2017年4月12日水曜日

ひとりきりの春に母を思う

 今年の桜は例年になく豪華でしかも長く咲いているような気がします。思えば昨年の今ごろはまだ母が存命で、私は介護のために精神的な余裕を失い、花などゆっくり見ている気分ではありませんでした。
 母は60代半ばごろからうつ病を発症したのですが、何とか病気を克服しようと、自分を鼓舞して専門の病院に通っていました。かつて古京町(岡山市中区)にあった県の精神保健福祉センターからの帰り道、母は旭川に架かる相生橋の上で立ち止まり、“いっそここで身を投げよう”と思うのが常だったと私に語ったことがあります。
「でも私が自殺したら、孫に縁談が持ち上がったとき、おばあさんが自殺したとなると縁談話の妨げになるからと思いとどまった」そうです。孫に対する愛情に満ち、どんな時でも感情的にならず生涯理性を貫き通した母らしい話です。
うつ病がやや収まってきたころ、突然全身が硬直し、麻痺してしまう病気になり神経内科がある病院に入院しました。ちょうど冷夏で米が収穫できず米不足騒動があった年です(1993)。私は週末毎に大阪から車で岡山に帰り、入院中の母を見舞い、家で一人で過ごしていた父の用事を片づけたりしていました。母の入院は半年も続き、リハビリに取り組んだ結果何とかまた歩くことができるようになりました。
退院後も神経内科の先生にはすがるような思いで老いと病の相談をしていたようです。あるとき母が「先生、私はいったい毎日何をして生きていけばいいのでしょう?」と尋ねたそうです。医師の返事は母の怒りを買いました。「庭の草取りでもしながら、静かにお迎えが来るのを待ちなさい、と私に言うのよ」。
母はうつ病や原因不明の病気になってもなお明日を信じて生き甲斐のある生活ができることを望んでいたのです。そのための具体的なアドバイスを求めていた母にとって医師の言葉は大きな打撃になりました。その後もパーキンソン病、認知証を併発し、母はそれらの病にあらがうこともままならないうちに昨年の夏の終わり、97歳の大往生をとげました。

生きる意味を問うた母に次々と襲いかかる病は過酷な答えしかもたらさなかったのですが、母はひるむことなく虚無に勇敢に立ち向かいました。そんな母をあっぱれと思います。

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