりで産んだまさにこの部屋で人生最後の静かな日々を過ごしています。

さて、その息子もついに老齢基礎年金なるものをいただける年齢に到達しました。誕生日が来るのを待って岡山の年金事務所に請求手続きに出向きました。年金の仕組みの訳の分からなさは想像を絶します。すでに60歳になったときから公立学校共済組合から共済年金が振り込まれていてさらに64歳からはその額が増えました。

私は65歳になっていよいよ老齢年金の支給が開始されると、いままでの共済年金プラス年額70何万かの年金が新たに支給されるようになるものとばかり信じて誕生日がくるのを待っていたのです。

びっくりしました。「老齢基礎年金はすでに共済組合が立て替え払いしています。今後は老齢基礎年金部分を日本年金機構が振り込むことになります。受け取り総額は今までと変わりません」ガーン!です。何はともあれ残りの人生はこの年金をベースに生きていくほかなく人生はいつでも正念場です。

ところで年金事務所についてですが、書類の提出は“事務所”に持参するよう案内があったので事務所(岡山西)に出かけたら、「提出はここではなく、向かいの“街角の年金相談センター”に行け」と言われました。こちらも年金をもらうような老人です。がんこです。素直ではありません。がんとして動かなかったら、「じゃあ、こちらで受け付けます」ということになりました。

かつて運転免許更新業務に交通安全協会が深く関与していたように、年金業務も退職OBをおおぜいかかえた相談センターが年金事務所の本来業務を代行しているのかな?と想像します。真相は如何に?

参院選を前に

 昨年暮れの衆院選に続いて第23回参院選(投票日7月21日)が公示されました。今回の選挙から“ネット選挙”解禁ということですが、これは選挙運動についてネット利用が可能になったということであり、インターネットで投票できるようになった訳ではありません。

企業の株主総会での議決権行使がネットで問題なくできている時代になぜ有権者にご足労をかけ、莫大な事務経費、人件費を費やしてばかげたお祭り騒ぎをやらなければならないのか不思議なことです。

いっそのこと参議院議員は裁判員のように抽選制にしてはどうかと思います。参院の機能は衆院のチェックに限定して何か支障があるでしょうか。定数問題もなくなるし報酬は日当と交通費程度ですみます。

さて、思い返してみると6年前岡山では「姫の虎退治」で参院選は空前の盛り上がりを見せ、何と姫が虎に勝ちました。もう時効だと思いますので告白しますが、私も姫に期待した一人でした。

ところが当選直後から姫の行状は芳しくなく、また政党人としてもあっちにふらふらこっちにふらふらとさまよった挙げ句の果て6年の任期をまっとうすることなく辞任、暮れの総選挙では千葉県から出馬して結果は泡沫候補なみでした。

しかしこれはなにも姫の特異なキャラにすべてが帰する問題ではなかったと思います。この6年間のあいだに日本の社会・経済・政治情勢がひどく劣化したこととぴったり歩調があっていました。言わば彼女はこの6年間のダッチロール政権運用の象徴だったのではないでしょうか。

日経平均株価は7千円台に低迷し、超円高で輸出産業が瀕死状態に陥り、逆に中国・韓国は元安、ウォン安を武器に経済力を強め、もはや経済的に日本の援助が不要になったとみるや口汚く日本をののしるようになりました。(まともな神経ではつきあいきれない隣人たちをもっていることをガラパゴス民族である我らによく分からせてくれたという意味ではとてもよかった)

そして、政治・経済・外交のすべてがうまくいかないところにあの大地震と原発事故です。今思えばこの6年間、クーデタもなく、日本はよく耐えたものだと思います。参院選後の日本は吉とでるか凶とでるか、それはまだだれにも分かりません。

2013年6月19日水曜日

原発事故その後



東京電力福島第一原子力発電所が地震と津波にもろくも崩壊し過酷な放射能事故を引き起こしたのはわずか2年ちょっと前のことです。いまでもふる里を追われ避難生活を続けている被災者が30万人もいるというのに電力業界は原発再稼働にやっきになり、政界でも与党政調会長の高市早苗氏が「原発事故で死者が出ている状況ではない」とおよそ現実離れした発言をして与野党から批判を受けています。

つまりは被災者以外の多くの国民は原発事故のことはすでに意識の外に追いやってしまっているのがこの国の現状だと思います。そして全国各地に避難している人々の意識にも変化が起き、もはや帰郷をあきらめた人が6割にも達するという報道がありました。

