2012年10月25日木曜日

春秋航空、尖閣のとばっちり


 尖閣問題の影響が長引いて日中間の航空需要が低迷しています。すでに表だった暴動は収まったとはいえ、上海の日本レストランで食事をしていた日本人が中国人数人から暴行を受けたなどという物騒なニュースを聞くと、この時期中国に観光に出かけようという人が激減したままであるのも無理ないことです。

 いっとき銀座や心斎橋にあふれていた中国人の買い物客がめっきり姿を消したように、日本行きの便もガラ空きです。日中間に定期便を飛ばしている航空各社にとって受難の時期はしばらく解消しないものと思われます。

 そんな中、中国のLCC(格安航空会社)である春秋航空が上海・佐賀便と上海・高松便に“1円キップ”なるものを投入しました。しかしわずか1日か2日で販売を中止してしまいました。

中国のネット社会で「春秋航空は愛国的でない」という批判が起きたためだそうですが、どうもその理屈がよく分かりません。要するに日本人に激安運賃で便宜を提供することが気にくわなかったのでしょう。ちなみに この“1円キップ”は中国では“0元”で売り出していたので何も日本人にだけ安く提供しようとしていたわけではありません。

 ビョーキです。中国の運輸当局が日本いじめの一環としてこうしたお達しでも出したというのならともかく、一民間航空会社の営業戦略にまで大衆が理不尽なイチャモンをつけ、企業はそれを考慮せざるをえないところに、今の中国のそうとう深刻な社会病理が見えてきます。

 さて“1円キップ”はまぼろしに終わったのですが上海・高松便がガラ空きで飛んでいることに変わりはなく、出発直前まで片道4千円という最低料金で予約、搭乗できます。燃料サーチャージ、税金などを加えたトータル金額でも往復2万円ちょっとです。

 春秋航空は香港、深セン、バンコク等上海乗り継ぎ便も格安。11月早々に“敵情視察”も兼ねて上海と上記のどこかの都市に出かけることにしました。尖閣問題で中国は一人芝居のように行動をエスカレートさせていますが、中国に行けばそれなりに問題を肌で感じるところがあるでしょう。まさに“百聞は一見にしかず”です。今回は久々に海外旅行保険に加入しようと思います。

村のお葬式


 実家の両親の介護をするようになって、私自身の住民票はよそにあるのに、何かと父の名代で地区の行事に参加する機会が多くなってきました。なかでもお寺関係の行事や近隣の葬式の手伝いは断りづらくいやいやながらこの11年こなしてきました。

小学校3年までしか地元にいなかった割には今でもみんなが64歳の私のことを“ちゃん付け”で呼んでくれるのは悪い気がしません。若いころふる里を捨てて世界に羽ばたいたつもりだったのに、結局は好きでも嫌いでもここが私の終焉の地になるのでしょう。地元の人々に受け入れられていることはありがたいことです。

きょうも村の日蓮宗のお寺で大きなお葬式があり、私にも裏方世話人としての呼び出しがありお勤めを果たしてきました。しかし何度お葬式に出ても暗記も理解もできないのが延々と続く読経です。

手元の岩波仏教辞典によると「南無妙法蓮華経」と題目を唱えることが成仏の唯一の法であり、この題目に釈尊のもつすべての功徳が譲り与えられているそうですが、葬式において果たしてこうした高邁な哲学思想が親しい人を亡くしたばかりの遺族、親族や友人の悲しみを慰めるのに直接役にたっているのでしょうか。

10数年前、カナダに移民した伯父が91年に渡る長い波瀾万丈の生涯をアルバータ州のある町で終えたとき、私は休暇を取ってはるばる日本から通夜と葬式に参列しました。

教会での葬儀は、牧師が分かりやすい言葉で聖書の幾章かを読み、参列者一同賛美歌を合唱し、私もアメイジング・グレイスをみんなといっしょに歌いました。Amazing grace! How sweet the sound, that saved a wretch like me…… 6人の子供や大勢の孫たちのスピーチは親密な言葉で語られ、涙あり、笑いありの感動的なものでした。生涯心に残るあたたかいお葬式でした。

神の恩寵、愛と赦しを説くキリスト教とひたすら成仏を念ずる仏教方式との違いは信仰の問題なので簡単に比較できませんが、分かりやすさ、親しみやすさにおいては教会に分があると思います。最近は仏式でもこうしたことに留意し、式後スピーチをされる住職がいます。しかし大体は通俗的なお経の解説であり、遺族の心を慰めるにはまだ一工夫も二工夫も足りないという気がします。

2012年10月18日木曜日

山中教授ノーベル賞受賞


 ここ10数年日本人がノーベル賞を受賞するうれしいニュースを金木犀が香るこの時期毎年のように聞きます。ところが国をあげての大フィーバーも年が明けるころにはすっかり記憶から薄れてしまいます。白川さん、下村さん、鈴木さん、田中さん、根岸さん、小林さん…の業績は?と問われてもさっぱり。

