2011年1月26日水曜日

早春の庭

 この冬は各地で大雪が降り、屋根に積もった雪を降ろす作業だけでもすでにたくさんの人がケガをしたり亡くなっています。雪がほとんど降らない県南に住んでいることのありがたさに感謝するこのごろです。

 しかし季節は確実に春に向かっていて大寒とはいえ太陽の光は早くもまぶしいぐらい強くなり、母から受け継いだ庭の荒れ果てた花壇にも早春の気配がただよい始めました。

 数年前に植えた土佐ハナミズキは緩やかにカーブした枝を四方八方に拡げ、枝には大きなつぼみがいっぱい膨らんでいます。まもなく黄色い蝶のような花を咲かせます。

 春の花はなぜか黄色のものが多いものです。ハナミズキの株もとでは福寿草の大きな花芽が地面から顔を出してきました。私がまだ学生だったころ正月用に買った寄せ植えを地面に降ろしたものが我が家の福寿草のルーツです。福寿草は早春に花をつけたあとセリのような葉を伸ばすのですが、その葉は5月には枯れてしまいます。

 葉っぱがあるのは一年のうちたったの2,3ヶ月、それでも毎年花を咲かせ、株を増やしていくだけのエネルギーを蓄えるのだから大したものです。またパラボラアンテナのような花は太陽光を花の中心の雌しべに集中させて温度を上げるのに役立つと同時に黄色は昆虫を呼び寄せるのに効果があると何かの本で読んだことがあります。

 黄色の花木は他にもレンギョウ、ヤマブキ、エニシダ、ミモザと枚挙にいとまありませんが、今年はこれらにロウバイが加わりました。たった1輪ながら独特の蝋のような質感の丸いつぼみを付けています。

 このロウバイ、10年ぐらい前、花壇の隅に実生で生えてきたのですが、年々図体ばかりが大きくなるだけで全然花を付けませんでした。先日、「これはロウバイそっくりの偽物かなあ?」と父がお世話になっているヘルパーさんに話したら、ロウバイなら家にいっぱいあると言って花が咲いた株を持ってきてくれました。

 「本物のロウバイが来たからには偽ロウバイは要らない、切ってやる」と私が脅かしたら何とこの木は一夜にしてつぼみをひとつ付け自分は正真正銘ロウバイだと証明してみせたのです。植物も年季が入ると人の心理を読むようになるのにはびっくりですが脅しただけの甲斐がありました。


2011年1月20日木曜日

守分君

 「中国銀行第三代頭取守分十の世界」(日本文教出版)という本が岡山文庫に加わりました。著者は本誌前編集長の猪木正実氏。「あとがき」によれば猪木氏は生前の守分頭取に直接取材したことはないとのことですが本書を書くにあたって十氏の孫にインタビューしています。

 この孫というのが守分宣(ひろし)君。守分君とは中学、高校のそれぞれ2、3年次を同じ教室で過ごしました。彼は学校ではあまり熱心に勉強をしているようすもないのに成績抜群だったのが不思議で中2のころ勉強法を尋ねたことがあります。

 答は案外平凡で、「計画を立てて深夜遅くまで予習復習している」という。私が「そんな時間まで起きていたら眠くならない?」と聞いたら「眠くなったからといって寝ていたら勉強などできやしないよ」とのご託宣が。こういう意志の強さ、義務の観念の強さはおじいさん譲りだったのかもしれません。

 しかしパーソナリティに関してはおじいさんがワンマンだの天皇だのと人から恐れられたのに対し守分君はひとつことにこだわったり青春時代を深刻ぶって懊悩するようなタイプではなく、高校時代連日遅刻して教師からさんざん文句を言われても笑って軽く受け流していました。

 そんな守分君が一度だけさえない顔色を見せたことがあります。高3の終り東大入試を受けて帰ってきた彼に「試験どうだった?」と尋ねたときです。「失敗した。落ちた」と真顔でいう表情はいままで見たことがなかったので少し驚きました。でも結果はちゃんと合格でした。

