2016年2月15日月曜日

大寒波襲来

ずいぶん暖かい冬だと思っていたら突然の大寒波襲来でした。岡山市がマイナス5度近くまで冷え込んだことは70年近い人生のなかでも記憶にありません。とはいえこれまでもひと冬に何度か氷が張ることはあったのでマイナス5度程度なら大したことはないとタカをくくっていたら思わぬことが起きました。
朝、冷たい水道水は出るのにお湯がでないのです。どうやら給湯器からの配管が途中で凍ったようです。ふだんならこんな日は朝寝坊に限ります。これこそ退職後のスローライフの醍醐味!のはずですが、運の悪いことに3ヶ月も前からこの日は胃の内視鏡検査の予定が入っていて朝8時半には病院に到着していなければならなかったのです。
 2年に一度のいちばんいやな検査の日と100年ぶりの寒さが見事に重なり気分は最悪でしたが、何とか検査にも耐え、体にも異変はなくほっとして家に帰りました。翌日も冷え込むとの天気予報に遅ればせながら庭の植物を寒さから守る対策を始めました。
 中でも寒さに弱いのが柑橘類です。鉢植えのレモンとライムの木があるのですが、このところの寒波で急に葉っぱから光沢が消えてしまいました。このまま寒さに当てると落葉し、やがて枯死してしまうので家の中に取り込むことにし、植木鉢の表面にはびこっていた草を引き抜いていたら何やらもぞもぞ動くのでびっくり。アマガエルが植木鉢の中で冬眠していたのです。「起こしてごめん」。
 土をやわらかくし、そっとアマガエルを2センチメートルほどの深さに埋め戻してやったのですが、だいじょうぶかどうか心配です。息はできるのだろうか?カエルは冬眠中、体の表面に粘膜のようなものを張って体を保護しているのではないか?などと気にはなったのですが、野生のカエルの生命力を信頼するしかありません。
 他にも植木鉢のライムの樹上で越冬している生き物がいました。アゲハのさなぎです。体を糸で木の枝にしばって支えています。鉢の土の中にはミミズもいるでしょう。葉っぱにはカイガラムシも寄生しています。

 ノアの箱船よろしく幾多の生命を宿した植木鉢ですが寒波からの緊急避難は2,3日で終わりです。春が来た、と勘違いして目覚めても冬の室内に彼らの食料はありませんから。

スキーバス事故

  軽井沢近くの国道で起きたスキーバス事故は目を覆うような悲惨な結果をもたらしました。就職も決まり春からそれぞれ希望の分野で活躍しようとしていた学生たちが何故こんな不条理な死に方をしなければならなかったのか、残された家族の無念の思いはいかばかりかと思います。
 「格安バスツァーに参加したばっかりに……」というのがどの遺族にも共通した悔恨ではないでしょうか。なぜ大学生ばかりが犠牲者になったかというと大学の生協にはこうした格安旅行のパンフがいっぱい置いてあるからです。サークルやゼミ仲間がこうした粗悪な旅行商品に飛びつくのはごく自然なことです。
 私も大阪の大学で働いていたとき同僚や学生たちと計5人で生協が取り扱っている格安スキーツァーに参加したことがあります。バスは事故も起こさず新潟県赤倉温泉スキー場まで連れていってくれましたが宿が酷かった。
大きなホテルなのに部屋には石油ファンヒーターしかなく3時間経過すると火が消えます。3時間ごとに「起きてスイッチを入れてくれ!」と凍える寒さの中でお互いにけっとばしながら悶々。しかしそのうちタンクが空になり、フロントに電話。フロントは「こんな真夜中に言われても……」と応じない。あやうく室内凍死するところでした。
 スキー旅行の楽しさを学生にも教えてやろうと企画したツァーだったのに散々な目にあい怒りが収まりません。生協に文句を言ったら、クレームは主催旅行社に言えといいます。そのとき初めて旅行主任やら知事認可、国交省大臣認可などの制度があること、パンフを通り一遍見ただけでは分からない条件等があることも学びました。
 結局、海千山千の旅行社相手に粘った甲斐があって一人5千円ずつ取り戻しましたが、生協には二度とこんな旅行商品は置かないよう申し入れたのは言うまでもありません。

 今回の事故の犠牲者、早大女子学生の母親は取り乱すことなく気丈にも「学生が親への配慮から格安のツァーを選ぶのは自然なこと」(産経ニュース)と言っていました。しかし格安にも限度があります。今回、法令違反を繰り返しているような劣悪な会社の旅行商品を大学生協が扱っていたとしたら、大学生協の責任は免れないのではないでしょうか。

