2015年2月19日木曜日

日本上げ番組

  このごろ何気なくテレビのチャンネルを変えていて「日本はスゴい!」といったたぐいの番組にお目にかからない日がありません。最初のころは外国人が日本の美しい景色を絶賛したり、旅館のおもてなしに感激したり、落とした財布がちゃんと返ってきたと言っては日本の民度の高さは恐ろしい!などと感嘆するのを聞いてこちらもいい気になっていました。

しかしこの度を超した日本ヨイショ番組の洪水はどうしたことでしょう。確かに番組はウソもやらせも誇張もなしに真実を伝えているし、中国などに2,3日滞在すればいかに日本のサービスがきめ細やかで徹底しているか痛感するのも事実です。

でも私は中国人が道ばたでも地下鉄車内でも大声を張り上げ、釣り銭は投げてよこし、ホテルのチェックイン、チェックアウト時ににこりともしない服務員の態度もきらいじゃありません。すべてが単刀直入。こちらが何かを要求したり不満を述べるのに何の遠慮もいりません。道を歩いていれば空気が悪いせいもあって小粒の牡蛎のような痰がでそうになります。そんなとき中国人のように勢いよく「ペッ」と道路脇の植え込みめがけて痰を吐き出す快楽!(良い子は決して真似しないように)

人々は共産党独裁政府のいいなりにならず公序良俗などくそ食らえ、交通当局が推奨する「文明乗車」(整列乗車)もなんのその。常に乗る客と降りる客のぶつかり合い。風流だの情緒より金、金、金。実に単純で分かりやすく隠微なストレスにさいなまれることはありません。

日本のテレビ局がたくみに演出する気配りのニッポン。でも私はときどき窒息しそうになります。不仲な兄一家との軋轢、町内会の仕事、ゴミステーションに目を光らす近所のおばはん。長年在宅で介護している母に異変が生じて病院に連れていきたくても素直に同意してくれない訪問診療医との戦い(メンツをつぶされるとでも思うのか?)。

ある外国人が首をひねっていました。昼過ぎに宿に着いたが部屋の用意はできているのに“チェックインは3時から”の一点張りには閉口したと。万事きめ細かなマニュアルに支配され、本当の意志疎通を拒否しがちな日本。それはニッポン、スゴイの裏返しの窮屈で偏狭な我がニッポンの素顔なのです。

背筋が寒くなるお話

「イスラム国」によるテロ(というより宣戦布告なき戦争)に世界中がぴりぴりしているさなか、私はただいま上海に来ています。地下鉄駅に制服警官が配置されセキュリティチェックがきびしくなっているくらいしか緊張感が目につくことはありません。

地下鉄の改札口で手荷物のエックス線検査があることは前回もご紹介しましたが、庶民も負けてはいません。とりわけ若い女性は強いと感心するのは、背中にリュックサックを背負った若い女性が係員の指示を断固拒否してエックス線検査を受けずに強行突破するところを一度ならず目撃しました。(岡山弁:おなごはしぶてえ!)

まあ、検査する係員も客足が絶えるとスマホでゲームに熱中しているのですからいい勝負です。庶民の我(が)が強く万事融通がきくのがこの国のいいところであると思います。日本人は何事につけ一生懸命過ぎて息苦しくなるのではないでしょうか。

セキュリティ対策といっても目に見えるものはこの程度ですが、目に見えない対策こそ本命で、私もこのたび背筋が寒くなる体験をしました。

中学校の同期の連絡と親睦をかねて昔からML(メーリングリスト)を作って意見交流しています。今回の上海滞在中にもいろいろ見聞きしたことをMLに投稿していたのですが、ある瞬間を境にメールがブロックされるようになりました。メンバーの一人が投稿した内容に1980年代最後のころ北京で起きた○○○事件の5文字があり、そこにフィルターが反応したようなのです。

それからというものメールを送って「送信済み」になっても相手に配送されません。聞くところによると就職難にあえぐ理工系学生を数万人雇ってネットの監視をしているとか。コンピュータがはじき出した○○○事件は特に中国政府が神経をとがらせているイシューなのです。

私が出したメールは24時間もかかって相手に届きました。日本語を読んで解析するのに手間がかかるのでしょう。そこで私は次からメールの冒頭に以下のように書き添えました。「当局の皆様、お仕事ご苦労さまです。私は監視される値打ちもございません。検閲は速やかにお願いいたします」 その甲斐がありました。このメール以降瞬時に日本に届くようになりました。