ここでにわかに福島から遠く離れた岡山がクローズアップされてきます。避難先として岡山の人気が高く岡山に定住する人は依然増加しているとのことです(朝日新聞6月16日)。これに関して美作市在住の作家・あさのあつこさんは「都会でなく、自然条件が厳しくもない岡山の人にはつかず離れずの間合いがある」そんなところが人気の秘密だと分析しています(同記事)。同感です。

それにしてもふる里から800キロも1000キロも離れた遠い岡山まで移住して来られる方々のエネルギーと実行力には感服します。北関東や東北地方の暖かい人間関係を捨てて、京都ほど極端ではないにしてもはっきりいってかなりドライな岡山県人に混じって暮らすのは大変な勇気が必要だったと思います。

瀬戸内市長船町服部にドイツ式の本格的なパンを作って売る店が昨年暮れにオープンしました。“オぷスト”という天然酵母のパン屋さんですが、もともと埼玉県で開店しようとしていたら原発事故があり放射能の影響を考えて岡山に移住してこられたそうです。小さな子供たちのためとはいえそこまでできるのは夫婦の愛情と子供の健康への心配が高市さんなんか想像もできないぐらい大きいからにちがいありません。

この“オぷスト”のパンは上述のような背景を抜きにして単純にものすごくおいしいパンでした。我が家から車で片道1時間かかるのですがわざわざ出かける価値があります。本場ドイツでも今どきこんな食べ応えがあるパンは珍しいでしょう。
 
(写真はサナエちゃん、鼻のあたりがなんとなく・・・)
 

2013年6月18日火曜日

我が罪を贖えり、大ムカデ



  夜中母を襲った吸血鬼の正体はいぜんとして不明なまま事態は沈静化したかにみえました。ところがある晩、深夜いつものように母の横で仮眠していたら枕元で何かカサコソという音がしたのでスマホの明かりでその辺を一応調べたのですが異常はなく、そのまままた寝ました。

しばらくして首筋に冷たい感触があり、しかも動いています! びっくりして電灯をつけてみたら15センチもある大ムカデが首と枕の間にいるではありませんか。ムカデの背中側に首の皮膚が当たっていたのです。ぬらり、ひんやり。ムカデの腹側が首筋に当たっていたら、つまり首の上をヤツが這ってかまれていたら、きっと私は発狂したと思います。

手許にあった薬局でもらった処方薬の紙袋に大ムカデを誘導しぱっと口を閉じました。さてどうしよう。火あぶりの刑、あるいは熱湯責めにしてやるか、と思ったものの、こいつが母を襲った証拠はないし、私も刺されたわけではないので無罪放免に決定し、塀の外に逃がしました。しかしこれは何も蚊一匹殺さなかったアッシジの聖フランチェスコの真似をした訳ではありません。実はムカデには恩と負い目があったのです。

小学生のころ庭に高さ2メートルほどの棕櫚の木がありました。幹はタワシのような細く乾いた繊維で被われていて、子どもごころに私はふとこれに火を点けたらどうなるかなと思ってマッチをすりました。

火は一気に幹を駈け登りました。大変なことをしでかしてしまった!我が親父は偏執狂というか性格におおらかさがないというか、こういうことに関しては必ず目敏く見つけネチネチ説教するのが常でした。ときに体罰をともなう親父のしつこい叱責を想像すると暗澹たる気分でした。

するとまだ煙が残っている半ばこげた木の先端に何やらうごめくものがあります。棕櫚の木をねぐらにしていた大ムカデが火にあぶられて出てきたのです。私はとっさに話を作り替えました。「大ムカデが棕櫚の木に逃げたので火をつけて退治した」と。我が罪を大ムカデに転嫁したことを60年ぶりに初めて告白します。

2013年6月6日木曜日

酒津 水辺のカフェ



 介護という忙しくも退屈な日々を過ごしていると用事もないのに遠くの友人に長電話して「最近何かおもしろいことない?」と聞くのが口癖になりました。どいつもこいつも「ないっ!」のひとことで終わり。そんなとき強い味方になってくれるのが岡山のタウン情報誌です。

タウン情報誌の人気企画といえば喫茶店特集です。どこの店も素敵にみえ一度は出かけてみたい気分にさせられます。しかしこういう特集に繰り返し登場する喫茶店は往々にして店主の「こだわり」が顔に出ていて何だか一見(いちげん)さんとして行くのがためらわれます。

