2012年9月23日日曜日

尖閣問題


 この夏、竹島問題に火が付いたと思ったら、9月にはより手強い中国相手の尖閣問題炎上です。第一次大戦のきっかけもささいな事件が引き金を引いたのですが、領土問題はいつの時代でもナショナリズムを強く刺激します。地域紛争というとイギリス対アイルランド、イスラエル対パレスチナの例のように常にどこか遠い場所で起きるものと思っていたら極東で火を吹いているのですから驚きです。

最近の韓国・中国の日本に対する態度を報道で見ていると古今東西いつの時代でもどこでも起きる地域紛争の発生メカニズムと気分が何となく分かるような気がしてきました。売り言葉に買い言葉が飛び交い、ナショナリズムがあおり立てられます。こうなると洋上の小さな島嶼の帰属問題が双方にとって核心的利益を争う大問題に発展し、武力行使も辞さずという気分が醸成されていきます。

こうした国家間の対立の局面で冷静さを忘れ、まるで我が家の敷地がかすめとられたかのように怒り、ヒートアップするのは常に社会の発展段階が未熟な側です。幸か不幸か、日本人は冷静というか多くの国民は尖閣問題に対してある意味シラケているのが実状ではないでしょうか。

尖閣炎上の直接のきっかけは東京都による購入話でした。その話に多くの国民が感動し、10数億のお金を都に寄贈したのですが、島所有者は国がろくに査定もしないで即金で205千万出すといったらさっさと東京都との約束を反故にしました。もとはと言えば尖閣諸島は国が民間人に無償で譲渡した土地です。こんな取引話に一般国民が愛国心をかき立てられるはずがありません。

8月下旬、台湾が尖閣帰属をめぐって国際司法裁判所に提訴すると表明しました。日本政府はこの話を無視しましたが大失策です。台湾の提案こそ日本にとって(台湾にとっても)もっとも有利かつ賢明なものであったことは疑う余地がありません。

裁判を受ければ、尖閣の日本への帰属が国際社会から再確認されるだけでなく、海洋政策で拡張主義に陥っている中国に対して深刻な打撃を与えることができ、日本はベトナム、フィリピン、インドネシアから末永く感謝と尊敬の念を勝ち取ることができたでしょう。万一負けた場合、結果を受け入れるのは当然ですが。

2012年9月5日水曜日

続“ヒヨウ”の話

   先週号に続いてイ草刈りの季節労働者であるヒヨウ(日傭)の話を。
イ草農家に出稼ぎにやってくる若者は彼ら自身農家の次男三男が多く、長子相続制が一般的だった時代、分家して家族を持ち田畑を耕して生計を立てていくことはほとんど不可能でした。多くの次男三男は都会に仕事を求めて出ていったのですが、ヒヨウとして出稼ぎに来てそのまま岡山に留まった人もいました。
ヒヨウを雇いいれる農家も毎年違う人を役場であっせんしてもらうより、その人のひととなりが分かっている者に来てもらう方が安心できます。そして中には、イ草農家の主人の目にかなった若者がそのまま婿入りするケースがあったそうです。
 我が家の近所にもそうした婿養子殿がいます。私が小学生のころ彼はやってきました。昔から「米糠3合あれば養子に行くな」という格言がありますが、格言が警告するとおり、婿入りしたこの若者はたばこ銭にも事欠く肩身の狭い日々を送っていたのでしょう。
 ある日、草野球の帰り私の兄がグローブを広場に忘れたのを彼が届けてくれたことがあります。ところがタダではグローブを返してくれず謝礼として「5円」よこせと言うのです。5円というのは戦前の価値ある5円ではなく昭和30年ごろの話で今の価値でいっても50円か100円ぐらいのものです。
兄は仕方なく小遣いの中から5円払ってグローブを取り返しました。私の両親はどちらも教師でしたが、夕方帰宅して兄からその話を聞いてカンカンに怒り“ヒヨウ上がり”の青年に対する軽蔑の情を我々子どもの前で隠しませんでした。
 この若者、このように金銭に汚く、近所の農家からクワや鎌がなくなるという噂も広がりました。さらに隣接する田んぼのあぜを夜な夜な削っては領土拡張に余念がなく、家では妻とその親に滅私奉公。ついに近所の人からは「農奴」という芳しくないあだ名を頂戴しました。
そういう性分は一生直らず、高齢の今でも村人達とは少し距離を置きうち解ける様子はないのですが、相変わらずよく働きます。トラクターで田を耕し、孫を保育園まで送り迎えし、犬の散歩もし、買い物までこなすスーパーじいさん。まさに金のわらじを履いて探し出したような婿殿です。

