田んぼのあぜ道や河原が真紅の彼岸花で覆われるこの季節、松江まで1泊2日のドライブをしてきました。山陰を代表する美術館といえば安来市にある足立美術館ですが、そこから車で数分のところに月山富田城(がっさんとだじょう)という戦国時代の城跡があり、標高190メートルの月山頂上まで汗だくになりながら登ってみました。天空の城のひとつとして歴史ファンの人々に大変人気がある場所だそうです。
頂上の本丸跡からは城下の広瀬の町並みから米子市街地まで、中海、弓ヶ浜そして日本海までがパノラミックに広がり、心臓破りの急な坂を登った甲斐がありました。私は子どものころから日本史が苦手で戦国武将のエピソードなどほとんど知識がないのですが、にわか勉強したところによると、まさにこの富田城こそ戦国時代に山陰・山陽八ヶ国の守護大名だった尼子氏の本拠地だったということです。
群雄割拠の戦国時代のこと、中国地方の広大な土地を支配した尼子氏もやがて安芸の国、毛利氏との対立が深まり、1566年に滅亡、そして残されたのが「山陰の麒麟児」の異名を取った山中幸盛鹿之介(鹿介とも)ら尼子十勇士の存在です。
鹿之介については尼子氏再興のため「願わくば、我に七難八苦を与えたまえ」と三日月に祈った逸話で有名、その3度にわたる毛利氏との戦いもついに力尽きて1578年、備中松山城に近い高梁川の河原で謀殺されたとのことです。鹿之介が生まれた富田城を訪れたのをいい機会に、高梁川と成羽川が合流する場所にある鹿之介のお墓も見物してきました。わずか33年という短い生涯にあって休む間もなく大活躍した鹿之介の墓所はコンビニ、ローソンのすぐ隣にありました。だれがお参りしたのか菊の花が手向けられていました。
2021年9月末、鹿之介の時代から450年の歳月が流れ、立憲君主制の民主主義の平和な世の中です。しかし、テレビが中継する自民党総裁戦の結末は最後の最後まで「専門家」の予想をことごとく裏切るドラマチックなものでした。選挙期間中、麻生副総理が「これは権力闘争だ」といみじくも言っていたように、議員票は明日のおこぼれを狙ってあちこち大移動しました。鹿之介のように傾きかけた主君にいつまでも忠義を尽くしていては生き残れないのが世の常なのでしょう。
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