2018年12月28日金曜日

2018師走

2018年もあっという間に終わりに近づきました。年末になって7人乗りステーションワゴンが手に入りまた。昔のようにどこにでもふらりと旅にでかけることができます。行き尽くし感がありますが松江や松山、足摺岬方面へまた行ってみようと思います。

2018年12月11日火曜日

平成時代最後のお正月

平成30(2018)は今まで自然災害が少なかった岡山県民にとって忘れがたい1年になりました。倉敷市真備地区で発生した未曾有の洪水では多くの人命が失われ、家は2階の天井まで水に浸かり軒並み廃屋と化しました。多くの方が住み慣れた我が家で新年を迎えることがかなわなかったことに深く同情いたします。
 年が明けて本年5月、いよいよ平成時代が終わり新天皇の時代です。そのせいか最近皇室を取り巻く、あることないこと下世話な話が週刊誌やネットでおもしろおかしく報道されていますが、いかがなものかと思います。皇室といえども国民同様の人格権があるはずです。
昨今の秋篠宮家に対するバッシングはいささか度を越していると感じます。宮家の長女の結婚問題について当事者でもない人々があれこれ言う問題でしょうか。新たに即位される天皇皇后についても国民が小姑のような意地悪い見方をすることだけは慎まなければと思います。慣れないお立場ではだれしも最初から万事完璧になどできるはずがありません。
譲位される天皇皇后両陛下が在位中、すべての国民のために祈り、ひとりひとりの悲しみに寄り添われてこられたことに対し、日本国民のひとりとして私は大変ありがたく思います。全国の戦没者遺族、災害で苦しむ人々を訪ね、励まし続けられたことは平成という時代を共にした人々の記憶に永久に残るでしょう。
私事になりますが、このコラムを書き始めたころ私はまだ50代半ばでした。それ以来、長い年月を両親の介護をしながら時々上海やバンコクに出かけては急速に発展するアジアの風にふれてきました。それ以前の20代、30代のころは意識は常にヨーロッパに向き、40代のころはアメリカの文化に深く傾倒していました。そして今70代になって人生も残り少なくなってきたことが実感されるこのごろやはり日本のことが一番おもしろく感じられるようになりました。

最近古代史の研究がすすみ、古事記、日本書紀以前にも存在していたらしい歴史のことや中国から漢字が伝わる以前の日本に存在していたという文字などが公然と議論されるようになりました。古代史が全面的に書き換えられる日が来るかもしれません。とりあえず今年は母の故郷、新潟県各地にある縄文時代の遺跡めぐりなどしてみようと思います。

2018年12月1日土曜日

岡山市、洋食やまと

日本伝統工芸展が明日で終わりなので、自転車で出かけました。今年は人形とキモノが多く、漆芸が少し貧弱な気がしました。
10数年前、母がまだかろうじて外出できていたころ、伝統工芸展を見に来たことがあります。もうほとんどしゃべることも感情を表現することもなくなっていた母ですが、童女の人形をみて微笑んで「かわいい!」と声を発したのは驚きでした。車イスを借りてまで連れてきた甲斐があったと思いました。

今年は私が知ってる範囲でも、M君やT君のお母さんが大往生をとげられました。ご冥福をお祈りします。

美術館の帰り、岡山では人気店の洋食屋、やまとに行きカウンターでグラスビールとトンカツをいただきました。目の前でご亭主が焼き飯を焼いたりトンカツを揚げていて、喉まで声がでそうになるのをがまんするのに苦労しました。

「しんちゃん、あんた顔は老牡ライオンみたいになったけど声は優しいなあ!」と。

操山高校同期なのですが、同じクラスになったことはなく、その後同窓会などで顔を会わすこともなかったので、大和君にしてみれば「孤独な年寄りがボッチ飯食いに来たなあ」とでも思ったかもしれません。頼り気ない息子さんも今ではいつでも代替わりできるまでに成長しました。

声を掛けたかったけど、いったんそうしたことをしたら、いままでのようにフラりと店に寄りにくくなるのでやめました。

トンカツ、焼き飯、ラーメン、ハヤシライスとレパートリーが広く値段も安いし、味はフツーに美味しいです。

2018年11月30日金曜日

左大腿骨「内軟骨腫」発見される!

大学病院の腎臓内科で内臓全体のCTを撮る。医師から大腿骨に軟骨腫所見があるので整形外科で診てもらってくださいとのことで翌日(11月29日)再び病院へ。2週間後にMRI検査することになった。症状がないのでたぶん様子見となるらしい。いつからそんなものができていたのか過去のCT画像を検索してもらったら平成15年の画像にはすでに現在と同じくらいの陰が写っていた。今後は年1回経過観察するようだ。

体重を落として骨に対する負荷を減らそうと決意。ただ今96.5kg。来週木曜日までに93キロにしたい。(来週は市立病院で定期検診あり。体重が落ちないのでこのままでは行きにくい)

内軟骨腫 → enchondroma (E)
                   

2018年11月28日水曜日

職務質問

3か月に1度、倉敷市中庄にある大学病院に出かけています。以前から腎機能がやや低く、専門医による経過観察を受けているのですが、ここ数年それなりに安定して推移してきました。岡山市の自宅から中庄の病院までは愛用の電動アシスト自転車を駆って田んぼ道をスイスイ飛ばします。晴天続きの晩秋のサイクリングは快適そのものですが、今日は空模様が怪しく診察が終わったら、茶店になど寄らないで雨が降り出さないうちに帰宅するに限ります。
今日の診察結果ですが、これが私の予想に反して少し数値が悪くなっていました。医師からは「しばらくは毎月1回来院してください」との指示があり、会計を済ませて足取り重く駐輪場に向かいました。
私はいつも交通量の多い旧国道を避けて病院の南側の生活道路を通って田んぼ道に出ることにしています。どの家の庭にも柿がたわわに実り平和な光景です。しかし今日のあまり芳しくなかった診断結果に悄然としながら自転車をこいでいたら正面から道幅いっぱいにパトカーがやってきました。私は道がちょっと広くなっているところによけてパトカーをやり過ごそうとしたのですが、警官は車から降りてこちらに来ます。
「道を譲ったくらいでわざわざ降りてご挨拶してくれなくても……」と思った私は何とおめでたい人間でしょう。「この自転車はあなたのものですか?」これが警官のご挨拶でした。私が16,7歳の少年ならともかく、真っ昼間に70歳の老人がしょんぼり自転車に乗っているのを見て、自転車ドロと疑うのはいったいどういうこと、と思いました。
「近くの人ですか?」、「違いますけど」などと言っているうちに彼らは目ざとく防犯登録シールを読みとったのでしょう。「名前は?」、「パナソニックの、えーと何という名前だったかなあ」、「いえ、ご主人の名前は?」と漫才みたいなやりとりでした。
それにしてもこの電動アシスト自転車はパナソニックとビームスのコラボ商品でなかなかスタイリッシュな仕上がりです。若い人が乗るのも素敵ですが、自動車を捨てた自然愛好派熟年にもよくマッチしているはず、私のセルフ・イメージはおよそこんなものでしたが、他人から見ると自転車泥棒でもしかねない、けしからん老人なのですね。悲しいです。



2018年11月20日火曜日

2年ぶりのバンコク


 10月末に35日の日程でバンコクに行ってきました。旅先で特に行きたい場所があるとか知り合いがいる訳でもないのに、しばらく行かないと何となく出かけてみたくなります。秋のバンコクはよく晴れて暑すぎることもなく、以前に比べ街も落ち着いて感じられました。
 旅先の土地ではタクシーにはまず乗らない私にとって市内を縦横に走る路線バスほど頼もしいものはありません。地下鉄や高架軌道線(BTS)は路線が少なく、駅の階段を上り下りするだけで足にきてしまいますが、次から次へとやってくるバスはボロいけれど本当に便利です。今の時代でもバスには車掌さん(おばちゃんが多い)が乗っていて、乗車するとすぐに切符を売りにきます。
 車掌さんは、私が財布の中のコインを全部取り出し手のひらに載せておくとバス賃を取ってくれます。いつも感心するのは彼女たちの記憶力です。路線バスといってもかなり長距離を走り、停留所毎にお客の乗り降りも激しいのですが、一度料金を支払ったお客にまた切符を買えと言うことは絶対ありません。また停留所でバスの前後の乗降口からどっと乗り込んでくるお客から料金を取り忘れることも決してありません。
 バンコクの路線バスでもICカードの普及を目指しているのですが、見たところカードで払っている人はほぼいませんでした。こんなところはキャッシュレス社会になってしまった中国とは大きな違いがあります。
 一方、高架軌道線(BTS)ではICカードがかなり普及しているようでした。乗車するたびに券売機の前に並ぶのは大変なので15回回数券を買ったのですが大失敗。4日ほどの滞在期間では15回も乗車する機会がありません。有効期限も設定されているので、滞在最終日、切符売り場に並んでいた若者に「これまだ使えますのでどうぞ」と声をかけてみました。笑顔ながら固辞されました。

 考えてみれば言葉の通じない外国人が差し出すカードなんて意味が分かりません。押し売り、あるいは残高ゼロのカードを売りつけるケチな詐欺師? と疑われたのかという気もしますが、そもそもタイの人々はプライドが高く、見知らぬ人から言われなき施しを受けることなど彼らがいちばん嫌うことだったに違いない、と自分の独善的、軽率な行為を大いに反省したタイ旅行でした。

2018年11月14日水曜日

広島平和記念資料館

 だれもが一度は訪れたことがあるであろう、広島の原爆資料館に何十年ぶりかで行ってみました。私が初めて行ったのは学生時代、1970年前後だったと思います。背中の皮がベロンと剥がれた人が逃げまどうレプリカなどが展示してあり、原爆の恐ろしさが如術に伝わってきました。
 ところが半世紀後の現在、公園はきれいに整備され木々が茂り、館内に入ってみると明るい空間が広がり、修学旅行生や外国人観光客でいっぱいでした。外国からの訪問客は一様にゾッとしたような表情でたたずんでいたのに対し、修学旅行生たちは割合平静な様子でした。
私も「何かおかしい、展示物が昔ほどは私に訴えかけてこないのはなぜ?見た後しばらくは夜中にひきつけを起こすくらい強烈な印象だったのに」と思いました。かつてのあの救いがたい感覚、恐怖、暗さ、絶望が入り交じった感覚がわいてきません。その理由を少し考えてみました。
 耐震工事中のせいもあって展示場の面積が縮小されていること、明るい照明と快適な空調の展示室からは以前の生々しい悲惨な展示物が減り、逆に日記や手紙など間接的な資料が増えているように見受けられました。
 いっとき原爆の悲惨さを描いた漫画「はだしのゲン」が図書館の書架から撤去され、子どもの目に直接触れないようにした事件が話題になりました。学校では幼い子どもにそういう配慮も必要でしょう。しかし広島原爆資料館は長崎とともに原爆の悲惨さを伝える世界で唯一の施設です。いかにそれが正視しがたい残酷なものであっても、現実に起きたことをそのまま伝えること以外にこの資料館の存在理由はありません。
  ためらいながらも私は事務所を尋ね、担当の方に展示方法について上記のような印象をお伝えしました。人が焼けこげるニオイ、絶望が伝わってくる、かつての展示方法に戻すべきではないか、説明文ではなく展示物をしてみずからヒバクを語らしめるテクニックが貧弱なのではないか、と。しかし資料館の印象が薄くなった本当の原因は、展示方法のまずさもさることながら、194586日の灰燼に帰した広島も70余年の歳月とともにすっかり復興し、原爆の恐ろしいイメージも時代とともにすっかり風化してしまったことに依るのではないか、そんな気もしました。
 余談ですが、館内にはボランティアの「語り部」のおばちゃんがそこここにいて、おばちゃんどうし楽しげに談笑していました。声をかけると急に真面目モードになりよどみなく原爆被災の様子を生き生きと語ります。彼女たちは見たところ70歳代で直接被爆体験した世代ではないようです。意義ある生活をしている実感があるし、老化防止にぴったりのお仕事です。資料館の外の公園には被爆したアオギリの木があり、ここではおじさん語り部が原爆から生き残ったアオギリの説明をしていました。

