2010年10月29日金曜日

汗入(あせり)


 岡山市南区妹尾の県道児島線沿いに汗入という場所があります。私立の進学校、岡山中学・高校があり登下校時には生徒や送り迎えの車でごった返しいつも若やいだ気(き)があふれている地区です。

 ところが50年前私が小学生だったころは本当に寂しい場所でした。生ゴミの集積場があったのですが、当時ゴミは処理されることなくただそこに野積みされているだけで悪臭が漂い、視界が真っ黒になるほど蝿がわいていました。

 ここの蝿は追い払って逃げるような生やさしい代物ではなく、雨の日傘をさしてそこを通ると蝿が何十匹も傘にへばりついて家に着くまで逃げていきません。そのうえ未舗装の県道を走るトラックが砂煙をあげ砂利を跳ね飛ばして通り過ぎていくのが幼い私には大変な恐怖でした。

 この付近、江戸時代には処刑場があったとかで、今でも岡山中学・高校の校門近くを流れる妹尾川にかかる小さな橋の欄干には「地獄橋」というおどろおどろしい名前が刻まれています。罪人が渡るその橋の向こうには地獄が待ち構えていたことは今でも何となく雰囲気で分かります。

 数ある歌舞伎の演目の中でも傑作中の傑作「東海道四谷怪談」をこの夏新橋演舞場まで2回も見に行きました。海老蔵、勘太郎、獅童ら豪華俳優陣によるすばらしい舞台でしたが、クライマックス「砂村隠亡堀の戸板返し」の場を見て妙なデジャビュ(既視感)に捕らわれました。
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 「隠亡堀」などという気色の悪い川で釣りをする伊右衛門(海老蔵)の眼前に戸板にくくり付けられたお岩さん(勘太郎)の遺体が流れ着きます。伊右衛門があわてて戸板をひっくり返したら今度は小平(という男)の死体が!

 この場面は戸板の裏表に張り付けられた男女の遺体の役を同じ役者が一瞬のうちに早変わりで見せる四谷怪談最大の名場面ですが、私には「砂村隠亡堀」が汗入の地獄橋のイメージに重なって震えあがりました。

 最近、その近くにおしゃれなカフェができ、けさ初めて寄ってみました。開店まもないピカピカの店になぜか蝿が一匹。しばらくして私のテーブルに止まりました。追い払おうとしても逃げません。「そうか、お前はここで私を50年も待っていてくれたのか!」となつかしい蝿にあいさつしました。

忘却パワー


 日本人はなぜこうも「忘れない」という言葉にこだわるのかと思うことがあります。小学校や中学校でクラスメートが病気や事故で亡くなると、教室では「○○君のことはいつまでも忘れません」という寄せ書きを書きます。いや低学年ではそう書くよう心やさしい教師からアドバイスされるのかもしれません。

 「決して忘れない」という言葉をあえて弔辞や卒業式で口に出して誓うのは、裏返して言えばどんな悲劇でも悲しみでもそのうち忘れてしまうものだということを人はよく知っているからでしょう。

 しかし考えてみれば「忘れる」能力は大切なことです。もし人間に悲しい出来事を時間とともに忘却する能力が備わっていなかったら今度は生きていくのが苦しくなります。

 自宅で手厚く介護してきた91歳になる母が6月末突然体調を崩し3か月あまり入院しました。当初人工呼吸器の助けを借りて弱々しく息をしていた母が適切な治療の甲斐あって平癒したことは驚くべきことでした。

 ところが、重篤な症状で必ずしも命の保証がなかった母の入院中、母の顔を見に病室をのぞいたのはほんの数えるほどでした。9年前に母が骨折で2か月間入院したときは毎日のように病院に寝泊まりして看病したのに……。病院近くのスーパーに出かけてもなぜか病院に寄るのはおっくう……。きっとまる10年の介護生活を通して私もやっと親離れができてきたのかなと都合よく解釈して落ち込まないようにしました。

 93歳の父はとっくの昔に女房離れができているのか、母が3か月ぶりに家に帰ってきたというのに母の存在を忘れているかのようです。そのくせ私がプリントしてあげた両親の新婚時代の写真をながめては「お母さんはきれいじゃったろう!?」と何度も同意を求めてきます。

 私はそれには答えず「お父さん、お母さんが『私が退院して帰ってきたというのにお父さんはなぜ顔を見せないの?、私の入院中に1人で先に天国に行ってしまったの?』と聞いているよ」とからかうと「腰が痛うてお母さんの部屋まで行けんのじゃ」と間髪いれず言い訳します。

 屁理屈と健忘症と言えば一筋縄でいかない仙谷“総理”の必殺技ですが、父も政治家だったら官房長官が務まったかもしれません。恐るべき忘却パワーです。

奇跡の生還


 チリの地下鉱山でおきた落盤事故は全員が家族の元へ生還するというまさに奇跡としか思えないハッピーエンドを迎えました。

 8月の事故発生当初、33人の作業員が地底に閉じ込められているというニュースを知って以来、気の弱い私はこの事故に関するニュースからはなるべく目をそむけてきました。とうてい助からないだろうという感じがし、あまりにも痛ましい光景は見たくなかったからです。

 地下700メートルの蒸し暑く狭くて暗い空間に閉じ込められた人の心境はどんなものだったかは今後インタビューやドキュメンタリーを通して明らかになってくると思いますが、彼らには想像を超えるたくましさ、精神力の強さが備わっていたことはいうまでもないことでしょう。

 私にとって一番の驚きと謎は33人もの男達が長期間狭い場所に閉じ込められていたにも関わらず和気あいあいとしていた様子がうかがえることです。小さなケンカのひとつやふたつはあったのかもしれませんが、これが日本人の集団だったらきっと相当ひどいことになっていたのではないかと想像されます。

 ウマが合う、合わないで小さなグループができて反撥しあう、仕切り屋が出てくる、イジメがおきる、ケンカが始まる、暴力行為がエスカレートする、絶望的な状況のなか食欲不振や下痢で一気に体調を崩す、自殺者が出る、小競り合いから殺人事件もあるかもしれません。

 私など平和な日常生活のなかにあってさえ、いつも土足で踏み込んでくる近所の世話焼きおばさんにかなりイライラさせられ、彼女のすることなすことすべてが“余計なお世話、放っておいて”です。

