2015年10月29日木曜日

母の弟(上)


大正生まれの母には10人を超える兄弟姉妹がいました。裕福な家庭だったらしく、母の母親は子どもを次々生んでも授乳や育児は乳母にまかせっきり、自分は生むことに専念していたそうです。母は若いころからよく嘆いていました。「姉たちみんな美人なのに私だけ色が黒いのは私の乳母が色黒だったからだ」と。

ほかの兄弟姉妹全員が亡くなり、母ひとり百歳近くなって今は寝たきりながら自宅で平穏に人生最後の日々を過ごしています。母の嘆きだった色黒は、もはや乳母の影響はどこにもなく、新潟美人特有の天生の麗質を取り戻しています。

ほぼ末っ子だった母には省吾という名の弟がいたのですが太平洋戦争末期に召集されわずか20歳前後で戦死しました。フィリピン方面で死んだという以外何も分かりません。戦後の混乱期にどのように弔われたのか、墓がどこにあるのかさえ判然としません。

おそらく当時の多くの若者同様何がなんだか分からないまま戦争に徴用され死んでいったのでしょう。未婚だったので遺族年金を親戚のだれかが受け取ったという話も母から聞いたことがありません。

今から7,8年前、母の認知症が重くなってきたころ、私の知り合いの若者が大阪から我が家に遊びにきたことがあります。友人は上背があり短髪でなかなか凛々しいルックスの持ち主です。すると母は「省吾や、おまえ、帰ってきたのか!」と驚きの声を発しました。省吾叔父はついに母のもとに帰ってきたのです。

ちなみに大阪の友人は昨年父が亡くなる前、「幻影の先輩」(*)の役を演じてくれた男と同一人物です。父と母がそれぞれ青春時代に戦争で失った先輩や弟として人生最後に、朦朧とした意識のなかで、奇蹟の再会を果たしてくれた希有な存在です。

母にとって大切だった弟をちゃんと弔ってあげないといけないなと思っていた矢先、新聞の片隅に“「戦没者等の遺族に対する特別弔慰金」の支給について”という政府広報が掲載されているのを目にしました。

政府のこの種の給付金を受け取るのは素人の手に負えないくらいハードルが高いものですが、今回は挑戦してみようという気になりました。戦争で死んだ叔父と遺族である母のために弔慰金をもらうことは私の義務であると思ったからです。(続く)

(*)201433日ごろ掲載

スポーツ嫌い(下)


1960年代終わりごろから70年代初めの大学は“学園闘争”という摩訶不思議なエネルギーがキャンパスに渦巻いていた時代でした。中国の文化大革命の影響もあって、学生が教師を批判し、大学の機能をマヒさせ、試験が近づくと大学を封鎖することなど日常茶飯事でした。

しかしそれでも屈強な体育系の学生が親衛隊のようにガードしている体育局は学生に妨害されることなく厳格なカリキュラムを遂行していました。体躯局が提供する実技科目をさぼって卒業単位を得ることなどとうていできません。

私は何とかして嫌いな実技科目の単位をもらうためによその大学の学生N君に私の影武者になってもらったのは今思い返してみても痛快な学生時代の思い出のひとつです。ついでに言うと、私は英語が不得意なN君のためにN君の大学に通い立派な成績をプレゼントしました。麗しきバーター取引です。

そんな学生生活を終えて就職した先が大阪の大学でした。もはや学生ではなく図書館司書として働くことになったのですが、大学というところは職場に50メートルの公認プールがあり、陸上競技場、テニスコート、体育館、ジムなどスポーツ施設はひととおりそろっています。もちろん学生のための諸施設なのですが、昼休みは教職員もそうした施設を利用してもいいことになっていました。

学校での体育の授業は死ぬほどいやだったのに、若い学生や同僚たちがトラックを走り、さまざまな球技にうち興じているのを見ているうちに自分もやってみようという気になったのですから不思議なものです。

いろんなスポーツを試した結果、バドミントンが自分の性分によくあっていることが分かりました。生まれて初めての球技です。高校時代に選手で活躍していたという同僚がそれこそ手取り足取り指導してくれて、ついには試合を楽しむまでになりました。
冷房のない体育館の窓を閉め切って汗をだらだら流しながら試合をする爽快さ。我が人生でスポーツとこんなにも仲良くなれたのはそのころの数年だけです。ある年の大晦日の夜、オートバイを運転していて転倒し肋骨を4本折る大けがをしました。それ以来スポーツと縁がなくなり、体重68キロから100キロへの階段を黙々と登ることになりました。

スポーツ嫌い(上)


子どものころからスポーツ音痴だった私は小学校から大学まで体育の科目に悩まされ続けました。とりわけ球技が大嫌い。それが今や深夜テニスやサッカーの中継を見て喜んでいるのですから不思議なものです。