でも抵抗できない喫茶店がありました。酒津の「水辺のカフェ 三宅商店」です。酒津という地名は桜の名所として子どものころからよく耳にした地名ですが、岡山市郊外育ちの私には土地勘がなく今まで一度も行ったことがありません。言わば幻の名所である酒津。情報誌に掲載された湾曲した水路に沿って水の上にせり出したように見えるカフェの写真が私を強烈に誘います。

スマホアプリのナビが「目的地に到着しました」というのに我が愛車は高梁川沿いの土手の上を走っていて、本当の目的地は酒津公園をクネクネとすり抜けたわかりにくいところにありました。よくタウン情報誌で紹介される店が「隠れ家的○○」と言う割にはデカデカと派手な看板を掲げた俗っぽい店だったりするものですが、三宅商店は確かにナビをも騙す本当の隠れ家でした。

人気の水辺が見えるカウンター席は満席だったので靴を脱いで2階の座敷に上がりました。開け放った窓から心地よい風が八畳と六畳の続き間を流れていきます。用水路を流れる水の音と高梁川堰堤の道路を走る車の遠い騒音が不思議によくマッチして心が静まってきます。

家に帰ってからあらためて酒津の位置を地図で調べてみました。なんと酒津公園はときおり出かける倉敷イオン・ショッピングモールの裏手に位置していました。そういえばナビが盛んにイオンの方向に私を誘導しているはずでした。私は酒津は総社にあると昔から思い描いていて清音(きよね)の方から高梁川に沿って大きく回り込んでいたのです。

素敵な隠れ家は案外身近なところにあるものですね。今度遠くの友人を誘ってやろうと思います。

風俗と風土



いわゆる慰安婦問題について大胆というか思慮に欠ける発言をして物議をかもした橋下大阪市長が東京の外国人記者クラブで会見を開きました。通訳をはさんで1時間以上の長丁場のやりとりでした。

橋下さんと各国記者のあいだには最後まで埋められない溝が残っていました。東京や西欧のエリート記者は大阪という風土を知らないがゆえに橋下さんの発言が耐え難く突拍子もないほど異様なものに感じられたのではないか、そんな気がします。

記者の質問で飛び出してきた「飛田」とは“中学生でも知っている”現存の赤線地帯です。私も東京の大学を出て大阪の大学に就職したころ、何気なく友人と天王寺界隈を散歩していて知らないうちに飛田に迷い込んだことがあります。衝撃的でした。

見たところ80歳ぐらいの遣り手ババア(それにしても下品な表現!)が三味線片手に流し目で「寄っていきー」と声をかけてくるのです。うぶな我々は一目散に逃げ出しました。

飛田よりもさらにお手頃な料金で得難い体験をさせてくれるのが泉南の信太山(しのだやま)であることはふつうの高校生でも知っていること。信太山には自衛隊の大規模な駐屯地があることでも有名です。

大阪で暮らしはじめたころ、世間を騒がす事件の性質が東京と大阪でずいぶん違うなと思いました。そのころ関東では幼女連続殺害事件に代表される性犯罪が多発していました。一方、大阪ではなぜかガス爆発事故が多く、他には豊田商事会長刺殺事件、三菱銀行北畠支店襲撃事件など金にからむ事件が頻繁に起きていました。猥雑な大阪なのになぜか凶悪性犯罪は少なかったのです。

私が出した結論は、大阪では性にまつわることはタブーでもストレスでもなく飲み食いと同レベルの日常的営為であるのに対し、建前を優先させ官僚的思考が強い東京では抑圧された性衝動が性犯罪や猟奇的な犯罪を生み出すのではないか、です。

橋下市長が当初発言していた「沖縄の海兵隊は風俗を利用せよ」という発言の下地にはこのような風俗と治安が折り合いをつけている大阪的発想法があったのではないでしょうか。ただそれを国際政治の場で発言したことは謎です。失言ではなく彼ならではの計算があってのことかもしれません。焼け太りということは政治の世界でもありえますから。

2013年5月23日木曜日

夜中来たりて血を吸う怪物と疑心暗鬼



パーキンソン病と認知症をわずらい、数年前からすっかり寝たきりになってしまった93歳の母ですが、それなりに健康で自宅のベッドで過ごしています。日々これといった異変がない安定した状態が続いていることは介護をする私にとって大きな励みであり安堵でもあります。

