2018年7月27日金曜日

薬物による神秘体験

オウム事件の死刑囚全員が7月の1ヶ月間に死刑を執行された。先進国で死刑制度があるのは日本とアメリカだけだそうでとりわけECからは日本政府に対し非難がきびしい。私自身は死刑廃止論者でもないし死刑という刑罰がこの国にあることがいいとも思わない。つまりはよく分からないのだ。

ところでNHKの夜のニュース番組でオウムがLSDや覚醒剤を使って信者に神秘体験をさせたことに関し、「薬物による偽の神秘体験云々」と部長級の解説員がしゃべっていたが、どうしてNHKはいつも視聴者をあざむくような発言をするのか罪は重い。古来、宗教的神秘体験と言われるものの大半は自然界に存在する主として植物由来の薬物がもたらす効果によるものであり、そうでないものは後述の禅など少数にすぎない。NHKはこうしたことに触れないでシレッとうそをつく。

原初の時代から宗教的神秘体験と薬物との関連は切っても切れないもっともベーシックな関係にあることは大脳生理学的に見てもあきらか。有名なのは阿片、ペヨーテというサボテンからとれるメスカリン、マジックマッシュルームに含まれるシロシビン、ライ麦に寄生する麦角菌に含まれるリゼルグ酸の誘導体から合成されたLSD、コカイン、エフェドリンを含むマオウなど枚挙にいとまない。人類はこうした薬効成分の助けを借りて健康を保ち、他人よりすぐれた視力を獲得し、集中力を保ち、幸福を実感し、飛躍的な進化をとげてきた。その道の専門家として呪術師、魔女、哲学者、宗教家、アスリートなどが時代を切り開いてきた。人間と薬物が積極的に反応しあう関係である証拠としてそれぞれの物質に反応するレセプターが備わっていることがあげられる。砒素などの有害なだけの毒物に対してはレセプターなど存在しない。

また、薬物によらない神秘体験としては酸素欠乏、禅の修業、疲労、入眠時幻覚など。薬物によるものであれ”純粋”神秘体験であれ、いずれも脳内で起きる生理的な反応であることに本質的な差はない。

何はともあれ、絞首刑になったオウム死刑囚たちは果たして死の瞬間、彼らが望んだであろう最高の神秘体験を味わったのだろうか?カフカの「流刑地にて」の所長のようなへまはやらなかったと思うが。


炎熱地獄

 この夏の暑さは異常です。本日723日には熊谷で気温が41.1度にも達し、国内観測記録を5年ぶりに更新したそうです。岡山県でも洪水の後に炎暑とは、水害被災者にとってまさに踏んだり蹴ったり、何の因果で水攻め火()攻めの仕打ちを受けないといけないのでしょう。
 昨日は猛暑の中、瀬戸内市立美術館(牛窓)で開催されていた企画展の最終日だったので、炎天下のなか赤穂線で邑久駅まで行き、そこでバスに乗り換え牛窓まで行きました。魅力的な展示会だったのでぜひ行きたいと思いながら少しは涼しくなるのを待っていたらとうとう最終日になってしまいました。
 美術館を出たあと、なじみのカフェに行ったのですが、ここは天然の風を売り物にしていて本来はハワイ気分に浸れるところですが、エアコンなしはさすがに耐え難いものがありました。店主も「この異常な暑さはお客様の健康を害する危険性がある。エアコン設置を検討しなくては」と音を上げていました。
 いつもの牛窓の夏ならエアコンがなくても、外のテラスで瀬戸内海に浮かぶ小豆島を遠望しながら冷えたビールを飲めば最高の気分に浸れるはずだったのに、今日はなんだか変、体がフワフワし意識が遠のく感じがします。家を出て電車に乗りカフェにたどり着くまで常に水分を補給していたのにおそらく軽度の熱中症になっていたのかもしれません。暑さで死を連想したのも生まれて初めての経験でした。
 この死をもたらす暑さの中、水害で住む家を失いエアコンもシャワーもない避難所で過ごしている方々にはお見舞いの言葉も見つかりません。堤防が決壊して迫ってくる水も危険ですが、体力を確実に奪う暑さも同様に危険です。劣悪な環境の避難所にいる人々、またほかに行き場がないからという理由で電気や水道が止まったままの自宅にとどまっている人々に対し、どうやって安全な場所を確保していけばいいのか行政にとっても試練の夏になりました。