 大学時代は同じ東京にいたはずですが、学校が違っていたせいもあって会うこともなく交流は途絶えたままその後何十年かが過ぎました。そして今年の正月、久しぶりの同窓会で席が隣になりました。

 「これまでのキャリアで一番楽しかったのはいつごろ?」と話しかけたら「ドイツ駐在時代かなあ(日銀フランクフルト事務所)」とのこと、「ドイツ人は一見とっつきにくいけど本当に親密な人間関係が作れるよね」などと話がはずみました。

 しかし会が始まってわずか30分、守分君はひととおり顔合わせがすむとそそくさと会場から消えていきました。ものごとに拘泥しないで風のように飄々とすべてをやり過ごす彼の流儀は相変わらずでした。

2011年1月15日土曜日

永瀬隆さん

 岡山県に住んでいる人はだれでも一度ならず永瀬隆さん(92歳)の名前をテレビニュースや特番を通して聞いたことがあるかと思います。永瀬さんは太平洋戦争末期、陸軍憲兵隊通訳としてタイに滞在し、映画「戦場にかける橋」のモデルとなった泰緬鉄道の過酷をきわめた建設現場に立ち会った人です。

 永瀬さんは戦後倉敷で英語塾を経営しながらその後の人生すべてを贖罪に費やしてきました。昨年だったと記憶していますが超高齢になり体力も弱った永瀬さんが最後のタイ訪問をする様子をドキュメンタリー番組で拝見しました。

 私もタイにはよく行きますが、バンコク以外あまり遠出をしたことがなくクワイ河にかかる鉄橋とはいったいどんな橋なのか1度は見てみたいと思い先日訪タイしたおり橋があるカンチャナブリに行ってみました。

 「戦場にかける橋」は映画で見たシーンから私がかってに作り上げたイメージ、つまり急峻な山あいの深い峡谷にかかる橋とはおよそ違って、幅広いよどんだ川にかかるのどかな鉄橋でした。欧米人始め各国から来た観光客が三々五々橋を往復しながらビデオカメラで戦跡を撮影していました。

 橋のたもとには屋台やレストランがひしめくなか記念館があり日本軍が残した備品が多数展示されていました。蒸気機関車や軍用オートバイなどに混じって歯科の診療台が2台あったところを見るとカンチャナブリが日本軍にとって重要な駐屯地であったことがしのばれました。

 しかし博物館としては手入れが行き届かず展示品の劣化が激しいのが気になりました。また何万とも言われる捕虜の生活と死を解説したパネル等も貧弱かつ資料性にとぼしいものでこういうことにこそ日本のODA資金をつぎ込むべきだと感じました。

 永瀬さんは戦後ずっと1個人として奨学金を現地の子供に提供し、今では立派な看護師になった女性たちから「お父さん」と慕われているそうです。永瀬さんにとって贖罪と現地慰問がライフワークになってしまったのは悲しいことですが、戦争にちゃんと向き合ったことで幸せな人生をつかんだ人という気がします。

 ちなみに永瀬さんのことを帰国後父に話したら、小学校時代のクラスメートだったとのことでそれにも私はびっくりでした。

2011年1月5日水曜日

映画「ノルウェイの森」

  昨年末、村上春樹原作の映画「ノルウェイの森」が封切りされさっそく見にいきました。観客は20代の若者が多かったのですが中には村上春樹と同世代の熟年組もちらほらいました。私もそのひとり。

 村上春樹その人がモデルとなっている主人公のワタナベ君が地方(神戸)の高校から1968年の春、早稲田大学に入りそこで高校時代の友人・直子に偶然再会するところから物語が始まります。

 映画では当時の早大キャンパスの様子が細心の注意をもって再現されておりひとつひとつのシーンに心が大きく揺さぶられました。私自身ワタナベ君とまったく同じ時期、同じ場所にいたからです。

