2015年12月16日水曜日

温泉から室内プールへ(下)

 町中の温浴施設は年中無休で早朝から深夜近くまで営業しています。“いつでも温泉に入れる!”というのはいいものです。雨がしょぼしょぼ降るわびしい夜、パッと思い立って大家族の湯まで車を走らせ、熱い温泉のお湯に浸かりサウナで汗をかいたらひきかけた風邪もあっという間に退散です。降り止まない冬の小雨のなか露天風呂でのんびりしていると気分は奥飛騨慕情です。
温浴施設でも十分運動になるのですがもっと本格的な運動効果を得るためにあちこちの室内プールを探訪しました。まず訪れたのは岡山市南区豊成にある市営の屋内温水プールです。このプールに来たのは40年ぶりです。当時50メートルの室内温水プールは全国的にもまれな存在で岡山市民として誇らしく思ったものです。
ところが久々に出かけてみて感じたことですが、施設全般の経年劣化が激しいということでした。なによりも水深が浅いのは致命傷です。岡山市の財政状況はきびしいのでしょうがぜひとも早期に豊成のプールの建て替えをお願いしたいと思います。
次に行ってみたのは倉敷市屋内水泳センタープールです。このプールも岡山市民プールと同じぐらい昔にできたものですが落成当初から立派なものでした。とりわけ50メートルプールは水深が1メートル60センチとやや深いので泳ぎやすい。
日本のプールは一般の利用者の安全を考えてか水深が浅すぎる傾向にあります。水球やシンクロナイズドスイミングにとって浅いプールは致命的でこれらのアスリートたちは練習場の確保に大変苦労しているのではなかろうかと思います。
1970年ごろドイツ人の友人に招かれドルトムント近くの人口9万人の町に滞在したことがあります。プールに出かけて驚きました。50メートルプールの床は使用目的に応じて上下する可動床で、そんな設備を見たのは生まれて初めてのことでした。日本でも最近この方式による深いプールが普及し始めました。

岡山市民プールの建て替え計画があるのかどうか存じませんが、次はぜひ現代のニーズにマッチしたレベルの施設にしてほしいと願っています。プールに出かける高齢者が増えれば増えるほど老人にかかる医療費は減るでしょう。私も運動を始めて血圧の薬と別れることができました。

温泉から室内プールへ(上)

 かつて大阪で働いていた30年近い歳月のあいだ飽くことなく休日には紀伊山中の温泉に出かけたものです。龍神温泉や川湯温泉は四季を通してほんとうに美しく、日本の情緒ここに極まれり、といった風情です。
 日本に大挙して押し掛けてくる外国人観光客のあいだでも急速に日本の温泉が知れ渡ってきているようですが、マナーの問題や習慣の違いによるトラブルはあるにせよ国際親善にとって温泉ほどいい雰囲気をかもしだすところは他にないと思います。
 外国人が驚き抵抗を示す筆頭は何といっても他人の前で素っ裸になって温泉に入る点につきます。あの恥という概念がまったく欠如していると思われる中国人でさえ温泉で裸になれと言われると柄にもなく顔を真っ赤にして恥ずかしがります。今はまだ温泉が中国人によって占拠されたという話は聞きません。でも彼らが温泉の快楽を覚えるのは時間の問題でしょう。
 かつては生ものを絶対食べなかった中国人も今では脂ぎったおおとろのとりこになっているし、冷たいものは毒だと信じて疑わなかった彼らも今では冷たい生ビールやアイスコーヒーに慣れ親しんでいます。
 さて、もともとは温泉大好き人間だった私も両親の介護のために岡山に帰って以来、温泉場でゆっくりする精神的余裕をなくしてしまったのか、あるいはしょっちゅう上海に出かけるせいで気持ちが中国人化したのか温泉に対して何となく抵抗感を感じここ十数年一度も温泉に出かけたことがありません。醜くたるんだ100キロの巨体をひとまえに晒すのはさすがに恥ずかしいことです。
 ところが医師から執拗にフィットネスを勧められついに体を動かすことにしました。まずは水中歩行から。いきなりプールに行く前にまずは町中のスーパー銭湯で“服を脱ぐ”練習をしよう! そして出かけたのが近くの「大家族の湯」でした。

 オープン以来店の前をよく通りかかるのですが広大な駐車場を埋め尽くす車の数に恐れをなして今まで敬遠していました。しかし勇気を出して行ってみてびっくりです。20数種の風呂のほかにプール、フィットネスジムまで完備し、まさに空前の規模の「湯」でした。今ではすっかりとりこになってしまい2日と置かず出かける始末。さっそく入浴効果を実感しています。(続く)

母の弟(下)

太平洋戦争の末期にフィリピンで戦死した叔父の人物像や人となりについて、戦後生まれの私には何の記憶も思い出もありません。しかし母が負った悲しみ、心の傷は母の最晩年に至る今も母を苦しめています。
今回の国からの戦没者遺族に対する特別弔慰金の申請に当たって、叔父の戸籍謄本を取り寄せて初めて叔父がいつどこで死んだのか分かりました。戸籍謄本には「昭和20年6月30日時刻不明比島レイテ島カンギポット山に於いて戦死」と記されています。
太平洋戦争の天王山と言われたレイテ島の戦いは大変な数の犠牲者を日米双方に出しました。84,000名もの日本軍将兵が派遣されたのに捕虜になるなど生還できた人はわずか2,500名だったそうです。叔父が亡くなった6月末は敗戦間近であり、叔父はぎりぎりまで筆舌に尽くしがたい過酷な状況の中で生きていたことが想像されます。
母のもとに叔父から届いた一枚のハガキが残っています。証券会社で働いていた叔父はスポーツマンで明るい性格で人気者だったそうです。叔父のハガキに書かれた文字は流麗で、さりげなく家族を気遣う文面でした。遺骨も戻ってこなかった叔父の遺品といえばこのハガキ以外何もなく母にとっても私にとってもこの上なく大切なものなのにそういうものに限って引き出しに無造作に入れたりしているうちに紛失してしまうものです。今探しても行方不明です。
さて、特別弔慰金の請求を開始して分かったことですが、国からの“お見舞い”をいただくのに役所はどこまでハードルを高くすれば気がすむのかとあきれることばかりです。戸籍謄本は直系の尊属卑属にしか取れないという原則があり、新しい籍に移った伯父伯母の戸籍には手が届きません。
具体的には母と同一順位である伯父伯母9人の死亡年月日を申し立てないといけないのですが、私にはそんなもの「みんなとうの昔に死にました」という以外申し立てるすべがありません。

国や自治体には年金受給記録、戸籍、住民票、死亡届けなどすべてのデータがまさにビッグデータとして完璧に存在しています。弔慰金を正しく支給するために必要な情報は国が職権で調べてくれてもよさそうなものです……。年取った遺族を苦しめる手続きの煩雑さは、まったく弔いにも慰めにもなりません。

2015年10月29日木曜日

母の弟(上)


大正生まれの母には10人を超える兄弟姉妹がいました。裕福な家庭だったらしく、母の母親は子どもを次々生んでも授乳や育児は乳母にまかせっきり、自分は生むことに専念していたそうです。母は若いころからよく嘆いていました。「姉たちみんな美人なのに私だけ色が黒いのは私の乳母が色黒だったからだ」と。

ほかの兄弟姉妹全員が亡くなり、母ひとり百歳近くなって今は寝たきりながら自宅で平穏に人生最後の日々を過ごしています。母の嘆きだった色黒は、もはや乳母の影響はどこにもなく、新潟美人特有の天生の麗質を取り戻しています。

ほぼ末っ子だった母には省吾という名の弟がいたのですが太平洋戦争末期に召集されわずか20歳前後で戦死しました。フィリピン方面で死んだという以外何も分かりません。戦後の混乱期にどのように弔われたのか、墓がどこにあるのかさえ判然としません。

おそらく当時の多くの若者同様何がなんだか分からないまま戦争に徴用され死んでいったのでしょう。未婚だったので遺族年金を親戚のだれかが受け取ったという話も母から聞いたことがありません。

今から7,8年前、母の認知症が重くなってきたころ、私の知り合いの若者が大阪から我が家に遊びにきたことがあります。友人は上背があり短髪でなかなか凛々しいルックスの持ち主です。すると母は「省吾や、おまえ、帰ってきたのか!」と驚きの声を発しました。省吾叔父はついに母のもとに帰ってきたのです。

ちなみに大阪の友人は昨年父が亡くなる前、「幻影の先輩」(*)の役を演じてくれた男と同一人物です。父と母がそれぞれ青春時代に戦争で失った先輩や弟として人生最後に、朦朧とした意識のなかで、奇蹟の再会を果たしてくれた希有な存在です。

母にとって大切だった弟をちゃんと弔ってあげないといけないなと思っていた矢先、新聞の片隅に“「戦没者等の遺族に対する特別弔慰金」の支給について”という政府広報が掲載されているのを目にしました。

政府のこの種の給付金を受け取るのは素人の手に負えないくらいハードルが高いものですが、今回は挑戦してみようという気になりました。戦争で死んだ叔父と遺族である母のために弔慰金をもらうことは私の義務であると思ったからです。(続く)

(*)201433日ごろ掲載

スポーツ嫌い(下)


1960年代終わりごろから70年代初めの大学は“学園闘争”という摩訶不思議なエネルギーがキャンパスに渦巻いていた時代でした。中国の文化大革命の影響もあって、学生が教師を批判し、大学の機能をマヒさせ、試験が近づくと大学を封鎖することなど日常茶飯事でした。

しかしそれでも屈強な体育系の学生が親衛隊のようにガードしている体育局は学生に妨害されることなく厳格なカリキュラムを遂行していました。体躯局が提供する実技科目をさぼって卒業単位を得ることなどとうていできません。

私は何とかして嫌いな実技科目の単位をもらうためによその大学の学生N君に私の影武者になってもらったのは今思い返してみても痛快な学生時代の思い出のひとつです。ついでに言うと、私は英語が不得意なN君のためにN君の大学に通い立派な成績をプレゼントしました。麗しきバーター取引です。

そんな学生生活を終えて就職した先が大阪の大学でした。もはや学生ではなく図書館司書として働くことになったのですが、大学というところは職場に50メートルの公認プールがあり、陸上競技場、テニスコート、体育館、ジムなどスポーツ施設はひととおりそろっています。もちろん学生のための諸施設なのですが、昼休みは教職員もそうした施設を利用してもいいことになっていました。

学校での体育の授業は死ぬほどいやだったのに、若い学生や同僚たちがトラックを走り、さまざまな球技にうち興じているのを見ているうちに自分もやってみようという気になったのですから不思議なものです。