ところが先日、母の平穏を破る事件が発生しました。訪問看護師さんが母のケアをしていたとき「あっ」と驚きの声をあげました。何事かと思ったら、母の左手の人差し指から血が大量に出ていてシーツやタオルが血まみれになっていました。人差し指には傷口が2か所ありましたがそんなに大きくも深くもありません。しかし指はパンパンに腫れ出血もひどいものでした。

看護師さんはすぐに傷口を消毒し、ホームドクターに電話をかけて状況を説明し抗生剤と傷口の殺菌剤を処方してもらいました。手当をしたあと、薬の効果もあって重篤な事態になることは免れましたが、問題は寝たきりの母に傷を負わせた“犯人”がまったく不明な点です。

どんな怪物に襲われるとこんなにもひどい出血をするのか皆目見当がたちません。奇怪な流血事件は昨年兄が母のケアのため泊まっていたときにも一度起きて大騒動したことがあります。兄が言うには、目を覚まして母を見たら額から血を流していて、大量の血が枕の芯まで到達していたとか。

さてはもともと親の介護などする気がない兄が弟の私に責められていやいやながらやっていることの腹いせにDVを働いているのではないかと私はとっさに思いました。そのことを友人にしゃべったら、友人は「天井に隠しカメラを設置しろ!」とアドバイスしてくれました。

いくら何でも兄がそんなことするはずがない……とはいえ疑心暗鬼がつのります。でも正月以来兄は介護分担を一方的に放棄し、現在は私が一人で母を看ているので結果的に兄の容疑はめでたく晴れました。

真犯人はおそらく、この季節、我が物顔で部屋に侵入してくるムカデ、ヤモリ、クモ、ゴキブリのうちのどれかではないかと想像しています。近々両親を病院に預けて家中を薫蒸しようと思います。戦慄すべきは姿が見えない吸血鬼(虫)。しかしそれにもましてコワイのは兄を怪しむ私の疑心暗鬼のココロです(笑)。

2013年5月16日木曜日

台湾旅行2013


連休明けに大阪の友人を誘って台湾に行って来ました。パスポートの記録をたどってみると2009年、2011年、そして今年2013年と2年ごとに台湾へ出かけていました。いわば台湾を定点、定時観測していることになります。

この1,2年の近隣諸国による対日情勢のきびしさを連日ニュースで見聞きしてきたせいか、台湾はまるで天国でした。おいしい食べ物にあふれ、人々は愛想がいいし、上海人のようにところかまわずけたたましく電話でどなったり唾を吐いたりする光景はまったくありません。

以前から台湾人のマナーはとてもよかったと思うのですが、なかでも地下鉄の整列乗車にはびっくりでした。その整然とした乗降態度は東京と同等であり、大阪より上でした。

もう一つ大きな驚きだったのは年輩の人はもちろんですが、ファーストフード店でも地元の客しか入らないような小さな食堂でも若い従業員がほぼ例外なく日本語で受け答えしてくれることでした。これも上海のタクシー運転手が“ステーション”とか“ホテル”という仕事柄必須の単語さえ解さないのと大違いです。

台湾は日本国内を旅行している感覚で観光したりショッピングを楽しめる世界で唯一の国だと思います。

英米の旅行ガイドブックは、初めて大陸ヨーロッパを旅行するのならまずオランダに行くことを奨めています。オランダはヨーロッパでは英語がダントツで通用し、大陸欧州独特の風習に慣れるのに好都合だからですが、台湾こそ日本にとっての“オランダ”ではないでしょうか。

思えば日中国交回復以来“日中友好”の旗印のもと安い労働力と無限の市場に期待しておびただしい数の日本企業が中国に進出していきました。しかし漢詩や孔子孟子に出てくるような清廉潔白な君子、風雅風流を解する文化人などどこにいるのやら。官民問わず上から下まで拝金主義に凝り固まり文明以前のふるまいを平気でする中国人を相手に倒れた企業人は死屍累々の惨状です。

尖閣国有化以降やっとハイリスクの中国との取引に台湾企業をかます知恵が日本企業にも浸透してきたようです。植民地時代の台湾総督府の美しい建物を今も総統府として大切に使ってくれている台湾こそ日本のベストパートナーとの意を強くした2年ぶりの台湾旅行でした。