2012年8月31日金曜日

“ヒヨウ”あるいは季節労働者


 食料不足が続いた昭和30年代、農村地帯では米作の裏作として大麦や小麦が栽培されていました。しかし岡山県南の水田地帯では麦よりもはるかに大きな現金収入をもたらすイ草の栽培が一般的でした。

ところが現在では岡山県内でイ草を栽培している農家は倉敷市内にわずか3軒残るのみ。なぜイ草栽培が急速に廃れてしまったのかその理由は簡単です。イ草栽培はあまりにも過酷だったからです。

冬場、氷が張る田んぼにイ草の苗を11本手で植え、春から梅雨明けまで大きく育てます。そして梅雨が明けると同時に一気に収穫し、専用の土で染めて乾燥させなければ最高級のイ草にはなりません。

当然、農家の手だけでは足りず、農家は“ヒヨウ”と呼ばれる季節労働者を毎年雇い入れていました。夏場水不足で農作業が少ない四国の農家の若者たちが主で、高い賃金を求めて連絡船で海を渡ってきました。

庭瀬駅には村役場の臨時出張所ができヒヨウさんを農家にあっせんしていたものだ、とは父の昔話です。一方、彼らを受け入れる農家も大変です。働き盛りの若者を45人、母屋の一番いい部屋に寝泊まりさせ、食事は1日数回用意し、夜は酒も飲ませなければなりません。

背丈を超えるまで育ったずしりと重いイ草を鎌で刈る。すぐに泥に漬ける、泥水をたっぷり含んでいちだんと重くなったイ草を田んぼや道べりに広げて乾燥させる。すべての作業はギラギラすべてを焼き尽くす真夏の太陽の下で行います。

ところで“ヒヨウ”という岡山弁らしき呼称、何やら差別的なニュアンスが気になり広辞苑で調べてみました。何と標準語で「日傭」と書き、日雇いの意味でした。

そのヒヨウさんたち、10日間ほどの重労働を終えたときには日当が今のお金で数十万円ぐらいになったのではないでしょうか。なにしろ早朝から深夜までずっと働いて食って寝るだけの生活でお金は一銭も使う機会がないからです。

ようやく重労働から解放され宇高連絡船に乗って四国に帰っていく彼らが無事家に帰って家族に分厚い財布を渡せたかというとそうはいきません。父の話では高松港周辺には賭場と娼館が林立し、彼らの稼ぎはすっかり巻き上げられたということです。(次号に続く)
 

2012年8月26日日曜日

NHK第44回思い出のメロディ

 お盆に何気なしにテレビを見ていたら毎年恒例のNHK「思い出のメロディ」をやっていました。司会の市川猿之助(亀治郎改め)のまじめくさった顔がおもしろい。「人形の家」(弘田三枝子)、「別れのサンバ」(長谷川きよし)など例年になく選曲にセンスが光っていました。
 私の学生時代、ぴちぴちきゃぴきゃぴだった弘田三枝子が今ではNHKホールの豪華な舞台が痛々しく感じられるほど容姿と声が衰え、私はそこに同じ時代を生きてきた自分自身の衰えを重ねてしまいました。

ところが同じ老いでもド迫力の老い、すさまじい生き様の集大成というべき老いの姿があることをこまどり姉妹によって知らしめられました。舞台に登場した彼女たちはもう本物のおばあさんです。1938年生まれなので今年74歳。まさに壁のように分厚く塗った化粧姿を見て何故かギリシャの廃墟を連想しました。

デビュー当時あれほどきれいなハーモニーを奏でた艶と伸びのある美声は今ではすっかり失われていました。しかし心が激しく揺さぶられるのです。この感動はいったい何なのか、ウィキペディアを参照してみたらその秘密が少し分かったような気がしました。北海道の炭坑労働者の極貧家庭に生まれ、樺太に渡り、戦後は苦しい家計を助けるために姉妹で門付けをして日銭を稼いだそうです。

デビューしたあともストーカー少年に舞台の上で刃物で刺されたり、大病を患ったり、まさに波瀾万丈の歌手人生です。

「私たち、歌が好きで歌手になったんじゃないこと、皆さんご存じでしょうか?」と語る姉妹。生活のために三味線片手に歌う以外に道がなかったにしても生涯歌を捨てずに生きてきたこと、それしか選択肢がなかったことが厚化粧の下に魂の演歌歌手をはぐくんだのでしょう。