 とてもじゃないけど、自己主張もしながら世話焼きおばさんに歩調をあわせてうまくやっていこうなどという殊勝な気持ちにはなれません。しかし、こうした私の“病気”は多かれ少なかれ日本人に共通した社会病理を反映してのことではないでしょうか。

 どうしたら奇跡の33人のように統率がとれしかもギスギスしないでやっていけるのでしょう?日本人の礼儀正しく優しい性格と表裏一体をなす陰湿かつサディスティックな性向をどうしたら改善できるのか、危機管理の側面からもパニック下の日本人の行動様式の解明と人間関係のトレーニングが必要だと思います。

野焼き

 
 従弟からかなり広い面積の休耕田を借りうけ野菜や果物を作っていたのですが、ここ4,5年両親の介護が忙しくなったのに加え、野菜作りに以前ほど情熱を燃やすことができなくなって草や雑木が繁茂するのにまかせていました。

 荒れ果てた田んぼについに近隣から苦情が出てきたので9月中旬ごろ、まだ暑いさなか草刈りを始めました。

 またたくまに伐採した木々の枝や刈り払い機でなぎ倒したセイタカアワダチソウの山がいくつもでき、その処理について岡山市の廃棄物担当課に相談しました。

 市の説明では樹木は直径12cm以下のもので長さは60cm以下に切ったものを束ねて可燃ごみの日に出すようにとのことでした。気が遠くなるような話です。庭木の剪定枝ならともかく2反の田んぼから出た草木は並み大抵の量ではありません。近所の人や農家の友人などとも相談した結果、田んぼで野焼きするしかないという結論に至りました。

 ところが最近野焼きに対して行政や警察の対応が厳しいといううわさがあり、とりあえず消防署に相談してみました。消防署は当然のことながら火災防止という観点から物事を考えていて、燃やす場所、日時、消火対策、連絡先等を届ければOKということでした。

 そして、消防署のお墨付きをもらった上で煙が届きそうな近隣の人に野焼きをさせてもらいたい旨お断りして火をつけました。9月の残暑でカラカラに乾いた草や木の枝が快調に燃えていきます。火というものは形あるものをことごとく焼きつくしていき、心の中にあった憂さやモヤモヤ、ストレスまでいっしょに燃やしてくれます。

 と、ここまでは調子良かったのにやはり来ました、ミニパトカーが。「近隣の方から苦情がきています」

「近所の方にはちゃんとあいさつしているし、消防署にも届け出ているのですが……」

 消防署に届けてあるというのが効果あったのか、警官は現場を確認し、私の名前や住所・連絡先を聞いただけですぐに帰りました。やれやれです。

 再度市役所に野焼きは法律違反なのかお尋ねしたところ、農業、林業、漁業にともなうものは例外的に認められているが、近隣から苦情が出ないことが必須の条件のようです。

サレンダー

 
 尖閣諸島近辺で海上保安庁が拿捕した中国漁船を巡る中国の反応はまさに常軌を逸したものでした。とんでもない隣人をもったものだというのが正直な気持ちです。

 民主党代表選のさなか中国が意図的に仕掛けてきた事件なのかどうか真相はよく分かりません。しかし事件後の中国の対抗措置を見てみるとあの国は長年培ってきた信頼関係をいとも簡単に破る国だということを全世界に知らしめたという意味では中国が失ったものは大きいと思います。

 昔、デンマークを旅行したおりに知り合いのデンマーク人の家に泊めてもらったことがあります。クリスチャンと言う名の大学生でしたが、彼の友人の外交官も加わり夜遅くまでいろんな話をしました。

 私がデンマークはソ連(当時)という強国にバルト海を挟んで隣接していて脅威を感じないか、もしソ連が侵攻してきたらどうするつもりか尋ねたことがあります。すると東京に赴任したこともあるという青年外交官氏はこともなげに“surrender”と答えました。
 
 “サレンダー”とは“降伏する”という意味です。戦わずして白旗を揚げるなどと外交官が言うのはとても違和感がありましたが、考えてみると人口わずか550万人のデンマークにとって武力で超大国に対抗する選択肢など存在しないのでしょう。

 今では記憶が薄くなってしまってクリスチャンが言ったのか外交官が言ったのかはっきりしませんが、“デンマークがソ連に占領されたところでデンマークの文化や魂が消えてなくなるわけではない”とも付け加えました。

 私は彼らの言うことを聞いて、デンマーク人というのは誇り高く賢明で自信に満ちた強い民族だなあと思いました。実際その後あっけなく崩壊してしまったのはソ連の方で同じくバルト海に面したバルト3国は独立し中世以来のハンザ同盟の美しい西欧の都市の表情を取り戻しました。

 さて日本の場合、北欧諸国とは国情が違うにしても、帝国主義的隣国が領土問題(不法占拠)を引き起こした場合、悪夢のような“surrender”が現実味をおびてきます。日本は憲法の定めによって、国際紛争を解決する手段として戦力を永久に放棄していますから。
(photo: Kristian)

バンコク・ソウル



 9月中旬、雨季のバンコクを訪れました。5月の暴動で壊滅的被害を受けたはずの中心部の商業施設や高架鉄道駅にその痕跡はほとんどなく、相変わらず活気にあふれた街に私は融けていきました。

 にぎやかな通りに面したホテルのロビーでのんびり民主党代表選結果を報じる衛星版読売新聞を読んでいたら顔見知りのボーイさんから声がかかりました。

 「いつからお泊りですか?」

 「2日前に来て明日はもう日本に帰るつもり。ところで、今年1月に来た時はいなかったよね、ここはもう辞めてしまったのかと思ってたけど……」

 「1月?、1月はタイ北部の故郷へ帰ってそっちで働いていたのですが4月にまたバンコクに帰ってきたんです。ところでハイネケン、もう1杯いかがです?」

 新しいハイネケンをぐずぐず飲み終えようとする頃合いを見計らってボーイさんがまたやってきます。

 「タイ北部というと故郷はチェンマイ?」

 「チェンマイじゃないけど、その近くの何とかという町です。ところでハイネケン、お代りいかがです?」

 たわいもない話をしながらゆっくり時間が過ぎていきます。ここにはふだん親の介護に追われ、24時間あせりまくっている自分はもはやなく、いっさいの思考力が抜け落ちていく私があるだけです。熱帯のけだるく物憂い午後が何よりも好き。管直人721ポイント……、そんなことどうだっていいや。

