2014年4月13日日曜日

松江、高知まで



 前回、「母もそろそろお迎えか」と悲観的なことを書いていつも愛読されている方々にはご心配をおかけしたと思います。医師による検査結果は「特に異変はない」とのことでした。そのことの意味を冷静に考えたら異変を起こしていたのは介護によるストレスにさらされ続けている私の方であることに気づきました。

1週間でも、とにかく介護の現場から離れ休養することにし、平成4年登録の愛車パルサーに乗って山陰と四国への旅に出ました。30万キロ走った車なのでトンネルの中でエンストしたらどうしようという恐怖を抱えながらのドライブです。最初の目的地は桜が満開の松江でした。子どものころ家族全員で1泊旅行したことがあるなつかしい町です。

松江は現在の都市景観の中にかつての城下町の情緒が色濃く残っています。歴史博物館では松江開城の歴史を手際よく映像で紹介しています。それに比べ、岡山市も同じような城下町なのにしっとりした情緒に欠け、また美術館や博物館が積極的に歴史を紹介しているわけでもなく、県知事の岡山イメージアップ作戦は空回りしているような気がします。

いったん岡山に戻り、今度は瀬戸大橋を渡って高知へ行きました。桂浜へ行く途中に県立美術館があり立ち寄ってみました。ちょうど企画展の準備中とかで、地元の画家による展覧会ぐらいしか見るものはなかったのですが、運営方針に関してびっくりすることがありました。年末年始を除いて年中無休なのです!

いったいなぜ美術館、博物館、図書館は週1回、しかも決まって月曜日に休館するのでしょうか。長年そうしているから……という以外に本当の理由はありません。心が折れそうになったとき1冊の本、1枚の絵をたまらなく見たくなることがあります。そういうときに限って「本日休館」なんですよね。

現在全国的に図書館や美術館の開館日数の見直しが行われていますが、高知県立美術館の英断はやる気さえあればできることを実証しています。岡山市立中央図書館が今年度から開館日数を“他館並み”にするというニュースを聞きましたが、ぜひ年中無休をめざしてほしいものです。

かつて教育文化の先進県だった岡山県(市)もいつのまにか周辺各県にずいぶん遅れをとってしまったことが痛感される小旅行でした。
 
(写真は四万十川に架かる沈下橋のひとつ)

2014年4月4日金曜日

天人五衰


 老いることを極度に恐れた三島由紀夫も生きていればもう90歳近い老人になっていたはずです。早稲田で学生生活を送っていたとき授業中に「三島が割腹自殺した」という衝撃のニュースが飛び込んできたときは本当に驚きました。事件現場となった自衛隊市ヶ谷駐屯地は早大からそんなに遠くはなかったからです。

人はみな老いることはいやだけれども三島由紀夫のように老いを恐れてまだ若さが残っているうちに派手に死のうなどとは思いません。人の自由意志の手が届かないところにあるのが老いと死でしょう。

ここしばらく健康状態が安定していた母(94)ですが、ふと気がつくと顔の艶がなくなり、バラ色だった肌が土気色にくすんでいます。三島由紀夫の最後の作品になった『天人五衰』という小説があります。『豊饒の海』4部作の最後の作品ですが、「時間のない世界」に連れ込まれたような不思議な虚無感を覚えます。

天人五衰とは小説の中で詳しく解説していますが、おおざっぱにいえば年を取らないはずの天人にも5種類の衰えがくるというものです。花飾りは乱れ(髪が薄くなること?)、体から臭いにおいがでるようになり、若かったころはここかと思えば早やあそこというぐあいにあちこち活動していたのに、同じところに留まって動かなくなります。若いころは水浴びしたら水滴が玉のように肌の上を転がっていったのに、脂肪分が抜けた老人の肌には水がべったり広がってしまいます。

いったんこんな徴候があらわれたらもう手遅れ、衰えから回復することはできないと三島は天人五衰の言われを解説しています。

しかしながら、若さに翳りがおき加齢臭をまき散らすようになったって人間は死にません。平凡な人には三島のような死は決して訪れません。それなりに実り豊かな人生の最後に穏やかな死を迎えたいものです。

