ときおり新聞の県内版に小さく“山陽線でオーバーラン”といった記事が掲載されます。列車が駅の所定位置に停止しなかったという“事故”を伝えるものです。こうした見出しを見るたびに岡山の中学校に列車通学していた50年前のことがなつかしく思い出されます。
当時の宇野線妹尾駅では朝の通勤通学時間帯、今よりはるかに多くの人でホームはあふれかえっていました。そこへ4両編成の電車がやってくるのですが毎日のようにホームを行き過ぎてはまたバックします。
連日オーバーランするので子供ごころに電車というものは行き過ぎないと止まれない構造になっているのかと思いこみそうになったぐらいです。しかしこの常習オーバーランに文句をいうお客など全然いませんでした。昨今、電車がオーバーランしたぐらいでいちいち新聞沙汰になるなんて今の運転士はちょっと気の毒な気がします。
後年大学生になり東京郊外に下宿し、電車通学するようになって初めて電車はホーム所定の位置から3センチもずれることなくピタリと停止しなければならないものだと知りました。そういえば電車を待つ人が見事な行列を作って一糸乱れぬ動きをすることも東京で初めて知りました。
昭和36年。宇野線にはまだ蒸気機関車が牽引する列車があり終点の大阪駅まで各駅停車で朝夕往復していました。そのころ米の流通は政府が厳重に管理していたのですが、闇米の担ぎ屋が毎朝妹尾駅のホームに3,4人いて大阪行きの鈍行列車に米袋を積み込んでいました。食い倒れの街大阪に闇米をタダで運ぶのはおいしい仕事だったのでしょう。
担ぎ屋の腕の見せ所はわずかな停車時間のうちに何十もの米袋を客車に素早く積み込むことでしたので、彼らはあらかじめ列車の乗降口が来そうなところにねらいをつけ米袋をホームに積み上げてスタンバイ。
ところが蒸気機関車の機関士の腕もなかなかのものでした。担ぎ屋のウラをかくために乗降口が米袋の山があるところから一番遠くになるように列車を停止させるのです。すると担ぎ屋のおじさんおばさん達は額から汗を流しながらドアまで重たい米袋を運んでいました。
「ざまを見ろ!」と担ぎ屋を見下していた中学生の自分が今ではちょっと恥ずかしい気がします。
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