 ソウル。20年ぶりのソウルは見違えるほど街がきれいになっていました。空港から市内中心部までは高速鉄道と地下鉄の乗り継ぎで快適に移動できます。地下鉄車内の光景は大阪風でした。

 おばちゃんが4,5人乗車してきました。世話焼きさんが「あんた、あそこの席に座り!」などと指図しながら自分は大きなお尻でぐいぐい両隣に陣地を拡大していきます。

 私がおじいさんに席を代わってあげたら「ミヤナムニダ」(すみません)と感謝され、次の駅でほかの席が空いたら、おじいさんは私に「あそこに座って」と言ってくれました。私は「若いですから」と遠慮したら今度は若者が立って「ここに座れ」と席を譲ってくれました。そうか、私も十分年寄りでした。

旅の準備


 
 高齢者を介護する日々というのは、これといった特別忙しいことがあるわけではないのに家事全般の雑事、病院への送迎、病院やケアーマネージャーとの打ち合わせなどが次から次へと襲ってきて、ほんの2,3日の小旅行に出かけるのさえ時間の調整が大変です。

 でもそんなことを言っていたら旅になど永久に出かけることはできません。1週間前デルタ航空のマイルの蓄積がアジア内を旅行するのに必要な2万マイルにあと少しというところまできていることに気付きました。日航や全日空ではできないことですが、デルタはマイルの販売もやっていて、足りない分を5千円で購入し、ソウル経由バンコクまで出かけることにしました。
 
 岡山空港からソウル便が出るのはいまから3時間後。旅の準備はまだできていません。昨日、介助なしでは数歩も歩けない親父を風呂にいれようとうながしたところ「入らない」と抵抗。てこでも動かないようすなのであきらめ、大根とにんじんの種まきをしました。

 炎天下、汗だくになりながら農作業が終わり、さあシャワーを浴びようと家のなかに入ってみると風呂場の前に親父がぶっ倒れていました。何度転んでも大したケガをしない父の頑健な体には敬服しますが、何度同じような事故をしてもちっとも学習しない父に猛烈な怒りがこみあげてきます。

 「自分で風呂になんか入れないのに何でこんな馬鹿なことをするのか」と私が怒ると、「お前が風呂に入れといったからじゃないか」と反論だけは立派にしてきます。

 こんな緊急事態のさなかであっても、互いに相手を非難しあう親子のあさましい姿。しかしそこには60年ものあいだいがみあってきた親子のあいだの介護の難しさがあり出口のない絶望感がただよいます。

 結局、旅の準備といっても、出発間際までいろんなハプニングや雑事が襲ってくるので、「これから4日間の旅にでかけるのだ」という情緒もなければ楽しい気分にひたれる余裕もありません。

 パスポートと財布の中身を確認し、リュックに着替えのシャツや下着を2,3枚入れて、あとは猫に4日分の餌と水をたっぷり用意すればそれで十分とします。飛行機が飛び立つまであと2時間になりました。

たまご考


 9月になっても猛暑続きの毎日です。この異常な暑さにダウンしたのは人間様だけではなく、牛やニワトリも相当数が死んだそうです。それでもこれといって牛乳やたまごの値段が上昇したという話を聞かず、近所のスーパーは相変わらず“2千円以上お買い物をした人はたまご1パック1円”キャンペーンをやっています。

 私もかつて何度か“1円たまご”を買ったことがあるのですが、あれは品質や鮮度に問題はないのでしょうか。1円たまごを目玉焼きにしようとコンと割ってみると白身も黄身も弾力がなく、ダラっとフライパンにひろがり鮮度に疑問符がつきます。

 ふつうのたまごも1円たまごほどではないにしてもどうもプリプリ、もっこり感に欠ける気がし、私が買うのは決まって“初産みたまご”という初卵をパックしたものです。コレステロールが高い私にはサイズが小さな初産みたまごは好都合です。何よりも若くて元気なニワトリが生むたまごには独特の臭みがないし、白身も黄身もしっかりしています。

 スーパーでは1円たまごサービスデーには初産みたまごは商品棚から撤去されるので、毎度店員さんにお願いして奥の方から出してきてもらうほどのファン。Sサイズの初産みたまごを見ていると数年前自宅で飼っていたヒヨちゃんたちが産んでいたたまごのことがなつかしく思い出されました。ニワトリはじょうぶな生き物だと思っていたのに案外短命でした。今のニワトリは年中空調の効いた部屋のなかでしか生きられないのかもしれません。

 ところで“たまご”の表記法には3通りあります。たまご(タマゴ)、玉子、卵。混同しても大して差支えないことですが、ひまにまかせて使い分けを考えてみました。

 たまご(タマゴ):一般的な意味や概念。例、スーパーのたまご売り場、医者のたまご。

 玉子:料理名や調理方法に関連して使われる。玉子焼き、玉子ご飯。

 卵:卵子の卵(らん)とか有精卵のように生物学的な存在。医者は卵からふ化して誕生するわけはないのでやはり「医者のたまご」でしょう。

 ニワトリが産み落とした“卵”は養鶏場で梱包され出荷されるときは“たまご”という商品に変わっています。そしてキッチンでゆでられたり割られた瞬間、“たまご”は“玉子”に変身するのです。

幽霊戸籍問題


 この夏、東京で発生した所在不明高齢者問題は偶発的、散発的な事例ではなくその後全国至るところで同様のケースがあることが分かりました。大家族制度の崩壊や年金詐取といった背景も指摘されていますが、一番の問題は縦割り行政の弊害で個人情報を一元的に把握することができない今の行政システムにあると思います。

 この問題を抜本的に解決するためには戸籍、社会保険、課税問題を語るときいつも話題になりながら批判が多くて実現できない国民総背番号制の導入しかないと思います。

 さて、幽霊高齢者の問題は今になって突然発生したわけではなく、これまでも戸籍を管理する現場では問題に気付きながらもいかんともしようがなかったのではないか、そんなふうに思います。

 今年の初めごろカナダの親戚から自分達のルーツを知りたいので明治14年生まれの祖先の戸籍を取ってくれないかという依頼を受けました。散々苦労したあげく鹿児島県にある本籍地をさぐり当て代理申請したところ、折り返し戸籍の写しが私あて郵送されてきました。