しかし今回の山中伸弥教授の医学生理学賞は違います。湯川秀樹博士以来の大物感が漂っています。ノーベル賞が通例、功なり名とげた大家たちの過去の業績に対するオマージュとして授与されるのと異なり、山中先生のiPS細胞の研究は難病で苦しむ世界中の人々に光明をもたらす画期的かつ独創的な研究である点が評価されたのです。

第二次世界大戦が終結し焦土に茫然と立ちつくしていた日本人にとって、まだ42歳だった湯川博士のノーベル物理学賞受賞の快挙は日本人に生きる勇気と誇りを取り戻させ、これからは学問を主体とした平和な文化国家を作ろうという決意をもたらしたといいます。

山中先生の受賞はなんだか湯川博士のときと情況がよく似ています。今やGDPは中国に抜かれ第3位に転落、円高不況に加え政治も混沌。中国・韓国など周辺国とのつきあいは暗礁に乗り上げお先真っ暗の日本。

しかしインタビューに答える山中先生の研究への情熱、謙虚な姿勢、国や周囲の人すべてに感謝する気持ちの表出などを拝見しているうちに我々日本人はこれまでどおり自信をもってやっていけばいいのだということを教えられた気がしました。

日本の文教政策、学校制度に対する批判は山ほどあるのは事実ですが、とにもかくにもノーベル賞だけでなく、数学や芸術分野も含め世界的に権威ある賞を欧米一流国と肩を並べて受賞し続けている点において、日本の教育制度はそんなに間違っていないと思います。

マスコミが山中先生に受賞を知った瞬間のことを尋ねていました。「正直な話、受賞すると思っていなかった。家にいて洗濯機がガタガタと音がするので、直そうと、洗濯機の前で座り込んだ時に私の携帯電話がなった」と、どこまでもクールで控えめな方です。

「今年こそはと携帯を握りしめて待っていました」と答えてくれたら座布団1枚進呈したのですが。

不思議の国のアリス症候群

スマホにかえて以来2ヶ月になりますがあることに気づきました。かつて20代から50代にかけて、近眼のち老眼になって、車を運転するにしても読書するにも眼鏡をかけたり外したり、視力に不自由していたのですが今ではスマホの極小フォントが何の苦もなく読め、なおかつ中距離、遠距離/昼間、夜間ともとてもよく見えます。いずれの場合も眼鏡不用、裸眼です。かつては虫眼鏡を要した保険の契約書条項もばっちり。

つまり視力に関して言えば10歳ころのベストの状態に戻っているのです!どういうわけでしょうね。ふつうは歳をとると水晶体が弾力を失いピントを合わせる機能が落ち固定焦点化してくるのが常識のはずなんですが。運転免許証に昔は必ず書かれていた「眼鏡等」の制限も50歳ごろから記載されなくなりました。

視力の問題とは別にものの見え方についても幼児時代にも不思議な体験をよくしていました。和室に転がって障子の桟を眺めていると、障子がミニチュア化して見えるのです。通常サイズの障子とミニチュア化した障子が同一の視野のなかに併存して、どっちが本当の障子かなあとよく考えていました。6,7歳ごろになったらそういう経験はしなくなったのですがそれから数十年、いつもあれは何だったんだろうと時折思い出していました。

ところが最近、そういう現象はよくあることでちゃんと名前まで付いていることを知りました。「小視症」といって幼児によくある現象です。子供が「ものが小さく見える」などと訴えるので親は視力異常と思って眼科に連れていくのですが、目を検査しても異常は発見されません。「ものが小さく見える」で検索すると多数の例が出てきます。

http://soudan.qa.excite.co.jp/qa6516823.html?order=DESC&by=datetime
の例では視覚異常だけでなく、時間の感覚まで早くなったり遅くなったりする症状が報告されていて興味深いです。いずれにしても小学校に上がるくらいの年齢になればいつのまにか解消するようです。「小視症」で説明がつくのが「不思議の国のアリス」だそうです。
「不思議の国のアリス症候群」参照。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8D%E6%80%9D%E8%AD%B0%E3%81%AE%E5%9B%BD%E3%81%AE%E3%82%A2%E3%83%AA%E3%82%B9%E7%97%87%E5%80%99%E7%BE%A4
上述例のようにいろいろなバリエーションがあるそうですが、現象の発生メカニズムとしては中枢神経系の情報錯乱に行き着くようです。幼児の脳は未発達なのでものの見え方の基準がしっかり確立していないからイメージ(像)の誤処理が起きるのだと思います。またヘルペスウィルス(EBウィルス)の感染が関与している例も説明されているので私の場合もそれだったのかもしれません。