美味! 西洋野菜あれこれ

学生時代、アルジェリアに滞在して初めてマルシェ(市場)に買い出しに出かけたときの感動はいまだに新鮮です。

日本の精肉屋さんと違い牛肉や羊肉が生々しくも無造作に売られているのには食欲は消滅、何か見てはいけないものを見てしまったような罪悪感にとらわれました。 切り落としたばかりの牛の頭がそのまま売られていたり羊の頭が皮を剥かれて並んでいたり、果ては羊や牛の脳味噌が高級食材としてフツウに陳列されているマルシェ。

それにひきかえ野菜売場は野菜好きの私にはワンダーランドでした。いまでこそ日本でもズッキーニはおいしい野菜として定着していますが、1970年ごろ日本ではまずお目にかかれない食材でした。アルジェリア駐在員達の多くの人がキュウリと思って買ったらとんでもないものだったなどと話していたものです。

ありそうでなかったのが日本の青ネギです。宿舎で日本から送ってもらった乾麺でうどんを作るところまでは順調にいくのですが、最後に散らす青ネギがないのはまさに“画竜点睛を欠く”不満でした。 しかしネギらしきものは欧米にもちゃんとあります。

英語でリーク、フランス語でポワローと言われる西洋ネギです。今ではリークは岡山の特産らしく直径が5センチぐらいの立派なものがスーパーで売られていることがあります。 このポワローは青ネギの代用品としては全然つまらないものですが、かつてフランスで食べたネギ料理のおいしかったこと!世の中にこんな美味な食材があったのかと驚きました。

40年前、フランスの寝台列車の食堂車で出された絶品マリネを凌駕するネギ料理が食べられるレストランを私は不幸にして知りません。フランスではポワローのことを“貧乏人のアスパラガス”というそうですが、それではポワローがかわいそう。 じゃあ本物のアスパラガスはというと、これはスペインのアランフェスで採れるものがつとに有名。アランフェス協奏曲の“タララー、タララタラタラタララー、タタタ、タタタ……”という哀愁を帯びたギターの楽の音が頭をよぎるあの曲です。

今は昔、両親を連れてそのアランフェスでホワイトアスパラガスをいただいたことがあります。味はフランスのネギのマリネに負けていましたが、親子3人で訪れたスペインのなつかしい思い出です。

2013年4月20日土曜日

父の皮肉


22,3歳のころヨーロッパを1等のユーレイルパスを使って旅行しているとコンパートメントの中でみるからにリッチな初老の夫婦に出会うことがよくありました。「リタイアして年金でのんびり暮らしています」という彼らの言葉が遠い存在としてしか聞こえませんでした。でもいつのまにか我々もそんな年齢になってしまいましたね。「リッチ」とは言えなくても質素な生活をしていく分には何とか足りる年金が偶数月の15日には確実に振り込まれてくることのありがたさ!

***

父が4ヶ月の入院生活から家に帰ってきてようやく1ヶ月になります。退院時には廃人のようになっていたのですが、私のケアと食事療法によって見違えるように元気になりました。最初はおかゆなど流動食しか喉を通らなかったのが今では普通のごはんをおいしい、おいしいと言ってよく食べます。

ここにこういう構図が成り立ちます。

元気なスーパー爺さんと彼の日常いっさいをケアする疲れ切った若年寄り。

夜中の2時ごろ、早くも目が覚めた父が母の横で寝ている私を呼びます。「こうちゃん、こうちゃん」と猫なで声で呼び始め、私が無視しているとそのうち「コウジロウ!」と威嚇調になり、それでも無視していると、死んだ伯父の名前を呼んだり、父の母の名前を呼んだり、最後は自分の奥さんの名前を呼んだり、こんな状態が1時間ぐらい続きます。なぜさっと行ってあげないの?と皆様不審に思われるのではないかと思います。虐待ではないかと。そうかもしれないのですが、24時間介護していると真夜中の覚醒にまでつきあいきれないのです。

そうこうするうちに父は私を呼ぶのをあきらめて(忘れて)しだいに独演モードに移行していきます。
暗闇の中で子供時代の楽しかったことなどを一人芝居の役者さながら迫真の演技で語り始めます。語りが30分ぐらい続いたあと、歌も挿入。

