2017年6月28日水曜日

文芸学者西郷竹彦先生の死を悼む(下)

 熊本で転んで内蔵を損傷した可能性があるのにもかかわらず、先生はJR職員の心配をものともしないでそのまま新幹線に乗り込み、岡山駅まで帰ってきて駅に待機していた救急車で病院に運ばれました。泰然自若の老病人とハラハラしっぱなしだったであろうJRの車掌さんの困惑した顔が目に浮かびます。

「何度もピーク」
 ふつうの人間にとって“人生のピーク”と呼べる時期は一度切りではないでしょうか。我々凡人にとっては、あこがれの大学に合格したとき、社会人になってばりばり活躍したころ、家庭を築いたとき……あとで振り返れば「あのころが我が人生最良の日々だった」と思える時期は何度もありません。
 ところが西郷先生の長い生涯には私生活においてもいくつもピークがあったものと想像されます。「想像される」というのは、先生の関心は常に今現在と未来にあり、過ぎ去った遠い昔のことなど自ら語られることはほとんどなかったからです。
「先生はソ連抑留時代もロシア美人にもてもてだったに違いない」、「どうやら今まで何度も結婚し、子どもの数も片手では収まりきらないらしい」とは、私が牛窓の「てれやカフェ」のマスター、ヒロシ君と今はなき先生を偲んでひそひそ語るたわごとですが、実際、西郷先生の人生は波瀾万丈だったようです。
お亡くなりになる前の何か月かは病院で過ごされたのですが、さしもの頭脳明晰な先生でもときには意識が混濁することがあったようです。ある日見舞いに訪れたヒロシ君に先生は言いました。
「おい、ヒロシ、おれは今殺し屋に追われている、隣の部屋にいるあいつだ。今夜おれは女を連れて逃げる。そこでお前に頼みたいことがある。ありったけの逃走資金と車を用意してくれ」
「女」というのは最後の日まで病院でお世話になった若い看護師さんのことなのか、それともシベリアの雪原のかなた、国境線をめざして先生といっしょに国外脱出を企てるロシア人美少女ナターシャかアナスタシアか?

「内部にたくわえられたマグマ」は先生の長い生涯の最後の瞬間まで灼熱のエネルギーを放出し続けたのです。すばらしき哉! わが師西郷竹彦先生 合掌

文芸学者西郷竹彦先生の死を悼む(中)

西郷先生の業績の集大成ともいうべき「西郷竹彦・文芸教育全集」全36巻を出版した恒文社社長の池田恒雄氏(ベースボールマガジン、恒文社会長)が全集の巻頭言で次のように西郷先生の人となりを紹介しています。

「先生は、いまも、若き日のエネルギーを持って日本中を、駆け回っておられる。しかも、近著からもわかりますように、そのお仕事は何度目かのピークを迎えておられるように思います。内部に蓄えられたマグマの強さには、ほとほと感心せずにはいられません」(西郷竹彦著「わが人生を織りなせる人々」新読書社、p.92、下線は筆者)。

この池田氏のことばはそのまま先生のより私的な部分あるいはパーソナリティーの根幹をなす人格の中枢部分にもあてはまるのではないかと思います。ここではプライバシーに配慮しつつも池田氏の言葉からキーワードを取り出して、先生の最晩年を近くで見てきたものとして思い出をつづってみたいと思います。

「若き日のエネルギー」
100年近い生涯を通じて先生は常に若い女性から生きるエネルギーをもらっていました。複数回におよぶ結婚生活、多くの子どもさんに恵まれたこと自体が現今の草食動物化した若者世代には想像もつかない旺盛な動物的エネルギーの持ち主であったことを証明しています。
90歳を過ぎてから始められた我々地元民を受講者にしてのセミナーの参加者は中年以降のおっちゃん、おばちゃんが多かったのですがたまに文学に興味をもった女子高生なんかも混じっていました。
先生はおじんやおばんには目もくれず、若い生徒さんには実に懇切丁寧に勉強方法を伝授していました。「君、名前は何ていうの?文学を学ぶのにはまずこれこれの本を読むといい、今度持ってきてあげよう……」まるで高校か大学の文芸部の先輩が新入部員の女の子に語りかける口調。若き日のエネルギーは不滅です。

「日本中を駆け回る」
 文芸教育研究会主催者として先生は90歳を過ぎても全国大会に臨まれました。また遠距離の旅も一人で出かけることがありました。あるとき熊本出張の帰り、駅で転倒し、腎臓が損傷するという大事故に見回れたことがあります。即刻救急車で病院搬送しなければいけない状況です。(続く)

文芸学者西郷竹彦先生の死を悼む(上)

