満70歳になったのを契機にこれまでの長い人生で出会った印象深い人々のことを記憶に留めておきたいと思い、ここに随時掲載させていただきたいと思います。もとより無名の一介の退職老人が自分の「交友録」など書いたところで「なにそれ?」と失笑を買うだけのことにしかならないのはよく承知しています。それでも有名人、普通の人々を問わず、私なりの印象深い出会いがあったことも確かなのでプライバシーには配慮しつつなるべく具体的なエピソードを語りたいと思います。
さて第1回目は旧友ウド・ベンシュ君。ドイツ人(1952-)。1972年、まだ二十歳の若者だったドイツ人青年ウド君たち3人と最初に出会ったのはフランス・アルプス、モンブランの中腹にあるエギュ・ド・ミディという展望台でのことでした。私は東京の大学5年生、休学してアルジェリアに半年滞在したあとの3ヶ月の長い夏休み。ユーレイルパスを使って西ヨーロッパの各地を旅していた途中でのことです。
「写真を撮ってくれる?どこから来たの、西ドイツ、日本人?そうだよ……」。エギュ・ド・ミディ峰は欧州最高峰(4810m)のモンブランの中腹にあるとはいえ富士山山頂と標高がほぼ同じでそこまでロープウェイで一気に登れます。足腰の悪い老人でもアルプスの山々を見下ろす絶景のポイントで最高級の料理とワイン、コーヒーが楽しめるところが日本の山岳観光地との決定的な違いです。
ウド君たちは高校を出て地元市役所に就職したばかり。当時のドイツでは日常シーンで英語ができる人は少なくその後のドイツ旅行では苦労したものですが、ウド君たちは聞き取りやすい英語をしゃべってくれました。日独の若者4人がまるで10年来の親友のように楽しそうに歓談していたら、そこにスウェーデン人のおばあさんが加わってきました。
するとウド君は「先の大戦ではドイツが貴国にとんでもないご迷惑をかけ……」と謝罪を始めたのにはびっくり仰天。おばあさんは「何言ってんのよ、あなたまだ生まれてなかったでしょ?」と笑ってたしなめました。ドイツでは中学校あたりでそういう歴史教育をしていたのかもしれません。ともかく、それがウド君との生涯にわたる長いつきあいの始まりでした。
私は中学生のころドイツ文学に熱中し小説や詩を片っ端から読みました。ゲーテの「ファウスト」は中学生にはなかなか歯が立たない作品でしたが、トーマス・マンの「トニオ・クレエゲル」、ヘルマン・ヘッセの「郷愁=ペーター・カーメンチント」などはちょうど思春期から大人になろうとする時期の若者の心の躍動、挫折をもどかしいくらいロマンチックに描いていました。その魅力は20世紀前半のドイツ文学特有のもののように思われます。
中学生の私は主人公になったつもりで湖のほとりにある寄宿学校や友人との出会いを夢想したものですが、ウド君たちに出会ったとき、まさに小説を通じて育んできたことが目の前に実現した思いがしました。「ぜひドイツの我が家に寄ってほしい」という言葉に勇気づけられて、2週間後にはドルトムント近くのイザローンという町の駅頭に降り立ちました。駅まで迎えにきてくれていたウドに再会し、家に連れていってもらい、両親に紹介されました。
お母さんが作る家庭料理は「ドイツは料理がまずい」という定説を覆すもので、すっかり私はこの家の息子になってしまった気分でした。それ以来、ヨーロッパに行くときは必ずイザローンに寄りました。ある夏はいっしょにインスブルックの登山学校主催のハードな山岳トレッキングに参加したこともあります。
そのうち私も仕事が忙しくなったのとウドも結婚して娘3人のパパになり、お互い日々の生活に追われ次第に音信も途絶えてしまいました。しかし今から10数年前に思い切って電話したのをきっかけにまたメールでの交遊が復活しました。
ウドは仕事のストレスで市役所を早期に退職したこと、娘はそれぞれ立派に育ったこと、ダイアナ妃似だった奥さんも欧米人にありがちな堂々たる体躯になったとはいえ、控えめな眼差しは昔のままだということが分かりました。私をいつも暖かくもてなしてくれたご両親は認知症を患い、一人息子のウドの苦悩は私の苦悩と共通するものでした。
先日、私は近況を伝えるとともに近々機会があればドイツを再訪したいとメールしたのですが、まだ返信がありません。心配なのでこの秋にでも安いチケットを探して、我が青春のドイツの町を再訪したいと思います。
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