そして64歳の今の私は網膜上のピンぼけ画像を非常に鮮明な画像に合成するだけの高性能画像処理エンジンを獲得したということかな?ひとくちに老化現象といってもいろんな不思議なことが起こるものです。

2012年10月3日水曜日

21世紀の世紀末

 先日台風17号が近畿地方に接近した日、来日中のカナダの親戚一家と大阪で会いました。道頓堀や心斎橋を案内しようと計画を立てていたのですが、おりからの暴風雨でホテルから出ることができず近くのしゃぶしゃぶの店で夕食を取りました。

 50代の夫婦(デニスとデボラ)と20代の息子、娘の4人家族ですが、夫婦はどちらもすでにリタイアし、子供達はようやく働き始めたところです。日本では定年を65歳まで延長させる話が議論されていますが欧米では多くの人が1日も早くリタイアして第2の人生をエンジョイしたいと口をそろえて言います。

 実際、デニスとデボラは日本に来る前フランスやイタリアの田舎に1ヶ月滞在し、自転車を借りて毎日サイクリングし、おいしいワインと食事を堪能したと楽しそうに語っていました。息子と娘はそんなに長い休暇を取れないのでシンガポールと香港を旅したあと東京で両親と合流し大阪にやってきたそうです。

 しゃぶしゃぶの食べ方を一同に伝授しながら、40年前自分も20代の若者だった! 今目の前にいる、すっかり中年のおばさんになってしまったデボラも昔は中学生か高校生だった! 過ぎ去った歳月がいかに疾く過ぎ去ったことか、私の父の兄である伯父夫婦はすでになく、従兄弟たちもすっかり年老いてしまった……などとセンチメンタルな思いに捕らわれました。

 そして隣に座っている子どもたちに肉を取ってやりながらこんなことを尋ねました。「21世紀の世紀末って世界はどうなっているかなあ? 世界はまだあるのだろうか? 20世紀前半生まれのおじさんは、どっちみち21世紀後半を見ることはできないけど」。

 彼らは何とも答えず笑っていましたが、たぶんカナダは大丈夫でしょう。広い国土、リベラルな政治風土、高い教育・生活水準、資源も食料も十分あるうえ、隣り合う国はアメリカ合衆国だけと地政学的にもリスクは最小です。

 それにひきかえ、日本の50年後を想像することは困難です。千年に1度あるかないかの巨大地震が起き、絶対安全と言われていた原発はあっけなく崩壊・爆発し世紀末的予兆はすでに現実のものとなりました。そして何よりも怖いのが困った隣人中国の政治的、経済的暴走、暴発です。

2012年10月1日月曜日

胃ろう


 「医療ルネサンス」という医療、介護に関する読売新聞の長期連載記事があります。内外の最新の医療技術や知識、思潮を一般の人にも分かりやすく紹介している優れた特集です。高齢の両親を在宅介護している私は介護の方法や方針で悩んだり壁にぶつかったときいつも有益なヒントをこの連載から得ています。

 その医療ルネサンスが最近連続して胃ろうにスポットライトを当てています。論調を一言でいうと「胃ろうは不用」という立場のようです。食事から十分な栄養がとれなくなったとき、胃に直接穴を開けてチューブ経由で栄養食品を流し込むのが胃ろうですが、記事によると延命効果があまりない、胃から栄養剤が逆流して気管に入り肺炎を起こしやすいなどと総じて否定的です。

 こうした記事の影響かどうか「胃ろうをつくらなくてよかった」という読者の声も多く寄せられています。しかし私は老いた親に胃ろうをつくるかどうか迷っている人に対して胃ろうのメリットについても十分考慮してほしいと思います。母に胃ろうをつくることを決断してよかったと信じている私の意見を述べてみます。

 まず第1のメリットとして、胃ろうから栄養が十分とれるようになると体力がつきます。しばしば枯れ枝のようにやせ細っていた老人がずしりと重くなるという副作用を呈しますが、体重が増加するということは体力がつくことでもあり、風邪を引かなくなる、肺炎になりにくくなる、褥創にもかかりにくくなります。

 第2に介護する家族にとって重度の認知症で寝たきりになった高齢者にご飯を食べさせる重労働が著しく軽減されます。基本的な栄養は胃に入っているわけですから、あとは情況に応じてプリンでもシャーベットでもヨーグルトでも好きなものを口から食べさせてあげればいいのです。

 第3に「食事の楽しみがない人生なんて生きている意味がない」などと思うのは食欲が十分ある元気な人の固定観念に過ぎません。体が欲しているのは究極的には「栄養」であって「食べる楽しみ」ではありません。親を餓死させてはいけません。

 私の母は胃ろうになってからすでに5年が経過しこの夏93歳になりました。95歳の父にとっても息子の私にとっても、認知症で寝たきりとはいえ元気に家で過ごしている母の存在が生きる原動力になっています。