高校は何とか卒業して大学生になって事態はより深刻になりました。当時体育は必修科目で2年間実技をやらないと卒業できなかったのです。一般教養科目は代返や試験のときだけ出席すれば何とかなったのですが実技科目はそうはいきません。

マンモス大学のW大では体育は体育局という組織が全学部の学生を対象とした実技科目を提供していて、テニス、サッカー、水泳はもとよりゴルフ、スキー、スケート、登山、トレッキング等あらゆるジャンルのスポーツが選択可能でした。

スキーやスケートは冬1週間ほどの合宿に参加するだけで単位がもらえるので人気がありましたが、応募者が多いので抽選です。水泳は当時の大学では珍しく温水プールがあって、そのちょっとハイソ(死語?)なプールサイドの様子は村上春樹原作の映画「ノルウェイの森」によく描かれています。

さて、くじ運のない私はスキー合宿やトレッキングなど楽しそうな科目はことごとく外れ、1年目はサッカーを選びました。初めての授業の日、郊外にあるサッカー場まで電車に乗って出かけました。教師は50人ぐらいの学生に向かって「だれとでもいいから11人のチームを作れ!」と号令をかけました。

するともともと高校時代にサッカーで活躍していたセミプロのような連中はササッとまとまり、私のようなひ弱なドシロウトたちはモヤシのようなチームを作るしかありません。セミプロチームにもてあそばれた私は2度とグランドに立つことはありませんでした。

翌年はそれでもバレーボールを1年間いやいやながらやりました。でもまだ単位が足りません。3年目にはテニスを選択したのですが、もはや自分でやる気は全然なく、アルバイトで知り合ったR大学の友人に最初の授業の日に学生証とテニスウェアを渡し、以後1年間代理出席して単位を取ってもらいました。

50年も前の話なので時効だと信じます。もし時効などなくて、卒業を取り消されてもまったくどうでもいいことですが……。(続く)

大村先生のノーベル賞受賞を祝す


子どものころの悲しい思い出のひとつにクロという名の愛犬の死があります。終戦直後、私が生まれたころに両親がどこからかもらってきた雌の子犬でした。今のようにドッグフードなど存在しなかった時代、人間も食料難の時代、母は自分のご飯を残してみそ汁をかけたものをクロにやって育てたそうです。

クロも私も10歳になったころ、クロの腹に水が溜まるようになり、散歩に出て少し歩くとヒックヒック言うようになりました。恐ろしいフィラリア症に感染していたのです。いったん心臓にフィラリア線虫がわくと獣医も手の施しようがなく、クロは苦しさにあえいでいました。

そんな日々が何ヶ月か続いたあと、両親はついにクロの安楽死を決断しました。獣医さんが来た日、クロはその日に限ってヒックヒックしないで少し元気になったように思えました。私は泣きながら母に「クロは具合がよさそうだ。安楽死は待って欲しい」と訴えました。しかし母も泣きながら「もうクロを楽にさせてやろう」と私を抱きしめ、母と私の目の前で息を引き取りました。

それから数年が経過したころ、ちょうどアメリカの原子力空母エンタープライズが佐世保に来るというので社会が騒然となっていたころのこと、一匹の野良犬が我が家にやってくるようになりついに我が家の飼い犬になりました。名前はエンタープライズから拝借して“エンプラ”。それでも長いので“プラ”と呼んでかわいがったものです。

しかしプラも晩年にはフィラリアにかかり、最後は散歩に行くこともできずお尻が糞尿で汚れるようになりました。ある日、私が水道のホースでお尻を洗い流してやっていたら突然瞳孔が開き、ドゥっと地面に倒れ、暖かいおしっこが流れ出ていきました。プラも私が抱きかかえるなか旅だっていきました。つい20年くらい前までフィラリアはこんなにも恐ろしい感染症だったのです。

でも今では毎年何億の人間と何十億の家畜がフィラリア症の恐怖から救われています。私は今までうかつにもその特効薬を開発したのが日本人の研究者であったとはまったく知りませんでした。ノーベル医学生理学賞の受賞が決まった大村智先生、おめでとうございます。数ある輝かしい日本人受賞歴の中でも、ひときわ賞賛に値するノーベル賞です。

2015年10月3日土曜日

恐怖の骨髄穿刺


ときおり骨髄移植のことがニュースで話題になります。移植すべき骨髄をどうやって体から取り出すかといえばほかでもありません。提供者の腰骨にぶっとい針を差し込んで骨髄液を採取します。

もし友人知人から「骨髄ドナーになって下さい。あなた以外に型が適合する人がいないのです。ぜひ助けて」と泣きつかれても恐怖が先にたって簡単に「はい」とは言えません。ところがその恐ろしい体験を自分がするはめになりました。

