1960年代終わりごろから70年代初めの大学は“学園闘争”という摩訶不思議なエネルギーがキャンパスに渦巻いていた時代でした。中国の文化大革命の影響もあって、学生が教師を批判し、大学の機能をマヒさせ、試験が近づくと大学を封鎖することなど日常茶飯事でした。
しかしそれでも屈強な体育系の学生が親衛隊のようにガードしている体育局は学生に妨害されることなく厳格なカリキュラムを遂行していました。体躯局が提供する実技科目をさぼって卒業単位を得ることなどとうていできません。
私は何とかして嫌いな実技科目の単位をもらうためによその大学の学生N君に私の影武者になってもらったのは今思い返してみても痛快な学生時代の思い出のひとつです。ついでに言うと、私は英語が不得意なN君のためにN君の大学に通い立派な成績をプレゼントしました。麗しきバーター取引です。
そんな学生生活を終えて就職した先が大阪の大学でした。もはや学生ではなく図書館司書として働くことになったのですが、大学というところは職場に50メートルの公認プールがあり、陸上競技場、テニスコート、体育館、ジムなどスポーツ施設はひととおりそろっています。もちろん学生のための諸施設なのですが、昼休みは教職員もそうした施設を利用してもいいことになっていました。
学校での体育の授業は死ぬほどいやだったのに、若い学生や同僚たちがトラックを走り、さまざまな球技にうち興じているのを見ているうちに自分もやってみようという気になったのですから不思議なものです。
いろんなスポーツを試した結果、バドミントンが自分の性分によくあっていることが分かりました。生まれて初めての球技です。高校時代に選手で活躍していたという同僚がそれこそ手取り足取り指導してくれて、ついには試合を楽しむまでになりました。
冷房のない体育館の窓を閉め切って汗をだらだら流しながら試合をする爽快さ。我が人生でスポーツとこんなにも仲良くなれたのはそのころの数年だけです。ある年の大晦日の夜、オートバイを運転していて転倒し肋骨を4本折る大けがをしました。それ以来スポーツと縁がなくなり、体重68キロから100キロへの階段を黙々と登ることになりました。
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