正月気分が抜けたころのある夜9時過ぎ自宅でまったりしていたら、幼なじみの加代ちゃん(仮名)から電話がかかってきました。加代ちゃん夫婦には3人の子どもがいてそれぞれ立派に成人し孫も数人います。ご亭主は社会的にも立場のある人ですが、今夫婦は離婚の危機にあります。昨年来私は加代ちゃんからそんな相談も受けていて、暮れに知り合いの弁護士を紹介したところでした。
電話の声はいつもの明るい加代ちゃんの声ではなく、暗い地獄の底からだれ相手ともなくひとりつぶやいているようにも聞こえます。「本当は離婚などしたくはない、私がこの家にいないと子どもや孫が帰ってくる場所がないから……」と心の本音らしき言葉が数分おきに繰り返されます。ときどき意識が遠のくのか私の呼びかけにも無反応になります。
私は話の内容の深刻さもさることながら、これは慢性硬膜下血腫による意識障害ではないか、一刻も早く救急車を呼んで専門医に見せなくてはいけない事態だと思いました。というのも加代ちゃんは1ヶ月前自宅で転倒して頭を強打したと言っていたからです。脳内でじわじわ出血が続きちょうどひと月経ったころぐらいに意識障害が出てきます。
夫婦は同じ屋敷でも別の棟で寝起きしているらしく、夫は妻の異変に気づいていない様子。時計を見るともう夜の10時を回っていましたが、私は勇気をふりしぼって加代ちゃん夫婦の家まで行ってみることにしました。車で15分ほど走ると見覚えのある一軒家に着きました。
加代ちゃんが寝起きしている棟の呼び鈴に応答はありません。おそるおそる母屋の呼び鈴も押しました。ピンポーンという音が空しく凍り付く夜の静寂に響くだけ。裏の方に回ってみたらご亭主の寝室とおぼしき部屋に灯りがついているのに気づいたのでガラス戸を叩いてみました。「はい」という声がしたので「ちょっとお話があります。玄関を開けてください」と言ったもののそれっきり。まったく反応が返ってきません。
そら恐ろしくなってきました。サスペンスドラマのシーンが頭をよぎります。人家はまばらといっても住宅街で深夜ドンドンよその家の玄関や窓を叩いている自分自身の存在も相当不審なものです。でしゃばり!いや、今ならまだ加代ちゃんを助けることができる。(続く)