高橋大輔に出会った人は例外なく彼を賞賛します。直接接した人もフィギュアスケートの映像を通して大輔とともに幸せな数年をともにした人も。賞賛は高橋の華麗な演技に向かうと同時に、高橋の素敵なパーソナリティーにも向かいます。
岡山で引退会見をしたもようが朝からワイドショーで繰り返し流されています。「高橋を育てた3人の母」とか「ケガを乗り越えて」のようなお涙頂戴の切り口は愛嬌ですが、本人は苦労を苦労と感じない根っからの明るい若者という気がします。
そういう舞台裏の事情はともかくひとたび高橋がリンクに立つと世界中の人が高橋の演技に魅了されてしまいます。何か特別な才能と感覚をもった特別なスケーターが高橋。
その何かとはスポーツと芸術を完全に融合させてみせる彼の天才に他なりません。長いフィギュアスケートの歴史を振り返ってみて高橋に匹敵する芸術的な演技を見せてくれたのはカルガリー・オリンピック(1988)で金メダルを取った旧東ドイツのカタリナ・ヴィットぐらいしか思い当たりません。
カルガリー大会では日本の伊藤みどりが5種類の3回転ジャンプを7度決め2万人の観客からスタンディング・オベーションを受けたのですが、芸術点が低く抑えられて5位入賞でした。そのとき伊藤みどりについて感想を求められたヴィットは「ゴムまりみたいにぽんぽん飛ぶだけではダメ」と辛辣なことを言いました。
ジャンプでは伊藤みどりにかなわなかったヴィットの悔し紛れの言葉だと長いあいだ思っていましたが、トリノ・オリンピック以来の高橋のパフォーマンスを見てカタリナ・ヴィットが言いたかったことが分かるような気がしました。ジャンプがすべてではないと。
フィギュアスケートはスポーツ競技というよりバレエのような身体による表現芸術そのものではないかと思います。いっそ4回転ジャンプしてもいっさい加算されないルールにしたらあと数年我々は高橋大輔の身体パフォーマンスを見続けることができたのに!引退が惜しまれます。
スローモーションで見ると高橋大輔は足だけではなく頭、頭髪、目、首筋、肩、腕、手、指先、背中と身体のすべてを使って演技しています。氷上の能舞台。幽玄の世界です。