食料不足が続いた昭和30年代、農村地帯では米作の裏作として大麦や小麦が栽培されていました。しかし岡山県南の水田地帯では麦よりもはるかに大きな現金収入をもたらすイ草の栽培が一般的でした。
ところが現在では岡山県内でイ草を栽培している農家は倉敷市内にわずか3軒残るのみ。なぜイ草栽培が急速に廃れてしまったのかその理由は簡単です。イ草栽培はあまりにも過酷だったからです。
冬場、氷が張る田んぼにイ草の苗を1本1本手で植え、春から梅雨明けまで大きく育てます。そして梅雨が明けると同時に一気に収穫し、専用の土で染めて乾燥させなければ最高級のイ草にはなりません。
当然、農家の手だけでは足りず、農家は“ヒヨウ”と呼ばれる季節労働者を毎年雇い入れていました。夏場水不足で農作業が少ない四国の農家の若者たちが主で、高い賃金を求めて連絡船で海を渡ってきました。
庭瀬駅には村役場の臨時出張所ができヒヨウさんを農家にあっせんしていたものだ、とは父の昔話です。一方、彼らを受け入れる農家も大変です。働き盛りの若者を4、5人、母屋の一番いい部屋に寝泊まりさせ、食事は1日数回用意し、夜は酒も飲ませなければなりません。
背丈を超えるまで育ったずしりと重いイ草を鎌で刈る。すぐに泥に漬ける、泥水をたっぷり含んでいちだんと重くなったイ草を田んぼや道べりに広げて乾燥させる。すべての作業はギラギラすべてを焼き尽くす真夏の太陽の下で行います。
ところで“ヒヨウ”という岡山弁らしき呼称、何やら差別的なニュアンスが気になり広辞苑で調べてみました。何と標準語で「日傭」と書き、日雇いの意味でした。
そのヒヨウさんたち、10日間ほどの重労働を終えたときには日当が今のお金で数十万円ぐらいになったのではないでしょうか。なにしろ早朝から深夜までずっと働いて食って寝るだけの生活でお金は一銭も使う機会がないからです。
ようやく重労働から解放され宇高連絡船に乗って四国に帰っていく彼らが無事家に帰って家族に分厚い財布を渡せたかというとそうはいきません。父の話では高松港周辺には賭場と娼館が林立し、彼らの稼ぎはすっかり巻き上げられたということです。(次号に続く)