いろんなスポーツを試した結果、バドミントンが自分の性分によくあっていることが分かりました。生まれて初めての球技です。高校時代に選手で活躍していたという同僚がそれこそ手取り足取り指導してくれて、ついには試合を楽しむまでになりました。
冷房のない体育館の窓を閉め切って汗をだらだら流しながら試合をする爽快さ。我が人生でスポーツとこんなにも仲良くなれたのはそのころの数年だけです。ある年の大晦日の夜、オートバイを運転していて転倒し肋骨を4本折る大けがをしました。それ以来スポーツと縁がなくなり、体重68キロから100キロへの階段を黙々と登ることになりました。

スポーツ嫌い(上)


子どものころからスポーツ音痴だった私は小学校から大学まで体育の科目に悩まされ続けました。とりわけ球技が大嫌い。それが今や深夜テニスやサッカーの中継を見て喜んでいるのですから不思議なものです。

高校は何とか卒業して大学生になって事態はより深刻になりました。当時体育は必修科目で2年間実技をやらないと卒業できなかったのです。一般教養科目は代返や試験のときだけ出席すれば何とかなったのですが実技科目はそうはいきません。

マンモス大学のW大では体育は体育局という組織が全学部の学生を対象とした実技科目を提供していて、テニス、サッカー、水泳はもとよりゴルフ、スキー、スケート、登山、トレッキング等あらゆるジャンルのスポーツが選択可能でした。

スキーやスケートは冬1週間ほどの合宿に参加するだけで単位がもらえるので人気がありましたが、応募者が多いので抽選です。水泳は当時の大学では珍しく温水プールがあって、そのちょっとハイソ(死語?)なプールサイドの様子は村上春樹原作の映画「ノルウェイの森」によく描かれています。

さて、くじ運のない私はスキー合宿やトレッキングなど楽しそうな科目はことごとく外れ、1年目はサッカーを選びました。初めての授業の日、郊外にあるサッカー場まで電車に乗って出かけました。教師は50人ぐらいの学生に向かって「だれとでもいいから11人のチームを作れ!」と号令をかけました。

するともともと高校時代にサッカーで活躍していたセミプロのような連中はササッとまとまり、私のようなひ弱なドシロウトたちはモヤシのようなチームを作るしかありません。セミプロチームにもてあそばれた私は2度とグランドに立つことはありませんでした。

翌年はそれでもバレーボールを1年間いやいやながらやりました。でもまだ単位が足りません。3年目にはテニスを選択したのですが、もはや自分でやる気は全然なく、アルバイトで知り合ったR大学の友人に最初の授業の日に学生証とテニスウェアを渡し、以後1年間代理出席して単位を取ってもらいました。

50年も前の話なので時効だと信じます。もし時効などなくて、卒業を取り消されてもまったくどうでもいいことですが……。(続く)

大村先生のノーベル賞受賞を祝す


子どものころの悲しい思い出のひとつにクロという名の愛犬の死があります。終戦直後、私が生まれたころに両親がどこからかもらってきた雌の子犬でした。今のようにドッグフードなど存在しなかった時代、人間も食料難の時代、母は自分のご飯を残してみそ汁をかけたものをクロにやって育てたそうです。

クロも私も10歳になったころ、クロの腹に水が溜まるようになり、散歩に出て少し歩くとヒックヒック言うようになりました。恐ろしいフィラリア症に感染していたのです。いったん心臓にフィラリア線虫がわくと獣医も手の施しようがなく、クロは苦しさにあえいでいました。

そんな日々が何ヶ月か続いたあと、両親はついにクロの安楽死を決断しました。獣医さんが来た日、クロはその日に限ってヒックヒックしないで少し元気になったように思えました。私は泣きながら母に「クロは具合がよさそうだ。安楽死は待って欲しい」と訴えました。しかし母も泣きながら「もうクロを楽にさせてやろう」と私を抱きしめ、母と私の目の前で息を引き取りました。

それから数年が経過したころ、ちょうどアメリカの原子力空母エンタープライズが佐世保に来るというので社会が騒然となっていたころのこと、一匹の野良犬が我が家にやってくるようになりついに我が家の飼い犬になりました。名前はエンタープライズから拝借して“エンプラ”。それでも長いので“プラ”と呼んでかわいがったものです。

しかしプラも晩年にはフィラリアにかかり、最後は散歩に行くこともできずお尻が糞尿で汚れるようになりました。ある日、私が水道のホースでお尻を洗い流してやっていたら突然瞳孔が開き、ドゥっと地面に倒れ、暖かいおしっこが流れ出ていきました。プラも私が抱きかかえるなか旅だっていきました。つい20年くらい前までフィラリアはこんなにも恐ろしい感染症だったのです。

でも今では毎年何億の人間と何十億の家畜がフィラリア症の恐怖から救われています。私は今までうかつにもその特効薬を開発したのが日本人の研究者であったとはまったく知りませんでした。ノーベル医学生理学賞の受賞が決まった大村智先生、おめでとうございます。数ある輝かしい日本人受賞歴の中でも、ひときわ賞賛に値するノーベル賞です。

2015年10月3日土曜日

恐怖の骨髄穿刺


ときおり骨髄移植のことがニュースで話題になります。移植すべき骨髄をどうやって体から取り出すかといえばほかでもありません。提供者の腰骨にぶっとい針を差し込んで骨髄液を採取します。

もし友人知人から「骨髄ドナーになって下さい。あなた以外に型が適合する人がいないのです。ぜひ助けて」と泣きつかれても恐怖が先にたって簡単に「はい」とは言えません。ところがその恐ろしい体験を自分がするはめになりました。

極度の疲労感に体の異変を感じて病院で血液検査をしてもらったら感染症を示す数値が跳ね上がり、逆に白血球や血小板の数値が大きく落ち込んでいました。自分の体にいったい何が起きているのか、とても気になります。しかし入院4日目になってもまだ原因がはっきりしません。

住んでいる場所が緑豊かな田園地帯と言えば聞こえはいいのですが、周囲は草ぼうぼうの空き地や竹藪がいたるところあって、草むらにはダニもいます。おそろしいツツガムシ病とはダニによる重篤な疾患です。

症状と住居環境から考えてツツガムシ病が疑われるのですが体中探しても刺し口の跡が見つからず、医師は抗生剤の投与をためらっています。もう一つの危惧は各種血液成分の減少です。白血球や血小板が減っているからこそ感染症を起こしているとしたら事態はより深刻です。

入院早々医師から「これから骨髄穿刺検査をします」と告げられました。心の準備がないところへ不意打ちです。「かつてない激痛、電気が走る、下半身マヒになった」などと恐ろしい体験談をよく聞きます。今さら逃げ出す訳にもいかず覚悟を決めるしかありません。

局所麻酔が終わっていよいよ「キターッ!」です。医師が自分の体重をかけて注射針を私の腰骨に突き立てグリグリえぐっている様子が背中に感じられます。「うん?たしかこの辺で電気が走るはずだが……」と意外な展開にちょっと心の余裕が出来て医師に「今、何合目ですか?」と尋ねたら「半分終わりました」とのこと。残り半分の髄液を吸い出す感触も痛みというより違和感程度でした。

「案ずるより産むが易し」とはまさにこのことでした。しかし本当の恐怖は検査の結果次第です。人生ままならぬものですね。

病気からの回復


思いがけず岡山市立市民病院に1週間入院するという貴重な体験をしました。恐怖の骨髄穿刺の結果は異常なし、高熱、発疹、白血球の減少等体調不良の原因は何らかのウィルスによる感染症が疑われました。何に感染したのかは不明のまま快方に向かい退院となりました。

インフルエンザやHIV等の感染症に対してはある程度有効な薬が実用化されていますが、現代においてもほとんどのウィルス感染症は自分自身の体力(免疫力)で治すしかないそうです。

私の場合も2,3種類の抗生剤を点滴されたのですが効き目がないのですぐに打ち切りになり、病院での生活は夜になると決まって熱にうなされ、身の置き場のない苦しみの連続でした。入院生活の大半は熱が出れば解熱剤とアイスノン、寒気がすれば毛布を重ねて震えて耐えつつ、少しも針が進まない時計を深夜空しく見つめる日々でした。

不安と不眠、体のいたるところが痛くだるい中での唯一の気晴らしはスマホでした。ちょうど沖縄在住の友人がヨーロッパ旅行中で時差の関係で深夜2時3時にメールで会話できたのはありがたかったです。否、ありがたかったというより友人は苦しさにあえいでいる私をからかって楽しんでいたのかもしれません。

「葬式には時間を作って沖縄から行くから……」などと言ってくる。私はむっとして「葬式なんかしないし戒名もいらない、遺産は12匹の猫に遺言する」と言い返す。それでもやつは「それなら生前葬はどうか?」などとしつこい。

腹立ち紛れにそんなやりとりをしていたら明け方になってやっと眠りが訪れたものです。さいわい死ぬこともなく入院生活は1週間で終わりました。

さて、そんな入院生活を体験した岡山市立市民病院ですが、新築まもないぴかぴかの病院ながら気になったこともありました。一番いやだと感じたのはトイレです。10ほどの病床に対しトイレがひとつしかないのです。しかも男女共用の個室のみ。

ゴミ箱に使用済みの生理用品があふれた光景は見たくなかったです。また女性にしても、私のようなむさいおっさんが出てきたあとのトイレに入るのはさぞいやでしょう。病棟のトイレはやはり男女別にしてもらいたいと切実に思いました。
 
*****
 
退院後に感染症の検査結果の最終報告がありました。
 
ツツガムシ病というダニによる感染症が疑われていたのですが陰性でした。結局原因不明ということです。ツツガムシ病は東北地方、関東地方では毎年かなりの症例があるそうですが、岡山県では年間1,2例発生するのみで、しかも県北の緑豊かな場所でダニに噛まれた場合にリスクが大きい感染症です。
ツツガムシ病に対してはミノマイシンという抗生剤が有効です。私は医師と協議して、発病後早期に、ツツガムシ病かどうか確定診断ができていない時期にミノマイシンを試してみました。しかし効果がなかったのでツツガムシ病ではなかったと思いました。ほとんどのウィルス感染症に対して有効な抗生剤はありません。自分の体力(免疫力)で治す以外ないのです。白血球や血小板が著しく減少していて緊急入院したのですが、病院でしたことと言えば解熱剤とアイスノンで病気が去るのを待つことだけでした。
医師の話では原因不明の感染症はよくあるとのことでした。退院した後も10日ぐらい体調が比較的いいときと悪いときが交互に訪れまだ少し尾をひいているような気がします。