2018年11月10日土曜日

ミズナ植え替えなど

タマネギは種から育てた苗300本だけにしておこうと思っていたのに、ホームセンターで赤タマネギの苗が苗ポットに密植されたものが120円ほどで売られているのを見て衝動買いしました。苗をばらしてみると約30本ありました。コスパ最高。一本一本の苗はふつうの苗より細く弱々しいのですが、それでけっこう。一人暮らしでは大きなタマネギは使いづらいのです。

さらに、今度は同じホームセンターで比較的状態のいい赤タマネギの苗が入荷していてまたも追加購入。50本の束です。もう植える場所がないのを無理して畑を作り密植しました。赤タマネギはあまり好きではないのになぜ合計80本も植えてしまったのか?それは謎です。

タマネギを植え終えたら何だかガーデニングに意欲が沸いてきて、種まき以来そのまま放置していたミズナ(水菜)の苗を定植しました。昔はミズナを生で食べる習慣はどこにもなかったのに今やサラダにミズナは定番です。苦みにイタリアのルッコラの風味があるからかもしれません。いっぽう昔のミズナはうまく育てると一株で2~3キログラムぐらいになります。漬け物にしたり、アゲやクジラ肉と一緒に炊いたりしたものです。2月末になると畑の白菜や大根など冬野菜がトウ立ちし始め味覚が悪くなりますが、ミズナはトウ立ちする直前に一段と大株になり味もよろしい。

定植したのは10センチぐらいに育った苗ですが、大小いろいろ。大株や小さめの株ができる方が使いやすいです。

スナップエンドウも2,3日前に種まきしました。ホームセンターではもうかなり大きくなった苗を売っていますが、遅蒔きしてもそれなりに収穫できます。今年は秋に暖かい日が続いているので月末までには苗ができるものと期待してます。月末に里芋やキクイモを堀り上げた跡にエンドウを定植するつもりです。


2018年11月7日水曜日

カナダからのメール

昔、平尾昌晃作曲の「カナダからの手紙」という歌がありました。歌詞の内容はほとんど記憶にありませんが、畑中葉子とのデュエットでセンチメンタルながら楽しい歌でした。日本人がカナダに対して抱くイメージは隣国アメリカのイメージと少し違い、この歌のように何となくロマンチックな要素もあるようです。
実際、米国は軍事力、国際政治力、映画IT産業、ポップカルチャーのいずれの分野でも世界に君臨し続け、陰に陽に世界に貢献し、また同時に圧迫もしています。弱肉強食、銃器による自己防衛は彼らにとって何の違和感もないようです。反対にカナダは形式的には立憲君主制で元首はエリザベス女王。その名代として総督がカナダ首相の上に君臨していることは日本では案外知られていないのではないでしょうか。英連邦の国だけあって社会制度や文化にはヨーロッパの理性と香りが感じられます。
さてそんなカナダですが、今年春に来日し、いっしょに楽しく京都や奈良観光をしたカナダ生まれの従姉妹たちからのメールが秋口からパタッと途絶え、何度かメールを送ってもなしのつぶてです。悪い想像をしてしまいます。“従姉妹達もみんな7080代ともなればだれが突然がんになっていてもおかしくない、事実すでにふたりは故人となっているし、あるいは総勢30人は下らない子どもや孫の家族に何か心配事でもあるのではないか?”などと不安がつのります。遠回しに探りを入れようにもそんなツテはないし、電話はなぜかいつも留守電です。7月の倉敷豪雨の際はしつこいぐらい私の安否を尋ねてきた彼らがもし無事なら私のメールを無視するはずがない……。
やっと連絡がついた従姉妹はメールの冒頭で「I’m sorry, 連絡を取らなかったことについてどんな申し開きもできないわ」と言いつつも、神戸台湾クルーズに続いて夏は香港、9月はみんなでハワイへクルーズ、来週はカリフォルニアのパームスプリングスでゴルフ三昧、おまけにマンション管理組合の理事職、ボランティアなど毎日忙しいのよ! と達者ぶりをアピールしていました。
いやはやよかった! 便りのないのはいい便りと昔から決まっているのに、遠隔地にいるとお互い心配がつのります。みんな高齢になりクリスマスカードで年1回は生存確認する意味がますます大きくなってきました。

2018年11月5日月曜日

タマネギ苗を植えました

(2018年11月5日)

9月に約300粒、種まきしたタマネギの苗が定植の適期になり畑に植えました。タキイ種苗の「平安球型黄」という晩生種です。タキイのホームページを見ると、この品種は植える間隔は10センチと密植するように書いてあり、そのような間隔にしました。タマネギ栽培には黒マルチが雑草防止の観点からもいいそうですが、作業がしにくい上に根を広げて植えることができないので、ふつう通りに植えました。そして近所の農家からもみがらをもらってきてマルチしました。
タイ旅行から帰ったばかりで体が非常に重く、しゃがんで植えるのは無理で、両膝を地面について、はいつくばるようなかっこうで作業をしました。
今日は南風が吹き込んで汗ばむ陽気でした。大きい苗も小さい苗も一本もむだにすることなく植えました。
考えてみると、たまねぎは案外長寿な野菜であることに気づきました。
最初の年の9月 種まき、発芽
(同)       11月 定植
翌年5-6月  収穫、利用しながら玉吊り保存。
翌々年3月ごろ 保存の限界。この時期は北海道産のものがほとんど。そして九州産新タマネギが出回る。

固定種のタマネギなら自家採取できるので一度やってみたいと思います。市販の種はほとんどF1で300粒ほどの種が400円前後します。高いなあと思うのですが、よく考えたら採種用のタマネギ1個から採れる種の数はそう多くはないはずで、高いのも無理ない気がします。
(と、ここまで書いてネットで調べてみると、採種用に植えたタマネギは株が4~5個に分球し、それぞれ花茎を伸ばすようで、種も相当採れるみたいです)。




世界一高い仏塔

バンコクから西約50キロメートルほどの大平原の中に高さ120メートルの仏塔があります。仏塔がある町、ナコーンパトムまで行きは国鉄、帰りはバスで見物に行きました。交通費の安さには驚かされます。片道200円ほどです。ちなみにバンコクの地下鉄は距離別料金ですが一回乗車すると約120円です。
仏塔は駅前にあり予想していたものよりはるかに壮麗!4世紀ごろ原型の仏塔が建てられたとか。世界遺産申請中だそうですが、早急に実現すべき価値があると思います。
塔の内部には入れませんが、外壁のところまでは自由に行けました。

しょっちゅうバンコクに行く私ですが、郊外にこのようなすばらしい建物があることを知りませんでした。観光客もほとんどなく、駅から仏塔までの参道(?)には素朴なおみやげを売ってる店は何軒かありましたが、レストランがなく困りました。コンビニでおにぎりとサンドイッチを買って食べました。

2018年10月29日月曜日

10月30日から11月3日までバンコクに行きます

いつもよくいっしょに旅をする、昔の職場の後輩君と久しぶりにバンコクに行きます。たぶん3年ぶりぐらいのバンコク。関空発のLCC、スクート航空直行便。バンコクの空港は昔のドンムアン空港です。1972年(と思う)ヨーロッパからの帰りエアーフランスの南回り便でバンコクに立ち寄ったことがあります。そのときはバンコクについてまったく情報がなく、空港近くのホテルに1泊しただけでした。そんな小さな名もないホテルでもチェックインと同時に宿のオヤジがアルバム持参で部屋までご注文伺いに来たのにはびっくりでした。
バンコクの中心部にある王宮や暁の寺、パッポンの歓楽街などの存在を知っていたら少なくとも1週間は滞在していたと思いますが残念。
今回は航空運賃とホテル4泊込みで3万5千円ぐらい。安過ぎます。

広島・宮島1泊旅行(下)

10月中旬に広島まで1泊旅行した話の続きです。翌朝は秋晴れの気持ちいい日でした。広島と言えば「安芸の宮島」は外せません。とりわけ世界遺産に登録されたあとの宮島が今どうなっているのか見てみたい気がし、ホテル前の電停から広電の宮島口行きの電車に乗りました。
2両編成の路面電車は今どき珍しい車掌が乗務しており乗客の乗り降りの案内、切符やカードの販売からチャージまであれこれ手助けしていました。運転士は安全運転に気持ちを集中できるし、車掌の存在理由は絶大です。沿線には女子校もあり車内の治安にとっても広電は最高にスタイリッシュで贅沢なサービスを提供していると言えます。
宮島は京都や奈良と同様、修学旅行の生徒と外国人観光客がとくに目立ちました。ちょうど干潮で海の中に屹立する大鳥居を間近に見ることができました。厳島神社と言えば平清盛が作ったものとばかり思っていたのですが、ちょっと調べてみると実は推古天皇元年(593)に地方豪族の佐伯氏が創建したものだとか。その時代からずっと存在し続け、今や世界中から観光客を集めているのですから本当にすごいものです。
水族館に続く道の途中に落ち着いた喫茶店があり立ち寄ってみました。店内では白人の若いカップルが静かにコーヒーを飲んでいます。ほかにお客はいません。こんなときどこから来たのか聞かないではいられないのが私の性分。「えっ」という顔をしながらも「スイスのジュネーブからです」と答えてくれました。
私は待ってましたとばかり、質問を英語からフランス語に切り替え、いろいろ聞いてみました。日本にはもう5回来ている、日本は何を食べてもおいしい、滞在期間は2週間、自転車で旅行していて、今治から尾道までしまなみ海道を4日間かけて渡ってきた、電動アシストではなくふつうの自転車。きょうはこれから弥山に登るところだ…。近年こうしたdeepな旅人が増えてますね。
彼らが登山に出発するのを「マムシに気を付けて」などと見送ったあと、私は広島市内まで、今度はスピードの速いJRの電車で戻り、ひろしま美術館で開催中のブリヂストン美術館展(1216日まで無休)を堪能しました。短い滞在時間でしたがいろんな出会いと新発見があった楽しい広島、宮島旅行でした。


2018年10月24日水曜日

広島・宮島1泊旅行(上)

1019日金曜日、広島東洋カープがマツダクライマックス・セリーグ・ファイナルステージでジャイアンツに5-1で勝利したその日、私は広島にいました。YouTube系英会話のセミナーに参加するために岡山から広島まで高速バスで出かけたのです。
バスが福山を過ぎ、私は美しい備後の山並みの風景を楽しんでいたのですが、至るところに小規模な山崩れの痕跡があり7月豪雨がいかにひどかったかを物語っていました。バスが広島市街地の中心にあるバスターミナルに到着し、そこから歩いて数分のセミナー会場に行こうとしたとき、私は街の巨大さにのみ込まれ、方向感覚を失い途方にくれました。
岡山に住んでいながら広島に出かける機会はほとんどなく、岡山市程度の街だと高をくくっていたのが間違いでした。広島は単なる地方政令都市ではなく福岡のイメージに近い大都会でした。しかし昭和40年代に一度訪れた広島は確かに岡山と同じぐらいの規模の街だったはずで、違いはその後の30年間にできたものと思われます。広島が高速道路や新交通システム、アストラムラインを整備させ、郊外の住宅地と都心を直結する公共交通機関を発展させたのに対し、岡山県と岡山市はこの30年間いったい何をしたのでしょう?朝晩いつも渋滞する道路、貧弱な公共交通機関しかないないからマイカーに頼らざるを得なく、それがまた大渋滞に拍車をかける悪循環です。
さて私が出席した英会話セミナーというのは、「HAPA英会話」という動画をYouTubeで配信している、日米ハーフでバイリンガルのジュン先生が、毎年日本各地を巡回しながら行っているセミナーです。YouTube上には星の数ほど英会話サイトがありますが、私にはこのサイトが一番役に立っています。
広島会場での受講者は約30人でした。場所柄、マツダ関係のサラリーマンや米軍岩国基地で働いている若者もいて、皆さん必要に迫られて勉強している人が多く、私を含めよくしゃべる人が多かったです。おそらく私が最年長でしたが、久しぶりに若い人に混じって勉強する楽しさを味わいました。
夕方6時半から始まったセミナーが終わったのは夜8時半ごろで、会場の外へ出ると街はカープ勝利に沸く市民でお祭り状態。広島の夜は熱気に包まれていました。(続く)