 それによると平成16年に、「高齢につき死亡と認定、某月某日除籍」と注が付されていました。ちょっと計算してみるとおおよそ125歳で除籍処分されたことになります。実際にはこの人は20代のころカナダに移民し、後年カナダ国籍を取得し、しかもその事実を日本政府に届けていなかったために、日本での消息が消えたあともおよそ100年間のあいだ戸籍の上で生き続けました。

 なぜ100年も? いったん除籍したあとで行方不明の人が出現したときの責任論や手続きの煩雑さを考えると簡単には除籍できないと代々の担当者が考えたに違いありません。

 いっぽう、私の伯父も若いころカナダに移民し、カナダ国籍を取ったのですが、万事几帳面な性格だった伯父はカナダ国籍を取得したことを当時ウィニペグに置かれていた日本国領事館に届けました。領事館は本籍地の役場に報告書を送り、役場は除籍手続きをしたうえで、除籍の経緯を戸籍に記載して今に残してくれました。

 戦前においてさえ、日本の役所は届け出さえすればこんなにもきちんとした対応をしてきたことは高く評価されるべきです。

危険な車椅子


 先日、父を病院に迎えに行って家に帰り着いたときのことです。いつものように父を車から降ろし、車椅子に乗り換えてもらって玄関までの坂道を押していこうとしたら、車のエンジンがかかったままになっているのに気付きました。

 父が座っている車椅子のブレーキをかけ、自動車の方へ行こうとした瞬間、まるでスローモーションのように車椅子もろとも父が後方に回転しながらひっくり返りました。ありえない事故でした。いやあってはならない事故だったのに、車椅子から道路の上に投げ出されてぶっ倒れているのは93歳の我が父。

 もうダメかと思いましたが結果的には肘やすねの皮をすりむいたぐらいで、翌朝医師の診察を受けた結果では脳の損傷は今のところ認められないとのことでした。大変な自己嫌悪に陥り、何て自分は不注意だったんだろうと後悔することしきりです。

 ところが大阪府で介護行政を担当している友人に電話して愕然としました。車椅子の後方転倒事故は日常茶飯事だそうです。その理由は車椅子のホイールの中心が背もたれの真下にあって後ろに倒れやすい構造になっているからというのです。たしかに後ろには簡単に倒れます。自動車はもちろん、自転車、ベビーカーに至るまで安全基準が厳しい我が国にあってなぜ車椅子だけこうも安全に対して無防備なのかとあきれます。

 そもそも私が両親の介護に関わりはじめて以来、車椅子の安全性について、ケアの専門家からも介護用品レンタル業者からも「後ろに倒れやすいので絶対介助者は車椅子から手を離してはいけません」と言った説明はひとこともありませんでした。

 父には申し訳ない気持ちでいっぱいです。普段動作が鈍くなった父をせき立てては文句ばっかり言っている私ですが、今回ほど父に素直に率直に謝ったのは生まれて初めて。

 父は、「何ぃ、どこも痛うないし気にせんでええ」と言ってくれるのがとても辛く、息子の横着と不手際を責めない父は本当の人格者だと思いました。私のしおらしさは何日もつやら分かりませんが、とにかくこれから先2ヶ月ぐらい慢性硬膜下血腫のおそれがなくなるまでは贖罪の日々です。

 ひとつだけ救いなのは1日過ぎたら父はもう恐怖の転倒事故のことを忘れているらしいことです。

マラケシュ


 この夏の異常な暑さにはほんとうにまいります。俳句の季語にちりばめられた情緒豊かな日本の夏の風物詩などとは縁のない過酷な夏。悪意に満ちた太陽がきょうも朝から照りつけています。

 20年ほど前、同じような暑さを体験しました。モロッコの古都マラケシュ。世界文化遺産の町のど真ん中にあるジャマ・エル・フナ広場近くの安ホテルに宿をとりました。夕方近くになると広場がにぎわってきます。オレンジやスイカを売る屋台、ヘビ使いの怪しいおじさん、アクロバットを見せる辻芸人の若者たち、そして喧騒をいっそううっとうしいものにするのがいつ果てるともないアラブの民族音楽です。

 安ホテルにはエアコンがなく、開け放した窓からは広場の騒音とシシカバブを焼く脂と獣肉のにおいが容赦なく襲ってきます。夜もかなり更けたというのにこの部屋の暑さはいったい何だろうと思って壁にさわってみたら壁が熱い。壁だけではなく床からも天井からも熱波が放射されてきて、まるでパン焼き釜の中に放り込まれたような息苦しさ。

 フウフウ言いながらロビーに出たら、アメリカ人の若者が「屋上で寝たら涼しいよ」と教えてくれました。

 アトラス山脈を望み、空気がカラカラに乾いたマラケシュの夜空の何と美しいこと。陳腐な表現ですがまさに自然のプラネタリウムです。

 マラケシュに滞在したあと、現地で知り合いになったベルベル族の大学生たち3人でレンタカーを借り、アトラス山中にある彼らの故郷の村に行きました。電気も水道も電話もないところでしたが一家総出でウサギ肉のシチューやクスクス料理で歓待してくれました。

 夜になると屋敷の中庭にカーペットを敷いてそこで雑魚寝したのですが、これがまた夢の中の出来事だったような素敵な眠りでした。空には満天の星、狼の遠吠え、大理石のひんやりした感触……。

 翌朝、目が覚め、水洗式(手水でお尻を洗う)トイレで用を足し、家の周りをみたらいたるところにコウノトリの巣がありました。高い塔の上で風にあおられながら子育てしていたコウノトリの姿が今でも目に浮かんでくるようです。

 異常に暑い今年の日本の夏、しかしこの暑さが昔の懐かしい放浪の旅を思い出させてくれました。

夏の食卓

 
 今年の夏の暑さは異常です。食欲も落ち夏バテになり何の苦労もしないで自然にダイエットできるかというとそうはうまくいきません。連日の猛暑にバンコクの屋台料理の刺激的な匂いが思い起こされ、猛烈にタイ料理が食べたくなりました。自作の激辛タイ料理に食欲は増進するばかりです。

 タイの有名な料理にソムタムというパパイヤ・サラダがあります。未熟なパパイヤを千切りにしたものやトマトなどの野菜を独特のドレッシングで和えたサラダです。

 作り方は簡単。すり鉢に落花生、ニンニク、トウガラシを入れてすりこぎでたたき潰し、ナンプラー、砂糖、マナオ(すだち)の果汁を適当に入れてパパイヤの千切り、トマト、刻んだササゲをミックスするだけ。