老老介護


96歳の母は自宅で寝たきりながら安定した状態で過ごしています。しかし母を介護している私自身60代後半になり体力の低下が著しく、果たして母を最後まで看取ることができるのだろうか、と不安に思うことしばしばです。

そんなある日、岡山で飲み会がありました。大して飲んでもないのに久しぶりのアルコールがこたえました。駅から母の待つ実家へ帰るのにタクシーを拾おうと思ったのですが、ほかの人にとられてしまって約2キロの道のりを歩きました。日ごろの運動不足の解消にもなるし、ときどきは歩いて帰る距離です。

ところが翌日からどうも体調が悪いのです。単にちょっと歩いたことによる筋肉痛というよりもっと何か底知れぬ恐怖のような不安がよぎりました。その次の日は夜中に寒気がしてまだ9月中旬というのに冬用の掛けぶとんを引っぱり出して寝ました。

熱を計ってみたら38度あり頭痛もするので風邪をひいてしまったのかもしれません。しかしわずかばかりのワインを飲んで30分歩いて、筋肉痛になったことと風邪の症状がまったく結びつきません。やはり内臓か循環器に重大な異変が起きているのではないか……と不安はつのる一方です。

ああ、これが老いなのか、今までは体調が悪くなるときはあっても2、3日おとなしくしていればたちまち元通りの元気を取り戻していたのに。それが先行き不明の不安感にとらわれているのです。

ときおり年取った姉妹とか親子が死後何日か過ぎて発見されたというニュースを耳にします。今の我が母と私の置かれている状況のまさに延長線上にある話です。

まだ余力があるうちに手を打って老老介護の悲劇を回避しなければなりません。近所の病院に電話して母をしばらく預かって欲しいと伝えました。そして私自身もこれから病院に出向くところです。とりあえず2週間は介護を忘れ、自分の健康を取り戻すことに専念したいと思います。

思い返してみると両親が今の私の年齢から90代半ばに至った歳月はあっという間でした。私の老後もそんな調子であっという間に過ぎていくでしょう。いや、両親ほど体力のない私が90過ぎまで生きるのは望み薄です。まして健康な状態で。

イオンモール岡山の「左折渋滞」


9月1日からイオンモール岡山の駐車場料金ポリシーが大きく変更されました。平日限定ですが「お買い上げに関係なく2時間無料」を打ち出したことは駅前という場所柄を考えればずいぶん思い切ったサービスを始めたものだと大歓迎です。

ここで心配なのは車での来店客増加による道路の渋滞です。今まででも市役所筋を北上しイオンモールの前を過ぎて左折しようとすると、信号は青でも歩行者がいる限り左折できないので、平日でもかなりの渋滞が起きていました。

しかしこの「左折渋滞」は駅前に巨大モールを作ることが計画された段階で予測されたことです。なぜ岡山市とイオンが協力して市役所筋の1番左側のレーンから左折することなく、そのままイオンの地下駐車場へ入れるよう設計しなかったのか疑問です。

たぶん公共の道路と私有地にまたがる構造物を作ることは制度上ありとあらゆる困難があり、そのうえ現代日本の縦割り社会システムの中にあっては官民をまたがる身近な懸案を調整できる人は財界にも行政サイドにもいないのでしょう。

できなかったことを嘆いてもイオンの左折渋滞は解決しないので、ひとつ現実的な提案をしたいと思います。それは歩行者用信号の運用を根本的に変えることです。昔オーストラリアのシドニーで体験したことですがとても賢いやり方です。

日本ではふつう歩行者用信号の青は車よりは短めですがある秒数継続して青の状態が続きます。ところがシドニーで体験したのは、青は一瞬だけ、でした。盲人用信号も「ピッ!」という音が一瞬響き渡るだけです。日本のようにだらだらと曲が流れたりはしません。

この方式の最大の特徴はすでに信号待ちしている人たちだけが渡ることができ、後から来た人たちは必ず次の信号を待って渡ることにあります。イオンモールから駅方向へ渡る交差点にぴったりの方式だと思います。何もシドニーのように一瞬にこだわることはありません。5秒か10秒青が継続してもいいでしょう。

せっかくの駐車場2時間無料という大英断も今のままでは市役所筋の渋滞を助長するだけです。ぜひ左折渋滞問題をイオンモール、岡山市、県警で協議して早急に解決していただきたいと思います。

2015年8月28日金曜日

夏休みと9月の新学期


1学期の終了式、全国の小学校、中学校の校長先生は訓辞の最後にきっとこのような言葉を付け加えていると思います。「最後に皆さん、9月の新学期には全員元気に真っ黒になってここに戻ってきて下さい」と。

私が子どものころ、40日の夏休みは平穏無事、大した行事もなく、家でゴロゴロする毎日。お盆を過ぎてから大慌てで宿題に取りかかり、9月1日はまだ熱気が残る新学期の教室に戻ったものでした。事件や水難事故にあう生徒もいなかったわけではないにしてもそれは不運な例外でした。

ところが現代では500人もの数の児童や生徒が一人残らず夏休みを無事に乗り切るのは奇跡に近いぐらい難しいことではないか、そんな気がします。校長先生の言葉は終業式での型に決まった訓辞というより心底切実な願いに違いありません。

大阪府寝屋川市で起きた中学生殺害事件は本当に痛ましい、やりきれない事件でした。大阪の友人に「いったい、今の子どもはどうなってるの? 夜、出歩いて親は止めないの?」と聞いたら、「夜中に出歩いたり、よその家に泊めてもらうことなど珍しくも何ともないですよ」とのことでした。

人気(ひとけ)のない深夜の商店街をスマホの電源を探していたのでしょうか、行ったり来たりしている殺害された男女生徒のシルエットが防犯カメラの動画に残っています。底知れない孤独と悲しみに満ちた遺影であると私には感じられました。

安全神話が浸透した日本は事実世界のどこの国よりも安全です。安全を信じて疑わないからこそ他人を無防備に信じて、いとも簡単に犯罪の餌食になるのでしょう。

日本を訪れた外国人が一様に驚くのはランドセルを背負った小学生が一人で地下鉄や電車に乗っている光景だとか。欧米や中国では子どもの通学はスクールバスに乗せるか、親が送り迎えするかが義務づけられているそうです。それでも子どもの誘拐事件は日常茶飯事です。

安全だと思われている日本でも、子どもを取り巻く環境には危険な落とし穴がいっぱい仕掛けられていることが今回の事件で改めて確認されました。子ども達を守るためには夜間の外出を制限し、子どもの徘徊には警察官による補導だけでなく周囲の大人たちの積極的な声かけが必須だと思われます。

エスカレーターあれこれ


中国発のニュースには毎度驚かされます。天津大爆発の被害者数は発生後5日目現在で死者、行方不明者あわせて約200人と発表されていますが、中国のネット市民自身“0が2つ足りない”と被害者数の過小ぶりをいぶかっています。天津大爆発の少し前は中国各地で発生する“人喰いエスカレーター”の恐ろしい事故の映像がテレビのワイドショーで繰り返し流されていました。

エスカレーターの安全性は疑う余地のないものだと信じていたのに、簡単にステップが外れて落ちる中国のスーパーの映像を見せつけられた後しばらくは駅やデパートでエスカレーターに乗るとき思わず身構えてしまいました。

我が人生でエスカレーターなる不思議な乗り物に最初に出会ったのは岡山の天満屋でした。年輩の方は記憶されていると思いますが、今の天満屋は1970年代初めごろに大きく増築されました。それ以前は今の建物の南半分が店舗で、店舗と県庁通りの間がバスステーションでした。

天満屋は小さいながらも岡山における流行の発信地でした。その天満屋に岡山県初のエスカレーターが設置されたのは昭和30年代だったと記憶しています。わざわざバスに乗って見物に行ったぐらいエスカレーターは珍しいものでした。

天満屋が今の姿になった70年代初めごろイギリス旅行した際、ロンドンの地下鉄駅でステップが木製のエスカレーターが現役で活躍しているのを見て仰天しました。その後、木製ステップのエスカレーターはニューヨークのメイシーズ百貨店でも見かけました。

同じころフランスでは雨ざらしのエスカレーターや階段の踊り場で水平に動くエスカレーターがあるのに驚いたのですが、これらはその後日本でも目にするようになりました。もっとびっくりするのがスパイラルカーブを描いて上昇するエスカレーター。岡山県ではアルネ津山に設置されているそうです。

なぜあんな不思議な動き方が可能なのか、私の頭では理解できません。上のフロアーに到達したステップがうまく反転して下に降りていくところが想像できないのです。なにはともあれエスカレーターは子どもの夢を刺激する魔法の乗り物。中国の事故のような痛ましい事例は根絶してほしいものです。

なぜ特殊詐欺に引っかかるのか?


岡山県警のまとめでは今年上半期の特殊詐欺被害額が9億円に上り、すでに昨年1年間の額を上回ったとのことです。警察も被害の大きさに危機感をもったのか老人がいる家庭を戸別訪問して注意を喚起しています。残念なことに警察やマスコミの努力は限定的であり、ますます被害者が増えているのが現状です。

よくテレビでお年寄りが1000万円もの振り込め詐欺にあったなどというニュースを聞くとだれもが「そんなバカな! 息子が交通事故を起こして法外な慰謝料を請求され路頭に迷っている、などと親に泣きついてくるなんて詐欺に決まっているではないか」と簡単に騙されてしまう被害者に首をかしげます。

では、そもそもなぜ人は簡単に特殊詐欺に引っかかってしまうのでしょうか? 私なりにその理由を考えてみました。ひとことで言えばオレオレ詐欺は人の心理の隙を巧みについているからだと思います。

どんなに子どもを信頼している親でも心のどこかに子どもの人生に待ち受けている危機に不安を抱えています。ある日これまでまじめ一筋、エリート街道を歩んでいた自慢の息子が「会社の金に手をつけてしまった。今日中に金を会社の金庫に戻しておかないとクビになる」と言い出すこともないことではない。

「飲み屋で知り合った女性と一晩つきあったらこれが質の悪い女でやくざのヒモが出てきて脅されている。すぐに500万円渡さないと殺される」、「会社経営に失敗して不渡りを出しそうだ」などと突然電話で泣きつかれたとき、親は“詐欺だ”と思う前に自慢の息子に対する信頼がガタガタと崩れて“心配が現実になった、今こそ親の出番だ”と思ってしまう悲しい親心。(演歌調ですが)

