吉備の中山(1月19日)
宮島登山(下山?)で太腿、ふくらはぎがパンパンになりました。2日過ぎても歩くと足がカクカクして痛いので、「毒をもって毒を制す」の言葉どおり、近くの吉備の中山を2時間ほど歩いてみました。吉備津彦神社から登り、鼻ぐり塚の方へ降り元の吉備津彦神社まで戻るという全行程約6キロ、9000歩のハイキングでしたが、石のように硬くなっていた両足の筋肉がほぐれました。山の中には至るところ巨石や歴史的記念物があり、古代の豊かな息吹きがあちこちで感じられました。秋に来たときはまだ蚋(ぶよ)がいて五月蝿いので途中で引き返したのですが、冬の今は快適です。
吉備の中山、藤原成親終焉の地
吉備の中山には黒住教本部や岡山県古代吉備文化財センター、吉備津、吉備津彦神社などが狭い地域に密集してなにやらスピリチュアルな濃度が異様に高い地域です。我が家から見える中山は山の南面側で明るい印象があります。
ところが先日、吉備の中山を歩いたとき、頂上から北方向に下る道をたどったところ藤原成親(なりちか)が幽閉された上殺害された場所に出くわしました。山の北面はそうでなくても陰気なのに、成親の怨霊を封じ込めるような石組にぞっとしました。
平安末期の貴族、藤原成親(1138-1177)はわずか7歳で越後守、讃岐守と家格を超えて出世を重ねたのは、鳥羽法皇、後白河院の寵愛を一身に受けていた要素が大きいようです。何しろ「芙蓉の若殿上人」と言われたくらいですから(元祖芙蓉に例えられたのは楊貴妃)。
権大納言にまで上り詰めた成親ですが、後白河法皇と平家の争いに巻き込まれ(このあたりの史実に詳しくないので省略)、結局、失脚、俊寛は鬼界ヶ島へ流罪、成親は吉備の中山に幽閉されたそうです。歌舞伎で有名な「俊寛」で鬼界ヶ島にやってくる鬼の形相の悪役人、妹尾兼康は我が妹尾町の始祖です。(実際は有能な人だったらしい)。
さて、幽閉された成親ですが、毒の入った食事を拒否したため、6メートルほどの崖の下に鉄の矢が仕掛けられたようなところへ突き落とされて死んだとか。(食事を与えられず餓死した説も)。
宮廷では「芙蓉の花」と讃えられた成親がよりによってこんな田舎の陰気くさい山影で獄死したのですから怨霊にならないわけがありません。
コロナで海外旅行ができなくなったおかげで、身近な名所旧跡巡りをして、にわか歴史ファンになって、毎日を楽しんでいるこのごろです。
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