幼児のころの記憶はどこまで遡れるのか、三島由紀夫は「仮面の告白」のなかで、自分が生まれた日の光景を鮮明に覚えていると少年時代にまわりの大人に主張して失笑を買ったエピソードを紹介しています。
それは「産湯に写る電球の光」という怪しくも耽美的なシーンで、長じて華麗な文章を紡ぎ続けて突然この世を去った文豪の最初の記憶にふさわしい心象であったと思います。
作家のような鮮明な記憶はないものの、私にはおねしょをしたあとの何ともいえない情けない感覚が幼児期最初のころの記憶として思い返されます。
トイレに行きたくなる、暗くて寒く恐いトイレにやっとたどりつき気持ちよく放出し始めたとたん「何か変、しまった、これはいつも見るおねしょの夢だ!」と夢の中で気づいてももう手遅れ。
母は真夜中でも慌てず騒がず濡れた敷き布団の上にタオルを敷いてくれて、朝がくると布団を干してくれました。真綿布団は洗うことができないのでいくら干しても汚れが取れるわけではないのに、1日太陽に当たった布団は気持ちよく、それがまたその夜の快眠と快おねしょを誘発したものでした。
それから半世紀が過ぎ、今また同じ六畳間で親子の1日が過ぎていきます。ときどき子猫が入ってきては母のベッドに登ってうっとりした顔をしているときが最悪。びっくりするぐらいのおしっこの水たまりができています。
でも今は重い真綿布団に代わって軽い羽布団の時代、洗濯機で丸洗いし乾燥はコインランドリーの大型乾燥機にかければばっちりです。慌てず騒がず、母と12匹の猫のお世話をする幸福な日々が続いています。
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