親は子どもが思っているよりはるかに寛大で子どもを無条件で愛しています。ある日息子や娘が自分は性同一性障害者だとカミングアウトしても少し驚きとまどった後、「自分の育て方が悪かったのか?」などと自責の念にかられこそ息子や娘を責めたりはしないでしょう。
そんな親心の優しさ寛大さの脆弱なポイントに毒の矢を放つ特殊詐欺には厳罰をもって臨むほかに効果的な対策はありません。騙される親を笑うなどもってのほか。他者を少しでも愛する人は必ず特殊詐欺のターゲットになります。私も含めて。

2015年7月29日水曜日

電気柵感電事件に思う


伊豆の山中で、不法に設置された動物避けの電気柵に触れて死傷した2組のご家族のニュースを聞いてあらためて電気の恐ろしさを見せつけられた思いがしました。
感電事故にあった家族はなぜあの場所に近づいたのか報道ではよく分かりません。そこで私の推測です。ひょっとすると川面に瀕死の魚が浮いていてその光景に子どもたちが興味をそそられ川に向かって突進したのではないか、そんな気がします。
なぜそんなことを想像するかと言えば、私が7,8歳の子どもだった昭和30年前後のことですが、近所のちょっと年かさのお兄さんたちが電気で小川の魚を捕っていたのを思い出すからです。
小川のそばで自転車の燈火用の発電機に電線をつないで電線の端を川の水の中に入れます。昔の自転車の発電機は後輪に取り付けられていたのでスタンドを立て、自転車にまたがって後輪を回して発電することができたのです。
ペダルをぶんぶんこぐと驚くなかれ、川面にフナや“ハエ”と呼んでいたスマートな小魚などがいっぱいプカーっと浮いてきます。そこを網で一気にすくい取るのです。
でも、これもあいまいな記憶ですが、こんな素朴な電気ショック式魚取りも子どもたちのあいだでは違法という共通認識があり、おおっぴらにやるのはまずい、お巡りさんに見つかったらただではすまないという戒めがあったような気がします。子どもたちはこうして電気は水中を流れフナやコイを殺す恐ろしい力があることを学んでいきました。
自転車の12ボルト程度の電気でも十分恐ろしいのに今回の違法事例ではトランスで400ボルト以上にも昇圧していたと報道されています。過失の大きさははかりしれません。 
夏休みに自然に触れようと山や海に出かける子どもたちは、美しい自然の中にもこんな理不尽なワナがいたるところに仕掛けられていることにもっと敏感にならなければなりません。浮いている魚の背後には農薬散布とか漏電などとにかく危険な背後があることを予想してほしいです。

ついでながら牧場などを訪れたときまちがっても電気柵におしっこをひっかけてはいけません。塩分を多く含んだおしっこを伝って高圧電流に直撃され、あられもないかっこうで失神します。(たぶん……)

走れ、トンカツ隊員


先日テレビ朝日系列でやっていた「世界警察捜査網」というドキュメンタリー番組を見て久々に笑い転げました。新宿歌舞伎町や大阪ミナミの治安維持に活躍する警察ドキュメンタリーの延長線上の番組のようですが、日本ではとかく“正義対悪”という平板な展開になります。ところが韓国の警察は違いました。
まず体重120キロの巨漢警察官はみずからを「トンカツ隊員」と称して大活躍。不審者がドアを激しくたたく音におびえた若い女性のせっぱ詰まった助けを求める電話にトンカツ隊員たちは女性のマンションに駆けつけます。頑丈なドアの取っ手は無惨に引きちぎられノックにも応答がありません。壊れたドアが開き、中に踏み込んだトンカツ隊員が目にしたものは?
 上半身裸で赤ん坊にミルクをあげている若い男の姿!?でした。「嫁が赤ん坊のめんどうをみないからオレがミルクをやってるんだ」。隣の部屋にいた妻に事情を聞くと、「夫が夜遅く酔っぱらって帰ってきたのでドアの鍵をかけて入らせないようにしたらドアを壊した」などと恐怖を語るのですが、これってお笑いかヤラセかと思うぐらい日本人の想像力を超越した展開です。夫を不審者といって警察に通報する妻も妻なら素手でドアノブを引きちぎって部屋に入って赤ちゃんに授乳する亭主にも驚かされます。
 タイの麻薬取り締まりで活躍するスッポン隊長。食らいついたらゴールデントライアングルの山奥まで麻薬密売グループを追いつめます。第一段階として町中の売人を逮捕。スッポン隊長は刑の軽減を餌に仕入先の男の情報を簡単に入手、捕獲した仕入先の男もあっさり元売りの居場所を白状。そしてジャングルのような山道の奥にある元売り一味のアジトを急襲します。アジトでくつろぐ3人の若い男たちはチンピラ。本命の親分はいずこに?

 子分たちが指さす先に親分発見! 親分はアジトの隣の畑で一人せっせと農作業に汗していました。この若いミャンマー人親分も簡単に逮捕され、スッポン隊長の麻薬取締り作戦はひとまず完了。「世界警察捜査網」はおおよそこんな感じのドキュメンタリーでした。日本も江戸時代までは井原西鶴が描写したようにおもしろい国だったのに、今は清く正しく、つまらない国に成り果てました。

新幹線内焼身自殺事件


 開業以来50年もの長い歳月を死亡事故なしで運行してきた日本の新幹線ですが、安全神話が文字通り神話でしかないことを痛感させられる事件が起きてしまいました。
1人の乗客が高速走行中の車内でガソリンを被って焼身自殺し、巻き添えになった女性が1人亡くなり、そのほかにも大勢の乗客が重軽傷を負い、また日本の大動脈が4時間近くマヒしてしまいました。
 この先、鉄道の安全をどのように担保していくのか、ワイドショーでは識者があれこれ問題点や諸外国の例を示して解説していますが、鉄道運行者にとっても乗客にとっても今後うっとうしい事態になることは仕方ないことかもしれません。
しかし中国で行われているような徹底したチェックは中国だからこそやれるシステムであって、過密スケジュールの新幹線ではとうてい無理であり、またテロや車内焼身自殺などという予想を超えた事態を抑止することはだれにもできません。
では、性善説にたった日本の新幹線に乗るときどうしたらいいのでしょう? 飛行機にも墜落時に前の席がいいとか後ろ寄りがいいとかの説がありますが、列車の場合は後ろの車両に乗車するのがいいのはあきらかです。これまでニュースで見てきた日本や外国の列車事故でもたいてい後方の車両は線路の上に留まっています。
 今回の事件で近くに乗り合わせた人の証言では焼身自殺した人の身なりや挙動は相当不審なものがあったようです。ところが現在の日本の風潮では近くの人がいくら不審に思えても見知らぬ人に話かけたり問い詰めることはできません。
他人に「あなた、ポリタンクなんか下げて不審ですね。いったい何を企んでいるのですか?」などと声をかけてはなりません。まちがいなく倍返しされて警察ざたになります。
 こういう場合はそっと逃げること。今回のケースでも指定席のある4号車まで逃げていれば相当安全度が高まったはず。もちろん千回に1回も「逃げた甲斐があった」ということにはならないし、家族からは不安神経症だとバカにされるでしょうが。

 我々シニアにとっていちばんいいのは東京往復なら新幹線より安く、いつでも使えるシニア割で飛行機に乗るのが一番。セキュリティ対策だけはばっちりです。

「その男ゾルバ」


1964年に公開された映画「その男ゾルバ」の英語タイトルは“Zorba the Greek”(ギリシャ人ゾルバ)となっています。封切り当時私は高校生だったので受験勉強が忙しく話題の名作を見逃してしまいました。
こうした心に引っかかったままの映画が今ではDVDとなりクリックひとつでたちまち自宅に届けられる夢のような時代になりました。「その男ゾルバ」の神髄は、すべてを失い何もかもうまくいかず絶望の淵に立たされたときなお軽快なリズムでステップを踏む……その男ゾルバすなわちギリシャ人の強さ、とでもいいましょうか。
2015年の夏、ギリシャという国そのものが破綻の淵に立ちヨーロッパだけでなく世界中を不安におとしいれています。しかし当事者の中でもキーパーソンのチプラス首相は、苦虫をかみつぶしたような不機嫌なドイツのメルケル首相などとは対照的に満面の笑みをたたえています。
チプラス政権を支えているのはEUが押しつけようとしている緊縮財政案にNoを突きつけた民衆の人生観そのもの。有権者の6割はゾルバのように浜辺で歌って踊ってことの成り行きを他人事のように眺めています。
「その男ゾルバ」の中でとても印象的なシーンがあります。島の小さな村。ゾルバと懇ろになった老マダム(フランス人で元娼婦、今は村でホテルを経営)が死の床についています。すると村中の年寄りがマダムのホテルの回りに集まってマダムの死をいまかいまかと待っています。
そしてマダムが息を引き取った瞬間雪崩を打って家の中に押し入りありとあらゆる家具、什器、金目のものからガラクタまで一切合切略奪していきます。それが村の風習であり貧乏な村人が生き延びていく知恵なのです。歯が全部抜けた老婆が戦利品を抱えて満足げに微笑んでいる……それがマダムへの供養なのでしょう。

 今日、ギリシャは第2次大戦中にナチスドイツから受けた被害に対する戦時賠償金として36兆円支払うよう要求しています。ドイツは「バカげた話」と一蹴していますが、対応を誤ると島の老婆のようなギリシャの民衆パワーの恐ろしさを思い知らされることになるかもしれません。いったいだれがギリシャの負債問題に片を付けるのでしょう。

15年ぶりの株高


集団的自衛権をめぐって憲法の条文を無視した安倍さんの強引な政治手法に国民のあいだで不支持が拡がっています。これにひきかえ、政権発足当時はなばなしく打ち上げていたアベノミクスという言葉ですが、それをあまり聞かなくなったこのごろ株価は順調に上昇し日経平均は21,000円に近づいています。
ギリシャ情勢が一服し、日中、日韓関係も安倍さんの粘り強さが功を奏して何とか対話できる状況が生まれてきつつあり、また円安も手伝って海外から資金が流入しやすくなっているようです。一方景気の過熱感はなく消費支出は抑えられたままで、結局お金の行き場は株式市場しかないということなのかもしれません。
こんなけっこうな時代にありながら、学生時代から一貫して株を買うのを趣味としている私なのに、自分のポートフォリオを眺めてみるとつくづく株はあまのじゃくという気がします。「買えば下がる、売れば上がる」。これが長い投資歴を通じて学んだ株の本質のすべてです。
ところで中高年男性をターゲットにした「シアリス」という保険適用外のありがたいお薬があります。いっとき社会現象として話題になったバイ○○ラの仲間ですが、シアリスの方は昨年4月、前立腺肥大症患者向けにザルティアという薬剤名で保険適用になりました。薬品名が異なるのは用途によって薬価が全然違うからで薬剤の成分は同じです。
私はピンときました。この薬の発売元である日本新薬は“買い”であると。ほとんどの高齢男性が罹る前立腺肥大症治療薬として先発の薬に見られるある種困った副作用がないのは朗報。そして世の中には高価なシアリスの代わりに保険適用のザルティアを求めるけしからぬ輩が多いだろうと予想されます。(ただし専門医による前立腺肥大症の確定診断がないと保険がきかない。硝酸剤との併用禁止)
結果、2013年の初めにはそれまで1,000円だった日本新薬の株価は2014年には2,000円に、そして現在4,000円前後になっています。私なりの戦略的見通しどおりに株価は上がりました。
でも私は上がり続けるチャートをこの2年、毎日苦々しく追ってきました。そしてかみしめています。