 阪神大震災のときは私もボランティアとして出かけるだけの若さがありましたが、古希を迎えた今は何もできません。どうか被災者の方々はもちろん行政、警察、救急隊、ボランティアの方々も決して無理をなさらず、暑さの猛威をやり過ごしてほしいと願うばかりです。

恐ろしい出来事

この度の豪雨によって各地で発生した洪水、地滑りまた工場爆発による火災等で被災された方々に衷心よりお見舞い申し上げます。とりわけ迫りくる洪水、土石流になすすべもなく犠牲になられた160有余名の方々には深く哀悼の意を表します。
76()は夜半になりますます雨が強くなるなか自宅で一人不安な夜を過ごしていました。数時間後に始まるワールドカップの中継を見ながら夜をやり過ごそうと仮眠していたらいきなり「ドカーン」という大音響とともに家が震え、私はとっさに雷が落ちたと思い飛び起きました。
翌朝になってこれが20キロメートルも離れた総社市にあるアルミ工場の爆発炎上による衝撃波だと聞いてびっくり仰天でした。そしてこの時間すでに高梁川と小田川の合流地点付近で大規模に堤防が決壊していたのです。
7()も朝から大雨でした。30年ほど前にも梅雨の末期に大雨が降った夜、隣家との境の擁壁が我が家に向かって倒れ込み、壁ひとつ隔てて寝ていた両親は肝をつぶしたと大阪に住んでいた私に電話をかけてきたことがあります。今回、今にも同じことが起きそうな気配がしたし、また南区福田地区を流れている笹ヶ瀬川(足守川)が氾濫しそうだという危険情報が頻繁に配信されるのに気をとられ、倉敷市真備町の深刻な事態には関心が向きませんでした。
同じ県内にいながら、しかも2,30キロメートルしか離れていない場所で起きた大惨事でもなかなか現実感をもっては認識できませんが、官邸の中枢にいる方々、また地元出身の国会議員の先生方までもが国難ともいうべき事態が発生していることに無頓着なのはいかがなものでしょう? 首相は論客でもある財務官僚上がりの女性議員等も侍らせて顔を赤く腫らして記念写真に収まり、岡山県選出の有力国会議員は視察先の富山からおいしそうなお寿司の写真をツイッターに載せて得意顔。

これは仕方ないことだったのか、危機管理能力の欠如なのか問われれば後者に決まっています。中枢の政治家にはマスコミよりいち早く正確な情報を得るための組織、手段、情報網、権限が与えられているのですから。200名近い尊い命が犠牲になった激甚災害から今度こそ実効的な教訓を導きださないと亡くなった方々に本当に申し訳ないことです。

2018年7月16日月曜日

河川敷に繁茂する柳

岡山市旭川の鉄橋を新幹線や在来線電車で渡るとき、河川敷に豊かに育った柳の緑が目に入りいつもうっとりします。10年ほど前になりますが、その河川敷に中学時代の恩師と同窓生数人とで大木にからみついたツルウメモドキを取りに行きました。ツルウメモドキは正月の生け花に使う素材になり弾けた実が美しいツルものですが、先生によるとそんなもの買わなくとも河川敷になんぼでもあるけえ~ということで集合。

柳にからみついたツルウメモドキの枝を切り取るものとばかり思っていたのに先生のやり方は大胆! 4,5メートルの高さの柳の木そのものをノコギリで根元から切り倒すのです。河川敷の木をかってに切り倒したりするのはまずいし、採りたいのは木に絡んだツルウメモドキだけなのに。。。第三者の目もあるし、もうヒヤヒヤだったのですが、先生は平然と「こんな木は切り倒しておかにゃあおえん」とのことであっという間に4,5本の柳を伐採。