瀬戸内市牛窓在住の文芸学者西郷竹彦先生が97歳の生涯を終えられたことを新聞報道で知りました。一生を通じて精神が老いることなく、ここ数ヶ月病床にありながらも新しい本の執筆に情熱を燃やしておられたさなかの訃報でした。
西郷先生の名は日本での文芸学という学問領域にあってはまさにカリスマ的存在で、特に初等、中等教育界で先生の名前を知らない人はいないと言っても過言ではありません。そんなすごい方がたまたま岡山のしかも牛窓という海辺の小さな町で晩年を過ごされたおかげで、私も直接先生の講義に親しく加わる幸運に恵まれることができました。
数年前、90歳を過ぎた先生は地元の人々を対象に「てれやカフェ」という喫茶店で、夏目漱石、宮沢賢治、森鴎外、石川啄木等の作品を通じて文芸学の理論を精力的に説いてくださいました。とてもエキサイティングな学問体験でした。(その様子は山陽新聞文化部の取材記事として2011年4月21日、22日、24日の3回に分けて掲載)。
1920年、鹿児島生まれの先生の生涯は波乱に満ちたものだったようです。幼いころに両親をなくされ、土方をしながら苦学、東京大学で応用物理学を専攻。卒業後まもなく兵役、ソ連で抑留生活を余儀なくされたといいます。戦後生まれの我々からは想像もできない青春時代です。
しかし先生はそんな境遇をものともしません。ソ連での抑留生活では多くの日本兵が強制労働と栄養失調、極度のストレスと極寒の気候に命を落とし、2度と日本の土を踏むことなく死んでいきました。ところが先生は語学の才能を生かし、モスクワ東洋大学日本学部講師に採用され日本文化と日本文学を教え、1949年に帰国してからはロシア児童文学の翻訳を手がけ、その後文芸教育の理論的支柱になるのです。

どうやら恐怖のソ連抑留生活もイケメン、インテリ、薩摩隼人の先生にとってはモテモテで全然悪くなかっようです。どんな境遇でもそれこそはやり言葉でいう自己実現を果たす能力が生まれながら身についていたのでしょう。先生のリビドー(本能のエネルギー)は生涯減衰することがありませんでした。次回は少しばかり先生の人柄をしのぶエピソードをご紹介しようと思います。(続く)

2017年6月8日木曜日

京大総長式辞、JASRACに風穴か

音楽著作権管理団体として作詞家や作曲家の権利を代弁するJASRACの存在がかえって楽曲や詩を生み出すクリエーターとそれらを聞いて楽しみ感動する聴衆との日常的な心の交流を妨げているような気がします。音楽著作権管理団体はほかにもあるのですが実質的にはJASRACが業務を独占している状態です。
JASRACは著作権法が認めている正当な引用の判断基準をきびしく解釈していて、ものを書く人の創作意欲を減退させることはなはだしい。私も時代を映す演歌やはやり歌の歌詞の一節を自由に引用してブログやエッセイを書きたいのですが、JASRACからの問い合わせが来ることをおそれて歌詞の直接的な引用は避け、タイトルや歌い手の名前(これらには著作権がない)を挙げて何とか気持ちを伝えようと苦労してきました。
ところが今年の4月、天下の京都大学において山極総長が入学式式辞で昨年ノーベル文学賞を受賞したボブ・ディランの「風に吹かれて」の英文原詩を長々と引用したことがJASRACの目に触れ、京都大学に対して「お問い合わせ」があったことがニュースになりました。山極総長は「常識にとらわれない自由な発想とはどういうことをいうのでしょうか」と問いを発し、総長が高校生時代に流行ったボブ・ディランの「blowin’in the wind」を引用、披露しました。総長の挨拶文は以下のような引用の構造をしています。具体的には京都大学のホームページを開いて、「平成29年度入学式式辞」を見ていただきたいと思います。
「風に吹かれて」の英語の歌詞が2行、その和訳が2行ずつ、結局歌詞の1番が全部掲載され、さらに2番からももう2行引用されています。正直、びっくりしました。いままで1行の半分の引用にも文句をつけていたJASRACがどう対応するのか見守っていたら、なんと理事長が京大のケースは「著作権法の『引用』と判断し(使用料は)徴収しない」と会見で表明したからです。

京大の例がJASRAC問題に風穴を開けたことになると私は信じたいです。ただこの結果がただちに作家やブロガーにとって光明となるかどうかはもう少し時間が経過しないと分かりません。またJASRACはヤマハ音楽教室に対しても使用料を求めて逆に訴訟を起こされていますが、その結果にも注目したいと思います。