「買ってない株は1円の損も利益ももたらさない」と。

2015年6月15日月曜日

機内の出来事

 2ヶ月ぶりに友人を誘って上海までぶらり旅に出かけてきています。昨日は、友人は大阪から早朝の高速バスで高松まで駆けつけたというのに、出発時刻になっても国際線のセキュリティチェックの入り口は閉められたまま。やっとアナウンスがあり、上海が悪天候のため折り返し便の飛行機はまだ上海を離陸していないと言います。結局2時間遅れで機内に入れたときにはもう午後4時近くになっていました。

前から2列目に着座した我々の2つ後ろの席から突然幼児の「飛行機怖いよう、飛行機イヤだ、降りる」という絶叫が機内に響き渡り始めました。何となく病的な怖がりように春秋航空のCA が若いお母さんと大暴れする幼児を空いていた最前列シートに誘導しました。

すると幼児は落ち着いてきました。しかし、飛行機はいぜんとしてスポットに留まったまま。中国人客でほぼ満席の 機内ではトイレに行く人、上海での乗り継ぎ便に間に合わないと集団でCA にけたたましく詰め寄る人々で騒然。そんなとき、我々の前の席のお母さんが女性CA を呼び付けました。

うちらは元々29列目にいたのに子供が怖がるので4列目の人と席を代わってもらった。しかし今は4列目が空いたので29列目の人にその事を伝えてほしい」と言っているのです。中国人スタッフはお母さんの話がよくのみ込めない様子。するとキャリアウーマン風の中国人女性が通訳をかってでてCA に説明。CA は「?」の表情です。

CA たちは総出で出発が遅れていることを責めたてる中国人乗客の対応に四苦八苦しているというのに、お母さんはまた男性CA を呼んで席がどうのこうのとやりはじめました。
男性CA:「29列目に移動されたいのですね?」
彼女:「全然私の言うことを理解しない。29列の人に4列目が空いたと……」

私はため息混じりに隣席の友人に「日本人的な気の使い方って日本人以外には通じないよね。そもそも29列目の人も席を代わったことなんか気にもしてないはずだし……」とささやいていたら、何とお母さんの耳は地獄耳。背もたれの隙間からこちらを振り向いてすごい形相で、しかし、同じことを言いはじめました。はっきり言ってビビりました。絡まれたらどうしよう!まだ飛行機は飛び立ちません。時間は長い。

友人がトイレに行こうと立ち上がったとき、前列のお母さんが友人に「29番の人に4列目が……と言ってほしい」と話しかけてきました。友人の対応はあっぱれでした。

友人:「知らない人に話しかけることなどできません!」
女性:「29番の人は私の知り合いですから」
友人:「あなたの知り合いかもしらないけど私には知らない人です」

自分の知り合いなら、そんなやっちもねえメッセージをなぜ自分で言いに行かないでCA や他の乗客を使おうとするのか意味不明です。幼児もすっかり落ち着いてご機嫌だったのに善意で母子を見守ろうとした周りのお客にとってはいささか後味の悪い出来事でした。(上海にて)

(機内の出来事という意味以上の内容は何もないエッセイです)
(2015年6月2日から5日まで滞在)

うま味


 中学生のとき理科の先生が我々生徒に質問しました。「味にはどんな種類がありますか?」「甘味、塩味、酸味、苦味」とクラスメートが次々答えました。そこで私の出番です。「先生、“うま味”があります」と。

先生は「うま味というのは甘味や酸味など基本的な味が組合わさったものであり、うま味などという独立した味があるわけではない」と説明されました。中学生の私は生意気にも「先生でも何でも知っているわけではない」と思ったものです。

もしうま味が甘味や酸味などの組み合わせで出せるのなら昆布や鰹節で出汁なんか取る必要などないではないか……。私は小学校時代にすでにグルタミンナトリウムを発見した池田菊苗博士(1864-1936)の伝記を何度も読んでいました。

博士は昆布のうま味成分に着目しそれが何なのか世界で初めて解明し(1907)、特許を取得、そして生まれたのが「味の素」でした。

今ではうま味はUMAMIとして世界で受け入れられています。代表的なうま味としては昆布やトマトに多く含まれるグルタミン酸、鰹節や煮干しに多いイノシン酸、シイタケのグアニル酸があります。最近まで知らなかったのですが、白菜にもグルタミン酸が多く含まれているそうです。

私は今まで白菜に対して偏見をもっていました。淡泊な食感の白菜って、キムチや白菜漬けなどにして食べる以外、見た目あまり栄養もなさそうだし、なぜ重要視されるのだろう?と。ところが湯豆腐やしゃぶしゃぶ、すき焼きに白菜を入れるのは料理にうま味を補う意味があったのですね!

さて、うま味のほかにも独立した味覚が存在しているはずですが食品科学の専門家もあまり取り上げない味覚に渋味(収斂味)があります。

日本では身近に渋柿という強烈に渋い果物があるので渋味を説明するのは簡単です。しかし「この柿はとても渋い」と言っても欧米人にはなかなか通じません。あるアメリカ人教師に“渋い”はastringentで通じるかと尋ねたら、それよりもmouth-puckeringの方がいいと言われました。なるほど! 口がへし曲がるという方が分かりやすいですね。

ところで、料理につきものの「アク」って成分は何なのでしょう?これも味同様、追求すれば奥が深そうです。

エゴマ油フィーバー


 テレビ番組で特定の商品が取り上げられるとスーパーの棚から消えてなくなるのは毎度のことです。最近ではココナツオイルやエゴマ油がブームになり売り切れ続出です。

一昔前には紅花、コーン油などリノール酸を主成分とした油がもてはやされたことがあります。しかし今ではリノール酸の大量摂取は慢性炎症性疾患を悪化させ、アレルギーの危険因子であり各種のガンを誘発すると散々な評価です。

ところがその弊害を抑制するのがα-リノレン酸であり、それを大量に含んでいるのがエゴマ油とアマニ油であり、その効果は老化防止、アルツハイマー病予防、はては皮膚のしわたるみまで予防するというふれこみで一気に人気が高まったというわけです。

私がエゴマという植物に初めて出会ったのは大阪の鶴橋にあるコリアンマーケットの店先でした。シソの葉っぱのようなものが輪ゴムで10枚ほど束ねられゴマとしょうゆの調味液に漬けられたものがどの店にもありました。このエゴマのしょうゆ漬けでご飯を食べるとほかにおかずがなくてもいくらでも食が進みます。

しょうゆと香ばしいゴマの香りにエゴマのさわやかな食感がとてもよくマッチします。大阪から岡山に帰ってきてからは手に入りにくいエゴマのしょうゆ漬けを自分で作ることにし、庭にエゴマの種をまきました。生育が早く姿は大葉によく似ていますがはるかに大ぶりで葉が手のひらサイズになったら摘み取り、調味液につけ込みます。簡単です。

さて縄文時代から日本で栽培されていたエゴマですが現在国内の産地は島根県など一部地域に限定されています。ネット通販サイトでは国産のエゴマ油は180ccの小瓶で2000円前後と非常に高価。それでも売り切れ続出です。

このことは意外なところに影響をもたらしたようです。韓国の新聞、中央日報によるとエゴマ油に日本特需が起きて輸出が100倍にも増えたとか。この記事を読んで初めてスーパーに並んでいるエゴマ油の原料が中国や韓国から輸入されたものだと知りました。

いまごろ中国や韓国ではエゴマの作付けを増やしていると想像されますが、秋に種が取れオイルになるころにはエゴマ油フィーバーも鎮火しているのではないでしょうか。

小さな日仏交流


 フランス南部の町ペルピニャンから少し山に入ったところに、アメリ・レ・バンという温泉保養地があります。その村には日本風のお墓があり建立から140年もの長い歳月を経てなお地元の人々の手によってていねいに守られています。

墓の主は野村小三郎(1855-1876)という岡山出身の陸軍の留学生です。小三郎は明治維新期の1870年、大阪の陸軍兵学寮からフランスに留学した10人の学生の一人でしたがパリで結核にかかり日本に帰ることなくわずか21歳で客死しました。

日本でも小三郎の存在を知る人は最近までほとんどいなかったのですが、2009年に出生地である岡山の郷土研究者たちと現地の人々とのあいだで「友の会」が結成されました。それ以後ブテさんというフランス側代表の方が2,3度岡山を訪ねてこられました。

今年もブテさん御一行様が2週間の予定で訪日され、連休最後の日に後楽園内で歓迎会を催しました。園内の茶畑のそばに“新殿”という東屋がありそこを借り切っての園遊会です。日本側の日笠会長先生は会をアカデミックで権威あるスタイルにしたいと望んでおられるようなのですが、園遊会に集まった人々は色々。フランス人4名を囲んで抹茶をふるまって下さったご婦人グループ、私の中学校時代の幼なじみの“女の子”たち、岡山大学の先生、取材に来た新聞社の記者などなどでした。

特に自己紹介や式辞とかの堅苦しいことはいっさいなく、肝心の会長先生が大幅に遅れて到着するハプニングもありとてもなごやかで居心地のいい日仏交流会になりました。

私の隣に座っていたアランというおじさんはペルピニャンで不動産屋をやっている陽気な方でした。そこへ向こうの方の席に座っていた幼なじみのみっちゃんがお茶を注ぎにやってきました。

私はみっちゃんをアランに紹介してこう言いました。「中学生時代、14歳の彼女がいかに美しかったことか!」と。アランは間髪入れず言いました。「それは去年のことに違いない!」還暦をとうに過ぎた我々には過分なお言葉ですが、心の中だけは14,5歳のままです。