極度の疲労感に体の異変を感じて病院で血液検査をしてもらったら感染症を示す数値が跳ね上がり、逆に白血球や血小板の数値が大きく落ち込んでいました。自分の体にいったい何が起きているのか、とても気になります。しかし入院4日目になってもまだ原因がはっきりしません。

住んでいる場所が緑豊かな田園地帯と言えば聞こえはいいのですが、周囲は草ぼうぼうの空き地や竹藪がいたるところあって、草むらにはダニもいます。おそろしいツツガムシ病とはダニによる重篤な疾患です。

症状と住居環境から考えてツツガムシ病が疑われるのですが体中探しても刺し口の跡が見つからず、医師は抗生剤の投与をためらっています。もう一つの危惧は各種血液成分の減少です。白血球や血小板が減っているからこそ感染症を起こしているとしたら事態はより深刻です。

入院早々医師から「これから骨髄穿刺検査をします」と告げられました。心の準備がないところへ不意打ちです。「かつてない激痛、電気が走る、下半身マヒになった」などと恐ろしい体験談をよく聞きます。今さら逃げ出す訳にもいかず覚悟を決めるしかありません。

局所麻酔が終わっていよいよ「キターッ!」です。医師が自分の体重をかけて注射針を私の腰骨に突き立てグリグリえぐっている様子が背中に感じられます。「うん?たしかこの辺で電気が走るはずだが……」と意外な展開にちょっと心の余裕が出来て医師に「今、何合目ですか?」と尋ねたら「半分終わりました」とのこと。残り半分の髄液を吸い出す感触も痛みというより違和感程度でした。

「案ずるより産むが易し」とはまさにこのことでした。しかし本当の恐怖は検査の結果次第です。人生ままならぬものですね。

病気からの回復


思いがけず岡山市立市民病院に1週間入院するという貴重な体験をしました。恐怖の骨髄穿刺の結果は異常なし、高熱、発疹、白血球の減少等体調不良の原因は何らかのウィルスによる感染症が疑われました。何に感染したのかは不明のまま快方に向かい退院となりました。

インフルエンザやHIV等の感染症に対してはある程度有効な薬が実用化されていますが、現代においてもほとんどのウィルス感染症は自分自身の体力(免疫力)で治すしかないそうです。

私の場合も2,3種類の抗生剤を点滴されたのですが効き目がないのですぐに打ち切りになり、病院での生活は夜になると決まって熱にうなされ、身の置き場のない苦しみの連続でした。入院生活の大半は熱が出れば解熱剤とアイスノン、寒気がすれば毛布を重ねて震えて耐えつつ、少しも針が進まない時計を深夜空しく見つめる日々でした。

不安と不眠、体のいたるところが痛くだるい中での唯一の気晴らしはスマホでした。ちょうど沖縄在住の友人がヨーロッパ旅行中で時差の関係で深夜2時3時にメールで会話できたのはありがたかったです。否、ありがたかったというより友人は苦しさにあえいでいる私をからかって楽しんでいたのかもしれません。

「葬式には時間を作って沖縄から行くから……」などと言ってくる。私はむっとして「葬式なんかしないし戒名もいらない、遺産は12匹の猫に遺言する」と言い返す。それでもやつは「それなら生前葬はどうか?」などとしつこい。

腹立ち紛れにそんなやりとりをしていたら明け方になってやっと眠りが訪れたものです。さいわい死ぬこともなく入院生活は1週間で終わりました。

さて、そんな入院生活を体験した岡山市立市民病院ですが、新築まもないぴかぴかの病院ながら気になったこともありました。一番いやだと感じたのはトイレです。10ほどの病床に対しトイレがひとつしかないのです。しかも男女共用の個室のみ。

ゴミ箱に使用済みの生理用品があふれた光景は見たくなかったです。また女性にしても、私のようなむさいおっさんが出てきたあとのトイレに入るのはさぞいやでしょう。病棟のトイレはやはり男女別にしてもらいたいと切実に思いました。
 
*****
 
退院後に感染症の検査結果の最終報告がありました。
 
ツツガムシ病というダニによる感染症が疑われていたのですが陰性でした。結局原因不明ということです。ツツガムシ病は東北地方、関東地方では毎年かなりの症例があるそうですが、岡山県では年間1,2例発生するのみで、しかも県北の緑豊かな場所でダニに噛まれた場合にリスクが大きい感染症です。
ツツガムシ病に対してはミノマイシンという抗生剤が有効です。私は医師と協議して、発病後早期に、ツツガムシ病かどうか確定診断ができていない時期にミノマイシンを試してみました。しかし効果がなかったのでツツガムシ病ではなかったと思いました。ほとんどのウィルス感染症に対して有効な抗生剤はありません。自分の体力(免疫力)で治す以外ないのです。白血球や血小板が著しく減少していて緊急入院したのですが、病院でしたことと言えば解熱剤とアイスノンで病気が去るのを待つことだけでした。
医師の話では原因不明の感染症はよくあるとのことでした。退院した後も10日ぐらい体調が比較的いいときと悪いときが交互に訪れまだ少し尾をひいているような気がします。