「先生、とんでもないことして……」と当時は思ったものでしたが、今回の小田川氾濫の惨状を見て先生の心がようやく理解できました。河川敷に土砂がたまりそこに樹木が茂ってしまうといざというとき川の流れが阻害され氾濫の一因になるそうです。旭川に繁茂する大量の柳にひとり立ち向かう高野先生の姿はまさに「蟷螂の斧」といった風情。小田川大洪水の悲惨な現状を見て遅ればせながら恩師の知恵の奥深さにちょっと触れることができた思いがしました。

2018年7月11日水曜日

気持ちが通わない

めったに自然災害の起きない岡山で発生した未曾有の洪水は世界中のメディアで報道されているようです。洪水は地震、台風、原発メルトダウンなどと異なり、被害を受けた地域と難を逃れた地域が隣あっています。ちょっと高台にあって全然被害がなかった家と2階まで水が入った家が同じ地域にあったりします。しかしマスメディアではそのような細かな情報は伝わりません。

倉敷市真備町で発生した洪水のニュースがカナダでも放映されるやいなやカナダの従姉妹たちから「大丈夫なの?心配している。このメールにはすぐ返事がほしい」などと深夜零時を回ったころに届きます。遠くカナダから気にかけてくれてうれしい!すぐ返事を書きました。アルミニウム工場の爆発の衝撃は恐ろしかったけれど、岡山市は大丈夫、親戚すべて被害なし、日本の大雨はともかくタイの洞窟に閉じこめられた少年たちの救出が始まって何とすばらしいことか、、、などと書き込みました。私としてはOkayamaの洪水はひどいものだがさいわい私や親戚は大丈夫、その証拠にタイの子どもたちの動向に注目しながら時間を過ごしているではないか、という気持ちを表現したかったのです。
ところが次の日も深夜、「その後事態はどうなったか?近況を教えて!親戚は大丈夫か?」とのメールが届く。ちょっとイラッとする気持ちを抑え、「気にかけてくれてありがとう。こちらは何の被害もないし、天気も晴天で蒸し暑く、被災地では水が引いてきた」などと返事。それなのに3日目、またも「カナダのテレビで恐ろしい光景が放映されている。本当に大丈夫なのか?電気や水道は通じているのか?」というメールが。夜中12時、もう寝ようと思っているところにまたそんなお見舞いメールが来てうんざり。「メールで連絡がついていること自体が停電なんかしていない証拠ではないか」と言いたいのを我慢して、「大丈夫、被災地の人々には申し訳ないけど、親戚、友人、知人に被災者はいないので心配しないで。電気も水道も1秒だって止まったりしてません。それよりタイの子どもが全員無事でGood job!」と打ち返し。

日本人は世界的に見てもまれなくらい他人の不幸に同情の気持ちを表しません。被災地の人々も家も車も家族も失っているのに「生きているだけましじゃあ、わっはっは!」とインタビューに応えています。悲しみの表現も下手だし、シンパシーの表現も下手。それでお互い何となく気持ちは通じているのです。日本人以外には理解しにくいことでしょうが。

でもスタンダールのような皮肉屋にはちゃんと分かっています。
ジュリアンはこう思います。
「あなたが何かへまをしでかしたとき、田舎では人々が繰り返し”それはそれは大変でしたね、同情します”と声をかけてきて傷口に何度も塩をすり込んでくる。ところがパリでは中学生でさえ他人のへまなんか見て見ないふりしてくれる。そのかわり、あなたはパリでは永遠によそ者だ」と。(うろ覚え)

日本の中のパリ、京都の人が好き。京都人の言葉には裏の裏のそのまた裏があることを常に意識していないと陰で笑いものにされる恐ろしい連中。でもそれが千年の都、京都人の洗練というものです。岡山人もいくらか京都人に近い。岡山は自然災害が少ないので隣近所の人々が協力して難局に当たるという経験を歴史的にもしてこなかった。隣家が困っていようが兄弟の家族が食うものにさえ困っていようが見て見ぬふりをするのが生まれ持った特技。かてて加えて男も女もみんな屁理屈をこねくりまわす。