美しい初夏の午後、野村小三郎を通して遙かな異国の人間が遙かな歳月を超えて悠久の庭園で集うことができました。メルシー・ボークー。

2015年4月25日土曜日

アジアインフラ投資銀行

 中国が提唱するアジアインフラ投資銀行(AIIB)に日本が創立メンバーとして加わるべきかどうかいろいろ議論を呼びましたが、政府は参加を見送りました。現時点ではきわめて賢明な判断だったと思います。

私はAIIB設立の話を聞いて一番に連想したのは「新銀行東京」の存在です。日本の金融業界がバブル崩壊後、巨額の不良資産を抱えてボロボロだった時代に東京都の石原知事が旗を振って2005年に開業した銀行です。もうとっくの昔に潰れたものと思っていたのですがこのコラムを書くのに当たって調べてみたらまだ細々と存続しているようです。

ふつうの銀行なら絶対お金を貸さない物件に無担保、ほぼ無審査で融資を実行しわずか3年で1000億の累積赤字を抱え事実上の破綻に陥りました。都民のお金をドブに捨てたというのに石原知事はもちろん誰一人責任を取った人はいなかったように記憶しています。

AIIBは新銀行東京よりはるかに大きな問題を抱えていると思います。中国は日本が参加することを望んでいるようですが、その狙いはGDPに比例する巨額の出資金であることは言うまでもありません。そして使い道はアジアのインフラ整備と言っても勝算のない“中華帝国”再興の夢に寄り添うものに限定されることは火を見るよりあきらかです。貴重なお金がそんなことに使われる可能性がある正体不明の銀行に日本政府が同意しないのは、つい10数年前3メガバンクですら破綻するのではないかとヒヤヒヤした日本人にとって当たり前の話ではないでしょうか。

AIIB騒動のおかげで既存の世界銀行やアジア開発銀行が発展途上国の資金需要にちゃんと応えていない現実もあきらかになりました。日本が歴代総裁を送り出しているアジア開発銀行はAIIBに触発されてさっそくいままで融資審査に時間がかかっていたのを大幅に短縮する改革案をまとめました。世界銀行、IMFでも同じような改革がなされるのではないでしょうか。

中国が覇権・拡張主義ではなくアジア諸国の均衡ある発展に本気で取り組んでいることが確認されて初めてAIIBに参加しても決して乗り遅れなどにはなりません。アメリカのほかにも国際問題では良識ある政策をとることで定評あるカナダが不参加であることも心強い気がします。

健康2題、早歩きと食事習慣

最近健康に関するニュースでいいかも!と思ったことが二つあります。  

一つ目は脂肪肝の改善に関する話題。筑波大学の正田純一教授(消化器内科)らの研究チームは、脂肪肝は早歩き程度の少し強めの運動を毎日30分以上続けると大きく改善するという研究結果を発表しました。

歩くことが健康にいいという説は今までも耳にたこができるほど聞いてきましたが、今回の研究発表の真新しい点は“運動を続ければたとえ体重が減らなくても脂肪肝は改善する”と指摘したことです。

今まで私のウォーキングは肥満を解消することに主眼を置いていて、その成果のなさにすぐに歩くことを諦めていたのですが、目に見えなくても歩きさえすれば体の内部から健康が取り戻せるとは朗報です。

実際これまでも健康診断の前に1ヶ月ほどウォーキングをすると中性脂肪の値が激減することは自分自身経験してきたことなのですが今回の発表は我が意を得たりです。どこを歩くかなどといろいろ考える前にまず行動しよう。時は春、山桜が満開の今から梅雨までの今の季節がウォーキングには一番気持ちのいい時期です。

もう一つなるほどと思った話は何かと極端な健康法を実行しているとテレビや著書で公言している南雲吉則先生の「1日1食」主義です。先生自身、この習慣を確立するのには何十年もかかったと言っているので今の私にそんなことは到底無理。しかし先生いわく食事は「お腹がぐうぐう鳴りだしてから食べるべき」という話には説得力があります。

戦後の食糧難の時代だけでなく人類は何百万年前からつい最近までほとんどの時代を飢餓状態で生きてきました。いわばお腹がすいているのが正常かつ通常の状態でした。

死ぬほどの空腹に耐えながらも力をふりしぼって獲物を捕るためにがんばって生き残ったものだけが今も生き残っている現代人なのだから自分にも空腹に耐える能力は備わっているはず。まずはお腹がなるかどうか確認するまで食事は待ってみようと思います。

南雲先生は話のついでにエネルギー不足によって性生活はかえって強くなるとも言っています。なるほど梅でも桜でも枯れる前には狂ったように花がつきます。子孫を残す本能が働くからでしょう。

ペデストリアンデッキ


ペデストリアンデッキ

老朽化した岡山市民病院が5月7日山陽本線長瀬駅そばに移転新築オープンするそうです。救急患者を24時間受け入れてくれる病院が交通の便利がいい場所にできるのは心強いものです。しかし……。

オープンに先がけて市の広報誌とともに新病院の紹介パンフレットが配達されましたがパンフレットを読んでいて気になる言葉がありました。

「ペデストリアンデッキ」。生まれて初めて目にする言葉でびっくりしました。何のことかというと北長瀬駅と病院を結ぶ連絡橋のことでした。いったいなぜ病院の広報担当者はこんなこむずかしいカタカナ用語を年寄り相手の病院の紹介記事に使用するのか理解に苦しみます。

そもそも辞書に載っている単語なのかどうか最新の広辞苑を開いてみたら確かに見出し語にありました。しかしこの言葉はWikipediaによると和製英語とのことです。そこに掲載されている写真は何のことはない横断歩道橋そのものです。

連絡通路、歩道橋、陸橋(少し古いが)とちゃんとした日本語があり定着しているのにも関わらず市民病院の広報誌になぜこんなめくらましの言葉が必要なのでしょう?おそらく設計図か計画書に技術者がそんな言葉を書き込んでいたのをそのまま広報誌に使ったのでしょう。何となく新しくてすばらしいものができたと市民が感心してくれることを望んで。

その一方、同じ広報誌に診療科目の案内もありますが、そこには「標榜診療科」と記してあります。この「標榜」という言葉も病院関係者のお気に入りの言葉です。あえて標榜している科目があるということは実は陰でこっそり診察してくれる科もありますよ、という意味なのかと勘ぐりたくなりますが実際はただ単に慣習としてこんなこけおどしの漢語を使って病院の立ち位置をアピールしているだけのことです。

このパンフにはもう一つ重大な配慮に欠ける点があります。「二人主治医制」つまりかかりつけ医を持ち、市民病院にくる際はかかりつけ医に紹介状を「お願いしましょう」と書いています。では紹介状なしで受診したら特別の負担金を取られるのかどうか明記していません。病院に電話して確認したら「取る」とのことでした。市民目線に立たないパンフを採点すると65点ぐらいでしょう。

2015年3月29日日曜日

足立美術館

 ときおりたまらなく山陰の冬の曇り空を見たくなることがあります。3月初め、暖かい日が続きノーマルタイヤでもドライブできそうな日を見計らって足立美術館(島根県安来市)に行きました。

ちょうど京都画壇の両雄「竹内栖鳳と橋本関雪」展が始まったばかりでしたが早春の平日が幸いしてお客が少なく画廊も白砂青松の庭園も心ゆくまでゆっくり鑑賞できました。

いっぷう変わったこの美術館の運営方針というかお客に対する姿勢、サービス精神に創立者、足立全康(1899-1990)さんの気取らない人柄のよさを感じます。何としてもわざわざ見に来てくれた人に名画と庭園を心ゆくまで堪能してもらいたいという気持ちが伝わってきます。

まず第一に、展示替えの時期を除いて年中開館しています。多くの美術館が毎週1日休館日を設けているのと大違い。職員の接客態度にも“おもてなし”の気持ちがこもっていて好感がもてます。他の有名な国公私立の美術館の職員のように官僚臭く冷たい印象がありません。

さて自動改札機に入場券をかざして入館すると随所に全康さんの息吹を感じます。「この角度から庭園と借景の滝を見てください」と立ち位置まで示してくれます。おせっかいと分かっていてもどうしてもそこの場所から絶景を見て欲しいのですね(笑)。

びっくりするのは「生の額縁」とか「生の掛け軸」です。額縁や掛け軸の中にあるのは庭園そのもののガラス越し風景です。あえて“俗悪”な趣味丸出しを演出するところが全康さんのすごいところですが、私はこれはちょっとイタダケナイと思います。

というのも額縁の中の生の風景は当たり前ですが具象そのものだからです。人間の美意識によって再構成されていない生の風景は芸術とはいいがたい、そんな気がします。

館内には軽食が食べられるレストランと喫茶室があります。これがまた驚きで、飲み物は何でも1000円(喫茶室)、カレーは1200円と思い切った値段が付いています。愛嬌ですね。でも高いけど許せる気にさせるところがまたいいのです!

6月1日からは私が大好きな菱田春草の「梅猫」が展示されます。熊本県立美術館にある「黒き猫」とともに猫好きにはたまらない名画です。

見たくない光景


 このごろ暗いニュースが多く、思わずテレビチャンネルを変えてしまうことがよくあります。

川崎市で起きた中学1年生殺害事件は事件の様を垣間見るたびに心が折れていきます。「反省したフリ、俺はチョー得意」という18歳少年は今回の事件でも「心で話した。謝った」などと供述したそうです。社会はこうした悪の天才というべき犯罪者にどう立ち向かえばいいのでしょうか。

1999年に起きた光市母子殺害事件の犯人Aも被害者遺族をあざ笑い、死刑の判決が出そうになると今度は突飛な言い訳を始めて遺族をいっそう苦しめました。A少年の場合は最高裁で死刑が確定しましたが、今回の川崎の件で極刑判決がでることはないでしょう。

裁判員裁判で厳罰の判決が出ても高裁、最高裁のプロたちが“相場”を勘案して死刑を回避することが潮流になっています。また先進国の多くの国で死刑そのものが廃止されているなかで日本がいつまでも死刑制度を存続させていていいのかという考えもあります。

死刑制度があろうがなかろうが更正することが期待できない絶対悪のような犯罪者はいつの世のなかにもいます。こんな社会で殺された中学生の魂に報いる方法は、同様な少年事件が起きることを未然に防ぐことしかないと思いますがそれは絶望的なくらい困難なことです。

「イスラム国」(IS)による古代文明の遺跡破壊行為の映像も見たくない光景のひとつです。イスラム教は偶像崇拝を禁止しているという単純な理由で文化財をこっぱみじんに破壊しています。文明の黎明期から何千年もの間人類が大切に守ってきた遺跡や文化財を壊してしまうことにISの連中は畏れといった感情、感覚を持ち合わせていないのでしょうか。