2016年1月18日月曜日

大女優、原節子

 戦後の日本映画の黄金時代を彩った大女優、原節子(1920-2015)が昨秋ひっそり亡くなりました。原節子が活躍した40年代から50年代の映画撮影は今では考えられないハードスケジュールで原節子も毎年5本前後出演しています。

 70年代になって日本映画が下火になったころフランスでは往年の日本映画の再評価がなされ、パリのシネマテック(国立映画博物館)では黒澤明や小津安二郎特集をよくやっていました。

 私が原節子の代表作「東京物語」を初めて見たのもたまたま滞在していたパリのシネマテックでした。小津監督にとっても原節子にとっても代表作である「東京物語」。尾道に住んでいる老夫婦が、久しぶりに子ども達が独立して生活している東京を訪れたもののみんな生活が忙しく老親に寂しい思いをさせます。そんな中、戦死した次男の妻、紀子が義理の両親を細やかに気遣う話です。

 これといった事件もなく淡々としたストーリーはヨーロッパ人の美意識を激しくくすぐり、小津安二郎への評価は絶対的なものになりました。

そして日本女性の聡明さ、つつましさ、神秘的なまでの美しさで観客を魅了したのが主演女優の原節子だったのです。ところが彼女は1962年、最後の映画に出演したあと引退し、その後半世紀以上の長い年月を世間から遠ざかって暮らし、「永遠の処女」などと呼ばれました。

 同じ時代のヨーロッパの大女優、イングリッド・バーグマン(1915-1982)は名画「カサブランカ」(1942)で知らない人はいませんが、彼女は引退することなく晩年には故国スウェーデンの巨匠イングマル・ベルイマンの「秋のソナタ」で深い演技を見せました。

 また、マレーネ・ディートリッヒ(1901-1992)も1979年には「ジャスト・ア・ジゴロ」で高級ホストクラブの女衒(支配人)の役を老醜を隠しもしないで演じて忘れがたい印象をスクリーンに残しました。このとき若きホスト役だったのが先日亡くなったイギリスのロックスター、デヴィッド・ボウイでした。

 こうしてみると、女優の命は外見の若さ、美貌、もどかしいばかりの肢体にあるのではなく、老いてもなお内側から輝くものだと思います。原節子には引退などしないで、日本女性の高貴で美しい“老い”を見せてもらいたかったです。

2016年、年頭にあたり

  また新しい年が始まりました。今年はリオ・オリンピックの年です。はるか遠いブラジルの地でのオリンピックですが、日本からの選手や観客と現地の日系人との交流はさまざまな場面で深まるでしょう。そして2年後には韓国・平昌で冬季オリンピックが予定され、4年後はいよいよ東京です。

東京大会に関しては国立競技場の建設問題、エンブレム騒動等出鼻をくじかれるような問題が多々ありましたが、準備段階での舞台裏事情はともかく本番では日本のきめ細やかな大会運営が期待されます。

こうした大規模な国際イベントにとって今や最大の懸案事項はテロ対策です。4年後の世界情勢はどうなっているのでしょうか。欧州、中東を舞台にした宗教的、政治的葛藤はより過激になるのか収束に向かうのか? 中国の覇権主義の行方は? 銃社会のアメリカの指導者はいったいだれに? そして日本はどんな国柄の国家になっているのでしょう? 

楽観的な未来像を描くことは今の世界情勢からいってとても難しい気がします。個人的には4年後には71歳になっています。もちろん生きていればの話ですが……。

それにしても今年も新年を迎えられたことはありがたいことです。2年前に亡くなった父は96歳のまま、ときどき夢に出てきては私をびっくりさせます。墓参りをさぼっているから向こうからやってくるのだと思いますが、父はもうこれ以上年を取りません。今年の夏には2歳若かった母が父の年を追い抜くでしょう。

両親のことだけでなく自分にとって大切だったもの、音楽、絵画、文学、映画等、お気に入りの作品はどれもこれも幼年期から青春時代に出会ったものばかりです。つまりは半世紀以上前のものを再び追い求めているこのごろです。昔の映画はDVDで簡単に入手できます。日本の古典文学は、最近になってすばらしい現代語訳が施されていっそう身近な存在になってきました。

こうして、未来を思い描くのではなく過ぎ去った過去にばかり目を向けることは一般に、後ろ向きで見苦しいことと考えられています。しかしながらこの先4,5年以内に人類が達成することなど、過去数千年に渡って積み上げてきた知恵の総決算に比べたらものの数ではありません。今年は古典の世界に静かに向き合っていこうと思います。