 ササゲというのは正式にはジュウロクササゲというらしいのですが、岡山では昔から“フロウ”と呼び、お盆のときにハスの葉の上にナスやキュウリといっしょにお供えする野菜です。長さが30cmぐらいあります。

 このササゲはおそらくかなりの高齢の人しか知らない食材で煮てもあまりおいしくなく、スーパーでもほとんど見かけませんが、お盆のこの時期だけ例外的に近所のマルナカの店頭にも毎日3把ほど並びます。

 ササゲを生のまま刻んでサラダにして食べることを思いついた東南アジアの人々は天才です。ソムタムにすると青臭い豆が妙に動物性食品めいたコクを帯び激しく食欲を刺激します。きっと辛、酸、甘が絶妙に調和したドレッシングがササゲに魔法をかけているのだと思います。

 さて話を台所に戻し、実際にソムタムを作るときの工夫をご紹介しましょう。入手難の青パパイヤの代わりに私は“そうめん瓜”を使います。固めに茹でたそうめん瓜の肉質は何となく青パパイヤに似ています。またマナオ(タイのすだち)の代わりにはライムを。それも面倒なら普通の食酢でOKです。トウガラシの代わりに豆板醤を大匙1杯入れてもすばらしい辛みが出ます。調味料の比率はすべて同量で、お好みにあわせて加減を。

 50年来、私にとって摩訶不思議な食材であったササゲの唯一の正しい食べ方をタイで発見し、タイの食の奥深さにあらためて感動する夏の食卓です。

地デジ移行


 来年のいまごろテレビのアナログ放送は完全に終了しているのでしょうか。私自身地デジ問題がさしせまっているというのに何も考えていないし身近な人に聞いても多くのひとが何もしていないといいます。

 これまでの技術革新の歴史では新しい方式のものが導入されてもただちに古い方式が棄てられるということはありませんでした。1925年に放送が開始されたラジオはおよそ100年後の今でも基本的には原初のスタイルを保っています。

 子供のころ雑誌を見ながら組み立てた鉱石ラジオや真空管ラジオは探せば物置の片隅にまだあると思いますが、ちゃんと放送を受信するはずです。FM放送が開始されたからといって中波や短波がなくなったわけではなく、今後も永遠に今の方式は続くでしょう。

 電話もそうです。固定電話は今やジリ貧というか最初からそんなものは設置していない世帯も多いのですが、だからといって50年前の黒電話が使えなくなるということはありません。

 それなのになぜかテレビだけが現行の方式を完全に棄てるという暴挙にでました。VHFの電波帯を他のメディアのためにより有効に使うという大義名分は一見もっともらしいのですが問題はいろいろあります。

 年寄りには地デジの意味さえ理解できません。子供らが最新式のデジタルテレビを買ってあげてもあまりに複雑なリモコンにはお手上げです。お年寄りにとっては使い慣れたリモコンですら次第にチャンネルが換えられなくなり、そのうちエアコンのリモコンとの区別がつかなくなります。

 地デジ移行は性急すぎます。ベータ方式のビデオデッキが消えていったように、そしてVHSも過去の遺物になりつつあるように自然にアナログ受像機が消えていくのを待つべきではないでしょうか。

 とにかく、来年7月には200万から300万世帯の人がテレビ難民になるのは明白で私もその一人です。しかしものは考えよう。いざとなればワンセグがあるし、そもそもテレビに時間を盗まれない分だけ豊かな生活が始まるのではないかという期待もあります。

 アナログ放送の終了はそのままテレビ時代の終焉の始まりであるような予感がします。

老いの風景


 両親の介護を始めてそろそろ10年目になります。今また91歳の誕生日を目前に母は感染症を起こして久しぶりに入院中です。ふと生じた小休止の時間。孤軍奮闘の10年の間に起きたいろんなことが思い出されます。

 私が仕事を辞めて郷里の岡山に帰ってくるのを待ってましたとばかりに、母は風呂上がりに転倒し、大腿骨を折ってしまいました。

 入院先の母の病室でラジオを聞いていたら大阪教育大池田校で児童が何人も殺傷されるという信じがたいニュースが流れてきたのが今でも鮮明に記憶に残っています。「お母さん、大阪で恐ろしい事件が起きたよ。テレビをつける?」

 認知症が出始めた母のためにテレビのリモコンの使い方を説明しました。「NHKを見るには“5”のボタンの上を指で押したらいい」と私。ところが母は“2”を押すので画面はザーザー。「お母さん5の上を押さにゃー」、母「じゃから5の上を押しょうるが……」。

 確かにリモコンのチャンネルボタンの5の上は2でした。このときほど母の仕草をいとおしく思ったことはありません。「ごめん、ごめん、5の上じゃなく、5のボタンそのものを押すんじゃあ」。でもそのころからリモコン操作ができなくなりました。

 骨折も何とか治癒して家に帰ったあと母は私を何度も笑わせてくれました。通院の途中、助手席に座った母が交番の電光掲示板を読みあげます。「暴力団ナンバーワン」、電光掲示板の文字は「暴力団No!」でした。さらに「暴力団を利用しよう!」という。電光掲示板には「暴力団を利用しない!」という文字が流れていきました。母お得意の先読みでした。

 しだいに日常のことがままならなくなった母のトイレ介助をしながら、「お母さん、ぼくのような孝行息子を生んでおいてよかったね」と話しかけたら、母はしばらく考えたうえで「そういう意味ではお父さんの存在理由があったわね」と若き日の理屈っぽい文学少女に戻っていました。

 その父もまもなく93歳です。ドアの向こう側で父が猫のチビちゃんに話しかけています。「ドアのそばに座っているだけではダメ、おっちゃん(私)を呼ぶのならドアをトントンとたたかなくては」。60年も続いた父・息子の葛藤もようやく幕を降ろしつつあります。

占いタコ


 物事の吉凶や勝負事の行く末を動物に占わせるのは東洋の専売特許かと思っていたのですが、今回のワールドカップではタコのパウル君というのがドイツの勝利を次々に言い当て話題になりました。

 しかし、準決勝の対スペイン戦を前に彼はスペイン国旗が付いた箱に入ってしまい何やらドイツの行く末に一抹の不安を投げかけました。果たして結果はパウル君の予想どおりスペインの勝利に終わりました。