2015年2月4日水曜日

テロと日本の安全

 「イスラム国」による日本人人質事件は最悪の結果になりました。かつて大騒動になったイラク人質事件(2004)のときは“自己責任”論が政府サイドから発せられ、またマスコミを通じて評論家たちが声高に3人の人格や行動を糾弾したものです。

救出に要した費用を負担すべきだとか帰国便の航空運賃を払えなどと涙が出そうなくらいみみっちい議論がまかり通っていました。ところがイラクの混乱を引き起こした当事国であるアメリカのパウエル国務長官が「より大きな、よりよい目的のためにリスクを取る若者が日本にいることを日本は誇りに思わなければならない」と発言して急にバッシングの嵐が収まりました。

当時に比べると今回は自己責任論がほとんど出なかったのは、安倍首相が「邦人保護は国の義務」、「移動の自由は憲法が保証している」と明言したのもひとつの理由でしょう。しかし後藤健二さんのこれまでの業績が伝えられるにつれ、誰も後藤さんの行動を非難できない、日本にとっても世界にとってもかけがえのない人を失ったという思いを我々が共有しているからだと思います。

事件は一応の終結を迎えたのですが、やっかいなことにイスラム国は日本をテロの標的にすると公然と宣言しました。

お隣の中国はさまざまな理由で常にテロの危険をはらんでいます。地下鉄の改札口では荷物はすべてエックス線装置に通さなければなりません。長距離列車はまるで空港で飛行機に搭乗するような手順のセキュリティ対策が徹底されています。

今回の事件を受けて政府は入国審査の強化や重要施設の警備強化を打ち出していますが、そのうち新幹線に乗るにも中国並のセキュリティ警戒レベルが設定されるのではないかと危惧しています。もしそうなったら現在のように5分おきに新幹線を発車させることは不可能になります。

交通機関だけでなくあらゆる日常生活の場面でセキュリティに関わるコストが増大することはもはや避けられない時代に突入したのかもしれません。ほんの40年ほど前まで飛行機に乗るのに何のチェックもありませんでした。もうそんな時代は夢のまた夢ですが、今でも世界でもっとも安全な国である日本がこの先いつまでも日本人にとっても旅行者にとってもほっとできるいい国であることを願わずにはいられません。

震災20年(下)


 阪神淡路大震災のころのことを振り返ってみて、当時決定的に欠落していたのは正確な情報の把握と情報伝達システムだったと思います。

昔から「関西では巨大地震は起きない」という神話がまかり通っていて住民はもちろん行政当局も直下型地震を想定していませんでした。地震のあと専門家達がこぞって「阪神間に大きな活断層があることは地質学の常識だ」などとしたり顔で解説していて本当に腹がたちました。

今の若い人達には信じられないことでしょうがたった20年前の日本には携帯電話もインターネットもなかったのです。地震の発生が東京の首相官邸に伝わり政府が動き出したのは地震が起きてから数時間も経過してからでした。

それでも当時、日本を含め欧米先進国の大学や大企業にはインターネットの先駆けとなっていたコンピュータ・ネットワークがあり研究者は自由に情報をやりとりしていました。マスコミの報道からはよく分からない神戸の最新の情報はこのネットを経由して全世界に伝えられました。

ネットには掲示板があり、「神戸の親戚と連絡が取れない。マンションもすべて倒壊しているのか?」などという切実な質問が多数ありました。私は自分の目で見た被害の概観を短くまとめて発信しました。「神戸が消えてなくなった訳ではない。倒壊した家屋の多くは老朽木造建築であり、新築家屋や高層マンションは基本的には無事である」と報じました。この報告はすぐにネットで共有され多くの人から感謝されました。

2015年の現在、情報処理、伝達の仕組みは神戸当時とは比較にならないぐらい進化をとげています。しかし2011年東北大震災とともに発生した福島原発事故ではせっかくの情報が住民の避難に適切に活用されませんでした。

避難地域をコンパスで描いた同心円で区別し半径10キロ、20キロというぐあいに避難勧告や立入禁止措置を定めていました。放射能の影響が原発から同心円で拡散することはありえません。原発から西北方面に位置する双葉町、浪江町、飯館村方向に積算被爆量が甚大であったことは当初からSPEEDIや外国の研究機関の報告から明白だったのにずっと後まで行政は同心円で対応していました。肝心の情報を小出しにしかしない不幸な情報大国日本です。

震災20年(中)


