中学生のころ熱中して読んだゲーテのファウスト。「時よ止まれ、お前は美しい」とファウストが言うときがくれば、そのときは魂をメフィストフェレスに与えよう、という有名な約束があります。中学生の私はファウスト博士に「そんな危険な約束をしてはダメだ、止まれというほど美しい瞬間が到来したらそれを楽しまなければならないのに、死んだら意味ないではないか」と言ってあげたかった。
ところが最近、自分自身たぶんファウスト博士より長生きしているせいか、「この瞬間よ、止まれ!」と思うことがときどきある。何と世界は美しく、よくできていることか!世界は神の恩寵に満ちあふれているではないか!とさえ思うことも。これは自分も死に近づいる証拠かもしれない、けれどももはや中学生のころのような死に対する絶対的な恐怖はなくなりつつあるので、いいことかもしれない。
一方、高校生時代に熱中したリルケの詩に「かりそめに通り過ぎて」というのがある。
かりそめに通り過ぎて
十分に愛さなかった、かずかずの場所への郷愁よ
それらの場所へ、遠方から、何と私は与えたいことか
し忘れていた身ぶりを、つぐないの行いを!(果樹園)
原文がドイツ語だったかフランス語だったかは原本がマンションにあって、すぐ参照できないのでまた調べるとして、こんなにも素敵な詩を生み出したリルケに高校時代ずっと心酔していた。大学ではドイツ文学を専攻しようと決めて早稲田の独文科を2回受験、不合格。そこで大学ではもうドイツ文学を勉強するのをやめて第2外国語としてはフランス語を選択。フランス語とイタリア語を同時進行で勉強して、1968年前後のフランス映画やイタリア映画、文学に熱中して、これはこれでよかった。
でも今また年取ってきて再びトーマス・マンやリルケ、ゲーテ、シューベルトの歌曲などドイツ的なものがなつかしい郷愁のように私の心を揺さぶる。
「郷愁」という言葉自体、Heimwehの日本語訳だが、世界に何千という言語があっても「郷愁」をハイムヴェーと同じ感覚で使う民族はたぶんドイツ人と日本人だけだと思う。もちろんホームシックとかフランス語ではmal du pays と辞書に載っているけれど、日独人と感覚を共有しているとは思えない。
話は脱線したが、“かりそめに通り過ぎて十分に愛さなかった”かずかずのものの何と多いことか!がんばってもあと20年しか生きられないのに、それらを探して「つぐないの行い」をなすことなどもはや無理。でも「時よ止まれ、汝は美しい」と感じる瞬間瞬間にリルケの詩の一節を思い出せばいいのだ。私はファウストと違ってメフェストフェレスと約束なんかしてないので、すぐ魂をもっていかれることはないと思う。
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