2014年2月23日日曜日

幻影の先輩

  昨年暮れから1月の終わりごろまで入院していた父が退院してきました。長い入院生活のせいで人が変わったように無口になっていました。相当呆けが進んだのかと心配していたのですが人格の奥底は大丈夫であることがある出会いを通してあきらかになりました。うれしくもあり、悲しくもある話ですが……。

私の友人が久しぶりに大阪からやってきました。まだ30代前半の若者で体格がよく短髪でいかにも日本男児という風貌の持ち主です。以前にも父に会ったことがあり、この度も実家に立ち寄ってくれました。若者が父にあいさつしました。

父は目をパッと開き、ベッドに横たわりながらも居住まいを正し、「いやぁ、これはxx先輩! お懐かしゅうございます。戦地からよくご無事でお帰りなさいました」と、つかこうへいの戯曲『戦争で死ねなかったお父さんのために』に出てくるようなセリフを口にしました。驚きましたね。そして若者に尋ねました。

「軍での階級は何だったのでございましょう?」

私も友人も軍の階級制度なんかまったく無知で、私が適当に「伍長だったと言っといたら?」と助言。

「伍長です」と若者が答えた瞬間、父の顔にさっと当惑の表情が拡がり気まずい雰囲気になってしまいました。それでも別れ際には「こんなむさ苦しいところまでよく訪ねて下さいました。寝たままの見送りで申し訳ありません」と感激の面持ちであいさつしていました。

その後、友人と近所の焼肉屋でビールを飲みながら、「さっきの伍長はまずかったみたいだったよね。ちょっと階級についてスマホで調べるわ」と言いつつ旧日本軍の階級制度をチェックしてみました。少佐か大尉ぐらい言っておくべきでした。

父自身は戦時中、教員だったうえ肋膜炎を患っていたので軍隊に行った経験はありません。しかしそのことが心の奥底で引け目というかコンプレックスになっていたのかもしれません。父が尊敬していた師範学校の3年先輩の方は若くして戦死されたのではないかと思います。

人はあの世にいけば懐かしい人に会えるといいます。でも人間は長生きすると生きながら西方浄土に遊ぶことができるようになるものですね。父を喜ばしてくれた凛々しい訪問者に大感謝です。

2014春節・上海

  2月初めに2泊3日で上海へ行ってきました。中国の旧正月である春節のど真ん中に出かけたのは今回が初めてでしたが大失敗でした。いつもなら定休日などない多くの小売店やレストランが軒並み正月休みを決め込んでいたのです。

当てにしていた人民広場のレストランは休業中、庶民的な麺類を食べさせる店もほとんどが休んでいました。外資系のコーヒーショップでサンドイッチばかり食べていたら胃がおかしくなりました。

それでも上海随一の繁華街である南京東路はどこの店も開いていて親子連れ家族でごった返していました。一人っ子の多い中国は子ども天国です。両親と両サイドのおじいさん、おばあさんからいっぱいおもちゃを買ってもらってご満悦。

地下鉄に乗ると親はまず子どものために席を確保してやるのですが、ドアが開くやいなや降りる人を押しのけて空いた席へ突進し、子どもを座らせるのです。子どもといっても小学校3、4年生ぐらいの年齢の子どもでも当然の顔をして座ります。乗車時間がせいぜい15分か20分でもとりあえず席を確保することの優越観は何ものにもかえがたい誇らしいものであるようです。

こうした親子の様子は実に微笑ましいものです。家族以外はすべて敵、あるいは競争相手である中国社会で家族の結束ほど大切なものはほかにありません。春節に大変な苦労をして遠い故郷まで超満員の列車やバスを乗り継いで帰るのも家族や親族に再会して自分の存在理由を再確認するためでしょう。

しかしながら家族とのつながりにおいてすべてが成り立つ中国社会では不幸にして家族が崩壊したり、家族から切り離されて孤独に生活している人々の生活はかなり厳しいようです。公的な生活援助や就労援助などないに等しく農村戸籍の人々は都市では人権すら保証されていません。中国社会では自殺が多く、また精神疾患がある人の率が先進国では考えられないほど高いと聞きます。

日本のようにとうの昔に大家族制が崩壊した国では国民が孤独に対し免疫ができているうえに、社会福祉の水準は中国人が想像できないぐらい手厚いものとなっています。ホテルの部屋まで花火と爆竹の雷鳴のような騒音が襲ってくるなか、彼らにもよい春が来ることを願いました。

オペラの魅力(3)


