めったに自然災害の起きない岡山で発生した未曾有の洪水は世界中のメディアで報道されているようです。洪水は地震、台風、原発メルトダウンなどと異なり、被害を受けた地域と難を逃れた地域が隣あっています。ちょっと高台にあって全然被害がなかった家と2階まで水が入った家が同じ地域にあったりします。しかしマスメディアではそのような細かな情報は伝わりません。
倉敷市真備町で発生した洪水のニュースがカナダでも放映されるやいなやカナダの従姉妹たちから「大丈夫なの?心配している。このメールにはすぐ返事がほしい」などと深夜零時を回ったころに届きます。遠くカナダから気にかけてくれてうれしい!すぐ返事を書きました。アルミニウム工場の爆発の衝撃は恐ろしかったけれど、岡山市は大丈夫、親戚すべて被害なし、日本の大雨はともかくタイの洞窟に閉じこめられた少年たちの救出が始まって何とすばらしいことか、、、などと書き込みました。私としてはOkayamaの洪水はひどいものだがさいわい私や親戚は大丈夫、その証拠にタイの子どもたちの動向に注目しながら時間を過ごしているではないか、という気持ちを表現したかったのです。
ところが次の日も深夜、「その後事態はどうなったか?近況を教えて!親戚は大丈夫か?」とのメールが届く。ちょっとイラッとする気持ちを抑え、「気にかけてくれてありがとう。こちらは何の被害もないし、天気も晴天で蒸し暑く、被災地では水が引いてきた」などと返事。それなのに3日目、またも「カナダのテレビで恐ろしい光景が放映されている。本当に大丈夫なのか?電気や水道は通じているのか?」というメールが。夜中12時、もう寝ようと思っているところにまたそんなお見舞いメールが来てうんざり。「メールで連絡がついていること自体が停電なんかしていない証拠ではないか」と言いたいのを我慢して、「大丈夫、被災地の人々には申し訳ないけど、親戚、友人、知人に被災者はいないので心配しないで。電気も水道も1秒だって止まったりしてません。それよりタイの子どもが全員無事でGood job!」と打ち返し。
日本人は世界的に見てもまれなくらい他人の不幸に同情の気持ちを表しません。被災地の人々も家も車も家族も失っているのに「生きているだけましじゃあ、わっはっは!」とインタビューに応えています。悲しみの表現も下手だし、シンパシーの表現も下手。それでお互い何となく気持ちは通じているのです。日本人以外には理解しにくいことでしょうが。
でもスタンダールのような皮肉屋にはちゃんと分かっています。
ジュリアンはこう思います。
「あなたが何かへまをしでかしたとき、田舎では人々が繰り返し”それはそれは大変でしたね、同情します”と声をかけてきて傷口に何度も塩をすり込んでくる。ところがパリでは中学生でさえ他人のへまなんか見て見ないふりしてくれる。そのかわり、あなたはパリでは永遠によそ者だ」と。(うろ覚え)
日本の中のパリ、京都の人が好き。京都人の言葉には裏の裏のそのまた裏があることを常に意識していないと陰で笑いものにされる恐ろしい連中。でもそれが千年の都、京都人の洗練というものです。岡山人もいくらか京都人に近い。岡山は自然災害が少ないので隣近所の人々が協力して難局に当たるという経験を歴史的にもしてこなかった。隣家が困っていようが兄弟の家族が食うものにさえ困っていようが見て見ぬふりをするのが生まれ持った特技。かてて加えて男も女もみんな屁理屈をこねくりまわす。
洪水が引いたあと、テレビでこんな家族のドキュメンタリー・シーンを見ました。
堤防が決壊し、恐ろしい勢いで水が迫ってくるなか、実家に駆けつけた息子が父親に「おやじ、すぐ逃げないと危ない!」と言っているのに60代とおぼしき親父は「いや、テレビや電化製品だけでも2階に運んでからじゃ、濡れた足で家の中を歩き回るな!」と息子を叱っている。息子がさらに「もう、水は玄関先まで来とるがな」と言うと、親父は「お前は馬鹿か。ここは海抜12メートルあるんじゃ。水がこの高さまで来る訳がねえじゃろ!」と息子を説教。その直後水は2階にまで入ってきて、危うく逃げ遅れるところでした。確かに海岸近くなら高潮でもない限り、海面より上まで洪水は来ません。親父さんのいうとおり。でも事実、玄関から泥水が入り込んできているのにこれだけの屁理屈をかます余裕に笑ってしまいました。
いろいろ書きましたが、同情が必要な人には必要です。タイミングもあります。慰めの言葉も必要なときと、そっとしておいてほしいときの見極めが必要です。
でもきっと一番真理に近いのは「同情より金をくれ」ではないかと思います。
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