 1968年からの3,4年間、大学も社会も大荒れでした。10.21国際反戦デー新宿騒乱事件、三島由紀夫のクーデター未遂事件、凄惨をきわめた連合赤軍リンチ事件、沖縄返還、日中国交回復など大きなできごとが次から次へと目の前で起きていた時代です。  

 ワタナベ君がこうした政治的な状況から距離をおいてもっぱら直子やクラスメートの緑との関係を深めていったのと同様、私も将来の展望がないまま学生生活を中断してアルジェリアに行きました。ろくにフランス語もできないくせにプラント建設現場の通訳としてけっこうな給料をもらい貯金もできたので1年後帰国して早大に復学したのですが、もはや「ノルウェイの森」に描かれたような雰囲気は大学からも東京からも完全に失われていました。

 大正生まれの父が太平洋戦争のことを子供らにほとんど語らなかったように私も下の世代の人々に60年代末から70年代初めの疾風怒濤の時代を語ることはしませんでした。

 日本のよき伝統や文化を無視して好き勝手なことをし、ひたすらフランスやイタリアから最先端の知識を取りこむことだけに熱中していたことが引け目に感じられ過去を語ることは気恥ずかしくもあったからです。

 「ノルウェイの森」はそうした自分の中に封印していた過去をあまりにも美しくまたえげつないシーンで再現してくれたという意味で私にとっては記念すべき映画になりました。ただひとつ違和感があったのはワタナベ君がレイコさんとセックスするまえにシャワーを浴びていたこと。当時学生が住んでるような下宿にシャワーはありませんでした。(バンコクにて)

2011年1月4日火曜日

11年目の介護

2001年に両親の介護のために仕事をやめて岡山に帰りすでに10年の歳月が流れました。こんなにも長期間の介護を余儀なくされ、自分自身の人生はどこに行ったのかというやり切れなさに苦しみつつも何とか切り抜けてこられたのは私なりに自然や社会との関わりを断ち切らないで過ごしてきたことが大きい要因ではないかと思っています。

畑を耕し、ニワトリを飼い、捨て猫を拾い(今では12匹に増えてしまった)、高速料金1000円政策を活かして徹夜ドライブで気分転換を図り、それでも極度のストレスが自覚されるようになったら4,5日両親を病院に預けてタイに脱出して何とかしのいできました。

社会との関わりでは内閣府の国政モニター、山陽新聞読者モニターをそれぞれ1年間引き受けました。しかし何よりも生活に規則正しいリズムをもたらしてくれたのがこの「スローライフ」執筆です。

毎週毎週すぐやってくる原稿締め切りとの格闘。ネタ探しのためなら転んでもタダでは起きない精神でいつも世の中や身の回りのできごとに注目していなければなりません。もともと書くことが上手でもなければ得意でもないのに300回を超えてなお書かせていただきたいと思うのは単調な介護の日々にあってどうにもならないいろんな思いを社会に対して、同世代の人々、若い人々に対して訴えたい、聞いてもらいたいという願いがあるからです。

近年、介護をめぐる様々な人間模様が犯罪という形をとって露呈するようになりました。昨年は子供が親の死亡届けを出さないで親の年金を国からだまし取るケースが全国的に問題になりました。介護疲れによる親殺し、無理心中、虐待はいっこうになくなりません。悲惨な事件を見聞きするたびにどれもこれも他人ごとではないとハッとします。

それでも介護生活を10年もしていると、しだいに自分は介護の犠牲者なんかではない、62歳にもなってまだ両親といっしょに暮らしている稀なる幸福者という気がしてくるから不思議なものです。こうなったらあと5年でも10年でも行き着くところまでお付き合いしましょう。今まで同様ときどき気分転換しながら。そして知らないうちに自分自身が老境に達してしまうのも悪くはないな、そんな気がしてきました。