2017年6月7日水曜日

「わが青春のマリアンヌ」


シニア世代になった今も見るたびに思春期のころに引き戻してくれる特別な映画があります。「わが青春のマリアンヌ」。「銀河鉄道999」の松本零士など多くのクリエーターに多大な影響を与えた作品といわれています。監督はジュリアン・デュヴィヴィエ、仏独合作映画で1956に公開された白黒映画です。
実はこの映画にはフランス語版とドイツ語版の2種類があり、単に音声吹き替えというのではなく、主役の少年がドイツ人とフランス人のダブルキャストで撮影されています。両方とも現在YouTubeでフルムービーが視聴できますが、私はだんぜんドイツ語版の方が好きです。(注)
何と言っても若き日のホルスト・ブッフホルツが演じる主役のヴィンセントの憂いを含んだ繊細な演技が素晴らしい。思春期の少年独特の夢想、冒険、夢と現実の境界を自由に行き来するたましい、そんなものを見事に表現し尽くしています。
物語は、ある日森の奥にある寄宿学校にアルゼンチンからヴィンセント少年が転校してきます。湖の向こう岸に古い館があり、そこにマリアンヌという美しい少女が恐ろしい老伯爵かなんかに幽閉されていて、助けを待っている……。ヴィンセントは嵐の夜、手漕ぎボートで救出に向かいます。どこまでが夢で何が現実なのか、映画を見ている人は次第に青春の迷宮に導かれていきます。
この映画では青春のロマンチックな感情だけでなく残酷さも遺憾なく描かれています。男の子(小学生から高校生ぐらいの年代)だけの寄宿学校ですが、そこに校長の親戚の少女、リーゼもヴィンセントに少し遅れて転校してきます。
ヴィンセントは故郷のアルゼンチンのパンパで野生の馬を自由に乗り回していたほど動物の心をつかむ魅力を備えた少年です。深い森の中にある寄宿学校でヴィンセントがアルゼンチンの民謡をギターに合わせて歌い始めると、野生の鹿たちも感動して窓の外に集まってきます。

ところがヴィンセントの存在にうっとりしたのは鹿だけではありませんでした。リーゼも一方的に恋をし、ヴィンセントが大切に飼っている鹿を彼女は殺してしまいます。嫉妬からです。思春期の夢想から抜け出せない少年と一足先に「おとな」になった少女のこころの対比が残酷にも美しく描かれています。

(注)2017年6月7日現在、YouTubeではドイツ語版が見あたりません。この2,3週間のうちに削除されたものと思われます。DVDもフランス語版しか販売されていないようです。私はなつかしのレーザーディスク時代のドイツ語版「わが青春のマリアンヌ」をもっています。またYouTubeのドイツ語版もダウンロードしています。このようにYouTubeにのせられる動画は著作権の問題などですぐ消されることは日常茶飯事なので、気に入ったものがあれば迷わずダウンロードしておくに限ります。


慢性疾患と薬

60歳70歳と、年を重ねると体にはさまざまな変化が起きます。体重は増加する一方だし、血圧、コレステロール、血糖、尿酸等あらゆる検査項目が正常値を上回ってきます。医師からは体重を二十歳のころに戻しなさいと指導され、慢性疾患に対しては病名ごとに薬が処方されます。
私の場合、若くてほっそりした体つきだったころからすでに中性脂肪の値が異常に高く、それは超肥満体型の現在も変わっていません。病院に行くたびに薬を勧められますが、何だか体に悪いような気がして処方をお断りしています。
 たしかに医師が言うとおり、腎臓や肝臓疾患、動脈硬化、糖尿病などはどれも静かに進行するので、症状がないからといって放置するのは命取りになるのかもしれません。脂質異常(高コレステロール血症)を放置しておくと動脈硬化を起こし、やがては心筋梗塞とか脳卒中で倒れるという経過をたどるのでしょう。
 しかし現在68歳の私の場合、50年もの長い年月を中性脂肪やコレステロールが高いまま過ごしてきたのにもかかわらず、どこで何度検査しても動脈硬化を指摘されたことはありません。血液ドロドロかも知れませんが血管はしなやかなようなのです。
 高脂血症の人が薬で数値を下げなければならないとされる理由は、大規模な調査の結果、薬の効果が立証されているからでしょう。しかしだからと言って動脈硬化を引き起こしていない老人が今さら薬を飲む意味があるのかどうか、むしろ副作用によるデメリットの方が大きいのではないか、と私は疑問に思います。
 医師はこうした疑問に対し「いやこれこれの理由で飲む意味があります」などとは答えてくれません。優しい先生は「まあ様子をみましょう」と言われるし、手厳しい先生は不機嫌になり「私の指示を聞けないあなたがこの病院に来る意味ありますか?」と匙を投げつけてきます。

 私の父は人工透析に頼りながらも96歳の人生をまっとうしました。父の70歳ごろの手帳が遺されていたので読んでみて思わず笑ってしまいました。腎臓が悪化して医師から大量の薬を処方されていたころの日記です。「こんなに何種類もの薬を飲んだら体に悪いような気がするから半分捨てた」。慢性腎不全にもかかわらず100近くまで生きた父には賢明な判断力があったのです。