覚醒剤所持容疑で逮捕された清原元野球選手の事件にマスコミは連日大フィーバーしていました。テレビ各局は識者を取りそろえ、薬物中毒の恐ろしさ、事件の経緯や背景、天才野球選手の栄光と挫折、今後の裁判の見通しなど微に入り細をうがつ報道ぶりでした。
こうした報道を見ていて何となく違和感を覚えたのは私だけでしょうか。清原(以下敬称略)はそんなに人間的にダメな男なのか、そんなに意志の弱い男なのか、そんなにバカなのか?(才能に恵まれ、子ども時代からずっと努力を重ね、並はずれて意志も強い男だったからこそ偉大なバッターになれたのでしょう!)
テレビのコメンテーターたちが語る“覚醒剤の恐ろしさ”はまるで坊主の説教のようで説得力がありません。それよりもダルクのような更正施設で薬物からの離脱に取り組んでいる経験者が語る話のほうがよほど真実味があります。
彼らが一致して語るのは、覚醒剤やそのほかの薬物はいったん中毒にかかるとほとんどの場合2度と治らないということのようです。アルコールやタバコもやめることは難しいけれど、そういう中毒とは比較にならないくらい困難な道です。したがってダルクでは根治などは求めず、「今日一日とりあえずクスリなしで過ごすことができた」という実績を日々重ねるだけだと言います。別の言い方をすれば薬物依存症とはその人の意志が弱いとかではなく、「薬物体験によって脳が不可逆的にリプログラミングされてしまった症状」というべきではないかと思います。
薬物中毒患者を犯罪者として刑務所に放り込むことで決着をつける点で日本は欧米に比べ著しい後進性を見せています。必要なのは刑罰ではなく医学管理下におけるサポートと治療です。日本で多くの受刑者が服役中に考えることは出所後のシャブの入手の算段だそうです。これでは服役の意味がありません。
清原の保釈後、入院先の病院を報道陣が夜中になっても取り囲んでいたら、清原サイドから豪華焼き肉弁当がふるまわれ、それがまた大きな話題になりました。スポニチの記者だけがその弁当を食べたのに対し他社の記者は受け取りを拒んだとか。「下衆の勘ぐり」とはスキャンダルでもうけているくせに清原の心情を受け取れない記者たちのためにある言葉ではないかと思いました。
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