2014年8月27日水曜日

みょうがご飯


 食欲がなくなるこの季節、自分でも何を食べたいのか、何を食べたら胃も心も満足できるのかさっぱり分かりません。そんな折りテレビの料理番組(NHKきょうの料理)で土井義晴さんが「みょうがご飯」の作り方を紹介していました。いままさにみょうがの旬です。何だかおいしさの予感がします。

材料(4人分)はとてもシンプルですぐ覚えられました。米カップ2、みょうが120g、油揚げ1枚、塩小さじ1、これですべてです。みょうがは小さいものはそのままで、大きいものは二つか三つに切ってよく洗ってぎゅっと絞る。油揚げはみじん切りにするそうです。

ここでなぜ油揚げが入るかというと土井先生は「油揚げは西洋のベーコンといっしょで、料理に“こく”を出す役割がある」と解説していました。油揚げ=ベーコン! こういう本質をついた知識をひとつひとつ会得していくことが料理上手になるコツだろうと思います。

「米は洗ってざるにあげ、30分寝かせる」ここもポイント。そしていよいよ炊飯器に入れてスイッチ・オンですが、私は炊飯器の設定をあえて「倍速」(早炊き)にします。わずか20分ほどで炊きあがります。そのまま10分ほど待って、今度はおひつに移します(ここ重要)。

いまどきおひつにご飯を入れる家はまずないでしょう。私も保温を炊飯器まかせにしては“ご飯がまずい”と嘆いていました。「やはりおひつなんだ」、土井先生の言葉にしたがって、台所の天袋から昔のおひつを引っぱり出してみました。大丈夫、木のいい香りがします。

おひつに移したみょうがご飯はふわーっと食欲をそそります。暖かいうちもおいしいし、冷めてからもおいしい! 結局4人前のみょうがご飯を一人で食べてしまいました。

 「こういうものを食べたかったのか!」ということに目覚めた私は、さっそく「炊き込みご飯変奏曲」を試してみました。油揚げ=ベーコンならいっそ素朴な油揚げではなく美星町で作られている地場のベーコンならなおいいはず。上出来です。

 百合根と貝柱(缶詰の汁も使う)、エリンギと鶏のもも肉……要するにほくほくする野菜とこくがでるタンパク質のふたつがあればOKで余分な食材は入れません。毎日2合飯を平らげて食欲不振とおさらばです。

広島の土砂災害に思う


 広島市北部で起きた土砂災害の死者、行方不明者数は広島県警によると8月21日現在90人にのぼるそうです。上空からの痛々しい映像は水の力の恐ろしさをまざまざと見せつけていますが、住宅地の後背地の山はいかにもなだらかな丘陵といった感じです。今にも崖崩れがおきそうな急斜面が迫っているような場所ではないだけに、被害にあわれた地域の人には“まさか!”というやりきれなさがあることでしょう。

しかしテレビ番組に引っ張り出された地質学や土木工学の専門家に言わせると、土砂災害が起きた地域の土壌は花崗岩が風化してできたマサ土(真砂土)であり、強い降雨にあったら土壌表面が一気に流れ出す特徴があるとのこと。

こんなことを聞くと広島周辺の山土が特異的に危ない印象をもちますが、マサ土は何も広島特有の土ではなく西日本に広く分布しているごくごく普通の山土です。

有機質をほとんど含んでいない非常に清潔な土で、赤松がよく育ちマツタケの生育にも適しています。岡山の白桃がおいしいのもこの土のせい。小学校の運動場の土もマサ土を入れているので校庭が非常に明るくすがすがしい。校庭だけでなく岡山や広島のなだらかで美しい山里の風景をいっそう晴れやかで解放的にみせているのもマサ土のおかげです。

大学生になって初めて関東の土に触れたときは本当に驚きました。真っ黒で細かいほこりのような土。運動場で雨が降れば体操服が真っ黒になります。かっこいいはずの湘南海岸の黒砂のおぞましさ!ふるさと岡山の海の明るい砂浜がなつかしい!といつも思っていたものです。

そんなマサ土が広島に大きな災厄をもたらしました。広島市は岡山市と比較して平地が少なく、人口増に従って今回の悲劇が発生した安佐南区や安佐北区といった山間地に住宅地を拡大せざるを得なかった事情があったのはよく分かります。

しかし地滑りを起こすことが分かっているマサ土地帯を開発するのに当たって学者と行政は今回のような大災害の発生を予測していなかったのでしょうか。なにやら福島原発事故と同じように今回の大惨事も人災の側面があると思いました。

土砂に埋もれた我が家に残された子供に呼びかける母親の悲痛な叫び声がいたたまれません。

2014年8月8日金曜日

台風11号が岡山方面へ向かって近づいています。嵐の前の静けさです。心が落ち着きます。

父が亡くなって寂しくもあるのですが、日が経つにつれ、手がかかった父の介護から解放された安堵感をありがたく感じるようになってきました。父の遺品や遺稿の整理が進みませんが、これは父ゆずりの性格なのでいかんともしがたいものです。