坂本冬美の「岸壁の母」。スランプに陥り歌えなくなった坂本が二葉百合子から一子相伝のように引き継いだまさに命の一曲にはひっくり返りそうになりました。目が完全にイッテいて神憑り状態。いままで坂本冬美は美貌で歌がうまい(だけの)歌手だと思っていたのが大変な間違いだと気づかされました。

体をよじり、声(=魂)をしぼりだす演歌はすごい。これぞ芸であり日本の宝だと認識した次第です。

(関連動画)
http://www.youtube.com/watch?v=45w9jKHekXI
http://www.youtube.com/watch?v=48HVAWfp0zU
 

2012年8月13日月曜日

London 2012 戦い終えて

 ロンドン・オリンピックの期間中に父が元気に95歳の誕生日を迎えることができました。いっしょにテレビ観戦できたことは父の最晩年のあたたかな記憶として私の心に永久に残ることと思います。

父にオリンピックの一番古い記憶はどの大会だったか尋ねたら、「ロサンジェルス大会」(1932)と答えていました。そのとき父は15歳だったはずですが、この大会の記録を検索してみると何と日本がメダル獲得数で第1位でした!

これは父だけでなく当時の日本人すべてにとって驚愕すべき大事件だったに違いありません。とりわけ男子競泳は5種目中4種目まで金で400メートル自由形のみ銅メダルという圧倒的な快挙でした。

1912年の第5回ストックホルム大会に日本が初参加して以来100年の歳月が流れ、その間今回のロンドン大会を含めて獲得したメダル数はちょうど400個になったそうです。

ロンドン大会では38個のメダルを獲得し史上最多ということですが、日本もなかなかやるなあというのが率直な印象です。お家芸といわれた柔道男子の金メダルがなかったのがいかにも残念。それにひきかえ後半戦でも女性のがんばりが鮮やかでした。レスリングの金3個は圧巻! サッカー、卓球団体の銀、バレーボール、アーチェリー団体の銅など長年取れそうで取れなかった種目でついにメダルが取れました。

前半でもいろいろな場外バトルがありましたが、男子サッカー3位決定戦では韓国選手の常軌を逸したマナー違反が深刻な問題を引き起こしました。「独島は我が国の領土だ」という政治的バナーをピッチ上で掲げたのですからメダルはおろか出場資格すらなかったというべきです。

このことに関してはネットで韓国非難の嵐が起きていますが、韓国サポーターはかつて試合場に「日本の大地震をお祝います(ママ)」などという精神構造を疑われる横断幕を掲げた前科があり、確かに民度が低いといわれても仕方のない行為です。

そうした隣国のスポーツの場での品格ゼロの行為にほとんど反応しない日本はさすがですが、こと政治的に鈍感なのはいかがなものでしょう。韓国大統領の竹島上陸に対し日本がどう出るかロシアと中国が興味津々です。オリンピックが終わってまたきびしい政治の季節がきました。

2012年8月6日月曜日

London 2012 前半あれこれ

 いろいろなスポーツ発祥の国、イギリスで開催されているロンドン・オリンピックはこれまでにないぐらい多くの“場外バトル”的な話題を提供してきました。柔道の審判結果があっという間にひっくり返ったり、体操団体では日本の抗議が受け入れられて4位から一気に銀メダルになったりでびっくりの連続です。

 中国、韓国等によるバドミントンの無気力試合もひどいものでしたが、それを言うならなでしこジャパンの対南ア戦は何だったのでしょう。

あえてドローに持ち込みリーグ2位通過を画策したのは決勝トーナメントを有利に戦うための戦略だったと、佐々木監督自身がぺらぺらマスコミにしゃべっているのをテレビで見て、何だかなでしこジャパンに対する気持ちが萎えてしまいました。

とはいえ、身体能力に恵まれていないやまとなでしこがアメフト選手のような体格ぞろいの欧米人相手に勝ち進むためにはきれいごとを言っている場合じゃないこともよく分かります。ネット上の外野席でああでもないこうでもないと好き勝手な意見や監督批判が飛び交うのを閲読することも今時のオリンピックの楽しみのひとつかもしれません。

 柔道81キロ級の中井貴裕はまさに日本男児を絵に描いたようなルックスの持ち主。これぞ瑞穂の国の風格と凛々しさを兼ね備えた選手の登場と期待大。結果は力及ばず惜しくもメダルに届きませんでした。致し方ないことです。