  鳴いてくれるな ほろほろ鳥よ
  月の比叡を ひとりゆく    
            (旅の夜風、映画「愛染かつら」主題曲、西条八十作詞)
https://www.youtube.com/watch?v=x2UABQsz5CY
 

そしてまた「こうちゃん、こうちゃん!」が始まります。私は怒り心頭! ついに起きて父の部屋に行って、「真夜中の2時に何がほろほろ鳥じゃあ! これ飲んでさっさと寝て」(ときには「もう2度と起きなくていいから」と追加することあり)病院の先生にお願いして処方してもらっているメラトニン「ロゼレム」を口の中に突っ込んで寝かせます。ロゼレムは副作用がほとんどない体内時計調整剤ですが効果は2,3時間。夜なか中ハイテンションなくせに朝は早起きで6時頃からまた「おーい、朝飯はまだか?」の連呼が始まります。

食欲が元気の秘訣ですが、これが腎不全で人工透析を受けて命を繋いでいる95歳のじいさんとは思えません。

ある日、私が外出から帰るのが遅くなり、父の夕食を作る気力がなく栄養剤やヨーグルト、お菓子などでごまかして寝させたことがあります。翌朝は普通に朝ご飯を食べさせ透析に連れていき夕方帰ってきた父に「透析中、ウンチが出たりして困らなかった?」と尋ねました。定期的に飲んでいる下剤が効きすぎて粗相をしていなかったか心配だったからです。

親父の返事はこうでした。

「昨日はウンチの原料をいただいておりませんので」

2013年4月12日金曜日

春の食卓

 堀りたてのタケノコが出回るこの季節、春風に誘われて吉備路をドライブしました。満開の桃畑の向こうに佇立する国分寺の五重塔の涼しげな姿を見るたびに、こんなにも美しい風景を作り、守り、今日に伝えてくれた昔の人の美意識の高さに驚嘆します。日本中どこを探したって吉備路ほど秀逸な風景がさりげなく見られる場所はほかにないと思います。

吉備路まで出かけたら必ず寄るのが山手の農協直売所です。ここではスーパーの食品売場では味わうことができない、本物の食材、旬の食材を手にする喜びを感じることができます。さっそく新鮮なタケノコを買って帰り木の芽和えを作りました。

「木の芽」というのはサンショウの若葉のことです。家にサンショウの木が一本あれば重宝しますが、これがなかなか気むずかしい植物で園芸店で売られている挿し木苗はたいてい1,2年で枯れてしまいます。

ところが里山を歩いていると道路わきなどで、鳥が種を運んだものが自然に生えたいわゆる実生苗が見つかることがあります。こうした苗は自然の中で芽吹いただけあって強健で移植しても立派に育ちます。

さて話を木の芽和えに戻します。下ゆでしたタケノコを適当な大きさに切り酢味噌で和えるだけで、料理というほどのものでもありません。酢味噌はすり鉢があれば簡単にできしかもおいしいものです。洗いゴマをパチパチはぜるまで煎り、すり鉢に投入してよくすります。そこに白味噌、砂糖、酢、木の芽を適量加えてさらによくすればできあがり。

味噌は白味噌を使うのが通例ですが今年は1月に仕込んだ自家製味噌を使ってみました。白味噌でなくてもいい味がでています。タケノコを作りたての酢味噌で和えて小鉢に盛りそこに木の芽をあしらいます。

春の食卓のメインコースは魚がいいですね。メバルの煮付け、サワラの塩焼き、あるいは刺身など。そして汁ものは澄まし汁より手前味噌を使った味噌汁がおいしい。ワカメかアサリの汁に庭先に生えているミツバかニラを摘んできて浮かべます。

このミツバですが、これは数年前スーパーで買ったミツバの根の部分(スポンジにからみついている)を地植えしたものに花が咲き種が落ちて庭中に広がったものです。春の食卓にはサンショウ、ミツバ、ニラの香りが欠かせませんね。

新学期


 4月1日に合わせたように桜が満開になりました。久しぶりに岡山市の中心部まで出かけましたが、西川べりには色とりどりの春の花木が今を盛りと咲き誇っていました。岡山市も戦後60年が過ぎ、焼け野原から緑と水のきれいな素敵な都市に変貌しました。おだやかな都市の情景は長年平和と繁栄が続いた証(あかし)であるような気がします。