 タコは海の霊長類と言われるほど賢い動物です。強そうな魚の姿に変装したり体の色を周りの岩や砂そっくりに変えて獲物に襲いかかる狩りの名手。

 しかしいくら賢いタコでもワールドカップの勝ち負けまで予言することはできないでしょう。タコもそんなに暇じゃない。今までドイツの勝利を完璧に言い当ててきたのは超能力によるものではなく、タコはアクリルの餌箱に取り付けたドイツ国旗の色や模様を覚えていたからではないかと私は想像しています。

 タコが色彩や模様を認識する能力が著しく高いのは海中での行動記録によって実証済み。きっと水族館の人が賢いタコを事前に特訓したのでは?餌を常にドイツ国旗の模様が付いた方に入れておいて。

 それが今回うまくいかなかったのはスペインの国旗とドイツ国旗はともに赤と黄色のストライプがあってまぎらわしかったせいではないか。でも結果的にはパウル君はスペインの勝利を予測したのだからやはりすごいタコです。

 先日テレビで人類が滅亡したあと地球上の生物はどうなるのかという番組をやっていました。都市はすぐに崩壊し始め、高層建築やエッフェル塔も崩れ落ちます。人間が作ってきた文明はまさに跡形もなく消えていくという恐ろしい未来図。しかし人間の消滅とともに豊かな自然がたちまち復活してくるというのはある種の救いでした。

 そんな未来、しかも1億年ぐらい先の未来世界に君臨する動物界の王者は、おそらく陸に進出したタコではないでしょうか、占いタコのパウル君を見ていたらちょっとそんな気がしました。

 さてW杯の優勝はスペイン、オランダのどちらに?居酒屋のタコ料理がしみじみおいしいスペインの方が有利かなと思います。

韓流スターの死

 
 ワールドカップ、対パラグアイ戦の惜しい結末を報じるスポーツ紙の巨大な見出しに割って入ってきたのが韓流スター、パク・ヨンハの自殺です。品のある顔立ち、誠実な人柄、甘い声。「冬のソナタ」で一躍日本女性のハートをつかみました。

 自殺の動機として推測されているのは父親の病気、事務所のもめごと、多忙なスケジュールからくるストレス、目の病気ゆえに兵役を免除されたことに対する世間の非難…等々、しかしどうもピンときません。

 私が今までに出会った韓国人はみんなたくましく感情をストレートに出してきます。フランス人と結婚した女性など亭主が他の女をチラッと見ただけでフライパンで打ちのめすという怖いうわさが会社で拡がったりしたものです。

 しかし、日本人に比べ自己主張が激しいと思われている韓国人も表向きよりずっと他人の目を気にし、すべての人にとって「いい人」でありたいという願望が強いようです。ここ2,3年だけでも、知人に高利で金を貸したとか整形疑惑があるとネットに書かれただけで有名女優が自ら命を絶ちました。

 その点日本人は京都人を頂点に世知に長けているというか妙に覚めているところがある。人には浮き沈みがあるし人間には裏表がある、いや裏の裏があるのが人間だということを長い文化を通してよく了解しているようにみえます。

 例えば民話に出てくる「飯食わぬ女房」。美人で働き者であるうえに飯も要らぬという女性に出合い大喜びで結婚したケチな男がどうも米櫃の減り方がはげしいことに気付く。ある日天井裏から女房の様子をうかがっていたら、女房は米を一升も炊いて、頭のてっぺんの髪をかき分けそこに現れた巨大な口に釜の飯をいっきに放り込む。

 人間とはこの女房みたいなもの、都合のいいことばかりじゃない、表があれば裏もあるのが人間の本質であると民話は教えています。

 韓国の風土では困難なことかもしれませんがパク・ヨンハにはもう少し気楽に、もう少し“いい加減”に、これからの長い人生を生きてほしかったと思います。いい人、誠実な人であることに息苦しくなっていたのなら髪をパカッと割ってみせて「これが本当の私だ、文句あるか」と言えばよかったのです。合掌。

パリのめぐり逢い


喫茶店で新聞(読売6月21日)を何気なく見ていたら「顔」というコラムに目がとまりました。そこにはこの春東京丸の内にオープンした三菱一号館美術館初代館長に就任した高橋明也(あきや)氏(56)のプロフィールが紹介されていました。真新しい美術館の館長さんとは一面識もないのになぜか初対面という気がしません。

もう30年も昔のことですが、ヨーロッパ旅行中、パリにも2、3日立ち寄りました。ホテルはコンコルド橋を渡ったところにある国民議会の壮麗な建物(ブルボン宮)の近くにありました。

人気(ひとけ)のない早春の午後、散歩に出かけブルボン宮の横にさしかかったとき向こうからダンディな日本人紳士が歩いてくるのが目に入りました。あっ!早稲田の高橋彦明先生、大学1年のときフランス語を教えていただいた!それはほぼ10年ぶりの再会でした。

「先生、近くのホテルに滞在しているのですが、コーヒーでもいかがですか?」とお誘いしました。マンモス大学で第2外国語としてのフランス語を履修しただけの学生を覚えておられるとはとうてい思えなかったのですが、先生は「覚えているよ」とおっしゃってくださいました。

私が大学図書館で働いていると申し上げたら「うちの息子は芸大の大学院に行っているけれど、学芸員の就職口が全然なくてねえ。本当に困っているよ」としみじみ心配されていました。それは大学教授の顔ではなく温かい父親のまなざしでした。

その息子さんというのが高橋明也氏で、お父さんの心配をよそにちゃんと国立西洋美術館に職を見つけ、「バーンズ・コレクション展」や「ジョルジュ・ド・ラ・トゥール展」を企画されるなど大活躍され、また19世紀のフランス美術に関する著作物を多数書かれています。

学生時代にお世話になった先生に後年パリの街角で偶然再会し、その時話題になった息子さんに今また新聞紙上で出会う不思議さ。いや不思議でもなんでもない、こんなこと、人に話しても「それがどうしたの?」という類の話でしかないかもしれません。

しかし、それでも時折こうして何かの摂理によってなつかしい人にめぐり逢うことがあるのはやはりある程度長い人生を生きていればこそ、と思わずにはいられません。



6月のうれしいニュース


 市民運動を始めたころから総理大臣になることに強い意欲を持ち続けたという菅直人はラッキーな人だと思います。民主党の支持率はV字回復し、当初ぼろ負けが予想されていた参院選は上げ潮ムード。菅総理は重要法案を積み残したままいそいそと国会を閉じてしまいました。