ところが中井選手、試合直後にメダルが取れなかったと言って人目もはばからず号泣。わずか1分ほどのインタビューの間に10回ぐらい「メダルが欲しかった、どんな色のメダルでもいいから欲しかった……」とメダルに対する執着を吐露。(日本男児でなく単なる幼児?)男の子がデパートのおもちゃ売場に座り込んで「ガンダム欲しい、ガンダム買って、ガンダムゥゥ」と地団駄踏んで悔しがるのにそっくりでした。

すぐに泣き出す男性陣に比べ女性は本当に強い。オオカミのような面構えで金をとった57キロ級の松本薫、鼻っ柱の強さがそのまま顔に出ているバドミントン銀の藤井・垣岩ペアー、競泳で銀と銅2つのメダルを取った鈴木聡美(平泳ぎ)など女性の活躍が印象的です。

後半はどんなドラマが待っているのか、眠れない夜が続きます。

2012年7月23日月曜日

60代も半ばになって

7月7日に64歳になりました。すでにこんな高齢になってしまったと思うと同時に「まだ」64歳、四捨五入で言えば60代前半にいるともいえるので貴重な若さだと思います。

人間は年を取ると故郷回帰が強まるといいますが、ここ3ヶ月ぐらいしきりと心理学関係の本を読むようになりました。

xx大では教育学部の教育心理学科というところに籍をおいていました。一方、文学部にも心理学科がありました。教育学部では主として実験心理学に重点が置かれサイエンスとしてのアプローチが試みられていたのに対し、文学部ではフロイトやユングなど精神分析学の流れを重視していたように思います。

いずれにしても教員のレベルといい、学生のレベルといい、当時の欧米の水準からいえばきわめてプリミティブな、心理学のまねごとのようなレベルだったと思います。そのプリミティブなレベルのxx大の心理学の諸々の科目すらよく理解できなかったのだから私の頭脳に問題があったのは明白です。統計学に至っては単位を落とし、2年も同じ科目を勉強(恥)。

1968-69年の学生運動の騒乱もあって、私は実験にこだわる心理学に興味を失った反面、ゴダールやアラン・レネ、パゾリーニ、アントニオーニなどによって次から次へともたらされた映画のとりこになり、彼らの映画を直接理解する必要性もあってフランス語とイタリア語を同時並行で勉強しました。フランス語はxx大と飯田橋の日仏学館で、イタリア語は東京外国語大学のイタリア語科教授だったxx先生、早大の日本人やイタリア人教師からほとんど個人教授のような形で4年間教えてもらいました。

大学4年の秋、心理学科の卒論作成に行き詰まって(というより手をつけていなかった)ころプラントメーカーのxxがアルジェリアの建設現場で必要なフランス語の通訳を募集していることを知り、xxの横浜本社で簡単な面接を受け、即採用になり、大学には休学届けも出さないでアルジェリアに行きました。翌年の秋、帰国して、卒論をでっちあげ翌春卒業しました。

卒業した年はカナダやイギリス、ヨーロッパで3,4ヶ月過ごした以外、何をしていたか記憶がありません。xx大学図書館に就職したのはさらにその翌年だったと思います。(本当は国会図書館職員になろうと目論んで受験したのですが失敗)

当時の図書館は何をするにも手作業でおそろしく能率の悪い職場環境でした。しかし勉強する時間が無限にあったのと毎年4,5週間の夏休みを取ることができたのがラッキーでした。ラッキーというより私が長期休暇をとるパイオニアみたいなものでしたが(笑)。とにかく能率の悪い図書館システムの代表が紙に書かれた目録の存在でした。ところが大学には大型計算機があるのに目をつけ、研究者がほぼ占有していた大型コンピュータを図書館目録の作成に使う試みを始めました。1984年ごろにはすでに初期のパソコンが出現していたのでそれを計算センターの大型機にモデムで接続することでスムーズな漢字入出力が行えるようになりました。そのころは毎日深夜0時ごろまで残業してプログラミングに熱中。昼間いくら考えても解決できなかったアルゴリズム(計算手順)が夢の中で突然啓示を受けたように浮かんだこともあります。

数年かけて目録システム、オンライン検索システムを自力で完成させたころ、時代はメーカーによるパッケージソフトの導入へと変化してきました。私も個人で作った、しかも当時の処理系に全面的に依存するシステムから文部省が進めていた学術情報センターのデータベースと連動するシステムへの切り替えが必要であることを受け入れ、プログラミングから離れていきました。