(白シャツのイケメンがジュン先生)


2018年10月17日水曜日

総社、井原、福山を鉄道で周遊

7月豪雨による小田川決壊からちょうど100日目に当たる10月7日()、井原鉄道に乗って山陽路をたどってみました。これまでも矢掛や井原には車で出かけたことは何度もありますが、井原鉄道に乗ったのは初めてでした。3か月前の真備町の大洪水の際、町並みも田んぼもすっかり水没しているなか、井原鉄道のコンクリート製の高架橋だけがまるで希望の架け橋のように果てしのない水面に浮かんでいました。
そんな井原鉄道ですが、端から端まで一度は乗ってみたいと前から考えていたことがやっと実現したわけです。JR庭瀬駅から伯備線に乗り清音で井原鉄道に乗り換えました。1両だけの気動車が高梁川を渡りきるとすぐにテレビ報道で繰り返し目にした倉敷市真備地区に入ります。
車窓から見る風景は一見のどかな住宅街でしたが、よく見るとどの家も窓ガラスがなくがらんとしています。田んぼに目をやるとずっしり稲穂が垂れているはずの水田には雑草が茂るのみです。いかに耐え難い過酷なことがおきたことか。多くの住人が命を落とし、家を失い、地域で築いてきた生活を失い、思い出さえ失ってしまったことを映画のセットのような廃墟が物語っています。
気動車が西へ向かって進んでいきやや高台になっている地区に達するともはや洪水の影響はなく黄金に輝く水田が広がっていました。わずかな土地の高低差が運命を分けてしまうこともまた過酷な現実です。
途中、井原市の「子守唄の里高屋駅」で下車し、駅前にある華鴒大塚美術館に寄りました。日本画の金島桂華の作品を中心に珠玉のような名品を集めた美術館です。日曜日だというのに訪れる人もまばらで、ゆっくり日本画の静かな世界を堪能できました。ちなみに高屋は“ねんねこしゃっしゃりませ 寝た子のかわいさ”で有名な「中国地方の子守唄」発祥の地だそうです。
再び井原線の車中に戻り、神辺でJR福塩線に乗り換え、福山駅のレストランで牡蠣フライをあてにビールを1杯飲んで、快速サンライナーに乗って倉敷、庭瀬と帰ってきました。
平凡な日常生活、日曜日のちょっとしたプチ旅行、大きな不幸がないという幸せ……、若いころ軽蔑していたこうしたことがいかに得難い幸せであったことか、身に沁みて感じられた秋の1日でした。

( 真備地区)

(はなとりおおつか美術館庭園)

2018年10月7日日曜日

追悼・鬼才木彫家が残したもの・小林陽介遺作展

日曜日朝のNHK教育でやっている日曜美術館。各地で開催中の特別展の紹介は美術に触れるいいきっかけになります。こういう番組を続けられるのはNHKならではです(いつも文句を言ってますが)。

牛窓にある瀬戸内市立美術館で9月1日から10月21日まで、木彫家・小林陽介の遺作展が開かれているのを番組終わりの紹介コーナー、アートシーンで知り、さっそく出かけました。車がないので電車とバスを乗り継いでいかざるをえない牛窓ですが、庭瀬駅から乗り換えなしで邑久駅まで約30分、バスに乗り換え25分ほどで牛窓に着きます。

実は小林陽介という彫刻家がいたことなどまったく知りませんでした。しかも昨年(2017)夭折。瀬戸内美術館は早くから小林陽介を積極的に紹介してきた希有な美術館です。会場に入ったら岸本員臣館長がちょうど解説を始めたところでした。私はもともと彫刻は絵画ほど好きではないのですが、そうした先入観は今日で捨てました。びっくり仰天です。実物の彫刻に刻まれたノミ跡に作家の息づかいを感じます。

私は館長先生をつかまえていろいろお伺いしたのですが予備知識ゼロの私に丁寧に応対してくださいました。作品のほとんどが個人蔵で前回、瀬戸内美術館で展覧会をしたときに出品した作品が今はだれが所有しているのかまったく分からないケースもあるそうです。ふつうの人がふつうに買っていったものが、持ち主の死に際して死蔵されたか粗大ゴミ扱いで捨てられたのかもしれません。

私は小林の作品が世界的な評価を受けるようになるのにそれほど長い年月はかからないだろうと確信しました。

会期は今月21日まで。もういちど見に行きます!



2018年10月2日火曜日

オプジーボのCMに狂奔するNHK

今年も日本人がノーベル医学生理学賞を受賞したといううれしいニュースが届きました。がん治療薬「オプジーボ」の開発につながった京都大学の本庶佑先生の研究が評価されたということです。
ニュース第1報を伝えるテレビ各局のキャスターは皆さん北朝鮮のあのニュースおばさんばりのもったいぶったような、誇らしげな顔つきです。本庶先生の功績がいかにがん患者にとって光明になっているかについて記者会見での発言やインタビューを通して詳しく報じていました。日本の教育・研究水準が、将来はともかく、今日まで一流レベルを保ってきたことがだれにもよく分かる受賞で喜ばしいことです。
ただ一連の報道を見て気になることがいくつかありました。まず第1には受信料で運営されているはずのNHKなのに、小野薬品が開発・販売している医薬品「オプジーボ」について商品名を連呼しつつ、販売価格の変遷についてまで紹介していたことです。コマーシャルはおろかメーカー名が特定できるような映像は昔は皆無だったNHKがいつのまにコマーシャルを解禁したのでしょう?
早々「NHKふれあいセンター」に電話して尋ねてみました。回答は「すばらしいニュースだったので詳しくお伝えした」などという訳の分からない返事。同じNHKの「きょうの健康」など患者が具体的に医薬品名を切実に知りたいなと思う番組では薬品名(商品名)を言わず一般名や化学名でしか伝えていないことと大きく矛盾します。とにかく昨夜のNHKニュースはまるで小野薬品のコマーシャル特番かと疑うほど異様なものでした。
次に気になったのは、受賞の第1報が届いた京都大学の先生の研究室の光景です。先生は「若い人々といっしょに研究できて幸せ」というようなお話をされていましたが、問題はその「若い人々」のお顔。大半の男女研究員・学生院生は外国からの留学生のように見受けられました。日本の若者にとって魅力がない大学院をこのまま放置していては、やがてはノーベル賞も日本を素通りするようになるでしょう。
ちなみに、最新の世界大学ランキングによると日本はトップの東大ですら世界86カ国、1250校中で42位、京大は65位。トップテンは米英が独占しています。1校でいいから日本もそこに食い込んでほしいものです。

2018年9月22日土曜日

雨がよく降ります

週末外国人観光客が激減した大阪にきました。ビジネスホテルの眺望のない部屋の窓から激しい雨の音が聞こえてきます。何だかいい感じ!昔見たフランス映画のワンシーンを思い出します。たしかアラン・ドロン主演の「サムライ」。殺し屋稼業の一匹狼のアラン・ドロンがねぐらにしている安アパートに帰ってくる。外は雨、トレンチコートがカッコいいのです。ドアを開けて部屋に入ると飼っているカナリアがかごの中で落ち着かない。とっさに異変を感じピストルを取り出します。別の殺し屋が留守中に忍びこんでアラン・ドロンが帰ってくるのを待っていたのです。間髪入れず侵入者を始末し、殺し屋は追っての刑事たちをパリの複雑な地下鉄網を乗り継いで撒いて、次の殺しのターゲット依頼を受けている女性ピアニストが働くラウンジに近づく、、、ピアノを弾いている女は殺し屋の接近にたじろぐ。実は殺し屋はこの女に好意を寄せていたのだ。殺し屋は100発100中のピストルの狙いを定める。銃声がラウンジに響き渡る・・・

そのアラン・ドロンもいまや82歳のおじいさんになってしまいました。先日BSで特集をやってたのを録画しました。60年代は面白い映画であふれていましたね。

もう一度、プーシキン美術館展、プラド美術館展をつかの間の静けさを取り戻した大阪・神戸で見て帰ります。

2018年9月14日金曜日

早くも関空復活

前回このコラムで「危なっかしい関空」と書きましたが、それから10日間が経過し本日(914)1ターミナルも部分的ながら搭乗業務を再開しました。空港が発表した国内線、国際線の発着予定を一瞥した印象ではほぼ以前の空港機能を取り戻した感があります。鉄道も当初予定よりかなり早く、今月21日には運転を再開できる見通しです。
この復旧スピードを“早い”と思うか“遅い”と感じるかは、人それぞれでしょう。しかし年に何回かしか関空を使わない私は「えっ?もう元に戻ったの?」という驚きを覚えたのが正直なところです。台風によって一瞬で壊れた空港が瞬く間に復活するのを見ていて、空港の強靱化は必須であるにせよ「どんな災害にも大丈夫な空港を作ろうとする」よりも「壊れても迅速に復旧させるだけの資金繰り、技術、シミュレーション、システム等があればそれでOK」と考える方が無理がなくまた現実的であると感じました。
というのも関空を始め近畿地方に未曾有の災害をもたらした台風21号が北海道に達したその夜、北海道南部で震度7の大地震が起き、全道が停電(いわゆるブラックアウト)するという非常事態に見舞われました。このように日替りでメガ・ディザスターが襲う日本列島にあっては自然災害に力業(ちからわざ)で抗うことにはおのずと限界があります。
そういえば千年の都京都や世界一平和な大都会だった江戸の町は繰り返し大火に遭ってきましたが、その都度より美しく町並みが再建されてきた歴史があります。紙と木で作られた家屋は簡単に燃えてしまうけれど建て替えも早いものです。それに引き替え地中海沿岸地方にあちこち残る古代ローマ時代の都市の廃墟は今も廃墟のまま。家屋、上下水道、大浴場や劇場などすべてが石でできた古代ローマの遺跡を見ると、石造りの建造物は強固な代わりにいったん廃墟になればその場所での再建は不可能であることを現代に伝えています。柳に風の日本とは大違いです。
現代では鉄とガラスとコンクリートでできた建造物が大きく破壊されてもテクノロジーと十分な資金があれば比較的短期間で再建されることは今までも経験済みです。地震や台風の襲来を過度に恐がることもないな、とほぼ復活した関空の映像を見つつ頼もしく思いました。

2018年9月12日水曜日

タクアン大根

双葉が出そろいました。畑が狭いので他の種類の大根は作れません。漬物用といっても大根には変わりないので間引きながら食べる予定です。タクアン用に収穫する目標は30本くらいです。

2018年9月5日水曜日

危なっかしい関空

台風21号が直撃した関西国際空港は開港以来という甚大な被害を受け、3千人もの利用客が空港ロビーで身動き取れなくなりました。翌日になってやっと高速船とバスによる島外への脱出ルートが確保されました。空港ロビーで不安な一夜を過ごした方々には心より同情いたします。停電と空調ストップ、旅程を中断させられたあせりやいらだち、情報不足は大変なストレスをもたらしたと思います。閉所恐怖症の人でなくてもあの状況では頭が変になりそうです。
空港に閉じこめられてしまった3千人もの人々に対してネットでは同情の声はあるものの大半のコメントは「台風による欠航は予想されていたのになぜ空港に行ったのか?」と非難するものでした。今回の件に限らずネット社会は水に落ちた犬を棒でたたく人であふれていますが、だれもまさか空港のロビーで立ち往生する運命が待っていると分かって行動したわけではありません。
あの日(94日)空港は閉鎖されていなかったし、コンビニなど空港内の店舗、ホテル等は通常営業していました。国内線各社は早朝から欠航を決めていましたが国際線の運行状況はネットでも分かりづらいものです。とりわけ外国の航空会社に関しては電話で問い合わせようにもそもそも電話窓口が不明瞭、あっても日本語対応していなかったり、オペレーターも非常事態の際の運行状況なんて正確には把握していません。そんな場合は空港のカウンターまで行ってそこで案内を聞くなり、代替サービスの手配をお願いするのが一番確実です。「とりあえず空港まで行ってみる」は基本的には正しい行動だと思います。
しかしながら、この法則は陸上にあるふつうの空港について言えることであって、関空やセントレアのような海上空港については話は別です。人工島は台風の直撃を受けたり巨大地震や津波に襲われればたちまち逃げ場のない地獄と化すことは旅行者も常に意識しておくべきでしょう。

