2014年10月15日水曜日

高橋大輔引退を惜しむ

 
 

  高橋大輔に出会った人は例外なく彼を賞賛します。直接接した人もフィギュアスケートの映像を通して大輔とともに幸せな数年をともにした人も。賞賛は高橋の華麗な演技に向かうと同時に、高橋の素敵なパーソナリティーにも向かいます。


岡山で引退会見をしたもようが朝からワイドショーで繰り返し流されています。「高橋を育てた3人の母」とか「ケガを乗り越えて」のようなお涙頂戴の切り口は愛嬌ですが、本人は苦労を苦労と感じない根っからの明るい若者という気がします。

そういう舞台裏の事情はともかくひとたび高橋がリンクに立つと世界中の人が高橋の演技に魅了されてしまいます。何か特別な才能と感覚をもった特別なスケーターが高橋。

その何かとはスポーツと芸術を完全に融合させてみせる彼の天才に他なりません。長いフィギュアスケートの歴史を振り返ってみて高橋に匹敵する芸術的な演技を見せてくれたのはカルガリー・オリンピック(1988)で金メダルを取った旧東ドイツのカタリナ・ヴィットぐらいしか思い当たりません。

カルガリー大会では日本の伊藤みどりが5種類の3回転ジャンプを7度決め2万人の観客からスタンディング・オベーションを受けたのですが、芸術点が低く抑えられて5位入賞でした。そのとき伊藤みどりについて感想を求められたヴィットは「ゴムまりみたいにぽんぽん飛ぶだけではダメ」と辛辣なことを言いました。

ジャンプでは伊藤みどりにかなわなかったヴィットの悔し紛れの言葉だと長いあいだ思っていましたが、トリノ・オリンピック以来の高橋のパフォーマンスを見てカタリナ・ヴィットが言いたかったことが分かるような気がしました。ジャンプがすべてではないと。

フィギュアスケートはスポーツ競技というよりバレエのような身体による表現芸術そのものではないかと思います。いっそ4回転ジャンプしてもいっさい加算されないルールにしたらあと数年我々は高橋大輔の身体パフォーマンスを見続けることができたのに!引退が惜しまれます。

スローモーションで見ると高橋大輔は足だけではなく頭、頭髪、目、首筋、肩、腕、手、指先、背中と身体のすべてを使って演技しています。氷上の能舞台。幽玄の世界です。

岡山の出番


 

 
岐阜県と長野県の境にそびえる御嶽山が突然水蒸気爆発を起こし10月2日現在で47人の方が亡くなりました。思いもよらない突然の悲劇であり、火山事故としては雲仙普賢岳の火砕流(1991)による犠牲者数を上回って戦後最悪の事態になりました。


御嶽山の爆発直後から、日本にはこんなにも大勢の火山学者がいたのかとびっくりするぐらい多くの専門家がテレビに登場していますが、ほぼ全員が口をそろえて「爆発は予知できなかった。今の予知能力のレベルはこんなものだ」と開き直りともとれる発言を繰り返しています。

莫大なお金を火山研究に投入しながら「こんなもの」程度の予知しかできず登山客に警告すら発することができないのなら、そのお金ですべての活火山にシェルターや頑強な避難施設を作ったほうがよほどマシです。

東北大震災の結果、日本という国土を曲芸のようにバランスを取りながら載せている4枚のプレートが大きく動き、あらたな歪みを生じさせている現在、あちこちの火山が不気味な動きを見せています。富士山が爆発し首都圏が壊滅状態になることが必ずしもSFの世界の話ではなくいますぐ起きても決しておかしくないのが日本の現実です。

 東京が地震や火山噴火で機能しなくなったときそれがそのまま日本の終わりであってはなりません。そこで注目をあびるのがこの岡山ではないでしょうか。安定したユーラシアプレートの上に載っている岡山県には活断層がほとんどありません。

交通インフラが整い、世界中どこにでも直行便を飛ばすことができる空港がある、火山がない、原発がない、水は豊富にある……長らく中断している首都機能移転論議にとって岡山、それも岡山空港を取り巻く吉備高原都市以上に理想的な土地は災害列島のどこにもありません。

伊原木県知事は「もんげー」などという下品な岡山弁まで繰り出して岡山の売り込みに躍起になり東京まで農産物の宣伝に出かけられていますが、岡山の一番の売りは千年、万年のスパンで破局的自然災害から免れたこの土地柄そのものです。

いつでも首都機能をもってくることができるよう準備を今すぐ始めても決して無駄にはならないと思います。県知事様、いかがでしょうか?