2017年10月25日水曜日

20年ぶりのカナダ訪問(6)


 カナダの親戚縁者の中にレスリーとマイケルという40代後半の双子がいます。姉のレスリーは若いころ英語教師として鳥取県の米子に1年間滞在したこともあります。帰国後は企業コンサルタントとして活躍し、ごく最近牧畜業をしているクレイグという日系人と結婚しました。お互い再婚同士で亭主には前妻との間に3人の子どもがいて、そのうち末子のブロディ君は親の新婚家庭に同居しています。アルバイトをしながらいい就職口を探している青年です。
 レスリーたちの新居はプールとかテニスコートこそないもののまさに豪邸。その大きな家の中にブロディの部屋があるのですが、レスリーは私にこんなことを言いました。「ブロディはいま職探しをしているが、私は彼から家賃をもらおうと思う。もちろんそのお金は彼の将来のために積み立ててやるつもりだけど」。
 「いくら義理とはいえ、職探し中の息子から家賃を取るつもりか?」というのが私の率直な感想でしたが、そのあたりに万事ゆるゆるの日本と違ってお互いの自立を大切にするカナダ流の考えがあると感じました。これはカナダに限らずほとんどの外国で共通の発想法でしょう。レスリーによるとその新築豪邸は夫のクレイグと折半して購入したそうで、それぞれの共有財産という観念が強いようです。したがってすでに成人に達した子どもが居候するのはかまわないが家賃は当然発生する、ということになるのでしょうね。
 さてレスリーの双子の弟マイケルには軽い発達障害があるのですが、ちゃんと大手のレストランで働いて自立しています。彼の家も見せてもらいました。約100平米はあろうかという一人で生活するのにはもったいないような部屋です。えんじ色にこだわりがあるとかでインテリアのすべてがえんじを基調としています。
 そんなマイケルの家ですが、実はこれは姉のレスリーが所有している物件で、彼女は弟に光熱費込み月1000ドルで貸していると言っていました。これは当然のことでしょう。

 今回の旅ではカナダのいろんな側面を垣間見ることができましたが、“すべての人がその能力に応じてきちんと生活できる社会”これこそカナダの強みだとの思いがいっそう強くなりました。とまれ、20年ぶりのカナダ旅行のご報告はこの辺りでひとまず終わりにしたいと思います。

2017年10月18日水曜日

20年ぶりのカナダ訪問(5)

 アルバータ州カルガリーはロッキー山脈を西に望む大平原のど真ん中にできた都市です。町の真ん中をボウ川が流れています。バンフ国立公園に源を発するこの川はマリリン・モンローの名画、「帰らざる河」のロケが行われたことでも有名。またこのあたり一帯は恐竜の化石が大量に出る場所として世界的に有名です。
カルガリーの主要産業は石油、天然ガスの採掘、精製関連事業でカナダ全体の9割を生産し、豊富な富をアルバータ州にもたらしています。
 面積的にいうと、カルガリーの市域は726平方キロもありこれは東京23区より100平方キロメートルも広く、そこに約100万人が住んでいるだけなので、住宅地の価格は日本とは比べることができないくらい安く、家を建てる人は資金のほとんどすべてを家屋そのものと立派な設備、家具等につぎ込むことができます。
道路と住宅に関しては、日本は私権が強く歴史と伝統でがんじがらめ、行政もなかなか機能しない現状をカナダと比較しても仕方ありません。逆に日本の方がいいなと思ったのは医療です。アメリカ合衆国と異なり、カナダではメディケアと呼ばれる国民皆保険制度があり、原則として患者の自己負担なく医療が受けられることになっています。これだけ聞くと日本よりすばらしいように思えますが、歯科治療は対象外であったり実際はなかなか大変なようです。
従姉のヨリコは80に近いのですが、長いあいだ白内障に苦しんでいます。日本では白内障など眼科を受診して1週間もしないうちに手術を受けることができるでしょう。ところがカナダではこれが1年超待ちなのです。老後の貴重な1年を目がよく見えない状態で暮らすのは大きな損失です。なぜこんなことになるのかと言えば、どうやら政府による医療費削減政策が主因らしいです。
これは救急医療でも同じことで、救急車で病院に運ばれても8時間もストレッチャーに乗せられたまま廊下で待たされているうちに直ってしまい、診察は受けずに帰宅したなどという笑えない話もあります。