ちなみに同じ近畿圏にある神戸空港は今回の台風による建物や滑走路に対する被害もなく、台風が通過した4日の夜にはもう航空機の離発着を再開していました。関空は国内線専用の神戸空港に比べはるかに重要な空港であり、テロだけでなく自然災害にも抵抗力のある強い空港に早急に改良すべきと感じた次第です。

2018年8月31日金曜日

水害被災地、スマホデータ量無制限

携帯電話通信費を抑えるために契約データ量をま2ギガにしています。家ではwi-hi 接続にし動画を見たいだけ見ていますが、時々wi-hi をオフにしたままYouTubeたど見ていてあっという間に契約ギガ数を使いきり、翌月1日まで超スローな送受信にされてしまうのが常です。追加ギガなど絶対購入しません。
ところが8月も10日ほど残した時点で契約ギガ数を突破しているのに、動画がいままでと同じように見られるので、不審に思い、ドコモに電話してみました。オペレーターいわく、岡山県は被災地指定地域なので8月いっぱい通信速度をしていません!だと。こういう有用な情報はもっと早く気づくべきでした。せっかくの無料ギガが使えるのが月末のたった1日だけなのが悔しい。
政府は携帯電話事業でぼろもうけしている業界に4割の値下げが可能と政治圧力をかけていますが、ドコモに限らず公共料金が家計を日常的に圧迫するパターンが確立しています。ゆゆしいことです。

2018年8月29日水曜日

高濃度フッ素入りハミガキ

昨年カナダとイタリアに旅行した際に現地で入手したチューブ入りのハミガキを記念に自宅まで持ち帰りました。ごくありふれた普通サイズのハミガキで、日本で使っているものと特に変わるところはありません。
使い残しのハミガキなんか空港のセキュリティ・チェックでトラブルのもとになるだけなので現地においてきてもよかったのですが、貧乏性の私はまだ使えるものをポイと捨てることなどできません。イタリアにいっしょに行った友人などは旅のガイドブックや洗濯物なども帰国前に「はい、ご用済み」とばかり無慈悲に捨てます。バチ当たりです。
さてカナダから持ち帰ったハミガキは滞在中泊めてもらった従姉妹が私のために用意してくれていたものでP&Gの「クレスト」。またイタリアで調達したものはホテル近くのスーパーで買った「コールゲート」ブランドの商品でした。
最近になって、ともに愛用しているこれら外国製のハミガキにある共通点があることに気づきました。それはフッ素の含有量が日本の通常のハミガキより多いということです。日本では従来1000ppm未満のものしか認可されていませんでしたが、20173月から1500ppmまでのものが市販されるようになりました。スーパーやドラッグストアでよく見かけるのは1450ppmの商品で、“薬用”とか“高濃度”と表示してあり、6歳未満の子どもには使用させないこと、という注意書きもあり従来品との違いを強調しています。
ところがカナダから持ち帰った「クレスト」に表示されたフッ素濃度0.243%ppmに換算すると2430ppmになり相当高濃度です。6歳以下の子どもが使用する際は豆粒ほどの量に限ると警告していますが禁止はしていません。イタリアから持ち帰ったものは1450ppmで、この濃度は日本の新基準と共通しています。

また、スウェーデンでは驚いたことに5000ppmの市販品まであるそうで、欧米諸国は高濃度のフッ素を恐れることなく虫歯予防に積極的に取り入れてきたことがうかがえます。フッ素添加の効果なのか、欧米人は甘いものをよく食べている割には虫歯の人が少ない気がします。私の子ども時代にこうしたハミガキがあったら、この年になって後から後からインプラント手術を受ける金銭的、肉体的恐怖もなかったろうに、と残念至極です。

2018年8月24日金曜日

庭にマムシ出現

秋口にはマムシが子どもを産む時期なので動くものには何にでも噛みつくので特別用心せよ、と父がよく話してくれました。

今日の午後、屋根の上で干していた桑の葉が風で飛んで庭に散乱し、回収していたときのことです。側溝に土が溜まりいつも湿っているので草が生い茂り、蛙もそこで大繁殖しています。その草の上にも桑の葉が何枚か落ちていたので拾おうとしてびっくりドンキー! なんと中ぐらいのサイズのマムシがいるではありませんか。背中の銭型模様と三角形の頭がマムシの証拠。それにふつうのヘビは人を見ると逃げますがマムシは逃げません。しかし草が繁っているので見失いました。動物の殺生がきらいな私は放置すべきか駆除するか迷いました。こんな自転車置き場の横にマムシがいるとなると夜自転車で帰って来て踏みつけがぶりとやられたらもうお仕舞いです。119番できれば助かるかも知れませんが後遺症が残るでしょう。

とにかく目の前の事態に決着を着けなければなりません。そこで水道のホースから水を勢いよく出してマムシを隣家に放逐しようとしたら大胆不敵にも溝から出てきてコンクリートの上でとぐろを巻いてこちらを睨んでいます。ホースの水圧でマムシを溝に追い込み、一旦その場を離れて金属製の三角ホーを片手に溝の草を剥ぎ取っていたらくだんのマムシがまた出てきました。生け捕りにして山奥に捨てられればいいのですが、コンクリートの擁壁に押し付けたもののなすすべもありません。

夏目漱石の夢十夜に出てきそうな緊迫の膠着状態がしばらく続いたのですが、右腕にひときわ力を込めてコンクリート壁にグリグリ押し付けました。私はまだ動いているマムシを三角ホーの先に引っ掛け、20メートルほど離れた草むらに投げ込みました。あとは自然にお任せです。しばらくは棒キレを見てもビクッとすることでしょう。

桑の葉でお茶を作る

桑の葉には血糖値を下げる効果がある物質が含まれているそうで桑の葉茶が通販でよく売られています。昨日、台風が来る前に庭の桑の木の剪定をし大量の葉っぱの始末に困り思いついたのが桑の葉茶の製造でした。
お茶の場合もそうですが、生の葉をそのまま乾燥させるのではなく、新鮮な葉っぱをただちに蒸気で蒸す工程が大切とのことです。酸化酵素を不活性化させるのが目的とか。蒸し器を台所の天袋から探し出すのもめんどうだったので、レジ袋に桑の葉をぎっしり詰めて電子レンジで1分ほど加熱しました。そしてそれをお日様に当てて干すのですが、昨日は干している途中で雨模様になったのでいったん取り込み冷凍にし、本日再度台風一過の晴天を利用して屋根の上で乾燥させているところです。
きのうは生乾きの桑の葉の一部をドライヤーで乾かし、次いでフライパンで空煎りしてみました。さっそくお茶にして飲んでみたらすっきり、さわやか味の桑の葉茶になっていました。嗅覚障害が治ってなく、香りはよく分からないのですが、これで血糖値が下がり、中性脂肪も下がるのなら安いものです。

子どものころお隣のおばあさんが初夏のころ山に行って「ニンドウ」を竹かごいっぱ採取して帰っていました。ニンドウとはスイカズラのことで漢方でも生薬として使うそうです。おばあさんはそれを一気に蒸してそのあと天日で乾燥させ年中お茶として飲んでいました。おいしいお茶だったので私も長年作ってみたかったのですが、「蒸す」という工程を忘れていてうまくいきませんでした。ニンドウはジャスミンそっくりの花がさく蔓草です。「蒸して干す」これさえ覚えておけばおよそどんな植物でもお茶になりますね。

2018年8月23日木曜日

大が小を呑む

庭のアマガエルを食べるのはヘビだけではありません。何と3センチくらいの土蛙が1センチくらいの子どもの土蛙を丸呑みしていました。個体が増えて餌が乏しくなり共食いしているのでしょう。ヘビは土蛙も食べているはずで、しょくもつ連鎖というけれどおよそ生物は常に他の命を奪うことでしか存在できません。悲しいけれど生命とはそういうもののんですね。

2018年8月22日水曜日

人生で出会った人々①ウド・ベンシュ(ドイツ人の友人)

70歳になったのを契機にこれまでの長い人生で出会った印象深い人々のことを記憶に留めておきたいと思い、ここに随時掲載させていただきたいと思います。もとより無名の一介の退職老人が自分の「交友録」など書いたところで「なにそれ?」と失笑を買うだけのことにしかならないのはよく承知しています。それでも有名人、普通の人々を問わず、私なりの印象深い出会いがあったことも確かなのでプライバシーには配慮しつつなるべく具体的なエピソードを語りたいと思います。
さて第1回目は旧友ウド・ベンシュ君。ドイツ人(1952-)1972年、まだ二十歳の若者だったドイツ人青年ウド君たち3人と最初に出会ったのはフランス・アルプス、モンブランの中腹にあるエギュ・ド・ミディという展望台でのことでした。私は東京の大学5年生、休学してアルジェリアに半年滞在したあとの3ヶ月の長い夏休み。ユーレイルパスを使って西ヨーロッパの各地を旅していた途中でのことです。
「写真を撮ってくれる?どこから来たの、西ドイツ、日本人?そうだよ……」。エギュ・ド・ミディ峰は欧州最高峰(4810m)のモンブランの中腹にあるとはいえ富士山山頂と標高がほぼ同じでそこまでロープウェイで一気に登れます。足腰の悪い老人でもアルプスの山々を見下ろす絶景のポイントで最高級の料理とワイン、コーヒーが楽しめるところが日本の山岳観光地との決定的な違いです。
ウド君たちは高校を出て地元市役所に就職したばかり。当時のドイツでは日常シーンで英語ができる人は少なくその後のドイツ旅行では苦労したものですが、ウド君たちは聞き取りやすい英語をしゃべってくれました。日独の若者4人がまるで10年来の親友のように楽しそうに歓談していたら、そこにスウェーデン人のおばあさんが加わってきました。
するとウド君は「先の大戦ではドイツが貴国にとんでもないご迷惑をかけ……」と謝罪を始めたのにはびっくり仰天。おばあさんは「何言ってんのよ、あなたまだ生まれてなかったでしょ?」と笑ってたしなめました。ドイツでは中学校あたりでそういう歴史教育をしていたのかもしれません。ともかく、それがウド君との生涯にわたる長いつきあいの始まりでした。

私は中学生のころドイツ文学に熱中し小説や詩を片っ端から読みました。ゲーテの「ファウスト」は中学生にはなかなか歯が立たない作品でしたが、トーマス・マンの「トニオ・クレエゲル」、ヘルマン・ヘッセの「郷愁=ペーター・カーメンチント」などはちょうど思春期から大人になろうとする時期の若者の心の躍動、挫折をもどかしいくらいロマンチックに描いていました。その魅力は20世紀前半のドイツ文学特有のもののように思われます。
中学生の私は主人公になったつもりで湖のほとりにある寄宿学校や友人との出会いを夢想したものですが、ウド君たちに出会ったとき、まさに小説を通じて育んできたことが目の前に実現した思いがしました。「ぜひドイツの我が家に寄ってほしい」という言葉に勇気づけられて、2週間後にはドルトムント近くのイザローンという町の駅頭に降り立ちました。駅まで迎えにきてくれていたウドに再会し、家に連れていってもらい、両親に紹介されました。
お母さんが作る家庭料理は「ドイツは料理がまずい」という定説を覆すもので、すっかり私はこの家の息子になってしまった気分でした。それ以来、ヨーロッパに行くときは必ずイザローンに寄りました。ある夏はいっしょにインスブルックの登山学校主催のハードな山岳トレッキングに参加したこともあります。
そのうち私も仕事が忙しくなったのとウドも結婚して娘3人のパパになり、お互い日々の生活に追われ次第に音信も途絶えてしまいました。しかし今から10数年前に思い切って電話したのをきっかけにまたメールでの交遊が復活しました。
ウドは仕事のストレスで市役所を早期に退職したこと、娘はそれぞれ立派に育ったこと、ダイアナ妃似だった奥さんも欧米人にありがちな堂々たる体躯になったとはいえ、控えめな眼差しは昔のままだということが分かりました。私をいつも暖かくもてなしてくれたご両親は認知症を患い、一人息子のウドの苦悩は私の苦悩と共通するものでした。