4月といえば新学期、毎年この時期になると書店にはNHKの語学講座テキストが山積みになって勉強熱心な視聴者を誘惑します。私はここ数年ラジオ中国語講座を飽くこともなく、やや漫然と聴いてきました。還暦を過ぎてからの語学の勉強ははかどらないのですが、それでも一人で中国へ出かけても困らない程度には中国語が身についたと思います。

もうこれ以上いくら初歩のラジオ講座を聴いても進歩はなさそうなので、今年は気分を変えてロシア語講座を聴くことにしました。学生時代に1年間勉強した経験からしてロシア語は中国語よりはるかに難しい言葉だと思います。そこで目標は低く設定、ロシア文字の看板が読め、オペラのチケットを買ったりホテルやレストランで用が足りればそれでいいと思っています。

 ロシアへは、ソビエト時代の1980年ごろ一度個人で旅行したことがあります。モスクワ空港の税関ではいきなり「別室ご案内」の恐怖を味わいました。当時の東ドイツのマルク紙幣をしおり代わりに日記帳にはさんでいたら「すべての持ち込み外貨の申請をすべきなのに虚偽申告した」とのおとがめを受けたのです。ソ連官憲の顔がマジ怖かったです。

しかし夜行列車でレニングラード(サンクトペテルブルク)に着き、ネヴァ川の両岸にたたずむ帝政ロシアの壮麗な宮殿やエルミタージュ美術館を見たときすべての旅の憂鬱が吹き飛んでしまいました。ドストエフスキーの主人公たちが放つ阿鼻叫喚、殺意、腐臭が今もただよう街!すべてが夢の中のようでした。

その後ソビエト連邦はあっけなく崩壊し、レニングラードはまたピョートル大帝の都に戻りました。新生ロシアは私が見たかつてのソビエト・ロシアから脱皮したのかどうか、片言のロシア語でもいいからしゃべれるようになっていつの日かサンクトペテルブルクを再訪したいと夢をふくらませています。

2013年3月30日土曜日

カラマーゾフの兄弟


最近見ごたえのあるテレビドラマがほとんどないのですが、フジテレビ系列で1月から3月にかけて放映されたドストエフスキー原作「カラマーゾフの兄弟」は毎回見るのが楽しみでした。原作からは大きく翻案されていて、舞台は日本の地方都市になっているし、登場人物たちの職業も現代風になっています。

ちなみに難解を極めるこのドストエフスキーの代表作が訴えたかったことをひとことで要約すると「罪の意識から愛の歓喜へ」(井筒俊彦著、「ロシア的人間」中公文庫版より)となります。日本で作るテレビドラマにそんな原罪だの魂の救済だのと小難しいことを求めても視聴率は取れないのでこれはあくまで日本のお話として楽しみました。

それでもストーリーは一応原作に沿っています。悪の化身のような父親と性格が異なる3人の息子がそれぞれ父親に対する葛藤と憎しみをかかえているという物語であることは皆様ご承知でしょう。ところが大邸宅には末松という料理人が住み込みで働いているのですが実はこの男は父がよその女に生ませた子供でテレビドラマでは父から捨てられたことを根にもって復讐の機会を狙っています。ある日父親が自宅で無惨な他殺体で発見され、状況証拠がはなはだしく悪かった長男が父親殺しの容疑で逮捕されます。実は真犯人は末松であり原作ではスメルジャコフという陰気な男です。

ドラマでは父親殺しで決定的に重要な人物である末松がほとんど最終回近くになってやっと本性をあらわすというストーリーになっていて、最終回は末松の独壇場でした。

長々とドラマの概略を述べてきたのですが、私も現在95歳になる父との葛藤の日々です。おおげさにいうと介護ストレスで私の命が父によって日々削り取られているような恐怖感さえときおり感じます。しかし父の人格の骨格部分は壊れてなく、見ていないようで物事の本質をきわめて正確に言い当てるのには驚かされます。

録画しておいた「カラマーゾフの兄弟」の最終回を父といっしょに見ました。父はこのとき初めてこのドラマを見たのですが、末松の悲劇をこのように語りました。(末松は)「子ども時代から笑うことを知らないで育ったからだなあ」と。ドストエフスキーの本質が読めてます。

2013年3月25日月曜日

発酵食品づくりの楽しみ

 
 私は幼いころから発酵食品に興味がある変な男の子でした。小学校4年のころ、「稲わらには納豆菌がいて大豆をゆでたものを藁包(わらづと)に包んでおくと納豆ができる」と子ども向けの百科事典に書いてあったのでさっそく試したことがあります。みごとに失敗しました。