長々と半生記を書いてきたのですが、要するに大学で専攻したことと無関係な職業につき、その職を辞めたあとは親の介護というまたまた脈絡のないことをやり、いつのまにか60代も半ばになっているのに気づいたのですが、それが冒頭のふるさと回帰にたどりついてきた感じなのです。

心理学といっても学生時代の心理学を学び直す意志など毛頭なくまして他人の悩み事を聞いて法外な金を取るカウンセリング・サイコロジーなどではなく、古くて新しい人類永遠のテーマである「意識」について2012年の世界の研究レベルを垣間見ておきたいということです。やがて自分が認知症になって「正常な意識」を失うことになるであろう前に少しでも理解できたらなあと願っています。
(たぶん認知症になることはそんなに空恐ろしいことではないのかもしれません。なぜならこうして生活している日々の暮らしのなかで広義の認知症は徐々に進行しているのにちっとも苦しくありません)

そもそも「意識」とは7月7日(しつこいようですが誕生日)にヒッグス粒子の存在がほぼ確認されましたが、その不可思議な性質は「重力」の問題とそっくりな気がします。18番目の素粒子(そんなものはないそうですが)として「意識」が考えられるのではないか。アレゴリーではなく本当に・・・でもビッグバンと同時に「意識」がばらまかれ宇宙の隅々まで拡散していったとすれば生命もまたそこから生まれることができたのではないか・・・・・・

神経細胞としての脳の存在が意識の存在にとって絶対条件なのかどうか、などというとオカルト研究、あるいは統合失調症の症例に登場する世界観、あるいはファンタジーのようでもあるのです、それでも何千年に渡る人間の知の歴史が解明してきた成果は少なくありません。

そんなことを考えるのにあたってこれまで脈絡なく関わってきた、心理学、英語、フランス語、イタリア語、中国語などの外国語、コンピュータのプログラミング言語の実際の知識が役にたつかもしれません。

また、認知症という病状を通じて人間の意識がどのように変化していくのかをまざまざと見せてくれる両親の存在、およびガランタミン(レミニール)のような薬の存在、つまり脳を直接支配する化学物質の存在等、「意識」について考えるきっかけがそろってきました。

2012年7月11日水曜日

勘違い税関職員


海外旅行は楽しいものですが、いつも憂鬱になるのが帰国時の税関検査です。関空などではありえない、ヒマな田舎空港の税関職員の対応には思わずキレそうになります。今日も上海からの帰路、高松空港でこんなことを聞かれました。

「荷物はたったこれだけですか?」(「大きなお世話!」と言ってやりたかった。以下同様)

「別送品はないですか?」(申告書に「ない」と記入しているよ!)

「旅行の目的は?」(あんたの知ったことか!)

「上海ではどちらへ?」(どちらへって上海は上海ですが……)

「よくバンコクや上海に出かけられていますね」(それがどうしたというの?)

税官吏は延々とこんなことを聞いてきます。関税定率法の主旨とまったく無関係なバカげた質問であるばかりかあきらかにプライバシーを侵害しています。

以前は免税範囲内なら口頭申告だけでよかったのに平成19年から入国者全員に申告書を書かせるようになりました。申告者は記載内容に間違いがないことを自署しているわけですから、もし不審な点や疑いがあるのなら無意味な質問をするのではなく即刻荷物を開けさせて調べればすむことです。文書で申告済みのことを重複して口頭でも尋ねるのなら申告書を提出する意味がありません。

彼らは勘違いしています。“怪しいヤツは税関職員の何気ない質問に動揺してボロを出す。そのわずかな動揺を見逃さず拳銃など禁制品の密輸を摘発するのがプロ”だと。

しかし密輸犯に固有のプロファイル(特徴あるタイプ)など存在しません。きちんとした身なりのビジネスマンとサンダル履きのタトゥありのニイちゃんのどちらが怪しいかなどは荷物を隅から隅まで調べない限り神様でも分かりません。

何を尋ねてもぱっとした答が返ってこない私に対し税官吏はリュックを開けるよう要求しました(無駄なおしゃべりをせず最初からリュックを見ろよ)。しかし洗濯物しか入ってないことが分かるとヤツは信じがたいことを言い放ちました。