洪水が引いたあと、テレビでこんな家族のドキュメンタリー・シーンを見ました。
堤防が決壊し、恐ろしい勢いで水が迫ってくるなか、実家に駆けつけた息子が父親に「おやじ、すぐ逃げないと危ない!」と言っているのに60代とおぼしき親父は「いや、テレビや電化製品だけでも2階に運んでからじゃ、濡れた足で家の中を歩き回るな!」と息子を叱っている。息子がさらに「もう、水は玄関先まで来とるがな」と言うと、親父は「お前は馬鹿か。ここは海抜12メートルあるんじゃ。水がこの高さまで来る訳がねえじゃろ!」と息子を説教。その直後水は2階にまで入ってきて、危うく逃げ遅れるところでした。確かに海岸近くなら高潮でもない限り、海面より上まで洪水は来ません。親父さんのいうとおり。でも事実、玄関から泥水が入り込んできているのにこれだけの屁理屈をかます余裕に笑ってしまいました。

いろいろ書きましたが、同情が必要な人には必要です。タイミングもあります。慰めの言葉も必要なときと、そっとしておいてほしいときの見極めが必要です。

でもきっと一番真理に近いのは「同情より金をくれ」ではないかと思います。






岡山県立美術館、ポーラ美術館展

気分転換のため岡山県立美術館にて開催中のポーラ美術館展を見て来ました。シニア料金1100円、8月26日まで。
モネ、ルノワール、セザンヌ、ピカソ、ブラック等々、素晴らしい作品群でした。
私が一番好きなセザンヌが5点もあり、近くでこうした泰西名画を見る機会をもうけてくれたポーラ美術館と県立美術館には大感謝です。

先月この県立美術館に来たとき、地下展示場に比べ2階展示場が蒸し暑く、明らかに作品に悪影響があるような気がしたので、例によって係員にその旨、伝えました。すると指定管理人の某大手建設会社社員とおぼしきお姉さんが「同じように温度設定してますが、どうしても2階は暑くなります」と反論。私は「そうであるからこそ2階の空調は低めに設定して作品を保護し観客にも快適に観賞してもらわないといけないんじゃないですか?」と言い残して帰りました。すると今日は2階も地下同様快適じゃありませんか!言ってみるものです。

政府のバカな省エネ政策で役所も図書館もとても不快な環境になっています。困ったことです。


今日もひとことスタッフに言いました。せっかくのセザンヌの1枚が右に傾いているのです。わずかな傾斜ですが見た途端傾いていることに気付きました。学芸員に必ず伝えて下さい、と言って美術館を後にしました。

私も古希の老人になり、細かなことが気になり作品本来の魅力を堪能できなくなりました。「本位を楽しまず」の老境ですが、クレーム3回に1回ぐらいは聞きとげられます。文句を言うのは太古から老人のお仕事です。

「本位を楽しまず」三島由紀夫、天人五衰より。永遠の若さを誇る天使にもやがては老衰の兆候が宿るようになる。無邪気に物事を楽しめなくなるのもそのうちのひとつ。

2018年7月7日土曜日

総社市のアルミニウム工場爆発

昨夜(2018.7.6)11時間半ごろ突然ドカーンという音がし、家も震えました。雷が近くに落ちたのかと思いましたが、1発だけだったし稲光もなく変だなと思いました。それがまさか20キロメートルも離れた総社市のアルミニウム工場の爆発音だったとは!中国ならともかく日本でそんな大爆発が起きるなんて驚きです。怖かった!たぶん爆発に伴う衝撃波は音速より早く到達したのではないか?
今日も喫茶店にくる常連客と話をしたが、みんな自分の家でやばいことが起きたと思ったという。畳の上にネズミの糞がザラザラ落ちていたと言う人も。天井板が激しく振動したのでネズミの糞やゴミが板の隙間から落ちたみたい。