日本でも明治維新のとき廃仏毀釈運動によって多数の寺院や仏像が破壊され、多くの仏像などが美術品として国外に流出してしまいました。ボストン美術館の日本部門を訪れたらそのコレクションのすばらしさに感嘆しますが、いずれも日本が自国の文化財に対する価値観を見失ったときに流出したものばかりです。

イラクやシリアの遺跡破壊を防ぐことができないところに人類の知恵の限界があります。後で嘆いてももはや取り返しはつきません。

2015年3月4日水曜日

老成


 子ども時代。毎日学校へ通い、宿題をやり、夏休みは目一杯外で遊んでいました。そうした日常生活において時間や空間は確固としたものであり、目にするもの手に触れるものはすべてリアルそのものでした。例外は夜中に見る夢ぐらいのもので、ちゃんと目が覚めたら現実の世界にすぐ引き戻されました。

 ところが最近よく奇妙な感覚に捕らわれるようになりました。旅先で初めて訪れた場所に立ったとき、「ここは昔来たことがある」、「この絵は初めて見ているのに、以前にも見たことがあり、更に以前にも見たことがあると感じた、と感じた……」と際限なく思うことがときどきあります。

 心理学でいうところの既視感(デジャヴュ)でこの用語自体は日常的にもよくお目にかかります。逆に実際は見聞きして知っているはずのことを生まれて初めて経験することのように感じてしまうことを未視感(ジャメヴュ)といいますが、こちらはデジャヴュほど使われません。見慣れたことを忘れるのはふつうにある現象ですし、年を取れば自然に物忘れするようになりますから。

 私がこのごろ感じるようになった奇妙な感覚はデジャヴュ系統のほかに、現実のなかにありながら現実感が希薄に感じられる種類のものもあります。心理学でいう離人症に近いような気がします。

たとえば、牛窓のてれやカフェで店主のヒロシ君がいれてくれるコーヒーを確かに飲んでいるのに現実感が完璧ではないのです。20パーセントぐらいは“他人事”のような変な感じ。もっともちゃんとコーヒーの代金を払って帰るので現実の行動であることは確かなのですが。

さまざまな現実感を喪失していく精神現象が人生の早い時期から強く出現したら病気という範疇に入れられてしまうところですが、退職年金をもらうような年齢になるともはやこれは病気ではなく加齢にともなう衰え、はっきり言えばボケの初期現象として誰も気にとめません。

むしろ肉体と魂の強固な結びつきが緩んでくることはある意味“老成”と評価されます。でも魂が本格的に肉体から離れてフラフラどこかへ遊びに行ってしまうようになるとこれは困ります。精神が肉体から適度に自由になってきた今が人生で一番楽しい時期かもしれません。

小さな旅


 
 在宅で介護している母が1週間の予定で入院することになり、母には申し訳ないけれどパッと旅に飛び出し、大満足で帰ってきたところです。主な行き先は新潟の加茂という町で母方の墓所があります。

 土曜日午後。新幹線で大阪に行き、大阪の友人を呼び出して夕飯を食べ、夜の9時半発の夜行バスで新潟へ向かいました。早朝、バスは新潟のバスセンターに到着。雪景色かと思ってバスを降りたのですが雪はまったく見あたらず暖かでした。

 日曜日。新潟に住んでいる母の甥(と言ってももう80歳ですが)といっしょに加茂まで電車で行き念願の墓参りができました。母の両親は母が結婚する前にすでに亡くなっていたので私は会ったことがないのですが墓石に花を手向けながら「母を迎えにくるのはいましばらく待って欲しい」とお願いしてきました。

 墓参りを終えて新潟市に戻った私は一人で日本海に面した海辺に行ってみました。横田めぐみさんが北朝鮮に拉致されたのはこんな場所だったのかと思うとおだやかな日本海がとても悲しく思えました。

 月曜日。新潟からJR磐越西線の快速列車に乗り会津若松に向かいました。平野に雪はなかったのに山が見えてくるとすぐに雪景色に変わり何だかテンションが高まります。喜多方でラーメンを食べる訳でなく会津若松の観光をするのでもなく、すぐに会津鉄道に乗り換えました。行き先は東京の浅草です。雪山の絶景の中をローカル鉄道のディーゼルカーがゆっくり進んでいきます。

 途中の駅からディーゼルカーから電車に替わりややスピードアップしながら東武日光線を経て埼玉県へ。草加市で途中下車しました。東京で学生生活をともにした古い友人と久しぶりに会って駅前の喫茶店で近況報告をしました。二十歳の輝ける若者だったのに今やお互い60代も半ば。感無量、言うことなし。東京泊。

 火曜日。旅の疲れかホテルで朝寝坊。学生時代によく行った喫茶店ルノアールでモーニングを食べ、羽田空港に向かいました。旅も終わりかと思ったらまだドラマがありました。同じ飛行機に中学校時代のクラスメートの女性が乗っていたのです。がら空きだったので席を移り、思わぬ場所でミニ同窓会ができました。

小さな旅は終わりましたが、人生の旅はまだまだ途中です。

2月大旅行

2017年2月は大旅行の1ヶ月になりました。
2月5日から2月10日まで、中国・上海、杭州
2月21日 岡山(新幹線)→大阪(高速バス)→新潟へ
2月22日 新潟→加茂、母方祖父母墓参り、新潟護国神社、新潟泊
2月23日 新潟(磐越西線)→会津若松→会津鉄道→東京泊
2月24日 東京(JAL)→岡山
2月26日 岡山(山陽道)→熊本
2月27日 熊本、通潤橋、高千穂峡、竹田、岡城城址、大分
2月28日 大分→佐賀関(九四フェリー)→三崎港→松山→岡山
3月 2日 岡山(山陽道)→尾道(尾道松江道路)→松江、安来、足立美術館
       米子道、中国道、岡山道

3月 3日 沖縄から組原君来岡
3月 4日 組原君と岡山県立美術館、曹源寺
  

2015年2月19日木曜日

日本上げ番組

  このごろ何気なくテレビのチャンネルを変えていて「日本はスゴい!」といったたぐいの番組にお目にかからない日がありません。最初のころは外国人が日本の美しい景色を絶賛したり、旅館のおもてなしに感激したり、落とした財布がちゃんと返ってきたと言っては日本の民度の高さは恐ろしい!などと感嘆するのを聞いてこちらもいい気になっていました。

しかしこの度を超した日本ヨイショ番組の洪水はどうしたことでしょう。確かに番組はウソもやらせも誇張もなしに真実を伝えているし、中国などに2,3日滞在すればいかに日本のサービスがきめ細やかで徹底しているか痛感するのも事実です。

でも私は中国人が道ばたでも地下鉄車内でも大声を張り上げ、釣り銭は投げてよこし、ホテルのチェックイン、チェックアウト時ににこりともしない服務員の態度もきらいじゃありません。すべてが単刀直入。こちらが何かを要求したり不満を述べるのに何の遠慮もいりません。道を歩いていれば空気が悪いせいもあって小粒の牡蛎のような痰がでそうになります。そんなとき中国人のように勢いよく「ペッ」と道路脇の植え込みめがけて痰を吐き出す快楽!(良い子は決して真似しないように)

人々は共産党独裁政府のいいなりにならず公序良俗などくそ食らえ、交通当局が推奨する「文明乗車」(整列乗車)もなんのその。常に乗る客と降りる客のぶつかり合い。風流だの情緒より金、金、金。実に単純で分かりやすく隠微なストレスにさいなまれることはありません。

日本のテレビ局がたくみに演出する気配りのニッポン。でも私はときどき窒息しそうになります。不仲な兄一家との軋轢、町内会の仕事、ゴミステーションに目を光らす近所のおばはん。長年在宅で介護している母に異変が生じて病院に連れていきたくても素直に同意してくれない訪問診療医との戦い(メンツをつぶされるとでも思うのか?)。

ある外国人が首をひねっていました。昼過ぎに宿に着いたが部屋の用意はできているのに“チェックインは3時から”の一点張りには閉口したと。万事きめ細かなマニュアルに支配され、本当の意志疎通を拒否しがちな日本。それはニッポン、スゴイの裏返しの窮屈で偏狭な我がニッポンの素顔なのです。

背筋が寒くなるお話

「イスラム国」によるテロ(というより宣戦布告なき戦争)に世界中がぴりぴりしているさなか、私はただいま上海に来ています。地下鉄駅に制服警官が配置されセキュリティチェックがきびしくなっているくらいしか緊張感が目につくことはありません。

地下鉄の改札口で手荷物のエックス線検査があることは前回もご紹介しましたが、庶民も負けてはいません。とりわけ若い女性は強いと感心するのは、背中にリュックサックを背負った若い女性が係員の指示を断固拒否してエックス線検査を受けずに強行突破するところを一度ならず目撃しました。(岡山弁:おなごはしぶてえ!)

まあ、検査する係員も客足が絶えるとスマホでゲームに熱中しているのですからいい勝負です。庶民の我(が)が強く万事融通がきくのがこの国のいいところであると思います。日本人は何事につけ一生懸命過ぎて息苦しくなるのではないでしょうか。

セキュリティ対策といっても目に見えるものはこの程度ですが、目に見えない対策こそ本命で、私もこのたび背筋が寒くなる体験をしました。

中学校の同期の連絡と親睦をかねて昔からML(メーリングリスト)を作って意見交流しています。今回の上海滞在中にもいろいろ見聞きしたことをMLに投稿していたのですが、ある瞬間を境にメールがブロックされるようになりました。メンバーの一人が投稿した内容に1980年代最後のころ北京で起きた○○○事件の5文字があり、そこにフィルターが反応したようなのです。

それからというものメールを送って「送信済み」になっても相手に配送されません。聞くところによると就職難にあえぐ理工系学生を数万人雇ってネットの監視をしているとか。コンピュータがはじき出した○○○事件は特に中国政府が神経をとがらせているイシューなのです。

私が出したメールは24時間もかかって相手に届きました。日本語を読んで解析するのに手間がかかるのでしょう。そこで私は次からメールの冒頭に以下のように書き添えました。「当局の皆様、お仕事ご苦労さまです。私は監視される値打ちもございません。検閲は速やかにお願いいたします」 その甲斐がありました。このメール以降瞬時に日本に届くようになりました。

2015年2月4日水曜日

テロと日本の安全

 「イスラム国」による日本人人質事件は最悪の結果になりました。かつて大騒動になったイラク人質事件(2004)のときは“自己責任”論が政府サイドから発せられ、またマスコミを通じて評論家たちが声高に3人の人格や行動を糾弾したものです。