 おりしも新政権誕生に花を添えるように、日本の小惑星探査機“はやぶさ”が往復7年の旅を終えて帰ってきました。“はやぶさ”が打ち上げられたときの記憶が全然ないのは、まさか本当に7年後に小惑星の石や砂を拾って地球に帰ってくることなど信じられないと思っていたからかもしれません。

 ともかくここ数年、国際社会の中で日本の地位が低下する一方の状況のもと、日本という国、社会システムに対してだれもが明るい展望をもてなくなっていたところへ、“はやぶさ”は国民に再び夢や希望を語る元気を与え、どんなに絶望的な場面でもあきらめないことの大切さを教えてくれました。

 ワールドカップ、カメルーン戦の勝利も思いがけないものでした。サッカーというスポーツ、激しい運動量の割に点を取ることが難しく、ゴールの決め手は選手たちの頭脳と身体能力のたまものであるとはいえ、私には偶然の支配が決定的であるように思えます。カメルーンの強烈なシュートがクロスバーに跳ね返されたときは偶然の神に感謝しないではおれませんでした。

 勝てば実力、負ければ運が悪かったというのはすべてのスポーツの基本……とはいえ、ワールドカップはやはり実績がある国が順当に勝ちあがっていきます。来たる2試合目、オランダ戦の結果はいかに?

運や偶然の力も味方につけて、岡田ジャパン、オランダには負けるな!(勝てとまでは言わないから)。“はやぶさ”が満身創痍になりながらも完璧にミッションをこなしたようにサッカーでも日本の底力(そこぢから)を示してほしいと思います。

 菅首相は国会での質問に答えて、仕分け済みの“はやぶさ”後継機の予算を復活させると明言しました。またワールドカップのおかげでテレビや3D録画機が飛ぶように売れているとか。政権発足とともに明るいニュースに恵まれた菅首相には鳩山ダッチロール政策と決別し、実のある政策をお願いします。

ロックの日


 6月9日はゴロ合わせで“ロックの日”だとか。ロックンロールのロックではなくカギのロックです。

 こういう記念日ができた理由はおそらく、あまりにもセキュリティに無頓着な家が多く、「外出時にはちゃんとカギをかけてくださいよ」、「古いタイプのカギはプロの手にかかるといとも簡単に開くので最新式のものに取り替えてください」などと啓発する意味合いがあってのことだと思います。

 ところが“ロックの日”は年に1回ですが、私にとっては、現在のマンションに入居以来13年間、そしてこの先ずっと毎日が“ロックに悩まされる日々”です。というのも、お隣さんが外出時、玄関ドアをロックしたあと決まって3回ガシャン、ガシャン、ガシャンと思いっきりドアノブを引っ張って確認するのです。

 どういうきっかけでこのような行動をするようになったのか知りたい、できれば止めてくれないか、もしくは重低音の地響きが我が家の平穏を破るようなやり方ではなくもっとそっとできないものか、お隣さんに尋ねてみたい。

 毎朝9時前になってそろそろガシャン、ガシャンが始まるぞ、と思うと本当に憂鬱。私はパソコン作業を中断し用もないのに地響きが一番届きにくいリビングの端っこまで避難することを余儀なくされています。

 お隣さんの性格なら確認などしなくてもカギの閉め忘れはありえないだろうし、無意味な行動に思えるのですが……。

お隣は夫婦2人暮らし。亭主が奥さんにこの奇行を強要したのか、あるいはその逆なのか不明ですが、今では2人ともちょっとコンビニに出かけるときでもガシャン、ガシャンやっています。

 一度苦情を言ってみたい。「お宅がドアをガシャン、ガシャンやるたびに壁に細かいひびが入り、これが100年も続けばついにはマンション全体が大崩落を起こすに違いない」と。でもそれを言ったらおしまい。今までの平和で無関心な隣人関係が一気に崩れます。

「お宅こそ、ペット禁止のマンションでいったい何匹猫を飼っているんですか。私たちが猫に迷惑してないとでも思っているのですか」と逆襲されかねません。ロック騒音には大音量のロック・ミュージックで対抗すべきか悩みは深いです。

(写真はセックスピストルズのシド・ヴィシャス。シドの“マイウェイ”はこちら)
http://www.youtube.com/watch?v=WIXg9KUiy00

捕鯨問題

 

日本が南氷洋で行っている調査捕鯨に関して、私は民主党政権ができたとき、従来の政策が変更されることを期待したのですが、農水省は相変わらずオーストラリアやニュージーランドなど反捕鯨国の神経を逆なでする調査捕鯨を継続しています。

 いまどき「クジラを食べるのは日本の食文化」などという言葉にどれほどの重みがあるでしょう。農水省は捕鯨産業や利権団体の圧力だけを代弁せず、国民全体の意見を政策に反映してもらいたいものです。

 先日おもしろい話を聞きました。

県内のある中学校でのできごとです。ネイティブによる英語教育を推進するために、その学校にはアイルランドから女性教師が派遣されています。

 生徒たちが給食に出された肉料理に全然手をつけないので、アイルランド人教師は怒って「あなたたち、ちゃんと肉を食べなさい!」と指導しながら彼女は給食を残らず食べたとか。

 後でその肉というのがクジラだったことを知った先生は、まるで敬虔なイスラム教徒がだまされて豚肉を食べてしまったかのようなショックを受けたそうです。

 笑ってしまいました。農水省が「鯨肉は日本の伝統食材」などと外国人に訴えようが肝心の日本の子供たちはそんなものに目もくれません。

 それに対し、「クジラを殺すのは野蛮人」と心情的、教条的に理解しているアイルランド人の先生は目の前に出てきたクジラ料理をおいしいと思って食べたのです。

 捕鯨問題についていろいろ議論はあるでしょうが、世界のほとんどの国の人がクジラやイルカを殺すべきでないと考えている以上、やはり日本はそれに従うべきです。海の王者にして哺乳類の頂点(そして食物連鎖の頂点)に位置するクジラを砲艦と変わらない捕鯨船で捕獲するのは自然に対しあまりにも畏れを知らない行為だと私は思います。

 2010年5月、環境省水俣病総合研究センターは、捕鯨の町和歌山県太地町で実施した大規模健康調査の結果から、この地区の住民の頭髪には全国平均の4倍超の水銀が蓄積している事実を公表しました。