四国急行フェリーのご利用を

 年に何回か上海へ行くのに相変わらず高松発着の春秋航空を愛用しています。出発日によっては片道3千円以下の料金設定をしていることも珍しくなくわざわざ瀬戸内海を渡る価値は十分あります。また高松自体も栗林公園など観光スポットの多い大変魅力的な都市なので空港の行き帰りにあわただしく素通りするだけなのはもったいないことです。

昨年末上海に出かけたときは帰路ちょっと時間があり栗林公園や博物館に立ち寄り、その後JR瀬戸大橋線ではなく何十年ぶりかでフェリーに乗って宇野まで帰ってきました。

 かつて24時間休まず頻繁に運行していた連絡船も、1988年に瀬戸大橋が開通して以来、今や四国急行フェリー1社がほそぼそと営業を続けているのみです。瀬戸大橋とは勝ち目のない競争をしているのが現状ですが、しかし「ここまでして大丈夫?」と思わせるうれしい出血サービスがあることを知り、概要をご紹介します。ぜひご利用を!

昨年12月現在のデータですが、運行便数は高松発、宇野発それぞれ1日に10便。朝は7時発、最終便は20時10分発です(宇野、高松とも)。通常、フェリーは車で利用する場合運転者1名分のみ運賃が車両搬送料に含まれていますが、四国急行フェリーの場合、同乗者は全員無料なのです。休日は平日よりさらに1割弱ほどお安くなっています。

ちなみに普通車での往復運賃は平日で5,650円、休日では5,130円です。さらにシルバー割引きというのもあってシニア層にはうれしいサービスです。また車なしで乗船する旅客運賃は片道690円、往復で1,320円です。

 岡山-高松間はJRでは1,510円(マリンライナー自由席)かかるのに対しJRで宇野まで行き、フェリーに乗り換えた場合の合計運賃額は1,270円と240円も安く驚きの料金設定です。所要時間は2時間ちょっとです。

 海上の橋からではよく見えない瀬戸の絶景も船からは手に取るように近くに感じられます。潮風も心地よく波静かな内海を船は滑るように進んでいきます。携帯充電用の電源コンセントも完備、売店にはインスタントながらカップうどんもあります。瀬戸大橋の向こうに日が沈み残照の中、懐かしい海のにおいに包まれ、エンジンのリズミカルな音を聞きながらのクルーズは最高の贅沢でした。

2015年12月16日水曜日

温泉から室内プールへ(下)

 町中の温浴施設は年中無休で早朝から深夜近くまで営業しています。“いつでも温泉に入れる!”というのはいいものです。雨がしょぼしょぼ降るわびしい夜、パッと思い立って大家族の湯まで車を走らせ、熱い温泉のお湯に浸かりサウナで汗をかいたらひきかけた風邪もあっという間に退散です。降り止まない冬の小雨のなか露天風呂でのんびりしていると気分は奥飛騨慕情です。
温浴施設でも十分運動になるのですがもっと本格的な運動効果を得るためにあちこちの室内プールを探訪しました。まず訪れたのは岡山市南区豊成にある市営の屋内温水プールです。このプールに来たのは40年ぶりです。当時50メートルの室内温水プールは全国的にもまれな存在で岡山市民として誇らしく思ったものです。
ところが久々に出かけてみて感じたことですが、施設全般の経年劣化が激しいということでした。なによりも水深が浅いのは致命傷です。岡山市の財政状況はきびしいのでしょうがぜひとも早期に豊成のプールの建て替えをお願いしたいと思います。
次に行ってみたのは倉敷市屋内水泳センタープールです。このプールも岡山市民プールと同じぐらい昔にできたものですが落成当初から立派なものでした。とりわけ50メートルプールは水深が1メートル60センチとやや深いので泳ぎやすい。
日本のプールは一般の利用者の安全を考えてか水深が浅すぎる傾向にあります。水球やシンクロナイズドスイミングにとって浅いプールは致命的でこれらのアスリートたちは練習場の確保に大変苦労しているのではなかろうかと思います。
1970年ごろドイツ人の友人に招かれドルトムント近くの人口9万人の町に滞在したことがあります。プールに出かけて驚きました。50メートルプールの床は使用目的に応じて上下する可動床で、そんな設備を見たのは生まれて初めてのことでした。日本でも最近この方式による深いプールが普及し始めました。

岡山市民プールの建て替え計画があるのかどうか存じませんが、次はぜひ現代のニーズにマッチしたレベルの施設にしてほしいと願っています。プールに出かける高齢者が増えれば増えるほど老人にかかる医療費は減るでしょう。私も運動を始めて血圧の薬と別れることができました。