先日、私は近況を伝えるとともに近々機会があればドイツを再訪したいとメールしたのですが、まだ返信がありません。心配なのでこの秋にでも安いチケットを探して、我が青春のドイツの町を再訪したいと思います。

晩夏の庭

今まで自然災害とあまり縁がなかった岡山県ですが、予報では台風20号が岡山、兵庫辺りを通りそうです。例によって何の対策もできないし、通り過ぎるのを待つのみです。
カマキリが自転車のサドルに止まっていました。庭の夏スイセンは増えも減りもせず70年間、この時期ピンクの花を咲かせます。
庭の水栓のそばにヤツデとアジサイがあり、アマガエルの子どもがいっぱいいたのに今日見たら数が激減していました。よくみると50センチくらいの若いヘビがいてそいつがかたったぱしからアマガエルを食べているみたいです。このヘビは2ヶ月ほど前ににもいました。大きさは鉛筆くらいで自分と同じくらいの大きさのミミズを飲み込もうとしていました。どうもそれが生き延びて若ヘビになったようです。いちおう追い払ったのですが、その辺に隠れたのでまたすぐ出てくるでしょう。カエルも親になれるのは100匹に1匹くらいでしょう。自然の摂理はなかなか厳しいです。

2018年8月20日月曜日

dポイントカード続き

昨日ドコモショップでもらってきたdポイントカードの続編です。カードとして独立したものがまた1枚増えてしまいましたが、けさになって”おさいふケータイ”に組み込めないかと思ってやってみたら即登録できました。何だか7歳の子どもに返った気分で近所のローソンに行って記念すべき初買い物をしました。ロッテトッポを2個レジにもっていってスマホでピッと支払い。何だ、全然問題なく使えるじゃないか!ということで、結局dポイントカードの存在理由はありません。即刻財布から追放しました。ほかにもwaonのマークがついたカードが3枚、貯まらないのにタマルンなどという名前のカード、その他多数あり。
幼児にもどった私は、ポッキー2箱自転車のかごに入れてマドモアゼルの喫茶店へ直行、私の話を辛抱強く聞いてくれるマドモアゼルに1箱プレゼントしました。マドモアゼルは明日から10日間、両親や甥っ子とカナダへバカンスに出かけます。10日間も店が閉まるので私が快適に時間をつぶせる場所がなく困ったことになりました。

複雑怪奇dポイントカード

酷暑のあと朝20度前後まで冷え込む日がある不思議な夏ですが、早生の稲に穂が見え始めて季節は晩夏といったところです。

先日来、ドコモからdポイント3000点が8月末で無効になるとご親切なメッセージが繰り返しスマホに届きました。これらのポイントは使用期間と使い道に制限があるので早く使えということですが、ドコモのサイトの「ポイントを使う」というところを見ても、どうやれば実際に使えるのかまったく分からず、「そんなもので悩むのはばかばかしい」と無視。ところが有効期限が近付くにつれますますひんぱんにメッセージが届くので、本日夕方ついに接客態度最悪のドコモxx店まで田舎道を自転車をこいで行きました。「古希を迎えたジイサンがdポイントなどという訳の分からない、みみっちいポイントのためにこうして自転車に乗ってる」と思うと泣けてきました。でもローソンで3000円使えるのなら缶ビールがずいぶんたくさん買えるなあと気を取り直してショップへ。

みなさん通信大手のこんなポイントシステム、理解できます?ショップの木で鼻をくくったような中年社員はさも人をバカにしたような態度で何やらササッとカードをよこして「ハイ終わり」という感じ。私:「これでポイントがこのカードに移ったの?」と聞いたら、カードにポイント残が記録されているのではなく、カードのIDがドコモのポイント口座とひもづけられているだけということでした。要するにローソンでビールとかお茶を買うとその情報が即座にドコモにも流れていることになり、その情報提供の見返りに100円につき1円還元するということのようです。それにしてもなぜこんな似非通貨がはやるのでしょう。
日本はまだ現金でコンビニで買い物できますが中国とかスウェーデンでは急速にキャッシュレス化がすすみ、このごろ上海でコンビニにいくと自分などいかにも時代についていけてない老人(おまけに小日本人)だと思われているようでちょっといやですね。
とりあえず月末までにローソンでビールを買うのは忘れないようにしないと。

2018年8月15日水曜日

敗戦の日 土蜘蛛

終戦の日、台風の影響で恵みの雨が降りました。大体はこの頃をさかいに朝夕涼しくなり、秋の種まきの準備にかかるのですが、気力がわいてこないです。90歳前後の敗戦体験者の痛々しい、癒えることのない、PTSD 的告白の記事が新聞やネットニュースに載っているのを読むと落ち込みます。我々が生まれるほんの1、2年前の出来事です。

玄関わきの壁に一匹の巨大な土蜘蛛が張り付いていて、ドアを開け閉めしても逃げようとしません。丸々と太っているところをみると、卵を抱えている雌蜘蛛かもしれません。足を広げると10センチはありそうな官能的な姿態を思わずカメラに納めました。

歌舞伎の土蜘蛛は悪霊の化身として舞台の右ひだりにシャーッと糸を放ちますが、現実の土蜘蛛が歌舞伎みたいにシャーッとやるものなのか?謎です。真夏の太陽の熱でお腹の卵を温めている土蜘蛛の平和な午後。これを神の恩寵と言わずして何とよんだらいいのでしょう。(と、コーラン風に)

2018年8月7日火曜日

加古川に絶品かき氷あり

連日の猛暑にはぐったりです。こんなとき食べたいのがかき氷。子どものころ、岡山・細謹舎書店横にあったカニドン(現在はかつての店舗向かい2階で営業)でミル金を食べるのが夏の楽しみでした。2,3年前なつかしくて一度出かけたのですが子どものころのような感動はなかったです。
おとなになったらかき氷くらいではあまり感動できないものだと思っていたのですが、先日加古川の友人を訪ねたとき駅前のデパート、ヤマトヤシキ1階にある和菓子屋「三河屋」で宇治小倉ミル金を食べました。新雪がフワーっと重なったような食感で感動モノでした。わざわざそれを味わうために出かける価値あり(ミシュラン3星のこころ)と思いました。

2018年8月5日日曜日

アメリカESTA

カナダeTA(電子渡航認証)の続きですが、前回下記のように「滞在中の所持金」という項目を飛ばしたために「所持金ゼロ」と回答してしまった、と書きました。しかしその後他の3人分の申請書を記入したときも「所持金」の項目はありませんでした。「飛ばした」と思ったのはネット上にあったサンプル、あるいは引用画面に「所持金」欄があったので、「しまった」と思った次第です。

質問項目は本人が記入しているのか代理人が記入しているのかとか、年齢や職業によって以降の質問内容が変化するので、あるいは滞在費についての質問が出てくるのかもしれません。よくわかりません。ともかく残りの3人のうち2人は「引退」、1人は「12歳」で、当然職業に関する質問は出現しませんでした。認証も手数料7ドルの支払い完了と同時にOKになりました。
私の推測ですが、やはり「女性 独身 妙齢」の回答をシステムが「人間による審査」に導いたのではないかと思います。過去のカナダへの渡航歴や職種の詳細記載など見られたのでしょう。

カナダのeTAはこれでも生ぬるい方でアメリカのESTAでは皆様多くの方がびっくりされているのではないでしょうか?ネットでアメリカのビザ関連の記事を見ると実に多くの人が悩んでいることがうかがえます。昔からアメリカはビザ異常国でした。

私が一番最初にアメリカ観光ビザを申請したのは、カナダ・カルガリー滞在中のことで確か1973年。そのころは今のように面接予約とか160ドルとかの料金などはなかったのですがそれでも緊張しました。今でも名前を記憶しているのですが、マンジャフィコ*というイタリア系の領事殿直々の面接がありました。冷たい表情の男でアメリカで何をしたいのか?、働くつもりと違うか?(確かに当時は大学卒業直後で無職)などなど聞いてきました。

そして審査には1,2週間かかるから連絡があるまで待てと言われました。私はその場でビザがもらえると思っていて、ニューヨーク、アイスランド(レイキャビク)経由でフランスに行こうと予定を立てていたので、そんなに待てないからやむなく申請を取り下げました。なかなか簡単にはいかないなと思いながら、外で待ってくれていた従兄弟のKazと昼飯を食べるために近くのレストランにいったのですが、何と先ほどのマンジャフィコも来ていてびっくり。もちろん話かけたりしませんでした。結局フランス行きは経路を変えてモントリオール、アイルランド(ダブリン)、ロンドンを経てパリに行きました。(*注。マンジャフィコとはイタリア語でMangiafico つまり「いちじく喰いねえ!」という意味)

パリでは、今度こそと思いコンコルド広場に面した一等地にあるアメリカ大使館領事部へ行きました。ここも、どの国の領事館でも同じですが査証担当職員は領事の威を借りて高圧的。フランス人のオバハン職員があれこれ文句を言うので私も頭にきて(これがビザ申請では一番よくないのですが)、フランス語で「あなたが領事様ご本人ですか?そんなことを判断するのは領事の専権事項でしょ?」と言ってやったら、オバハンは豚が首を絞められたような声で他の同僚職員たちに向かって「このジャポネが私を侮辱した!悔しい、許せん!」と絶叫。私は唖然としました。騒ぎを聞きつけてかどうか知りませんがアメリカ人領事が出てきて「ここはパリなのであなたの個人ファイルを東京へテレックスで照会する。ついてはテレックス代として10ドル支払うこと」と言われ、またも私の怒りに火がつきました。今度は英語で「私の申請内容を信用しないのは勝手だけど、何で私が調査費用なんか払わないといけないの?」と異議申し立て。すると「航空便で問い合わせすると無料だが何週間もかかるよ」と言われ断念。テレックスとは何のことかすぐ分かる人はもうまれになりました。電報みたいなものです。電報がまた何のことかと問われると、、、

結局、生まれて初めてアメリカに行ったのは1976年の大阪サンフランシスコ姉妹都市提携30周年記念事業に参加するためにサンフランシスコ市から招待を受けたときでした。このときは所属していた大阪市立大学が渡航準備のいっさいをやってくれたのでビザもいつのまにか用意してくれていました。
それからしばらくして、アメリカは日本や西欧諸国民に対してはビザ免除プログラムというのを開始して入国審査の段階で「I-94W]という紙切れを渡す仕組みになりました。そして2009年に現在のESTA(電子認証)に変わり、最初は無料だったのが、20109月から14ドルと有料化されました。本来のビザも、記憶が正しければですが、昔はタダだったのに今では最低でも1万数千円取るようになっています。「貧すれば鈍す」。

無職の若者がアメリカ留学や長期滞在でビザ取得を考えているのならぜひ次のようなうわさがあることを知っておいてもらいたいです。ビザ取得には領事館で面接を受けなければなりませんが、そのとき担当者は申請者の普段の素行を調べるのにツィッターやフェイスブックを見るそうです。トランプ大統領の情報発信でもよく分かるように今やアメリカはツィッターを国家の意思伝達手段として最大限活用しています。情報収集でも活用しているのはあきらかです。


私の今日の記事もこういうブログでの発言であってもあまりよろしくありません。でも年を取りすぎているし、万一アメリカ入国審査で、「日本に帰る気がないのでは?」と疑われた場合はすぐさま12匹の猫ちゃんたちの写真を見せて、彼らがお腹をすかせて待っているからすぐ帰らないといけません、と説明するつもりです。

