2014年5月28日水曜日

驚異的に若返った視力

 人間だれでも年を取ると目の老化に悩まされるものです。私は20代の中頃から軽度の近視になり、映画館や車を運転するときなど眼鏡をかけていました。当時の免許証には“眼鏡等”という記載がありました。また乱視も併発していて夜三日月を見ると三日月が4つか5つずれて重なって見えていました。

 その後40代終わりごろから老眼が始まりました。もともと近眼だったので老眼がそれを打ち消し、眼鏡がなくても遠くのものはよく見えるようになり、逆に地図や辞書の細かい字が見えにくくなりました。普通ならここで遠近両用の眼鏡を考えるところです。

 しかし眼鏡を購入することもなく視力に不便を感じながら過ごしているうちにだんだん目がよくなってきたのは驚きでした。長年免許証に記載されていた“眼鏡等”の条件も外れました。そして65歳の現在、遠くの景色もよく見えるし、パソコンや文庫本の文字はもちろん、スマホの極小文字も楽に読めます。

遠近ばっちり、視力に関する悩みゼロ。人間の生理的老化現象に反する奇跡が自分の目に起きたのです。私のような例がほかにもあるのかどうか文献を調べていないのでよく分かりませんが、たぶん医学の常識に反する珍しいケースでしょう。

 目が焦点を合わせるためにはレンズである水晶体が弾力性を保ち、水晶体の厚みを調整する毛様体筋が俊速で自由に緊張、弛緩しなければなりません。子どもや若い人の目はそのようにできています。 

老眼とは水晶体や毛様体が老化して固定焦点化する現象ですが、遠近ともにぴしゃりと焦点があう私の目は驚異の若返りをとげたということになるでしょう。もちろん手術や視力アップのための怪しげなトレーニングはいっさい受けていません。

 ではなぜそんなミラクルが起きたのか?“眼鏡をちゃんとかけなかったから”という以外思い当たることがありません。夜寝付けないとき暗闇の中でスマホを目に近づけて1時間ぐらいニュース記事を読みます。ドライブにもよく出かけます。つまりは目をよく使っているから健康な視力がよみがえったのでしょう。使わない機能はたちまち衰えます。視力において実現したことがなぜ私の脳味噌に起きてくれないのか?分かっています。使わないからです(笑)

老婆との夕食

 先日4年ぶりに知り合いのフレンチレストランに出かけました。カウンター席でかなり高齢のおばあさんが一人夕食を食べていました。シェフのお母さんかと思って話しかけたらお客さんでした。

こうして見知らぬおばあさんとの夕食が始まりました。もっともすぐ隣に座るのは遠慮しイスふたつ空けて座りましたが。老婆のご主人は97歳で近くの病院で過ごしているそうで彼女は毎日そのレストランで昼食と夕食をとっているそうです。

「常連なのでほかのお客の顔はみんな知っているけれど、男の人の顔は一度見れば絶対忘れないのに女性の顔は覚えられない。これは私が女だからだと思う。ところが毎日ご飯を作ってくれるここのマスターの顔だけは、家に帰ってから思い出そうとしてもどんな顔だかどうしても思い出せない。呆けが始まっているのだろうか?」と私に聞きます。

私はちょっと考えてから言いました「呆けの正反対でしょう。特定の人のイメージが結ばないというのは脳の中で複雑な情報処理がなされているからでしょう。感情の選別と選択的記憶ができるということは頭脳明晰な証拠です」。それにしても話の内容がちょっと謎めいています。いったい若いころ何をしていた人なのか職業を尋ねてみました。

「私も主人も生涯一度も働いたことがありません。親からもらった株の配当金で生きてきました」。岡山にも鳩山兄弟のような優雅な人が戦中戦後のきびしい時代にいたのですね。世間など気にもせずに生きてきた強いオーラが彼女の全身から立ちのぼっていました。

お客がみんな引き払ったあとシェフに「上品な方ですね」と言ったら、意外にもシェフは「そうですか?」と彼女の上品ならざるひととなりを聞かせてくれました。ちょっとかなわないなあと思っているようです。

そこで初めて冒頭のおばあさんの質問の謎が解けました。毎日食事を作ってくれるシェフではあるけれど心の中では「品のないバアサン」と思っている……そうした複雑な気持ちが無意識に作用して「顔が思い出せない」のでしょう。この老婆のすべてが現役の女性なのですね。

色気、食い気、お金に対する執着が実り豊かな人生をまっとうする秘訣であることを私はこのスーパー婆さんから学んだ気がしました。

「年の差婚」考

 現在放映中のNHKの朝ドラ『花子とアン』はいつもの女立志伝のワンパターンから逸脱しない作品です。最初見てなかったのですがこのごろ何やら面白くなってきて今では毎日熱心に見るようになりました。

貧農の家に生まれ場違いなお嬢様学校で英語を勉強している花子に受け入れがたい事態がおきました。“腹心の友”の伯爵家令嬢が九州の炭坑王と見合い結婚するというのです。花子は親友がお金のために親ぐらい年齢の離れた成金と愛のない結婚するのを黙って見ておれません。必死に思いとどまらせようとします。

ところが裕福な家に育ったといっても家庭的な愛を知らない蓮子は花子より5歳も年上で、しかもすでに一度結婚して出戻りしている苦労人です。人生は乙女チックな夢想のようにはいかないことを蓮子はよく理解しているのです。

伯爵家の財政的窮地を救うために泣く泣く承諾した人身御供のような結婚が果たして花子が思うほど本当に不幸なことかどうか、それはこれからのお楽しみです。

蓮子の結婚のような年の離れた金持ちとの婚姻に対して花子ならずとも多くの人が嫌悪感をもつようですが、結婚が意味する社会的、経済的仕組みとして、年の差婚はそんなに悪くはない、と私は思います。