温泉から室内プールへ(上)

 かつて大阪で働いていた30年近い歳月のあいだ飽くことなく休日には紀伊山中の温泉に出かけたものです。龍神温泉や川湯温泉は四季を通してほんとうに美しく、日本の情緒ここに極まれり、といった風情です。
 日本に大挙して押し掛けてくる外国人観光客のあいだでも急速に日本の温泉が知れ渡ってきているようですが、マナーの問題や習慣の違いによるトラブルはあるにせよ国際親善にとって温泉ほどいい雰囲気をかもしだすところは他にないと思います。
 外国人が驚き抵抗を示す筆頭は何といっても他人の前で素っ裸になって温泉に入る点につきます。あの恥という概念がまったく欠如していると思われる中国人でさえ温泉で裸になれと言われると柄にもなく顔を真っ赤にして恥ずかしがります。今はまだ温泉が中国人によって占拠されたという話は聞きません。でも彼らが温泉の快楽を覚えるのは時間の問題でしょう。
 かつては生ものを絶対食べなかった中国人も今では脂ぎったおおとろのとりこになっているし、冷たいものは毒だと信じて疑わなかった彼らも今では冷たい生ビールやアイスコーヒーに慣れ親しんでいます。
 さて、もともとは温泉大好き人間だった私も両親の介護のために岡山に帰って以来、温泉場でゆっくりする精神的余裕をなくしてしまったのか、あるいはしょっちゅう上海に出かけるせいで気持ちが中国人化したのか温泉に対して何となく抵抗感を感じここ十数年一度も温泉に出かけたことがありません。醜くたるんだ100キロの巨体をひとまえに晒すのはさすがに恥ずかしいことです。
 ところが医師から執拗にフィットネスを勧められついに体を動かすことにしました。まずは水中歩行から。いきなりプールに行く前にまずは町中のスーパー銭湯で“服を脱ぐ”練習をしよう! そして出かけたのが近くの「大家族の湯」でした。

 オープン以来店の前をよく通りかかるのですが広大な駐車場を埋め尽くす車の数に恐れをなして今まで敬遠していました。しかし勇気を出して行ってみてびっくりです。20数種の風呂のほかにプール、フィットネスジムまで完備し、まさに空前の規模の「湯」でした。今ではすっかりとりこになってしまい2日と置かず出かける始末。さっそく入浴効果を実感しています。(続く)

母の弟(下)

太平洋戦争の末期にフィリピンで戦死した叔父の人物像や人となりについて、戦後生まれの私には何の記憶も思い出もありません。しかし母が負った悲しみ、心の傷は母の最晩年に至る今も母を苦しめています。
今回の国からの戦没者遺族に対する特別弔慰金の申請に当たって、叔父の戸籍謄本を取り寄せて初めて叔父がいつどこで死んだのか分かりました。戸籍謄本には「昭和20年6月30日時刻不明比島レイテ島カンギポット山に於いて戦死」と記されています。
太平洋戦争の天王山と言われたレイテ島の戦いは大変な数の犠牲者を日米双方に出しました。84,000名もの日本軍将兵が派遣されたのに捕虜になるなど生還できた人はわずか2,500名だったそうです。叔父が亡くなった6月末は敗戦間近であり、叔父はぎりぎりまで筆舌に尽くしがたい過酷な状況の中で生きていたことが想像されます。
母のもとに叔父から届いた一枚のハガキが残っています。証券会社で働いていた叔父はスポーツマンで明るい性格で人気者だったそうです。叔父のハガキに書かれた文字は流麗で、さりげなく家族を気遣う文面でした。遺骨も戻ってこなかった叔父の遺品といえばこのハガキ以外何もなく母にとっても私にとってもこの上なく大切なものなのにそういうものに限って引き出しに無造作に入れたりしているうちに紛失してしまうものです。今探しても行方不明です。
さて、特別弔慰金の請求を開始して分かったことですが、国からの“お見舞い”をいただくのに役所はどこまでハードルを高くすれば気がすむのかとあきれることばかりです。戸籍謄本は直系の尊属卑属にしか取れないという原則があり、新しい籍に移った伯父伯母の戸籍には手が届きません。
具体的には母と同一順位である伯父伯母9人の死亡年月日を申し立てないといけないのですが、私にはそんなもの「みんなとうの昔に死にました」という以外申し立てるすべがありません。

国や自治体には年金受給記録、戸籍、住民票、死亡届けなどすべてのデータがまさにビッグデータとして完璧に存在しています。弔慰金を正しく支給するために必要な情報は国が職権で調べてくれてもよさそうなものです……。年取った遺族を苦しめる手続きの煩雑さは、まったく弔いにも慰めにもなりません。