老老介護


96歳の母は自宅で寝たきりながら安定した状態で過ごしています。しかし母を介護している私自身60代後半になり体力の低下が著しく、果たして母を最後まで看取ることができるのだろうか、と不安に思うことしばしばです。

そんなある日、岡山で飲み会がありました。大して飲んでもないのに久しぶりのアルコールがこたえました。駅から母の待つ実家へ帰るのにタクシーを拾おうと思ったのですが、ほかの人にとられてしまって約2キロの道のりを歩きました。日ごろの運動不足の解消にもなるし、ときどきは歩いて帰る距離です。

ところが翌日からどうも体調が悪いのです。単にちょっと歩いたことによる筋肉痛というよりもっと何か底知れぬ恐怖のような不安がよぎりました。その次の日は夜中に寒気がしてまだ9月中旬というのに冬用の掛けぶとんを引っぱり出して寝ました。

熱を計ってみたら38度あり頭痛もするので風邪をひいてしまったのかもしれません。しかしわずかばかりのワインを飲んで30分歩いて、筋肉痛になったことと風邪の症状がまったく結びつきません。やはり内臓か循環器に重大な異変が起きているのではないか……と不安はつのる一方です。

ああ、これが老いなのか、今までは体調が悪くなるときはあっても2、3日おとなしくしていればたちまち元通りの元気を取り戻していたのに。それが先行き不明の不安感にとらわれているのです。

ときおり年取った姉妹とか親子が死後何日か過ぎて発見されたというニュースを耳にします。今の我が母と私の置かれている状況のまさに延長線上にある話です。

まだ余力があるうちに手を打って老老介護の悲劇を回避しなければなりません。近所の病院に電話して母をしばらく預かって欲しいと伝えました。そして私自身もこれから病院に出向くところです。とりあえず2週間は介護を忘れ、自分の健康を取り戻すことに専念したいと思います。

思い返してみると両親が今の私の年齢から90代半ばに至った歳月はあっという間でした。私の老後もそんな調子であっという間に過ぎていくでしょう。いや、両親ほど体力のない私が90過ぎまで生きるのは望み薄です。まして健康な状態で。

イオンモール岡山の「左折渋滞」


9月1日からイオンモール岡山の駐車場料金ポリシーが大きく変更されました。平日限定ですが「お買い上げに関係なく2時間無料」を打ち出したことは駅前という場所柄を考えればずいぶん思い切ったサービスを始めたものだと大歓迎です。

ここで心配なのは車での来店客増加による道路の渋滞です。今まででも市役所筋を北上しイオンモールの前を過ぎて左折しようとすると、信号は青でも歩行者がいる限り左折できないので、平日でもかなりの渋滞が起きていました。

しかしこの「左折渋滞」は駅前に巨大モールを作ることが計画された段階で予測されたことです。なぜ岡山市とイオンが協力して市役所筋の1番左側のレーンから左折することなく、そのままイオンの地下駐車場へ入れるよう設計しなかったのか疑問です。

たぶん公共の道路と私有地にまたがる構造物を作ることは制度上ありとあらゆる困難があり、そのうえ現代日本の縦割り社会システムの中にあっては官民をまたがる身近な懸案を調整できる人は財界にも行政サイドにもいないのでしょう。

できなかったことを嘆いてもイオンの左折渋滞は解決しないので、ひとつ現実的な提案をしたいと思います。それは歩行者用信号の運用を根本的に変えることです。昔オーストラリアのシドニーで体験したことですがとても賢いやり方です。

日本ではふつう歩行者用信号の青は車よりは短めですがある秒数継続して青の状態が続きます。ところがシドニーで体験したのは、青は一瞬だけ、でした。盲人用信号も「ピッ!」という音が一瞬響き渡るだけです。日本のようにだらだらと曲が流れたりはしません。

この方式の最大の特徴はすでに信号待ちしている人たちだけが渡ることができ、後から来た人たちは必ず次の信号を待って渡ることにあります。イオンモールから駅方向へ渡る交差点にぴったりの方式だと思います。何もシドニーのように一瞬にこだわることはありません。5秒か10秒青が継続してもいいでしょう。

せっかくの駐車場2時間無料という大英断も今のままでは市役所筋の渋滞を助長するだけです。ぜひ左折渋滞問題をイオンモール、岡山市、県警で協議して早急に解決していただきたいと思います。