 サンドロたちと自転車で出かけたトッレ・デル・ラーゴでは博物館になっているプッチーニの別荘を見たり、歌劇「西部の娘」を観た記憶があります。あまり人気が出なかったこのオペラがライブだったのか映画だったのか30年以上も昔のことで記憶が定かではありません。

「去る者は日々に疎し」。今のようにインターネットがなかった時代に交友関係を維持するには航空郵便しかなく、またイタリア語で手紙を書くことは少々苦痛でもあり次第に無沙汰が続くようになり、ついには音信不通になってしまいました。

ところが今また、自分が青春時代に熱狂したすべてのもの---映画、音楽、オペラの名演、欧米の友人たちの交友---がネットやYouTubeを通じてよみがえってきました。かすかな手がかりを通じて昔の友人をネット上で発見することもしばしばです。

サンドロが現在どうしているのか、姓名、年齢、専門領域などを勘案するとぴったりの人がフィレンツェ大学の哲学科の教授にいます。まだ連絡は取っていませんが昔の交友が復活する予感がします。親の介護から解放される日もそう遠くないでしょう。悲しいことですが、私自身の人生を取り戻すことも私にとって親の存在同様に大切なことだと思います。

イタリアの熱狂的なオペラファンたちからオペラの楽しみ方を教わった私はその後今に至るまであらゆる舞台芸術に関心を寄せるようになりました。文楽や歌舞伎、能はオペラに負けず劣らず声と身体表現が完璧に調和した芸術です。

こうした芸術あるいは芸能が時代や国境を超えて人々に愛されるのはブルジョア趣味なんかではなく、人間の根元的な喜びや悲しみが激しくストレートにあるいは抑制され洗練されたかたちで遺憾なく表現されているからに違いありません。

それにこうした古典的な芸術はもう若くない私にとっていちばんぴったりくる人生の相棒のような気がします。なじみのストーリーでも演じる人が違えば新発見もあります。それに何といっても痛快なのは歌舞伎座なんかに出かけて周りのお客を見渡すと、65歳の私でも未だに若者に属することを発見することです。

いつの日かサンドロたちを日本に呼んでいっしょに歌舞伎座で芝居見物をしたいと願っています。青春遍歴パート2です。(おわり)

オペラの魅力(2)


 ヴィア・レッジョはイタリア半島の北西にある海辺の町です。近くには有名なピサの斜塔があり、フィレンツェもそう遠くありません。そんな町に住んでいるスカラ座で出会った大学生たちに会いに行きました。

ヨーロッパを旅行していると列車のコンパートメントや観光地でいろんな国の人と知り合いになります。「どこから来たの?」、「学生?」などと話がはずみ、気が合えば「きっと遊びにおいでよ」と誘ってくれます。日本の「お近くにおいでの際は是非……」というあいさつと違って本当に行っても相手を当惑させることはありません。大歓迎です。

ピサ大学で美学を専攻しているサンドロは丘の中腹にある古いお屋敷に両親と妹の4人で暮らしていました。特別お金持ちというわけではなさそうでしたが家には馬が1頭いたし、小さいながらプールもあり、丘には自前のオリーブ園やブドウ畑がひろがっていました。

季節は8月、庭のイチジクがようやく熟れ始めるころでした。午前中は遅い朝食をゆっくり食べ、昼からは海水浴です。私は水泳は不得意でしたが、そのころNHK教育テレビが毎年「木原光知子の母と子の夏休み水泳教室(だったかな?)」という番組をやっていました。木原さんは「足をバタつかせない、そう、足をまっすぐ伸ばしたまま大きく動かして、ハイッ!」とクロールの足裁きを指導していました。彼女は指導者としても天才でしたね。(私は木原さんと同学年でした)

さて、海辺では東洋人の私に興味津々の小さな子どもたちに取り囲まれ、にわか水泳コーチになりました。「足をバタバタさせないで、ひざを伸ばしたまま大きくゆっくりと、そう、こんなふうに!」。コツが分かって急に泳ぎがうまくなったイタリア人の子どもたちに私は大人気でした。水泳の後も「日本語を教えて、空手を教えて」と放してくれません。空手なんて全然できないのにね。
次の日だったか、その次の日だったか、サンドロたちとプッチーニが終生過ごした湖のほとりにある別荘まで自転車で出かけました。道路交通が日本と左右逆で、向かってくる自転車を避けるのに私はつい本能的に左に避けたら相手もどんどん左側に。「コンタディーノ!」と罵声を浴びせかけられました。「この田舎もん!」。(次号に続く)