「お腹が出ていますが、腹巻きをしているのですか?」

何という屈辱! 私はシャツをはだけて体重93キロのみごとな太鼓腹を拝ませてやりました。

2012年7月5日木曜日

神の粒子

   7月7日の七夕を祝うように宇宙に関するビッグニュースが飛び込んできました。「神の粒子」と呼ばれるヒッグス粒子が予言通りスイスにある巨大加速器による実験で実在がほぼ確認できたというものです。このことはそもそもの宇宙の起源はビッグバンであることを証明したのと同じことだと思います。

ところで世界の多くの宗教が呈示する宇宙観もビッグバン説とほとんど違いません。旧約聖書の冒頭に「神は光あれと言った。すると光があった」と記されています。そこでは天地創造のすぐあとに人間が創られていますが人類生誕までの137億年をはしょっただけのことだと思います。

しかし、考えてみればニュートン以降、アインシュタインの相対論から最新の量子力学や超弦理論まで、古い理論の矛盾を解決しながら明らかにしてきた科学的世界観と宗教的直観によるイメージはそんなに大きく異なるものではないようです。いずれも何もないvoid、虚無……のところから何かが揺らいで、あるいは何者かの息吹によって宇宙が始まったという共通のイメージです。

宇宙の始まりがどうして起きたのか、どんな状態だったのかについては宇宙観測や素粒子物理学の成果、あるいは宗教的直観のほかにもう一つの驚くべきアプローチがありました。それはアメリカの脳科学者ジョン・C・リリィ(1915-2001)による人間の意識の探求です。

リリィは人間の脳には人類誕生以来の記憶が残っているという仮説を立て、それをビジョン(視覚)として把握しようとしました。具体的には外部の刺激をいっさい遮断したタンクの中に特殊な水を入れて浮かび、しかも致死量に近い幻覚剤のLSDを摂取して意識の底にあるものを探る危険な実験でした。

幻覚の中でリリィはどんどん過去に戻っていき、地球の誕生はおろか宇宙の始まりであるビッグバンまで目撃します。そこで神に遭遇したのかあるいは自分が神そのものだと思ったのか彼の著作を精読してみなければなりません。(ケン・ラッセルの映画「アルタード・ステーツ」に実験の様子が描かれています)

人間は広大無辺の宇宙から素粒子の粒ひとつまで目に見えないものをまるで見てきたかのように解明していく動物ですね。想像力のスピードは光速をはるかに超えています。

2012年7月2日月曜日

父との生活(3)学歴コンプレックスの威力


NHKの朝の連続テレビ小説「梅ちゃん先生」。主人公ががんばって医師に育っていく物語は戦後の覇気と元気にあふれています。1日に何度も再放送があるし、録画して父と食事しながら同じ話を繰り返し見ています。

父は毎日のストーリー展開はおろかこれが連続ドラマであることすら理解できていないようなのですが、びっくりするようなことがありました。梅ちゃんが働いている「帝都大学附属病院」の威風堂々とした時計台がしばしば画面に登場します。

時計台の映像を見ながら父が私に「これは早稲田か?」と尋ねるので「一橋大学みたいよ」と答えたら「ふーん」と言っていました。ところがそれから1週間ほど経過したころ、また時計台のシーンがありました。すると父が「この子は一橋の学生か?」と尋ねてくるではありませんか。ちゃんと覚えていたのです。

父は子ども時代勉強がよくできたそうですが、家計の制約から旧制高校、旧制大学へと進学することができず、お金のかからない師範学校へいって教師になり、長い教師生活をまっとうしました。それでも心の底では普通の大学に行けなかったことが94歳の今でもコンプレックスとして父を苛(さいな)んでいるらしく、逆にそこを刺激されるとちゃんと記憶回路が作動するのです。

父が毛嫌いしているデブタレの石塚クンがいます。「あいつはバカか」と石塚クンがテレビに出てくるたびに軽蔑の言葉を吐くので、私がそっと「お父さん、この人、バカみたいに見えるけどどうも東大法学部卒らしいよ」と吹き込んだのです。

それ以来、オーバーオールをだらしなく着、満面の笑みをたたえた石塚クンがテレビに出ると、父は「この男は東大出じゃそうだな」と尊敬のまなざしで私に言うのです。「そんなのウソに決まってんじゃん。お父さんの学歴コンプレックスをからかっただけじゃー」。父は悲しげな顔をしていました。

見当識が混乱したある日、私を父の兄(故人)と思い込んで話しかけてきました。「兄さん、就職したらきっと金は返すからワシを普通の高等学校へ進学させてくれ」。泣けてきました。お父さん、東大なんか行かなくても、あなたは教養も人格も申し分ない尊敬に値する人ですよ!