写真は家近くの笹ケ瀬川。堤防かさ上げ工事完成直後でこの度はオーバーフローを免れました。

2018年7月5日木曜日

詩人・三原麗珠

日本のワールドカップが終わったとたんあれこれ大学をめぐるスキャンダルがワイドショーをにぎわしていますね。その中で香川大学教授の「趣味はセクハラ」がなぜかNHKまでがニュースでとりあげていてびっくりしました。

私は「香川大学教授」と聞いてすぐ「これはあの三原先生のことではないか?」と思い調べてみたらそうでした。

1994年ごろ、まだインターネットが生まれる直前のころ、すでに世界中の大学はネットで結ばれていて盛んに情報共有、交換、メールのやりとりがなされていました。情報共有は主に「ニュースグループ」というシステムでなされていて、fj.rec.poem などという細かなカテゴリーがたてられ、そこでいろんな議論がなされていました。(建設的な面もありましたが、現在のSNS同様中傷合戦になることが多かったです。しかし現在のように匿名で文句をいいあうのではなく、所属と名前を明示するのが原則でした)

さて、そんな掲示板にアメリカから非常にインパクトのある詩を黙々と投稿する人がいました。ミネソタ大学、三原霊珠というペンネームのような名前をもった留学生。彼の詩は難解すぎたせいか、ニュースグループの読者のだれも意見を言うことも批評することもできませんでしたが、私はファンレターを送ったことがあります。
「現代詩がお好きなら、私の詩などではなく田村隆一をお薦めします」というお返事をいただきました。私は「田村隆一などあなたの詩に比べると全然魅力を感じません」などと送り返しました。

三原さんはその後、香川大学に就職したと聞きました。正直なぜそんな地方の大学に?と思いましたが、大学の教員になってからは詩作は中断し、経済学者の道を歩まれたようです。お会いしたことはありません。理論経済学者が経済学部でなく図書館所属になっていることから、三原さんが学内でもかなりユニークで孤立していたことがうかがえます。

三原さんの詩は出版されておらずホームページに掲載されています。
「白い乾いた犬」
https://reijum.web.fc2.com/poetry/poetry.html#hakaba

現代詩と散文の関係について述べている「傾向的な夜」を以下引用します。25,6歳ごろの作品だと思います。私がいちばん好きなタイトルの詩です。

(教員名のときは「麗珠で、詩人のときは「霊珠」なのかもしれない)

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傾向的な夜

三原靈珠



眠れぬ夜は もの思いにふけっていて
思いだせない
ほど昔のことですが
古典の時間 それはオナニーを
してたと
いうことですかと質問したら
現代国語の先生 ああ忘れちゃった
おまえ 女の子のくせに
級友たち
じゃなくてひとりが言ってくれた……
先生 現代国語なら
伊藤比呂美
知らないのかなと言おうとおもったけれど
それ以来現国の
独身の演劇なんか好きな教師に
特別な
かかわりの強い視線で
見られ始めちゃった気も
しましたが
やっぱ
何にもなくて私は
正しい生徒で卒業したのです

「詠む」と書けば
詩歌をうたう
私の場合 思いにふけるは
誰も詩歌なんかうたわないから
うたうものではないから
私の場合もの
思いにふけるは
頭のなかで詩が溢れる

眠れぬ夜は詩が溢れる

たとえば今朝の実証では
1950 つまり
19時50分に床に就き Tatjana Sergejewa
など 聞きながら離れた場所に眠気とともに移りたい
と思いつつ場所を引きよせようとしたのだけれど
メビウスの環 悲しい
歴史のなかの女性
そして この不思議な暗さはとても不安
図形や映像で想像するのが普通で
底を流れるこの不安な響き
チューリングマシンは超えているはずなのに
いつか もの思いは
言葉でなされている
シーツを引きよせて
眠れない2200
トイレに行く
言語では情報処理効率低いから
CD みたいにメガバイト使ってしまうのに
詩人のように
する
言葉をレーザープリンタ用の紙に置いて
ベッドに再び落ちる