2015年10月29日木曜日

母の弟(上)


大正生まれの母には10人を超える兄弟姉妹がいました。裕福な家庭だったらしく、母の母親は子どもを次々生んでも授乳や育児は乳母にまかせっきり、自分は生むことに専念していたそうです。母は若いころからよく嘆いていました。「姉たちみんな美人なのに私だけ色が黒いのは私の乳母が色黒だったからだ」と。

ほかの兄弟姉妹全員が亡くなり、母ひとり百歳近くなって今は寝たきりながら自宅で平穏に人生最後の日々を過ごしています。母の嘆きだった色黒は、もはや乳母の影響はどこにもなく、新潟美人特有の天生の麗質を取り戻しています。

ほぼ末っ子だった母には省吾という名の弟がいたのですが太平洋戦争末期に召集されわずか20歳前後で戦死しました。フィリピン方面で死んだという以外何も分かりません。戦後の混乱期にどのように弔われたのか、墓がどこにあるのかさえ判然としません。

おそらく当時の多くの若者同様何がなんだか分からないまま戦争に徴用され死んでいったのでしょう。未婚だったので遺族年金を親戚のだれかが受け取ったという話も母から聞いたことがありません。

今から7,8年前、母の認知症が重くなってきたころ、私の知り合いの若者が大阪から我が家に遊びにきたことがあります。友人は上背があり短髪でなかなか凛々しいルックスの持ち主です。すると母は「省吾や、おまえ、帰ってきたのか!」と驚きの声を発しました。省吾叔父はついに母のもとに帰ってきたのです。

ちなみに大阪の友人は昨年父が亡くなる前、「幻影の先輩」(*)の役を演じてくれた男と同一人物です。父と母がそれぞれ青春時代に戦争で失った先輩や弟として人生最後に、朦朧とした意識のなかで、奇蹟の再会を果たしてくれた希有な存在です。

母にとって大切だった弟をちゃんと弔ってあげないといけないなと思っていた矢先、新聞の片隅に“「戦没者等の遺族に対する特別弔慰金」の支給について”という政府広報が掲載されているのを目にしました。

政府のこの種の給付金を受け取るのは素人の手に負えないくらいハードルが高いものですが、今回は挑戦してみようという気になりました。戦争で死んだ叔父と遺族である母のために弔慰金をもらうことは私の義務であると思ったからです。(続く)

(*)201433日ごろ掲載

スポーツ嫌い(下)


1960年代終わりごろから70年代初めの大学は“学園闘争”という摩訶不思議なエネルギーがキャンパスに渦巻いていた時代でした。中国の文化大革命の影響もあって、学生が教師を批判し、大学の機能をマヒさせ、試験が近づくと大学を封鎖することなど日常茶飯事でした。

しかしそれでも屈強な体育系の学生が親衛隊のようにガードしている体育局は学生に妨害されることなく厳格なカリキュラムを遂行していました。体躯局が提供する実技科目をさぼって卒業単位を得ることなどとうていできません。

私は何とかして嫌いな実技科目の単位をもらうためによその大学の学生N君に私の影武者になってもらったのは今思い返してみても痛快な学生時代の思い出のひとつです。ついでに言うと、私は英語が不得意なN君のためにN君の大学に通い立派な成績をプレゼントしました。麗しきバーター取引です。

そんな学生生活を終えて就職した先が大阪の大学でした。もはや学生ではなく図書館司書として働くことになったのですが、大学というところは職場に50メートルの公認プールがあり、陸上競技場、テニスコート、体育館、ジムなどスポーツ施設はひととおりそろっています。もちろん学生のための諸施設なのですが、昼休みは教職員もそうした施設を利用してもいいことになっていました。

学校での体育の授業は死ぬほどいやだったのに、若い学生や同僚たちがトラックを走り、さまざまな球技にうち興じているのを見ているうちに自分もやってみようという気になったのですから不思議なものです。

いろんなスポーツを試した結果、バドミントンが自分の性分によくあっていることが分かりました。生まれて初めての球技です。高校時代に選手で活躍していたという同僚がそれこそ手取り足取り指導してくれて、ついには試合を楽しむまでになりました。
冷房のない体育館の窓を閉め切って汗をだらだら流しながら試合をする爽快さ。我が人生でスポーツとこんなにも仲良くなれたのはそのころの数年だけです。ある年の大晦日の夜、オートバイを運転していて転倒し肋骨を4本折る大けがをしました。それ以来スポーツと縁がなくなり、体重68キロから100キロへの階段を黙々と登ることになりました。