 給食のクジラ肉に手を付けなかった子供たちはそういう危険を本能的に知っていたのです。

高速ツアーバス


 今もっとも旬の輝きを放っている市川海老蔵の芝居を見るために夜行バス2連泊で東京に出かけました。海老蔵の男伊達ぶり(助六)はひたすらカッコよくしびれましたが、歌舞伎の話は別の機会に譲るとして、今回はツアーバスに初めて乗った印象を記します。

 ツアーバス最大の売りはバス会社が運航する高速バス代のほぼ半額という格安料金にあります。低価格を実現するためにいっさいの無駄なサービスが廃され、かえって新鮮な旅情を味わうことができました。

 夜11時20分、岡山を出発したバスにはトイレがなくしかも最初の休憩は名神・養老サービスエリア(岐阜県)という案内に真っ青。ペットボトルのお茶もちびりちびり口を湿らす程度にしておかなくてはなりません。 

 狭い4列シートの隣人が窮屈さに耐えかねて腰をクネっとよじるとでかいケツがわが方を侵略。生温かい感触がたまらなく不快であっても、おじさんのお尻を押し戻すことはできない。そこでこちらも同じように腰をクネっとひねり相似形の体勢になってわずかなスペースを確保。

 姿勢を自由に変えることもままならず悶々としているうちに早くも空が白み始めました。2回目の(最後の!)の休憩は横浜インター手前の海老名SAでしたが、この間満員の乗客のだれひとりとして臨時トイレ停車を要求しなかったのは実に見上げたものです。

 朝7時、最初の降車地である横浜駅で半分ぐらいのお客が降りていきました。旅慣れた人達です。というのもそのあとバスは朝の渋滞に巻き込まれ、東京駅に着いたのは9時半でした。もし横浜で電車に乗り換えていたら7時半過ぎには東京駅に着いていたでしょう。

 喫茶店でしばしくつろいだあと、午前11時から午後9時15分まで海老様の芝居に酔いしれ、午後10時半、またバスに乗り岡山に向け出発しました。今度はトイレ付でガラ空き、シートもデラックスで天国!、しかも料金は往路の地獄バス同様6千円ぽっきりでした。

 ツアーバスにはもう懲り懲りかって?いいえ、新幹線や飛行機より時間が有効に使え、すっかりファンになりました。

春の食材、タケノコとヒラ


 ここ十数年、耕作放棄地にどんどん竹が進出し竹林の面積は増える一方だそうです。タケノコの消費量も増加しているので、それはいい具合だなと思ったらそうでもなく、売られているタケノコは中国からの輸入物が主流とか。

 そんな新聞記事を読んで、そういえばもう何年も見に行っていない我が家の竹林はどうなっているのか気になり4月のある日、タケノコ掘りにでかけました。

 京都のブランド・タケノコなどとは全然違う野生味満点のタケノコはさぞエグイかというとそうでもなく、わざわざ糠でゆでなくてもそのまま味付けして大丈夫でした。

 とはいえ、同じ竹林のタケノコでも素性のいいものとそうでないものがあります。おいしいタケノコを見分けるコツとは?

 竹林にはずんぐりとたくましいタケノコに混じって少し“不健康で虚弱体質な”タケノコがあるのです。ちゃんと丈夫な竹に育つのかなあという感じがしますが、食べてみるとアクもエグミもなく美味、第一掘り取るときあまり抵抗しません。

 具体的に言うと、タケノコの断面が楕円形にひしゃげた感じがするものが極上品。節と節のあいだも多少間延びした感じがするものがいいのです。

 無理にこじつけ話をするつもりはないのですが、このごろ学校子供にこういうひ弱なタケノコ型の児童が増えているようです。

 体育の授業で擦り傷を負って家に帰ると親が学校に文句を付ける現代の日本。しかし近い将来大きな破局が来るのが避けられそうもない世界情勢の中では、骨太でアクが強くエグイぐらいの子供でないと生き残れません……。

 さて5月はモウソウチク(孟宗竹)に代わってスレンダーなハチク(淡竹)がほんの一瞬市場に出ます。ハチクはヒラの酢魚、エンドウとともに春のばら寿司には欠かせない食材です。

 岡山のヒラは最近流行のサワラよりもしっかりした食味の魚で煮付けにすると最高なのですが、小骨が多いためか若い人にあまり人気がないのがちょっと残念です。

2010年10月28日木曜日

裁判傍聴記



 裁判員制度が始まって1年が過ぎましたが、私自身あるいは知人友人の中にもだれ一人裁判所から呼び出しがあったという話を聞きません。正直なところ裁判とか裁判所に縁のない一生を送れたらいいなと思います。

 ところが最近生まれて初めて裁判の傍聴をしました。中学校時代の恩師があろうことか刑事被告人として法廷に立たされたのです。 教科支援員として派遣されていた小学校で児童を転ばせ全治10日間のケガをさせたという容疑です。書類送検された結果、いくばくかの罰金を払うよう略式命令が出たのを不服として本訴したのです。

 児童の親にしてみれば子供が学校でとんでもない目に遭わされたという怒りを抑えられず警察に被害届けを出したのでしょう。教育現場においてさまざまな不祥事が頻発する昨今、両親が「訴えてやる!」といきまくのを止める権利はだれにもありません。

 ところが事件が略式命令で済まず公開の法廷で本格的な論戦になってしまった今、被害者サイドは事態が予想もしない方向に泥沼化していることに当惑しているのではないかと思います。

 裁判所は証人としてこの春中学生になった被害者本人および両親、当時の担任や校長を次回以降法廷に喚問することを決めました。中学生を大人の裁判所に呼び出し証言させるとはこれまた残酷な話です。(生徒の喚問について被告弁護人は教育的配慮から不要と主張したが……)

 そして裁判の結果、罰金刑が確定してもそれは国庫に入るだけで被害者が慰謝料を請求するためにはまた一から民事で争わなければなりません。まさに典型的な勝者なき戦いです。

 私が中学生のとき廊下を走っていたら背後から両耳がちぎれるぐらいのバカ力で引っ張るやつがいる。振り向いたら先生でした。先生、50年前とは親も子も違いますよ。今は冗談も愛の鞭もそんなもの通用しないんですよ。

 とにかくこの裁判、新聞で報道されたような事件だったのかどうか、そして生身の人間が裁かれる法廷とはいったいいかなる場所なのか最後までつきあってみようと思います。