このところブログの更新が少ないのは、もともと夏休みで書くことを要請されていないからです。お盆が終わるとまた週1回の掲載に戻るつもりです。

今年はことのほか異常、異様な事件が多く世の中どうなっているのかという感じがします。しかし季節はすすみ、家のまわりの草地にミョウガが出てくるようになりました。土井善晴先生のミョウガごはんの作り方をテレビで見ました。いつも庭先でとれる大量のミョウガの使い道に困っていたのですが、ミョウガご飯にすると大量に食べられるような気がします。物忘れがはげしいのはミョウガのせいではなく年のせいです。

いとこの来訪(2)高野山巡り

  カナディアンロッキーを遠望するアルバータ州レスブリッジという町に育ったいとこ達にとって大自然とはロッキー山脈や底知れない深みをもったコロンビア大氷原であったり、昔の人が海の端はこんな光景だろうと想像したようなナイアガラ瀑布であったり、オーロラが輝く極北の地であったり、そんな桁外れの自然の驚異だと思います。

高野山もまた周囲を山に囲まれた大自然の懐にあります。しかしカナダの自然とはずいぶん趣が違います。紀伊半島の奥深くに位置し、樹齢千年の杉の大木が空に向かって屹立し、かつては人を容易に踏み込ませるような場所ではありませんでした。

カナダの自然はあくまで人間の手がついてない地球誕生以来そのままの自然であるのに対し、高野山は太古の自然と人間の営みが渾然一体になって溶けあって形成された独特の、いわば霊的な自然が広がっている場所と言っていいと思います。

密教の奥義を携えて留学先の唐から帰国した弘法大師空海はこの地を修業の場として真言宗をうち立てました。1200年後の現在、高野山は世界遺産に登録され、密教センターとして世界各地からの若者に修行の場を提供しています。

そんな高野山をカナダ育ちのいとこ達にどう説明したらいいのか、というかそもそも説明なんてできっこないのでとにかく見てもらうことにしました。一番視覚に訴えるものは杉木立と武将の墓です。なぜここに全国の武将のお墓があるのか実は私もよく知りません。おそらく宗派を問わずすべての魂はこの霊地に集まると考えられているのでしょう。

次に訪れたのは総本山金剛峰寺です。見所の多い高野山でもここだけは絶対外すことはできません。

古い農家のスタイルを保った寺院建築ながら内部はお寺というよりむしろ宮殿そのものといった感じです。日本一の規模の石庭や豪華絢爛とした狩野派による襖絵、秀次自刃(じじん)の間など通り一遍の拝観コースをたどるだけでもう我々に残された時間は尽きてしまいました。

いとこ達には日本の長い歴史が今も生き続けている霊場とそれをとりまく環境をじかに見てもらったわけですが、両親の祖国の原初の姿と日本人の精神が形成されてきた歴史の一端を高野山の随所から感じてもらえたのではないかと思います。

いとこの来訪(1)高野山へ

   いとこ(従兄弟、従姉妹)というのは不思議な存在です。兄弟とはしばしば骨肉の争いをする我々ですが、日常生活において適度な距離を保って接することができるいとこは兄弟とも友人とも違う何かなつかしいような感覚を長い人生を通して共有していける存在ですね。

私の両親はともに兄弟のなかでは末っ子に近かったので、私にはもう一人もおじ、おばが残っていません。その代わり父は5人兄弟、母は11人兄弟でしたので大勢のいとこが残されました。

なかでも19歳でカナダに渡った伯父には6人の子どもがいて、いとこたちとは日本とカナダのあいだで離れて住んでいるものの長い交流の歴史があります。7月中旬、父の四十九日の法要にはるばるカナダから2人が参加してくれました。

ヨリコとブルースの姉弟でヨリコは78歳、末っ子のブルースは私より2歳年下の64歳です。来日初日は大阪だったので、翌日岡山へ来る前に、いとこたちを和歌山県・高野山に案内しました。大阪・難波から南海特急で2時間ほどの高野山ですが、思い立たないとなかなか行けるところではなく、私にとっても十数年ぶりの高野山でした。

南海電車が郊外の田園地帯に入っていったころヨリコが私に尋ねました。「あの緑の芝生のような背丈のそろった草は何なのか」と。見れば切手ぐらいの大きさの田んぼに青々と茂っている稲でした。

カナダの人たちにとって農地とは地平線のかなたまで続く麦畑であったり砂糖大根畑であったりジャガイモ畑なので、猫のひたいのような田んぼで米を作っていったい農家はどうやって生計をたてているのか理解不能という感じでした。

大都市近郊の農家の収入の仕組みを英語で分かりやすく説明することは困難でしたが、岡山の我が家の近所の農家のガレージにはトラクターやトラック、軽自動車のほかにベンツや国産高級車が2台ぐらい並んでいるのは珍しくありません。収入面においてカナダの大規模農家と何ら遜色のないのが日本農業の恐ろしさといったら言い過ぎでしょうか。

そうこうしているうちに電車は終点の極楽橋駅に到着。ケーブルカーに乗り換えていよいよ世界遺産であり、世界の密教センターとしてにぎわう高野山参りが始まりました。