日本でも首都圏では病院不足でせっかく早期ガンが見つかっても専門病院での治療開始まで3ヶ月待ちなどという話を聞きますが、こと医療に関しては日本のしかも大病院が林立するこのふるさと岡山で老後を迎えていることに安らぎを覚えます。(続く)

20年ぶりのカナダ訪問(4)

 バンクーバーで乗り換えに手間取り、滞在先の親戚に連絡していた便には乗れず、結局2時間以上遅れてカルガリーに到着しました。空港には従姉夫妻が迎えにきてくれていて再会を喜びあい、15分ほどのドライブでシニア世帯限定のヴィラの一角にある従姉の家に到着しました。
行く前に想像していた住居とはまったく異なり、総戸数60軒ほどの家がゆったり配置されたフツウの高級住宅街でした。ヴィラの住人は全員55歳以上であるのが一般の住宅街と異なっていて、昼間ほとんど人通りもなく、シーンとしているのが私には少し寂しく感じられました。
 家は典型的な北米スタイルで平面フロアーと半地下フロアーの2層になっていて、私には半地下のフロアーにあるベッドルームが用意されていました。半地下と言っても日当たりのいい窓からすでに赤や黄色に染まった庭木が澄み切った空を背景に風にそよいでいるのが見えて落ち着きます。初日は長旅の疲れと時差ボケがひどく早々と快適なベッドに潜り込みました。
 翌日の昼、従姉の娘夫婦や姪や甥っこ(といってもすでに50代後半ですが)訪ねてきたので、台所を借りてハヤシライスを作って食べてもらいました。日系の人たちに限らず、彼らが知っている日本食といえば、寿司、天ぷら、ラーメン、焼き鳥などがポピュラーで、意外にもカレーやハンバーグ、トンカツなど日本の洋食メニューについてはそんなものが存在することすら想像できないようです。私のハヤシライスは大好評で大鍋一杯作ったのが完食でした。
 カルガリーに滞在中、従姉の甥や姪の家にもお茶に呼ばれましたが、どの家も本当によく片づいていて、マスターベッドルームからユーティリティ、地下のボイラー室に至るまで家の中を余すところなく見せてくれます。来客にすべてを見せるのには何らかの歴史的あるいは社会的、心理的動機がきっとあるのでしょう。
 「この家に滞在するあなたの安全は保障されています。間違っても隣の部屋でナイフなんか研いだりしてません」というメッセージが隠れているのかもしれません。(学生時代からの畏友ISさんのご意見を採用させてもらいました)
滞在中どの家に泊めてもらっても朝、目が覚めたときいつも「ここは高級ホテルのスイートか?」と勘違いするくらい彼らの住まいに対する執念には圧倒される日々でした。(続く)

2017年10月11日水曜日

20年ぶりのカナダ訪問(3)


ただいまカナダ、アルバータ州カルガリーに滞在中です。たった1週間の留守中にも日本の政局はちゃぶ台返しの大混乱。ここアルバータ州でも州都でテロが起き大騒ぎです。到着したときは半袖だったのに、カルガリーには大雪予報が出て帰国便の遅延、欠航が心配されます。
さて、久しぶりのカナダ旅行は、いつもの上海など近距離直行便による旅行と違って、バンクーバーでの国際線から国内線への乗り換えをともない、ハプニングと緊張の連続でした。
航空券は旅行代理店のホームページで購入、発券されたものでしたが、なぜか乗り継ぎ時間はたった80分しかありません。関空のエアカナダ・カウンターで、乗り継ぎは大丈夫か確認したら「大丈夫だからこそ発券されたはず」と何だか頼りない。飛行機は20分遅れで離陸し、9時間後バンクーバーに定刻より20分遅れで到着。昔とは様変わりした到着ターミナルを右も左も分からないまま入管エリアに急ぎました。
パスポートチェックと税関申告はセルフサービスで何とかうまくいきました。出発前あれこれ心配した食品持ち込みの件は、悩むほどのことではありませんでした。プリントアウトされた申告書の印字が薄すぎて質問にYES と答えようがNOと答えようが判読不能なのです。出口で待機している税関職員もそれを機械的に受けとるだけ。カレールーも手作り味噌もほかのお土産ともども無事通関できました。
しかし国内線乗り換えに関しては、エアカナダのホームページに書いてあった説明と異なり、乗り継ぎ時間が90分以下のお客への優先サービスなど一切なく、結局予約便には乗り遅れ。スタンバイすること2時間超、3番目のカルガリー行きにやっと乗ることができました。 20何年かぶりのカナダ旅行なのに高揚した気分は一気に失われました。