2018年8月3日金曜日

カナダeTA電子渡航認証の恐怖

いつもの喫茶店のマドモアゼルが8月末に両親と甥っ子を連れてカナダのハリファックスの知人宅を訪問する計画をたて、私もいろいろアドバイスしているところです。カナダに飛行機で行く場合は、入国ビザ(みたいなもの)を事前申請して承認を得ておく必要があります。アメリカやオーストラリアも同じです。
ところが正規のサイトは英語かフランス語で記入するようになっていて、それ以外の言語サイトは民間業者の代行で正規料金7ドルの10倍を巧妙に取られ、なおかつパスポートやクレジットカード情報も知られてしまうので、ぜひともカナダ移民省のホームページから英語サイトに入らなければなりません。

昨日夕方閉店間際に、私のスマホを使って、マドモアゼルのパスポート情報や質問に答え、クレジットカードで7ドル支払いも完了。すぐに「approved 」が来ると思いきや、「処理中、72時間以内に結果を知らせる」がきたのです!背筋が凍りました。ビザ申請でいったんつまずくと何をしてもネガティブ情報が上塗りされて下手をすると永久に渡航できなくなります。

家に帰って、悶々としながら、質問項目を思い返して、大変なミスをしてしまったことに気づきました。滞在中の所持金は?の項目があったのに気づかず飛ばしていたのです。デフォルトのゼロドル!と答えたことになり、そこが引っかかったに相違ありません。独身女性が所持金なしでカナダに来るのは歓迎されません。少々歳をとっていてもです。

私は安請け合いしてへまをしたことが申し訳なく、血圧は220にもなり、あらゆるサイトで調べたら暗い話ばかり。彼女が渡航できないならほかの3人だけで旅はできません。東京のカナダ大使館領事部はマニラに引っ越し、いっさい相談に応じません。一縷の希望は72時間以内に審査結果を知らせます、のメールが届くことしかありません。

そしてさきほど朝イチでマドモアゼルのサ店にいき、彼女に受信メールボックスを見るように言いました。結果は私の暗い予想に反してapproved(承認済み)でした!
今後5年間はカナダにいつでも行けます。

軽々できると思うことでもこういう責任の取りようがない事態を招くこともあるものですね。食欲も失せて一挙に3キロやせました!彼女はお礼にカレーを食べていけと言ってくれるのですがいまだ食欲ゼロです。

2018年7月27日金曜日

薬物による神秘体験

オウム事件の死刑囚全員が7月の1ヶ月間に死刑を執行された。先進国で死刑制度があるのは日本とアメリカだけだそうでとりわけECからは日本政府に対し非難がきびしい。私自身は死刑廃止論者でもないし死刑という刑罰がこの国にあることがいいとも思わない。つまりはよく分からないのだ。

ところでNHKの夜のニュース番組でオウムがLSDや覚醒剤を使って信者に神秘体験をさせたことに関し、「薬物による偽の神秘体験云々」と部長級の解説員がしゃべっていたが、どうしてNHKはいつも視聴者をあざむくような発言をするのか罪は重い。古来、宗教的神秘体験と言われるものの大半は自然界に存在する主として植物由来の薬物がもたらす効果によるものであり、そうでないものは後述の禅など少数にすぎない。NHKはこうしたことに触れないでシレッとうそをつく。

原初の時代から宗教的神秘体験と薬物との関連は切っても切れないもっともベーシックな関係にあることは大脳生理学的に見てもあきらか。有名なのは阿片、ペヨーテというサボテンからとれるメスカリン、マジックマッシュルームに含まれるシロシビン、ライ麦に寄生する麦角菌に含まれるリゼルグ酸の誘導体から合成されたLSD、コカイン、エフェドリンを含むマオウなど枚挙にいとまない。人類はこうした薬効成分の助けを借りて健康を保ち、他人よりすぐれた視力を獲得し、集中力を保ち、幸福を実感し、飛躍的な進化をとげてきた。その道の専門家として呪術師、魔女、哲学者、宗教家、アスリートなどが時代を切り開いてきた。人間と薬物が積極的に反応しあう関係である証拠としてそれぞれの物質に反応するレセプターが備わっていることがあげられる。砒素などの有害なだけの毒物に対してはレセプターなど存在しない。

また、薬物によらない神秘体験としては酸素欠乏、禅の修業、疲労、入眠時幻覚など。薬物によるものであれ”純粋”神秘体験であれ、いずれも脳内で起きる生理的な反応であることに本質的な差はない。

何はともあれ、絞首刑になったオウム死刑囚たちは果たして死の瞬間、彼らが望んだであろう最高の神秘体験を味わったのだろうか?カフカの「流刑地にて」の所長のようなへまはやらなかったと思うが。


炎熱地獄

 この夏の暑さは異常です。本日723日には熊谷で気温が41.1度にも達し、国内観測記録を5年ぶりに更新したそうです。岡山県でも洪水の後に炎暑とは、水害被災者にとってまさに踏んだり蹴ったり、何の因果で水攻め火()攻めの仕打ちを受けないといけないのでしょう。
 昨日は猛暑の中、瀬戸内市立美術館(牛窓)で開催されていた企画展の最終日だったので、炎天下のなか赤穂線で邑久駅まで行き、そこでバスに乗り換え牛窓まで行きました。魅力的な展示会だったのでぜひ行きたいと思いながら少しは涼しくなるのを待っていたらとうとう最終日になってしまいました。
 美術館を出たあと、なじみのカフェに行ったのですが、ここは天然の風を売り物にしていて本来はハワイ気分に浸れるところですが、エアコンなしはさすがに耐え難いものがありました。店主も「この異常な暑さはお客様の健康を害する危険性がある。エアコン設置を検討しなくては」と音を上げていました。
 いつもの牛窓の夏ならエアコンがなくても、外のテラスで瀬戸内海に浮かぶ小豆島を遠望しながら冷えたビールを飲めば最高の気分に浸れるはずだったのに、今日はなんだか変、体がフワフワし意識が遠のく感じがします。家を出て電車に乗りカフェにたどり着くまで常に水分を補給していたのにおそらく軽度の熱中症になっていたのかもしれません。暑さで死を連想したのも生まれて初めての経験でした。
 この死をもたらす暑さの中、水害で住む家を失いエアコンもシャワーもない避難所で過ごしている方々にはお見舞いの言葉も見つかりません。堤防が決壊して迫ってくる水も危険ですが、体力を確実に奪う暑さも同様に危険です。劣悪な環境の避難所にいる人々、またほかに行き場がないからという理由で電気や水道が止まったままの自宅にとどまっている人々に対し、どうやって安全な場所を確保していけばいいのか行政にとっても試練の夏になりました。

 阪神大震災のときは私もボランティアとして出かけるだけの若さがありましたが、古希を迎えた今は何もできません。どうか被災者の方々はもちろん行政、警察、救急隊、ボランティアの方々も決して無理をなさらず、暑さの猛威をやり過ごしてほしいと願うばかりです。

恐ろしい出来事

この度の豪雨によって各地で発生した洪水、地滑りまた工場爆発による火災等で被災された方々に衷心よりお見舞い申し上げます。とりわけ迫りくる洪水、土石流になすすべもなく犠牲になられた160有余名の方々には深く哀悼の意を表します。
76()は夜半になりますます雨が強くなるなか自宅で一人不安な夜を過ごしていました。数時間後に始まるワールドカップの中継を見ながら夜をやり過ごそうと仮眠していたらいきなり「ドカーン」という大音響とともに家が震え、私はとっさに雷が落ちたと思い飛び起きました。
翌朝になってこれが20キロメートルも離れた総社市にあるアルミ工場の爆発炎上による衝撃波だと聞いてびっくり仰天でした。そしてこの時間すでに高梁川と小田川の合流地点付近で大規模に堤防が決壊していたのです。
7()も朝から大雨でした。30年ほど前にも梅雨の末期に大雨が降った夜、隣家との境の擁壁が我が家に向かって倒れ込み、壁ひとつ隔てて寝ていた両親は肝をつぶしたと大阪に住んでいた私に電話をかけてきたことがあります。今回、今にも同じことが起きそうな気配がしたし、また南区福田地区を流れている笹ヶ瀬川(足守川)が氾濫しそうだという危険情報が頻繁に配信されるのに気をとられ、倉敷市真備町の深刻な事態には関心が向きませんでした。
同じ県内にいながら、しかも2,30キロメートルしか離れていない場所で起きた大惨事でもなかなか現実感をもっては認識できませんが、官邸の中枢にいる方々、また地元出身の国会議員の先生方までもが国難ともいうべき事態が発生していることに無頓着なのはいかがなものでしょう? 首相は論客でもある財務官僚上がりの女性議員等も侍らせて顔を赤く腫らして記念写真に収まり、岡山県選出の有力国会議員は視察先の富山からおいしそうなお寿司の写真をツイッターに載せて得意顔。

これは仕方ないことだったのか、危機管理能力の欠如なのか問われれば後者に決まっています。中枢の政治家にはマスコミよりいち早く正確な情報を得るための組織、手段、情報網、権限が与えられているのですから。200名近い尊い命が犠牲になった激甚災害から今度こそ実効的な教訓を導きださないと亡くなった方々に本当に申し訳ないことです。

2018年7月16日月曜日

河川敷に繁茂する柳

岡山市旭川の鉄橋を新幹線や在来線電車で渡るとき、河川敷に豊かに育った柳の緑が目に入りいつもうっとりします。10年ほど前になりますが、その河川敷に中学時代の恩師と同窓生数人とで大木にからみついたツルウメモドキを取りに行きました。ツルウメモドキは正月の生け花に使う素材になり弾けた実が美しいツルものですが、先生によるとそんなもの買わなくとも河川敷になんぼでもあるけえ~ということで集合。

柳にからみついたツルウメモドキの枝を切り取るものとばかり思っていたのに先生のやり方は大胆! 4,5メートルの高さの柳の木そのものをノコギリで根元から切り倒すのです。河川敷の木をかってに切り倒したりするのはまずいし、採りたいのは木に絡んだツルウメモドキだけなのに。。。第三者の目もあるし、もうヒヤヒヤだったのですが、先生は平然と「こんな木は切り倒しておかにゃあおえん」とのことであっという間に4,5本の柳を伐採。

「先生、とんでもないことして……」と当時は思ったものでしたが、今回の小田川氾濫の惨状を見て先生の心がようやく理解できました。河川敷に土砂がたまりそこに樹木が茂ってしまうといざというとき川の流れが阻害され氾濫の一因になるそうです。旭川に繁茂する大量の柳にひとり立ち向かう高野先生の姿はまさに「蟷螂の斧」といった風情。小田川大洪水の悲惨な現状を見て遅ればせながら恩師の知恵の奥深さにちょっと触れることができた思いがしました。

2018年7月11日水曜日

気持ちが通わない

めったに自然災害の起きない岡山で発生した未曾有の洪水は世界中のメディアで報道されているようです。洪水は地震、台風、原発メルトダウンなどと異なり、被害を受けた地域と難を逃れた地域が隣あっています。ちょっと高台にあって全然被害がなかった家と2階まで水が入った家が同じ地域にあったりします。しかしマスメディアではそのような細かな情報は伝わりません。