救出に要した費用を負担すべきだとか帰国便の航空運賃を払えなどと涙が出そうなくらいみみっちい議論がまかり通っていました。ところがイラクの混乱を引き起こした当事国であるアメリカのパウエル国務長官が「より大きな、よりよい目的のためにリスクを取る若者が日本にいることを日本は誇りに思わなければならない」と発言して急にバッシングの嵐が収まりました。

当時に比べると今回は自己責任論がほとんど出なかったのは、安倍首相が「邦人保護は国の義務」、「移動の自由は憲法が保証している」と明言したのもひとつの理由でしょう。しかし後藤健二さんのこれまでの業績が伝えられるにつれ、誰も後藤さんの行動を非難できない、日本にとっても世界にとってもかけがえのない人を失ったという思いを我々が共有しているからだと思います。

事件は一応の終結を迎えたのですが、やっかいなことにイスラム国は日本をテロの標的にすると公然と宣言しました。

お隣の中国はさまざまな理由で常にテロの危険をはらんでいます。地下鉄の改札口では荷物はすべてエックス線装置に通さなければなりません。長距離列車はまるで空港で飛行機に搭乗するような手順のセキュリティ対策が徹底されています。

今回の事件を受けて政府は入国審査の強化や重要施設の警備強化を打ち出していますが、そのうち新幹線に乗るにも中国並のセキュリティ警戒レベルが設定されるのではないかと危惧しています。もしそうなったら現在のように5分おきに新幹線を発車させることは不可能になります。

交通機関だけでなくあらゆる日常生活の場面でセキュリティに関わるコストが増大することはもはや避けられない時代に突入したのかもしれません。ほんの40年ほど前まで飛行機に乗るのに何のチェックもありませんでした。もうそんな時代は夢のまた夢ですが、今でも世界でもっとも安全な国である日本がこの先いつまでも日本人にとっても旅行者にとってもほっとできるいい国であることを願わずにはいられません。

震災20年(下)


 阪神淡路大震災のころのことを振り返ってみて、当時決定的に欠落していたのは正確な情報の把握と情報伝達システムだったと思います。

昔から「関西では巨大地震は起きない」という神話がまかり通っていて住民はもちろん行政当局も直下型地震を想定していませんでした。地震のあと専門家達がこぞって「阪神間に大きな活断層があることは地質学の常識だ」などとしたり顔で解説していて本当に腹がたちました。

今の若い人達には信じられないことでしょうがたった20年前の日本には携帯電話もインターネットもなかったのです。地震の発生が東京の首相官邸に伝わり政府が動き出したのは地震が起きてから数時間も経過してからでした。

それでも当時、日本を含め欧米先進国の大学や大企業にはインターネットの先駆けとなっていたコンピュータ・ネットワークがあり研究者は自由に情報をやりとりしていました。マスコミの報道からはよく分からない神戸の最新の情報はこのネットを経由して全世界に伝えられました。

ネットには掲示板があり、「神戸の親戚と連絡が取れない。マンションもすべて倒壊しているのか?」などという切実な質問が多数ありました。私は自分の目で見た被害の概観を短くまとめて発信しました。「神戸が消えてなくなった訳ではない。倒壊した家屋の多くは老朽木造建築であり、新築家屋や高層マンションは基本的には無事である」と報じました。この報告はすぐにネットで共有され多くの人から感謝されました。

2015年の現在、情報処理、伝達の仕組みは神戸当時とは比較にならないぐらい進化をとげています。しかし2011年東北大震災とともに発生した福島原発事故ではせっかくの情報が住民の避難に適切に活用されませんでした。

避難地域をコンパスで描いた同心円で区別し半径10キロ、20キロというぐあいに避難勧告や立入禁止措置を定めていました。放射能の影響が原発から同心円で拡散することはありえません。原発から西北方面に位置する双葉町、浪江町、飯館村方向に積算被爆量が甚大であったことは当初からSPEEDIや外国の研究機関の報告から明白だったのにずっと後まで行政は同心円で対応していました。肝心の情報を小出しにしかしない不幸な情報大国日本です。

震災20年(中)


 神戸がまさに壊滅状態になったその日、無謀にも車で神戸に出かけ、姪の無事を確かめて直ぐさま大阪へ引き返すことにしました。

姪のマンションのすぐ近くで火災が起きていました。消防車が1台来て2階建ての家に放水しています。プールや防火用水から水を取っているのですが水はすぐ底をつきます。すると火勢が以前にも増して強くなり到底鎮火するとは思えません。

不思議な光景でした。ふつう火事と言えば野次馬が集まりぼやでも消防車が何台も駆けつけ大騒ぎになります。今まさに目の前で住宅がはげしく燃えているのにそんなものを見ている人はいません。私ひとりがじっと火の手が勢いを増す様子を観察していたら、消火活動をしていた若い消防士が私に声をかけてきました。

火事場見物していないですぐに立ち去るよう言われるだろうと予想していたのですが消防士の言葉はまったく意外でした。

「消防車の中にパンと水があるからどうぞ」

おそらく、絶望的な様子で火事を見ていた私のことをその家の住人だと思いねぎらいの言葉をかけてくれたのでしょう。恥ずかしさで真っ赤になりながらも感動しました。この状況の中でなおも人を思いやる優しさを失わない消防士。静寂のなか執拗に燃え上がる火を前にしてなすすべもない消防士の絶望が彼の優しさに姿を変えていたのでしょう。

パンをもらう資格などない私は再び車のエンジンをかけ大阪に向かいました。ところが国道43号線の真上にあった阪神高速道路は倒壊し、43号線も通れません。すべての車が2号線に押し寄せ1時間に100メートルぐらいしか進まない状態が大阪までずっと続きました。

動かない車から外を見ていたら、傾斜したまま踏ん張っていた4階建てのビルが余震とともに突然めりめりと倒壊しました。路面は盛り上がりめくれたアスファルトに車の腹が当たります。ふだん大阪まで車で30分で着く距離を結局10時間かけてたどり着きました。

大阪の光景を見て再び目を疑いました。神戸の惨状がうそみたいに何もかもふつうに機能していました。電車が走り、食堂が営業し、パチンコ屋だって明かりがこうこうと。直下型地震の恐ろしさ、不公平な仕打ちには愕然としました。(続く)

震災20年(上)

 1995年1月17日午前546分、大阪の淀川べりに立つ30階建てのマンションが突然ギシギシと激しく揺れました。あまりの激しい揺れに私はマンションの上層部がぽっきり折れて今にも建物全体が崩壊するのではないかと本気で心配しました。

すぐにテレビをつけたのですが、震源は淀川上流の京都というニュースが流れていました。地震の規模が大きすぎて本当の震源地のデータが伝わらなかったのです。

窓の外を見るとようやく白みかけた神戸・六甲山方向に黒煙が立ち上り、そのうちテレビに倒壊した阪神高速道路のすさまじい光景が写し出されました。これが地獄の年月の始まりの日の最初の記憶です。京都・大阪方面から何機ものヘリコプターがどんよりした空のもと神戸方向に飛んで行くのが窓から見えます。

とっさに神戸の女子大に通っていた姪の安否が気遣われました。学生マンションが倒壊して下敷きになっているのではないか?無事であるにしても水や食料がなく困っているのではないか?などと心配になり、私は食べ物や水を車に積み込んで神戸に向かいました。

国道2号線では救急車、消防車に混じって自家用車や商用車、トラックなど何の規制を受けることもなくふつうに走っていました。ただ異様な光景として今でも目に焼き付いているのは2号線を大阪方面に向かって黙々と歩いているおびただしい人々の群です。

姪が住んでいる東灘区に近づくにつれ建物が倒れているだけでなくあちこちで火災が発生しています。そのすぐそばを通り抜けながら姪のマンションに3時間がかりで到着し、部屋をノックしました。姪の返事があり部屋から顔を出しました。そしてびっくり仰天。テレビが吹っ飛び、家具や本、食器が散乱した修羅場に何と男子学生の姿があるではありませんか。ボーイフレンドがちゃんと駆けつけていたのです。

「何だ、心配して大阪から駆けつけることもなかった。お邪魔しました。水と食料はここに置いておくから」と言ってすぐに大阪へ帰ることにしました。ところが帰路は信じがたい渋滞です。当時はまだ救急車両優先の考えもなく、私自身車で出かけたことを反省もせず、いつになったら大阪に着くのだろうと自分のことばかり考えていました。(続く)

2015年1月11日日曜日

真冬の桃「冬桃がたり」


ドイツを代表する詩人であり文豪のゲーテ(1749-1832)の作品に「詩と真実」という自伝があります。この本を読んだのは中学生のころだったので50年以上昔のことでどんな話が書かれていたか、もうほとんど記憶にありません。しかし一カ所だけ鮮明に覚えているのはゲーテが生まれて初めてパイナップルを食べたときの驚きを述べた部分です。

生物学の教授が若きゲーテたち学生を前に「これがパイナップルという果物だ」と示して一切れずつ学生に食べさせてくれたときの驚きと感動を記しています。ゲーテに限らず人はいつの時代にも異国の果物、季節外れの果物に憧憬を抱いてきました。

ゲーテのパイナップル試食から250年が過ぎ、生鮮食品の物流システムと技術が確立した今日では、スーパーの果物売場にはありとあらゆる果物が並んでいます。しかしただ一つ桃だけは10月から5月まで姿を見せません。9月の黄金桃を最後に初夏の早生種が出回るまで桃好きの私は寂しく感じていました。

ところが昨年晩秋になって朗報が新聞やテレビからもたらされました。ついに岡山において冬場成熟する桃の出荷が始まったというのです。その名も「冬桃がたり」。ちょっと舌をかみそうなネーミングながら期待でわくわくします。真冬に新鮮な桃が食べられるというのは果物好きの人々にとって長年の悲願でした。出荷量が少ないのでデパートにでも行かないと手に入らないかなと思っていたら近所のスーパーにも出現しました。こぶりな桃で2個入り1000円ぐらい。高めですが妥当な線です。

肝心の味はというと真夏の清水白桃には遠く及びませんが一応桃の味はしました。まだまだ改良の余地があるなというのが率直な印象でした。開発担当の方々や栽培農家のみなさまのいっそうの奮闘に期待します。

ところでヨーロッパの冬の果物店にはオレンジやリンゴに混じって南半球産の桃やサクランボ、スモモなどがリーゾナブルな価格で売られていてうらやましく思います。おいしい果物に国境はないはずですが、その点日本は国産にこだわり過ぎているのではないでしょうか。

冬場にニュージーランドやオーストラリア産の芳醇な日本種の桃が食べられることも一つの選択枝であると思います。