さて、母の肌が土気色になっているのに恐怖を覚えた私はただちに病院へ連れていき血液やCT検査をしてもらいました。意外なことに「数値に異常は認められません」ということでした。

* * *

サイエンティストである医師の言葉には間違いはなかったことが診察を終えて帰った夜に思い知らされました。母に異変が起きていたのではなく、長期の介護による極度のストレスから私の精神に変調が起きていたのです。

もう取り返しのつかない段階にきているのかと思うとこのまま心臓が止まるのではないかという恐怖におそれおののきながらも、とりあえず両親を1週間、近所の病院で預かってもらうことにしました。

そして本日(金)午後、母を診察してくれた医師に私自身の心身の危機的状況を話しました。診察を待つあいだ、心臓が破裂しそうなぐらい動悸を打っていたのですが、医師と話を始めたら落ち着いてきました。「私はこのままだめになるのでしょうか」という訴えに医師はマイナートランキライザーを処方してくれ、「大丈夫、完全によくなりますよ」と励ましてくれました。「不安がこうじて心臓が止まるのではないかと怖いのです」という訴えには「100%そんなことはない」と言われました。

それでも不安は亡霊のように繰り返しやってくるので、大迷惑な話ですが、大阪の友人に来てもらうことにし、週末を一人で過ごすことは避けることができそうです。

こうして自分には心身症など縁がないとタカをくくっていた私の半世紀でしたが医師や社会福祉制度、年金制度、かけつけてくれる友人の力にすがりながら人生最大の危機を乗り越えていこうと思います。不安感(“感じ”などという生やさしい気分ではなく死を実感する感覚)が徐々に減っていっているのはよい兆候です。
 
*オリジナル原稿の最終パラグラフは削除し、サイエンティスト以降は母の受診からきょうまでの心の状態をオリジナル原稿に加筆したものです。タイトルから大幅に逸脱した内容になっていますが、タイトルはそのままにしました。

中国の若手作家、韓寒(かん・かん、ハン・ハン)


学生時代(1968-1973)にヨーロッパの映画、文学、ポップ音楽に傾倒したのは、それらが当時の世界の最先端芸術潮流のエネルギーにあふれていたからです。それらをよりよく理解するためには翻訳や字幕に頼るのではなく直(じか)に触れたいと思い、専攻科目(心理学)そっちのけで外国語の勉強に励みました。

そのおかげでドイツやフランス、イタリアなどを旅行しているあいだにたくさんの人々と出会い、交流は今でも続いています。ひとえに言葉が理解できた故です。ところが50代の半ばを過ぎてから始めた中国語はしつこく勉強している割には身につかず、よく上海に出かける割には生の中国人がさっぱり見えません。

なぜだろうと考えてみたら、かつてフランスやイタリア映画に入れあげていたころのワクワクするような作家や作品にいまだ出会っていないせいだということに気づきました。

ところが今年3月、NHKラジオ講座の「レベルアップ中国語」という語学番組で1982年生まれの作家、韓寒(かんかん)という青年の作品「1988:ぼくはこの世界と語りたい」がテキストとして取り上げられていて、私はすっかりこの作家のとりこになりました。

日本語の翻訳小説も出版されていて早速、図書館から「上海ビート」という本を借りてきて一気に読みました。著者自身のことであろう早熟な文学少年の中学生時代から高校をドロップアウトするまでの青春グラフィティ作品ですが、とうてい15,6歳の子どもが書いた文章とは思えない成熟感があり、驚き感心しすっかりはまってしまいました。

主人公は上海の名門中学、高校の文芸部に所属し、そこでの友人たちとの葛藤やスーザンというガールフレンドとの交際と破局、学校生活の破局が感傷的になることなく描かれています。随所に引用されている古典文学の知識が教養というより完全に血肉化されて華麗な文体を生み出していることにも舌をまきます。

韓寒は作家であるほかにもブロガーとしての発言力があり、さらにカーレーサーとしても活躍しているとのことです。清朝中期(18世紀中頃)に書かれた「紅楼夢」以降、中国にはろくな小説がないと思っていた私に、現代中国の最先端文学の存在を知らしめてくれたNHKのラジオ講座には大感謝です。