倉敷市真備町で発生した洪水のニュースがカナダでも放映されるやいなやカナダの従姉妹たちから「大丈夫なの?心配している。このメールにはすぐ返事がほしい」などと深夜零時を回ったころに届きます。遠くカナダから気にかけてくれてうれしい!すぐ返事を書きました。アルミニウム工場の爆発の衝撃は恐ろしかったけれど、岡山市は大丈夫、親戚すべて被害なし、日本の大雨はともかくタイの洞窟に閉じこめられた少年たちの救出が始まって何とすばらしいことか、、、などと書き込みました。私としてはOkayamaの洪水はひどいものだがさいわい私や親戚は大丈夫、その証拠にタイの子どもたちの動向に注目しながら時間を過ごしているではないか、という気持ちを表現したかったのです。
ところが次の日も深夜、「その後事態はどうなったか?近況を教えて!親戚は大丈夫か?」とのメールが届く。ちょっとイラッとする気持ちを抑え、「気にかけてくれてありがとう。こちらは何の被害もないし、天気も晴天で蒸し暑く、被災地では水が引いてきた」などと返事。それなのに3日目、またも「カナダのテレビで恐ろしい光景が放映されている。本当に大丈夫なのか?電気や水道は通じているのか?」というメールが。夜中12時、もう寝ようと思っているところにまたそんなお見舞いメールが来てうんざり。「メールで連絡がついていること自体が停電なんかしていない証拠ではないか」と言いたいのを我慢して、「大丈夫、被災地の人々には申し訳ないけど、親戚、友人、知人に被災者はいないので心配しないで。電気も水道も1秒だって止まったりしてません。それよりタイの子どもが全員無事でGood job!」と打ち返し。

日本人は世界的に見てもまれなくらい他人の不幸に同情の気持ちを表しません。被災地の人々も家も車も家族も失っているのに「生きているだけましじゃあ、わっはっは!」とインタビューに応えています。悲しみの表現も下手だし、シンパシーの表現も下手。それでお互い何となく気持ちは通じているのです。日本人以外には理解しにくいことでしょうが。

でもスタンダールのような皮肉屋にはちゃんと分かっています。
ジュリアンはこう思います。
「あなたが何かへまをしでかしたとき、田舎では人々が繰り返し”それはそれは大変でしたね、同情します”と声をかけてきて傷口に何度も塩をすり込んでくる。ところがパリでは中学生でさえ他人のへまなんか見て見ないふりしてくれる。そのかわり、あなたはパリでは永遠によそ者だ」と。(うろ覚え)

日本の中のパリ、京都の人が好き。京都人の言葉には裏の裏のそのまた裏があることを常に意識していないと陰で笑いものにされる恐ろしい連中。でもそれが千年の都、京都人の洗練というものです。岡山人もいくらか京都人に近い。岡山は自然災害が少ないので隣近所の人々が協力して難局に当たるという経験を歴史的にもしてこなかった。隣家が困っていようが兄弟の家族が食うものにさえ困っていようが見て見ぬふりをするのが生まれ持った特技。かてて加えて男も女もみんな屁理屈をこねくりまわす。

洪水が引いたあと、テレビでこんな家族のドキュメンタリー・シーンを見ました。
堤防が決壊し、恐ろしい勢いで水が迫ってくるなか、実家に駆けつけた息子が父親に「おやじ、すぐ逃げないと危ない!」と言っているのに60代とおぼしき親父は「いや、テレビや電化製品だけでも2階に運んでからじゃ、濡れた足で家の中を歩き回るな!」と息子を叱っている。息子がさらに「もう、水は玄関先まで来とるがな」と言うと、親父は「お前は馬鹿か。ここは海抜12メートルあるんじゃ。水がこの高さまで来る訳がねえじゃろ!」と息子を説教。その直後水は2階にまで入ってきて、危うく逃げ遅れるところでした。確かに海岸近くなら高潮でもない限り、海面より上まで洪水は来ません。親父さんのいうとおり。でも事実、玄関から泥水が入り込んできているのにこれだけの屁理屈をかます余裕に笑ってしまいました。

いろいろ書きましたが、同情が必要な人には必要です。タイミングもあります。慰めの言葉も必要なときと、そっとしておいてほしいときの見極めが必要です。

でもきっと一番真理に近いのは「同情より金をくれ」ではないかと思います。






岡山県立美術館、ポーラ美術館展

気分転換のため岡山県立美術館にて開催中のポーラ美術館展を見て来ました。シニア料金1100円、8月26日まで。
モネ、ルノワール、セザンヌ、ピカソ、ブラック等々、素晴らしい作品群でした。
私が一番好きなセザンヌが5点もあり、近くでこうした泰西名画を見る機会をもうけてくれたポーラ美術館と県立美術館には大感謝です。

先月この県立美術館に来たとき、地下展示場に比べ2階展示場が蒸し暑く、明らかに作品に悪影響があるような気がしたので、例によって係員にその旨、伝えました。すると指定管理人の某大手建設会社社員とおぼしきお姉さんが「同じように温度設定してますが、どうしても2階は暑くなります」と反論。私は「そうであるからこそ2階の空調は低めに設定して作品を保護し観客にも快適に観賞してもらわないといけないんじゃないですか?」と言い残して帰りました。すると今日は2階も地下同様快適じゃありませんか!言ってみるものです。

政府のバカな省エネ政策で役所も図書館もとても不快な環境になっています。困ったことです。


今日もひとことスタッフに言いました。せっかくのセザンヌの1枚が右に傾いているのです。わずかな傾斜ですが見た途端傾いていることに気付きました。学芸員に必ず伝えて下さい、と言って美術館を後にしました。

私も古希の老人になり、細かなことが気になり作品本来の魅力を堪能できなくなりました。「本位を楽しまず」の老境ですが、クレーム3回に1回ぐらいは聞きとげられます。文句を言うのは太古から老人のお仕事です。

「本位を楽しまず」三島由紀夫、天人五衰より。永遠の若さを誇る天使にもやがては老衰の兆候が宿るようになる。無邪気に物事を楽しめなくなるのもそのうちのひとつ。

2018年7月7日土曜日

総社市のアルミニウム工場爆発

昨夜(2018.7.6)11時間半ごろ突然ドカーンという音がし、家も震えました。雷が近くに落ちたのかと思いましたが、1発だけだったし稲光もなく変だなと思いました。それがまさか20キロメートルも離れた総社市のアルミニウム工場の爆発音だったとは!中国ならともかく日本でそんな大爆発が起きるなんて驚きです。怖かった!たぶん爆発に伴う衝撃波は音速より早く到達したのではないか?
今日も喫茶店にくる常連客と話をしたが、みんな自分の家でやばいことが起きたと思ったという。畳の上にネズミの糞がザラザラ落ちていたと言う人も。天井板が激しく振動したのでネズミの糞やゴミが板の隙間から落ちたみたい。

写真は家近くの笹ケ瀬川。堤防かさ上げ工事完成直後でこの度はオーバーフローを免れました。

2018年7月5日木曜日

詩人・三原麗珠

日本のワールドカップが終わったとたんあれこれ大学をめぐるスキャンダルがワイドショーをにぎわしていますね。その中で香川大学教授の「趣味はセクハラ」がなぜかNHKまでがニュースでとりあげていてびっくりしました。

私は「香川大学教授」と聞いてすぐ「これはあの三原先生のことではないか?」と思い調べてみたらそうでした。

1994年ごろ、まだインターネットが生まれる直前のころ、すでに世界中の大学はネットで結ばれていて盛んに情報共有、交換、メールのやりとりがなされていました。情報共有は主に「ニュースグループ」というシステムでなされていて、fj.rec.poem などという細かなカテゴリーがたてられ、そこでいろんな議論がなされていました。(建設的な面もありましたが、現在のSNS同様中傷合戦になることが多かったです。しかし現在のように匿名で文句をいいあうのではなく、所属と名前を明示するのが原則でした)

さて、そんな掲示板にアメリカから非常にインパクトのある詩を黙々と投稿する人がいました。ミネソタ大学、三原霊珠というペンネームのような名前をもった留学生。彼の詩は難解すぎたせいか、ニュースグループの読者のだれも意見を言うことも批評することもできませんでしたが、私はファンレターを送ったことがあります。
「現代詩がお好きなら、私の詩などではなく田村隆一をお薦めします」というお返事をいただきました。私は「田村隆一などあなたの詩に比べると全然魅力を感じません」などと送り返しました。

三原さんはその後、香川大学に就職したと聞きました。正直なぜそんな地方の大学に?と思いましたが、大学の教員になってからは詩作は中断し、経済学者の道を歩まれたようです。お会いしたことはありません。理論経済学者が経済学部でなく図書館所属になっていることから、三原さんが学内でもかなりユニークで孤立していたことがうかがえます。

三原さんの詩は出版されておらずホームページに掲載されています。
「白い乾いた犬」
https://reijum.web.fc2.com/poetry/poetry.html#hakaba

現代詩と散文の関係について述べている「傾向的な夜」を以下引用します。25,6歳ごろの作品だと思います。私がいちばん好きなタイトルの詩です。

(教員名のときは「麗珠で、詩人のときは「霊珠」なのかもしれない)

********************


傾向的な夜

三原靈珠



眠れぬ夜は もの思いにふけっていて
思いだせない
ほど昔のことですが
古典の時間 それはオナニーを
してたと
いうことですかと質問したら
現代国語の先生 ああ忘れちゃった
おまえ 女の子のくせに
級友たち
じゃなくてひとりが言ってくれた……
先生 現代国語なら
伊藤比呂美
知らないのかなと言おうとおもったけれど
それ以来現国の
独身の演劇なんか好きな教師に
特別な
かかわりの強い視線で
見られ始めちゃった気も
しましたが
やっぱ
何にもなくて私は
正しい生徒で卒業したのです

「詠む」と書けば
詩歌をうたう
私の場合 思いにふけるは
誰も詩歌なんかうたわないから
うたうものではないから
私の場合もの
思いにふけるは
頭のなかで詩が溢れる

眠れぬ夜は詩が溢れる

たとえば今朝の実証では
1950 つまり
19時50分に床に就き Tatjana Sergejewa
など 聞きながら離れた場所に眠気とともに移りたい
と思いつつ場所を引きよせようとしたのだけれど
メビウスの環 悲しい
歴史のなかの女性
そして この不思議な暗さはとても不安
図形や映像で想像するのが普通で
底を流れるこの不安な響き
チューリングマシンは超えているはずなのに
いつか もの思いは
言葉でなされている
シーツを引きよせて
眠れない2200
トイレに行く
言語では情報処理効率低いから
CD みたいにメガバイト使ってしまうのに
詩人のように
する
言葉をレーザープリンタ用の紙に置いて
ベッドに再び落ちる

それでも
夢幻列の想像力は収束を許さず
いつか拡散のはて
私は0045起きる

マックを起こしキーボードに日本語を
打ちこんでいく

演劇の脚本 書いてたくらいのひとなら
わかりそうなもの
これらのことば 詩か?
なんて

詩は詩を離れるベクトルなのです
離れていく方向なのです
これらは散文に
近いから
詩の
テーマを避けているから
詩です

と偉そうなことを書いてさらに
つけくわえる
簡単に書けると思うなら
やってみてください
すると
簡単に書けてしまうひとがいたりするから
詩人つまり
失業者の私は
両肩の距離が小さくなるのである
才能あるひとは除外します

そして詩語は使わない それは常識
でも本当に普通の言葉で書くなんて無理と
いうもの
私はこんなに普通で書くから
方向はいいのだけど
どうでしょう

こだわってるんじゃなくて
散文のように書くことに
信条なんかじゃなくて
たまたま
傾向なのです 私のと
いうよりは
現代詩の
傾向だから たまたま
それが
やりやすくて
のっているのです 先生
行分けはするけど それは
夜は早さが欲しいから


(May 3, 1994)