百科事典の記載としてはまちがっていなかったのですが、細かな手順やコツ、ノウハウといったものが書かれてなかったのです。確かに稲わらには納豆菌が寄生しているものの数は非常に少なくそんなものでは納豆はできないこと、また納豆菌はかなりの高温に耐えることができるのでゆでたてのさわれないぐらい熱い大豆に納豆菌を仕込む必要があることなど一番大切な情報が抜けていました。

家にじいさんばあさんでもいたら伝統食品の作り方を伝授してもらえたのかもしれませんが我が家は核家族のはしりのような家庭で孤立無援。発酵食品がうまく作れるようになったのは大人になってからでしたが、大人の知恵でもってかかれば発酵食品づくりはとても簡単でした。ぬか漬け、たくあん漬け、白菜漬け、キムチ、奈良漬け、ヨーグルト、オリーブのピクルス、アンチョビなどなど。

そしてこの冬遅ればせながら生まれて初めて味噌づくりに挑みました。テレビの料理番組で大豆500グラムで作ると作りやすいと紹介されていたのを見てこれならできそうという気がしたのです。材料は大豆のほか、米糀(こめこうじ)500グラム、食塩250グラムだけ。

大豆を一晩水にかして、翌日ナベで柔らかくなるまで煮て、糀と塩を混ぜ、煮上がった大豆とミックスし、容器にぴっちり詰め込み重石をしてあとは夏が来て冬が来るのを待つのみです。

仕込んでからまだ2ヶ月しかたっていませんが、きょうホウロウ容器を開封してチェックしてみました。2ヶ所ほどわずかにカビが生えていたのでそれらを除去しついでに未完成の味噌をなめてみました。すでにまろやかな味の味噌になっていました!これから気温が高くなるにつれてどんどん熟成していくのでしょう。

人間が働かなくても微生物がいつのまにか絶妙な食品を作ってくれます。次は醤油を作ってみたいと夢をふくらませているところです。

2013年3月16日土曜日

3.11謝謝台湾


WBCは大変な盛り上がりをみせています。すでに侍ジャパンはチャーター機で決戦の地サンフランシスコへ旅立っていきました。これまでの日本でのいずれの試合もエキサイティングなものでしたが、なかでも対台湾戦は歴史的な名勝負でした。

手に汗をにぎる試合内容もすばらしかったし、それぞれのチームを応援する日本と台湾の観客の心が熱く通じたという意味においても、スポーツがもたらす最良の部分を体感できたのがこの試合だったと思います。

2年前の東北大震災の大惨事に対し、台湾はいち早く150億とも200億円とも言われる巨額の義捐金を日本に送ってくれました。それなのに昨年3月の政府主催追悼式で民主党政権は中国におもねて台湾代表を一般席に座らせるというとんでもない対応をしてしまいました。

そして、日本人として汚名を挽回する絶好のチャンスだったのが東京ドームでの日台戦でした。これまで台湾の人々にちゃんとお礼を言いたいと感じていた若者たちが試合会場で「台湾ありがとう」のプラカードを掲示しようとネットで呼びかけ、実際多数の「3.11謝謝台湾!」の手製プラカードが掲げられました。

日本のテレビ局はこれらのプラカードの存在をいっさい無視して画面に映さなかったのですが、台湾メディアは大きく取り上げ台湾中に感動の嵐を巻き起こしました。これは日本人が思っている以上のメッセージを台湾の人々に伝えることになりました。

現在、オリンピックなど国際的なスポーツイベントで台湾は「チャイニーズタイペイ」と呼ばれています。台湾の人々にとって屈辱的な呼称を甘受しているのが現在の非情な国際情勢です。ところが日本はマスコミも台湾をチャイニーズタイペイではなく台湾と呼んでいることがWBCのテレビ中継を通じて初めて台湾の人々の目にとまったらしく、この点も彼らが日本を親しく思ってくれるきっかけになりました。

極東地域で相互に尊敬でき心が通じる国は台湾しかないことを日本はもっと重視していかなければならないと思います。4月にはいよいよ岡山から台北直行便が運行を始めます。ただ週2便では予定をたてにくく、早期に週3便体制に移行できるよう多くの方々の活発な搭乗を県民の一人として願っています。