2011年8月27日土曜日

テレビの見方


私自身はテレビのアナログ放送が終了して以来テレビなし生活をしていますが、番組を見ていないというわけではありません。

親の家に入れた新しいテレビはブルーレイ録画機能(BD)が内蔵されているのに加え外付けハードディスク(HDD)にも対応していて、見たい番組を片っ端から予約しておいてあとで親が病院に行っているあいだに見るようにしています。

アナログ時代にもたまにはビデオ録画することがありましたが地デジになって以来、録画という行為に何か質的な変化がおきた気がします。端的にいうと、録画の目的が以前は貴重な映像を保存するためだったのが今ではむしろ見たい番組を見たいときに見るためにとりあえず大容量のHDDに何でも録画しておくように録画のスタイルが変わりました。

実際そういう用途に的を絞った高級機種もあります。丸1日分の番組がすべて自動的にHDDに録画されるそうで、こうなると昨日の新聞のテレビ欄を広げて見たい(見たかった)番組があるとその瞬間番組が開始するという夢のようなテレビです。

番組の私的アーカイブ化が可能な時代になったわけですが、もうここまできたのならテレビ局がすべての放送済み番組をオンデマンド放映してくれないかと思います。ちょうど出版物に関しては国立国会図書館がすべての出版物を保管し、国民に公開しているように放送についてもだれでもいつでも過去の全番組アーカイブにアクセスできたらと思います。

一方、地デジ技術をはじめテレビの放送技術はもうこれ以上望めそうもないレベルに到達したというのに最近の番組のつまらないことといったらどうでしょう。民主党代表選のドタバタ劇、紳助引退茶番劇のしつこいワイドショーなど見たくもありません。

私も60代半ばに近付いてきて過去を振り返ることが多くなってきたせいか、本や映画だけでなくテレビについても本当に興味がもて、心からおもしろいと思える番組はすでに何年も前に放映済みのドラマやドキュメンタリーの中にしかないような気がします。

ともかく、親の家のテレビ用HDDは1テラバイトでしたが、すぐに満杯になりました。3テラのHDDもずいぶん安くなったので買い替えようと思います。

織江の唄

お盆のころ3日間両親の介護を兄に任せて九州北部を訪ねてドライブしてきました。筑豊、伊万里、唐津、平戸、佐世保、有田、吉野ヶ里遺跡と駆け足で巡ったのですが、中でも五木寛之の小説「青春の門:筑豊編」の舞台となったかつての炭坑の町、田川は印象深いところでした。

今は田園風景が広がる田川ですが、田んぼの下には廃坑となった縦穴、横穴がモグラの巣のように広がっているそうです。三井田川鉱業所がそのままの形で「田川市立石炭・歴史博物館」になっていましたが、博物館がなければここが「筑豊」の中心地だったとは気付かないでしょう。

「青春の門」の主題歌で五木寛之自身が作詞した「織江の唄」。山崎ハコの哀愁漂う、やや投げやりな声の調子に昭和30年代の筑豊の悲しみが余すところなく込められています。歌に出てくる遠賀川、ボタ山、カラス峠、田川、香春岳(かわらだけ)などが博物館のテラスから遠くに近くに手にとるように見えました。

あまりに暗く、あまりに貧しく、あまりに悲しい昭和の物語です。いや炭坑の町、筑豊だけが貧しかったのではなく昭和という時代そのものが貧しかったのでしょうか? つい最近亡くなった日吉ミミは「恋人にふられたの、よくある話じゃないか…」と暗く歌っていたし、「十五、十六、十七と私の人生暗かった」と歌ったのは藤圭子(宇多田ヒカルの母)、「暗い目をしてすねていた弟よ」と歌ったのは内藤やす子。極めつけは「昭和枯れすすき」の「貧しさに負けた、いえ世間に負けた」でしょう。

でも昭和という時代は本当にこれらの歌に歌われたように暗かったのかというと、実際は所得倍増政策がとられ、高度成長経済を謳歌した時代でした。すでに貧しさから脱却しつつある自信があったからこそ思いっきり暗い歌を歌えたのかもしれません。

ところが東日本大震災後、いつまでも目に見えない不安が消えない放射能の影におびえる現代という時代にあって、はやり歌の歌詞を見ると「夢、希望、空、風、明日、未来、友達、勇気、力、信じる…」と歯の浮くような言葉のオンパレードです。皮肉にも現実が救いようのない時勢だから夢とか希望と歌っているのでしょう。今こそ暗い歌、悲しい歌、心に響く歌が欲しいと思います。
(織江の唄)
http://www.youtube.com/watch?v=hOGUHjdDPek

2011年8月15日月曜日

イディオシンクラシー


映画のワンシーン、ニューヨークのインテリ家庭。売れっ子詩人である才能豊かな妻に嫉妬する無能な亭主に妻が吐き捨てるように言います。「あなたのイディオシンクラシーにはもううんざりよ」。

idiosyncrasyとは辞書には「特異性、性癖」などと載っていますが、分かりやすい例を挙げると、例えば近所のおばあさんが毎日洗濯機を回しているが中に洗濯物はなくて水だけ回っている……。そういう意味不明の奇妙な性癖がイディオシンクラシーです。

当年65歳になる兄のイディオシンクラシーには親の介護を巡って私の悩みは深い。車を離れるとき決まってカーエアコンをOFFにする癖、食器棚の皿を変に並べ替える癖、なぜどうでもいいことにいちいちこだわるのか理解に苦しみます。そして94歳の父のために地デジ対応の大画面液晶テレビを購入したのが予期せぬ新たな悩みの始まりでした。

ハッとするほど美しい地デジ映像ですがさらに5種類ほど映像モードが選択できるようになっています。私には映像が抑え気味の[普通]がいちばん見やすいし、自然な色調で目が疲れないので目が弱ってきている父のためにも[普通]にしています。そもそも工場出荷時の設定がいちばんきれいな絵作りになっています。

ところが兄が帰ったあとは必ず画面がギラギラ、テカテカ。目が痛くなります。そう、憎っくき[ダイナミック・モード]に画質を変えているのです。そもそも兄が父のテレビなど見ているわけでもないのに何というおせっかい。本当にイライラ。

こうして[普通]→ [ダイナミック]→ [普通]→ [ダイナミック]とエンドレスの戦いが始まりました。何だか子供のころのチャンネル戦争の再来の観があります。ところが無限に続くと思われたこの戦争、意外な結末を迎えました。

私が父に[普通]と [ダイナミック]のどちらが見やすいか尋ねたら予想に反して「ダイナミックの方がきれい!」というのです。何だそうだったのか!、これからは私が兄をイラつかせる番です。私が介護を担当したあと[普通]にしておく、兄がイラついて[ダイナミック]に戻す……、でも以前との違いはイライラ作戦の主導権を持っているのは私です。

弟の私も相当イディオシンクラティックな人間でしょうか?