それでも
夢幻列の想像力は収束を許さず
いつか拡散のはて
私は0045起きる

マックを起こしキーボードに日本語を
打ちこんでいく

演劇の脚本 書いてたくらいのひとなら
わかりそうなもの
これらのことば 詩か?
なんて

詩は詩を離れるベクトルなのです
離れていく方向なのです
これらは散文に
近いから
詩の
テーマを避けているから
詩です

と偉そうなことを書いてさらに
つけくわえる
簡単に書けると思うなら
やってみてください
すると
簡単に書けてしまうひとがいたりするから
詩人つまり
失業者の私は
両肩の距離が小さくなるのである
才能あるひとは除外します

そして詩語は使わない それは常識
でも本当に普通の言葉で書くなんて無理と
いうもの
私はこんなに普通で書くから
方向はいいのだけど
どうでしょう

こだわってるんじゃなくて
散文のように書くことに
信条なんかじゃなくて
たまたま
傾向なのです 私のと
いうよりは
現代詩の
傾向だから たまたま
それが
やりやすくて
のっているのです 先生
行分けはするけど それは
夜は早さが欲しいから


(May 3, 1994)

2018年7月3日火曜日

岡山駅前の桃どろぼう事件に思う

 お昼のローカルニュースで岡山駅前の緑地に植えられている桃の木から桃の実1個を盗んだとしてベトナム人青年が逮捕されと伝えていました。警察は同じ場所で桃の実が300個盗まれた事件との関連を調べているそうです。
 私はこのニュースを聞いて、中学生時代に国語か道徳の教材にあった長野県飯田市のリンゴ並木の話を思い出しました。1947(昭和22)、市街地の大半を焼き尽くす飯田大火に襲われた市は防火帯の機能を備えた延長1200メートル、幅員30メートルの道路を整備、中央分離帯には飯田東中学校の生徒がリンゴの苗木40本を植え、生徒達の世話によって毎年りっぱなリンゴがたわわに実る立派な並木道ができたという話です。
 教材のポイントはせっかく実った実が盗難にあうのにも関わらず生徒たちや市民の努力でリンゴ並木が守られているうちに市民の道徳心も育ち盗難事件が減ってきたという点にあったように記憶しています。実際のところは現在でも盗難はあるようですが、ニュースになるようなことではないようです。終戦直後に比べ今の時代、リンゴの消費は低迷し、わざわざ排気ガスにまみれた街路樹のリンゴの実など取っていく人は多くはないでしょう。
 岡山駅前の桃の実盗難事件をあらためて考えてみると、駅の緑地に地元商工会議所の女性グループが桃の木を植えて育てているそうですが、そんなオープンな場所にある桃の実が盗まれたからといって警察に被害届なんか出すことの方がそもそもおかしい気がします。4月、桃の木に花が咲くのを市民や旅行者に楽しんでもらえればそれで十分では? 公開緑地で実った桃の実1個を失敬したからといって即逮捕されるのなら、市民や子どもたち、訪日旅行者たちが実をつけた桃の木に興味をもっても、李下に冠を正さずではないですが、木に近づくことさえはばかられます。女性会は立派なことをしているといい気になっているけれど、却って不必要な犯罪を自分たちが誘発していることに罪の意識をもつべきです。

 桃の実はブルーベリーやイチジクと違い、品種ごとにいっせいに熟し収穫適期は1週間もありません。もし盗まれるのがいやなら女性会会員が徹夜で番をすればいいだけのこと。ゴリゴリの状態から熟れるまでほんのわずかな日数です。商工会議所女性会はそんなことよりも飯田市のように、少々とられたからといって大騒ぎなどしない態度を見習い、長い目で桃を紹介する本来の目的のためにがんばっていただきたいと思います。

(岡山駅前緑地と桃の木を指差す商工会議所女性会会長)そもそもこの緑地の管理者はだれなのでしょう?JR西日本?岡山市?少なくとも岡山商工会議所が占有しているとは思えないのに、会議所からの被害届が受理される理
屈が分かりません。