 神戸がまさに壊滅状態になったその日、無謀にも車で神戸に出かけ、姪の無事を確かめて直ぐさま大阪へ引き返すことにしました。

姪のマンションのすぐ近くで火災が起きていました。消防車が1台来て2階建ての家に放水しています。プールや防火用水から水を取っているのですが水はすぐ底をつきます。すると火勢が以前にも増して強くなり到底鎮火するとは思えません。

不思議な光景でした。ふつう火事と言えば野次馬が集まりぼやでも消防車が何台も駆けつけ大騒ぎになります。今まさに目の前で住宅がはげしく燃えているのにそんなものを見ている人はいません。私ひとりがじっと火の手が勢いを増す様子を観察していたら、消火活動をしていた若い消防士が私に声をかけてきました。

火事場見物していないですぐに立ち去るよう言われるだろうと予想していたのですが消防士の言葉はまったく意外でした。

「消防車の中にパンと水があるからどうぞ」

おそらく、絶望的な様子で火事を見ていた私のことをその家の住人だと思いねぎらいの言葉をかけてくれたのでしょう。恥ずかしさで真っ赤になりながらも感動しました。この状況の中でなおも人を思いやる優しさを失わない消防士。静寂のなか執拗に燃え上がる火を前にしてなすすべもない消防士の絶望が彼の優しさに姿を変えていたのでしょう。

パンをもらう資格などない私は再び車のエンジンをかけ大阪に向かいました。ところが国道43号線の真上にあった阪神高速道路は倒壊し、43号線も通れません。すべての車が2号線に押し寄せ1時間に100メートルぐらいしか進まない状態が大阪までずっと続きました。

動かない車から外を見ていたら、傾斜したまま踏ん張っていた4階建てのビルが余震とともに突然めりめりと倒壊しました。路面は盛り上がりめくれたアスファルトに車の腹が当たります。ふだん大阪まで車で30分で着く距離を結局10時間かけてたどり着きました。

大阪の光景を見て再び目を疑いました。神戸の惨状がうそみたいに何もかもふつうに機能していました。電車が走り、食堂が営業し、パチンコ屋だって明かりがこうこうと。直下型地震の恐ろしさ、不公平な仕打ちには愕然としました。(続く)

震災20年(上)

 1995年1月17日午前546分、大阪の淀川べりに立つ30階建てのマンションが突然ギシギシと激しく揺れました。あまりの激しい揺れに私はマンションの上層部がぽっきり折れて今にも建物全体が崩壊するのではないかと本気で心配しました。

すぐにテレビをつけたのですが、震源は淀川上流の京都というニュースが流れていました。地震の規模が大きすぎて本当の震源地のデータが伝わらなかったのです。

窓の外を見るとようやく白みかけた神戸・六甲山方向に黒煙が立ち上り、そのうちテレビに倒壊した阪神高速道路のすさまじい光景が写し出されました。これが地獄の年月の始まりの日の最初の記憶です。京都・大阪方面から何機ものヘリコプターがどんよりした空のもと神戸方向に飛んで行くのが窓から見えます。

とっさに神戸の女子大に通っていた姪の安否が気遣われました。学生マンションが倒壊して下敷きになっているのではないか?無事であるにしても水や食料がなく困っているのではないか?などと心配になり、私は食べ物や水を車に積み込んで神戸に向かいました。

国道2号線では救急車、消防車に混じって自家用車や商用車、トラックなど何の規制を受けることもなくふつうに走っていました。ただ異様な光景として今でも目に焼き付いているのは2号線を大阪方面に向かって黙々と歩いているおびただしい人々の群です。

姪が住んでいる東灘区に近づくにつれ建物が倒れているだけでなくあちこちで火災が発生しています。そのすぐそばを通り抜けながら姪のマンションに3時間がかりで到着し、部屋をノックしました。姪の返事があり部屋から顔を出しました。そしてびっくり仰天。テレビが吹っ飛び、家具や本、食器が散乱した修羅場に何と男子学生の姿があるではありませんか。ボーイフレンドがちゃんと駆けつけていたのです。

「何だ、心配して大阪から駆けつけることもなかった。お邪魔しました。水と食料はここに置いておくから」と言ってすぐに大阪へ帰ることにしました。ところが帰路は信じがたい渋滞です。当時はまだ救急車両優先の考えもなく、私自身車で出かけたことを反省もせず、いつになったら大阪に着くのだろうと自分のことばかり考えていました。(続く)