予約便やスタンバイ便の搭乗ゲートが無慈悲にも立て続けに閉じられていくのを見るにつけ、日本の懇切丁寧かつ確かな情報に基づく旅行サービスを外国でも期待することなど最初から間違っていたことを再認識させられた私のカナダ旅行はこうして始まりました。(続く)(2017/10/3記)

20年ぶりのカナダ訪問(2)

 カナダ旅行の出発日をあさってに控えなんとか準備も整ってきました。宿泊場所に関しては、向こうに着いてから考えるという子どもっぽいやり方はやめにして、先日訪問先の従姉妹に電話し単刀直入に尋ねたところ、「No problem! ぜひうちに泊まってちょうだい」のお言葉でした。実際、ツイン主体のカナダのホテル料金は割高で少し悩んでいたのです。つくづく手頃な料金で清潔、機能的なシングルルームを全国すみずみまで大量に供給している日本のビジネスホテル業界には感嘆します。
 ここ20年ほど北米に行っていないうちに空港での諸手続が様変わりしました。アメリカ旅行でおなじみのESTA(電子渡航認証)と同様のシステム、eTAがカナダでも導入され、カナダ政府の関連ホームページを開いて認証を取りました。この種のビザ申請やビザ代替手続きは一度拒否されたり失敗すると生涯祟るのでパソコンを操作する手が緊張で震えます。名前、パスポート番号、有効年月日等の質問に綴りや数字をまちがえないように記入します。やってみると簡単でした。手数料の支払い手段はクレジットカードのみ、7カナダドルで有効期間は5年です。
 さらにバンクーバー国際空港では今年の8月から入国審査および税関申告が自動化されました。飛行機から降りて入国審査場に行くと、キオスクと呼ばれる専用端末機が並んでいて、旅客は①パスポートの写真があるページをスキャンさせる、②顔写真を撮影、③画面上の税関申告書に入力、そして出てきたレシートを係官に渡すだけ、という手順です。
③の税関申告については事前にスマホにアプリを入れて搭乗し、到着前に機内で記入すると即座にQRコードが生成されるので、それをキオスク手順③のところで機械に読み込ませればOKとのことです。

 要は何も問題がなければ長時間待たされることなく入国手続きが終わるというのがカナダ入管当局のご自慢です。そこには英米社会で重視される“人はウソの申告をしないはず”という大前提があり、もし虚偽申告が発覚したら、いかなる言い訳も許されず重罰を受けるという原則が働いています。実際スムーズに事が運ぶかどうか後日ご報告しようと思います。そして日本でもこのシステムが導入できそうかどうかについても見てくるつもりです。(続く)

20年ぶりのカナダ訪問(1)