フランスの小説などでは上流階級の年の差婚がよく主題になります。金も権力もある初老の男がずっと若い女と結婚。そのうち夫は死に妻は莫大な遺産を相続する。未亡人は若いツバメと再婚、やがて年老いた妻は夫に財産を残して死ぬ……。

つまり世代がずれた結婚はなかなか合理的なのです。夫か妻が死ぬとき配偶者は元気で財産の管理も相続もちゃんとできます。“愛の問題”はノープロブレム。上流階級では若い妻や若い夫が外で遊ぶのは見て見ぬふりをするのがマナーなのです。あくまで小説の世界の話ですが。

しかしこの年の差婚は現代においてこそ意味があるのではないでしょうか。同年代の男女が結婚するとどちらもいっしょに年を取り、いっしょにぼけてワヤです。

花子のような浅はかな若い女性に考えてもらいたい。若いだけで金も知恵も生活力もない男より蓮子の夫のように財力も経験もありその上老い先そんなに長くなさそうな男性こそ理想の結婚相手であると。

2014年5月11日日曜日

父の愛

 韓国のフェリー沈没事故は事故発生から3週間以上が経過しているのにまだ行方不明者の捜索が続いています。大震災の被災者でもないのに寒々とした体育館でわが子の帰りをまっている家族があわれです。なぜ家族にせめてホテルの部屋を用意しないのか、船会社や政府の冷たい仕打ちにはあぜんとするばかりです。

日本でも痛ましい水難事故がありました。新潟の海辺で遊んでいた子どもたちが引き波にさらわれ、助けようとした若者も水死しました。“水は怖い”ということを大人は子どもに徹底的に教えなければならないと思います。小さな子どもが波の高い海岸で遊んでいるところを大人は目撃もせず注意もしなかったのでしょうか。

昔と違って現代の日本の風潮としてよそ様の子を注意したり叱ることはきわめてしにくい雰囲気があることはよく分かりますが、いったん水難事故が起きたら失うものがあまりにも大きいものです。

私は岡山市郊外の周囲にたんぼや小高い丘、池や川がある自然豊かなところで育ったのですが、父(96)は決して子どもが池で泳ぐことは許してくれませんでした。「池の底はすり鉢状になっていて急に深くなる。川よりもずっと危険」と力説していました。父は水辺だけでなく子どもが喜びそうな食べ物にも警戒心を怠ることがありませんでした。

昭和30年代、小学生のころのことです。毎年七夕になるとふだんあまり人気のない妹尾(岡山市南区)の町に夜店がずらっと並びイカ焼きのいいにおいが通りにあふれます。ところがこれも父に言わせれば「不潔この上ない代物」で食べると赤痢になると真顔で力説し、その迫力に負けて一度も買い食いできませんでした。

子ども心にそんなことを気にもしないよそのお父さんをうらやましく思ったりもしたのですが、実際、夏休み中に小学生が古井戸に落ちて死んだり池でおぼれ死ぬということがありました。大きなニュースになることも、親が行政や学校に責任を転嫁することもなく、小さな遺体には粗末なコモがかけられていました。赤痢が大流行したこともあります。

子どもの悲しいニュースを聞くたびに水難事故や食中毒、感染病から私を守ってくれた父の愛を遅ればせながら感じるこのごろです。

韓国フェリー事故と韓国紙


未曾有の大惨事になった韓国のフェリー事故。第一報をテレビで見たときはまさかあのまま500人近い乗客が船もろとも沈没してしまうとは思いもよりませんでした。しかし事態は乗務員の現場放棄、救援当局の初動の遅れのなか一気に悪化し、422日時点で救助されたのはわずか174人、300余名の高校生らが犠牲になりまた行方不明となっています。

事件発生以来、ネットに無料掲載されている韓国紙「中央日報」日本語版で事故の詳報と救援活動の様子を連日追ったのですが、“責任者”たちの行動の異様さ、無責任ぶりには唖然としっぱなしでした。しかしそれを伝える中央日報などマスコミの論調そのものも奇妙でした。

社説や論評を通して救援活動に適切なアドバイスをするでもなく、論調にはある種、陶酔感が満ち満ちているのです。悲劇の主人公になったような気分なのでしょうが彼らはもちろん当事者ではありません。

政府高官の行状を批判し、逃げ出した船長、航海士や機関士をののしり、「韓国のような先進国でなぜ?」と訝(いぶか)ってみせたり、はたまた「韓国は3流国だった」と自虐的な記事を書いたりしているのですが、要は評論家気取り、高みの見物というスタンス丸出しです。

この奇妙さはいったい何なのかと思います。東北大震災のときの日本のマスコミ報道も決して手放しで誉められるものではなかったのですが、少なくとも被災者の心に寄り添おうとする気持ちはどの記事からも感じられました。こうした点が韓国と日本の報道の根本的な違いであるように思えてしかたありません。

乗客を置いて一番に逃げ出し、水に濡れたお金を乾かす船長のおぞましい限りの醜態。事故対策を指揮する安全行政省の高官は現場の死亡者名簿の前で“記念写真”を撮って遺族の怒りを買い着任からたった4時間で解任。事故発生直後に日米など外国の援助申し出を拒否し、今になって官僚をなじり、「船長の行動は殺人に等しい」と感情をあらわにする大統領。こんな大人たちに殺された300人の若い犠牲者が哀れです。

号泣し、怒りをぶちまける家族を「国民のレベルが低いから国のレベルも低い」とあざ笑う与党セヌリ党国会議員の息子というのもいました。必ずしも的はずれとは言えないだけにコメントしようがないです。