イ草農家に出稼ぎにやってくる若者は彼ら自身農家の次男三男が多く、長子相続制が一般的だった時代、分家して家族を持ち田畑を耕して生計を立てていくことはほとんど不可能でした。多くの次男三男は都会に仕事を求めて出ていったのですが、ヒヨウとして出稼ぎに来てそのまま岡山に留まった人もいました。
ヒヨウを雇いいれる農家も毎年違う人を役場であっせんしてもらうより、その人のひととなりが分かっている者に来てもらう方が安心できます。そして中には、イ草農家の主人の目にかなった若者がそのまま婿入りするケースがあったそうです。
我が家の近所にもそうした婿養子殿がいます。私が小学生のころ彼はやってきました。昔から「米糠3合あれば養子に行くな」という格言がありますが、格言が警告するとおり、婿入りしたこの若者はたばこ銭にも事欠く肩身の狭い日々を送っていたのでしょう。
ある日、草野球の帰り私の兄がグローブを広場に忘れたのを彼が届けてくれたことがあります。ところがタダではグローブを返してくれず謝礼として「5円」よこせと言うのです。5円というのは戦前の価値ある5円ではなく昭和30年ごろの話で今の価値でいっても50円か100円ぐらいのものです。
兄は仕方なく小遣いの中から5円払ってグローブを取り返しました。私の両親はどちらも教師でしたが、夕方帰宅して兄からその話を聞いてカンカンに怒り“ヒヨウ上がり”の青年に対する軽蔑の情を我々子どもの前で隠しませんでした。
この若者、このように金銭に汚く、近所の農家からクワや鎌がなくなるという噂も広がりました。さらに隣接する田んぼのあぜを夜な夜な削っては領土拡張に余念がなく、家では妻とその親に滅私奉公。ついに近所の人からは「農奴」という芳しくないあだ名を頂戴しました。
そういう性分は一生直らず、高齢の今でも村人達とは少し距離を置きうち解ける様子はないのですが、相変わらずよく働きます。トラクターで田を耕し、孫を保育園まで送り迎えし、犬の散歩もし、買い物までこなすスーパーじいさん。まさに金のわらじを履いて探し出したような婿殿です。
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