 3年前に亡くなった私の父は4人兄弟の末っ子でした。長兄は農家をつぎ、父は教師になって結婚後は生家のすぐ近くに家を構えたのですが、父の姉と次兄は戦前にカナダに渡り生涯をカナダのアルバータ州で過ごしました。そんなわけで私も半世紀も前からカナダにはちょくちょく遊びに出かけていました。
広い小麦畑で巨大なコンバインを使って収穫作業を手伝ったり、伯父さん自慢の6リッター・アメ車を運転させてもらったり、いとこたち家族とロッキー山脈のバンフまでキャンプに出かけたり、半世紀にわたって楽しい交流が続いていました。最後は伯父の葬儀にもかけつけたりしました。
 ところが2001年に私が仕事を辞めて両親を介護するようになってからというもの、介護の手を休めてカナダまで行くことはとうてい無理で、最近の20年間はもっぱらカナダのいとこたちが日本に来たとき会うのみでした。しかしそんな片側交流も終わりです。母の一周忌も終わったので、ふとカナダへ行ってみようと思い立ち、向こうの都合も聞かずチケットを購入しました。9月末の関空発バンクーバー経由カルガリー便の最安値は往復7万円でおつりがくる安さ!10月に入れば紅葉のシーズンでチケットの値段も倍近く跳ね上がります。
 「月末に1週間おじゃまします!」とメールを送ったら従姉妹たちもびっくりしながらも大歓迎のメッセージを返してくれました。幼なじみの彼女たちも今ではすっかりおばあさんと言っていい年齢になり、7人のうち2人はすでに物故者となりました。伯父、伯母そして亡くなった従姉妹たちには花を捧げようと思います。

 楽しみな旅行プランですが、問題もあります。従姉妹達はみんな大豪邸(日本から見ると)住まいだったのに、後期高齢者の今、住み慣れた家を売り払い、老人夫婦が快適に暮らせる集合住宅に入居してしまいました。どんなところなのか行ってみないと分かりませんがお客が泊まれる余分な部屋はないのかもしれません。果たして歓迎のメールには、昔と違って「うちに泊まりなさい」の一言がありません。ホテルを取るべきかどうか、尋ねるのも気がひけます。さて、どうなることか、ぶっつけ本番で出かけることにしました。

2017年10月8日日曜日

Youは何しに日本へ?

カナダ旅行から帰ってきてやっと時差ボケが直りつつあります。久々の親戚訪問でしたが、バッグに詰め込んだカレールー、味噌醤油など問題なく持ち込め、すき焼き、カレー、ハヤシライスなど台所を借りて作ってあげたら大好評でした。いろいろ楽しい毎日でしたがそんな話はおりおりに。
きょうは帰りの飛行機で隣に座った人々についてご紹介します。

カナダからの帰り、カルガリー・バンクーバー、バンクーバー・関空間を飛行中、たまたま隣に座った人にいろいろ尋ねてみました。バンクーバーまでいっしょだった白人青年は大学を卒業したあと神戸で数年英会話学校で働いたことがあるとかで、そこで出会った日本人彼女にプロポーズするために神戸に向かっていると言って、小さなダイヤのエンゲージリングをうれしそうに見せてくれました。関空の税関出口でまた遭ったので大阪までは電車かバスか聞いたら、神戸のポートアイランドまでフェリーで直行すると言って消えていきました。ポートアイランド埠頭で感激の再会、プロポーズするのか・・・20代のころってそういえばだれしもはっきりした将来は見えなくても前へ前へ進むことができた日々だったなと遠い昔を思い出しました。その青年は彼女を連れてカナダに帰り、また大学に入り今度は土木工学を勉強すると言っていました。日本では結婚と学生生活を両立させることはなかなかむずかしいのが現状ですが、カナダでは望めば、多くの場合、そういう選択が可能なようです。
バンクーバーから関空までは中国系か韓国系かよく分かりませんが30代ぽくみえる女性と隣席どうしになりました。食事のときにいろいろ「Youは何しに日本へ?」と尋ねてみました。「東京より大阪が好き」という彼女はもうすでに10回も日本に来たことがあるというので、いったい日本の何が貴女をそんなに惹きつけるの?と聞いてみました。答えは簡単でした。「Beef !」。カナダの牛肉も美味しいじゃないかと言ったのですが「全然話にならない」というほどの日本信者でした。トロントの会計事務所で働いていて日本へは3週間の休暇を取ってきたそうで、奈良、函館、札幌と、回ると言っていました。彼女の日本旅行プランを聞きながら、デンツー新入女子社員過労死事件に見られるように日本人の働き方は40年前とまったく変わっていないのが不思議な気がしました。(テレビや新聞で見る過労死事件のお母さんは今や鬼の形相でマスコミに語りかけている姿をよく見ますが、娘を緊急避難させることができなかったご自身のことも語ってほしいとちょっと思いました)