2018年7月3日火曜日

岡山駅前の桃どろぼう事件に思う

 お昼のローカルニュースで岡山駅前の緑地に植えられている桃の木から桃の実1個を盗んだとしてベトナム人青年が逮捕されと伝えていました。警察は同じ場所で桃の実が300個盗まれた事件との関連を調べているそうです。
 私はこのニュースを聞いて、中学生時代に国語か道徳の教材にあった長野県飯田市のリンゴ並木の話を思い出しました。1947(昭和22)、市街地の大半を焼き尽くす飯田大火に襲われた市は防火帯の機能を備えた延長1200メートル、幅員30メートルの道路を整備、中央分離帯には飯田東中学校の生徒がリンゴの苗木40本を植え、生徒達の世話によって毎年りっぱなリンゴがたわわに実る立派な並木道ができたという話です。
 教材のポイントはせっかく実った実が盗難にあうのにも関わらず生徒たちや市民の努力でリンゴ並木が守られているうちに市民の道徳心も育ち盗難事件が減ってきたという点にあったように記憶しています。実際のところは現在でも盗難はあるようですが、ニュースになるようなことではないようです。終戦直後に比べ今の時代、リンゴの消費は低迷し、わざわざ排気ガスにまみれた街路樹のリンゴの実など取っていく人は多くはないでしょう。
 岡山駅前の桃の実盗難事件をあらためて考えてみると、駅の緑地に地元商工会議所の女性グループが桃の木を植えて育てているそうですが、そんなオープンな場所にある桃の実が盗まれたからといって警察に被害届なんか出すことの方がそもそもおかしい気がします。4月、桃の木に花が咲くのを市民や旅行者に楽しんでもらえればそれで十分では? 公開緑地で実った桃の実1個を失敬したからといって即逮捕されるのなら、市民や子どもたち、訪日旅行者たちが実をつけた桃の木に興味をもっても、李下に冠を正さずではないですが、木に近づくことさえはばかられます。女性会は立派なことをしているといい気になっているけれど、却って不必要な犯罪を自分たちが誘発していることに罪の意識をもつべきです。

 桃の実はブルーベリーやイチジクと違い、品種ごとにいっせいに熟し収穫適期は1週間もありません。もし盗まれるのがいやなら女性会会員が徹夜で番をすればいいだけのこと。ゴリゴリの状態から熟れるまでほんのわずかな日数です。商工会議所女性会はそんなことよりも飯田市のように、少々とられたからといって大騒ぎなどしない態度を見習い、長い目で桃を紹介する本来の目的のためにがんばっていただきたいと思います。

(岡山駅前緑地と桃の木を指差す商工会議所女性会会長)そもそもこの緑地の管理者はだれなのでしょう?JR西日本?岡山市?少なくとも岡山商工会議所が占有しているとは思えないのに、会議所からの被害届が受理される理
屈が分かりません。

2018年6月27日水曜日

ワールドカップ対セネガル戦を見て

ワールドカップH組はポーランド、コロンビア、セネガル、日本の4カ国で戦われていますが、対ポーランド戦を残して日本はセネガルとともにトップの位置にいます。対コロンビア戦では試合開始早々相手選手1名がレッドカードで退場し、ある意味ラッキーだった面があります。
しかしアフリカ第2のサッカー強国セネガル相手では勝ち目はないだろう……、小心者の私は、試合の様子を直視できませんでした。ふとんの中から、ときどき起きてはテレビをつけてがっかりしたり安心したり。
結果は22のドロー、勝ち点1を獲得するという大波乱(?)でした。これを機にあらためてアフリカ諸国の中でもあまりなじみのないセネガルを地図帳で見てみました。首都はダカール(北緯15度、西経17度)、人口1435万人、面積約20万平方キロメートル、主要言語フランス語、宗教イスラム教ということです。
アフリカ大陸の最西端の亜熱帯にある、面積人口とも日本より小さい国であることが分かりました。テレビでセネガルの日常風景を見ましたが、砂ぼこりの舞うなか男の子たちが元気に走り回り、サッカーに打ち興じていました。どこにでもある典型的なアフリカのイメージです。それにしてもテレビカメラに撮られる子ども達の目の輝きのきれいなこと!白人やアジアの子どもたちも生き生きとした表情をしていますがセネガルの子ども達にはかないません。
セネガルはかつてフランスの植民地だったので今でも公用語はフランス語だそうで、しかも聞いてみるとみんななまりのないとてもきれいなフランス語をしゃべっています。なんだか一度は旅してみたい国だと思いました。
それにしてもアフリカは遠い。私は20代のころアルジェリアに半年あまり滞在したことはあるのですが、アルジェリアは地中海をはさんでスペインの対岸にあり気分的にもヨーロッパのすぐ近くにいる感じでした。しかし本当のアフリカはサハラより南に存在するような気がし、いつの日か中央アフリカ、南アフリカからマダガスカル等一度は自分の目で見てみたい地域のひとつです。

侍ジャパンの次の相手はポーランド。ポーランドは激動の20世紀を戦乱と貧困のなかで過ごした悲劇の国。それゆえ不屈の精神ではヨーロッパ最強の手強い相手だと思います。

梅雨の食卓

今年は梅雨らしい雨の日が続いています。夏至の今の時期、もし梅雨が存在せず晴天続きなら大地はカラカラに乾燥し、山は禿げ、飲み水にも窮し、草原や林では枯れ木や枯れ草に火がつき、お米の栽培など論外です。梅雨のうっとうしさをなげくのがお決まりの日本ですが、夏は多くの国は雨が降らず過酷なシーズンを意味します。
アフリカ北部、中東、中国北西部など北緯30度から40度付近は気流の関係で乾燥地帯が多いのですが、インドからインドシナ半島、中国南部を経て日本にまで到達するモンスーン(季節風)のおかげで梅雨が発生し、日本もその恩恵にあずかっています。
やさしい雨が降る中植えられたばかりの稲の苗が日々色を濃くしていくのを見ていると本当に恵まれた国に生まれたものだと感動します。我が家の庭でも庭木や雑草がジャングルのように生い茂り、カタツムリ、アマガエル、ツチガエル、カミキリ、アゲハ、ミミズ、ヤモリなどいったい何種類の小動物が我が家で暮らしているのか見当もたちません。
直接的な害がない限り、家が植物や動物で占拠されていても私は大目にみています。先日、ミミズかと勘違いするほど小さなヘビがカエルを飲み込もうと格闘していました。食うか食われるか、それがすべての生物連鎖の世界に人間が感傷的な気持ちから介入するのはよくないことですが、平和主義者の私は「とりあえず、私の目の前でそんな争いをするのは止めて」と言ってヘビの子を1メートルほど先の茂みに放り投げました。
家庭菜園ではトマト、ナス、ピーマン、キュウリが成り始め、一人暮らしでは食べきれない毎日です。医師からは食事の塩分を極力減らすよう言われていますが、今の時期ぬか漬けのキュウリやナスに鰹節を乗せてしょう油をさっとかけたおかずほど美味なものは他にありません。

ぬか床もユニークです。冬場タクアンを漬けた樽の中に残った糠を捨てようと思ったのですが、ちょっとなめてみたらこれが実においしい!それをカメに入れて今度はぬか床に活用しているというわけです。こんなことをしている人は日本で私ひとりではないかと思います。ぬか漬けのナスとフライパンで焼いた厚揚げ。きょうの昼食はこれで決まりです。

2018年6月16日土曜日

ビュールレコレクション展

土曜日、福岡県大宰府で開催中のビュールレコレクション印象派展を見にいきました。日帰りです。説明文によるとチューリヒにあるビュールレコレクションは今後チューリヒ美術館に移管のうえ展示されることになるそうで、美術館の増築が終わるまでの今の時期に国外に貸し出しているそうです。セザンヌが6点もあり感激でした。


2018年6月14日木曜日

カナダからの親戚、京都観光案内(3)

カナダの親戚たちは主にアルバータ州カルガリーおよびカルガリーの南、アメリカ国境近くにあるレスブリッジに集まって住んでいます。湿潤温暖なバンクーバーあたりと異なりカルガリーは乾燥地帯に位置し雨がほとんど降りません。そんな地域からやってきたいとこたちにとって日本の雨は初体験だったようです。
3日間の京都観光を終え次の観光地、大阪へ電車で移動したのですが、この日はあいにく小雨が降っていました。JR環状線の大阪城公園駅からホテルまで、雨の中大きなスーツケースを何個もゴロゴロ引っ張りながらの移動で、ガイド役の私は申し訳ない気持ちでしたが、彼らは雨に濡れながらもなんだか楽しそう。
チェックインしたあとホテルで傘を借りて大阪城公園の散策に出かけました。Lets go! 私は傘をさして歩き始めたのにご一行様がついてきません。不思議に思って引き返してみると彼らは「傘の使い方が分からない」と傘を広げるのに四苦八苦しているのです。「いや、そのボタンを押して……」とまるで我が子を幼稚園に送り出す親のような光景が展開するとは夢にも思っていませんでした。
-「でもカナダでもたまには雨が降るでしょう?」
-「雨が降っても車でしか移動しないので傘なんか生まれてこの方使ったことがない」
私はおかしさがこみ上げてきて大笑いでした。日本では小学校に上がっても傘ひとつ満足に使えなかったらバカにされるかもしれないけれど、そんなことどうでもいい、100人の人がいれば100通りの個性があるし100通りの考え方がある、それをお互い認めることが大切であって、日本人のように他人の箸の上げ下ろしにまでケチをつけるような態度はよろしくない、と反省しました。

京都、大阪、奈良、姫路と名所旧跡をいっしょに見物し、岡山・倉敷では親戚の家を私の運転でご案内しました。お互い高齢化してきているので、今回の再会が永久のお別れになるケースが多いでしょう。それでもカナダの人たちは感傷的になることなく、明るくハッピーに神戸港から那覇、石垣、台湾へのクルーズに出発していきました。私はアテンドの疲れがどっと出て、しばらくは放心状態でした。(終わり)

カナダからの親戚、京都観光案内(2)

清水寺を参拝したあと、観光客でごった返す三年坂、二年坂を下りました。祇園か四条河原町まで歩いてそこでお昼ご飯にしようとみんなの了解を取っていたのですが、いとこ達は「孫におみやげを買うから」などと言ってはチマチマした雑貨であふれるおみやげ屋に吸い込まれていきます。早くもヒザが痛み始めた私は腹も減ってきたので「もうこの辺りで昼ご飯を食べてしまおう」と提案し早めの昼食になりました。
カナダからの4人のなかでひとりは海鮮素材がダメ、もうひとりは玉子がダメでこうなるとなかなか店選びに気をつかいます。さいわい三年坂に湯豆腐屋があり座敷に上がりました。驚いたことにいとこたちは正座ができました。逆に私はヒザ関節が痛むので体を斜めに投げ出す始末です。でも場所柄この辺りの店は観光客相手で商売しているだけあって、お客がどんな格好で座ろうが無視してくれます。
ゆっくり湯豆腐を食べたあとも相変わらずおみやげ屋に寄りながら坂を下っていたら、いとこのブルースが「トイレはどこ? かなり急いでいるんだけど……」と言い出しました。こんなときこそ観光ガイドの腕の見せどころです。すぐに小ぎれいなトイレを見つけてあげたら大変感謝されました。それにしてもなぜ急にトイレなのか、夜になって大腸の難病で苦労している友人に電話をかけて、その話をしたら「豆腐はやばいよ」と教えてくれました。人によっては豆腐は便秘解消にもってこいの食材だとか。
それにしても外国人が日本に来て異口同音に感嘆するのがトイレです。駅の公衆トイレもほぼ100%温水洗浄装置がついているし、ペーパーも完備しています。日本のトイレがこんなにきれいになったのはそう遠い昔ではなく、これは日本人が目標をもってがんばったいい例ではないでしょうか。今でも外国の街に滞在するときはホテルで用を足しておかないとあとで悲惨な目にあいます。

ただ、コーヒーブレークで立ち寄った喫茶店だけは例外で和式水洗トイレでした。4人のなかでただ一人白人のD.J.が「トイレの写真を撮った」と言って見せてくれましたが、これはヒザの悪い私には悪魔のトイレ。緊急事態で腰を落としたら最後、2度と立ち上がれません。(続く)

カナダからの親戚、京都観光案内(1)

久しぶりにカナダのいとこ達が来日しました。私も彼らとともに京都に3連泊し連日忙しくアテンドをしています。過度に密着してアテンドするのはお互い疲れるのでホテルは別にし、私は使い慣れたビジネスホテルに泊まり、彼らには京都駅の真上にあるデラックスかつ交通至便なホテルを用意しました。
観光初日は京都の北西エリアにある金閣寺、北野天満宮、嵐山、天龍寺に行きました。もっともりだくさんにあちこち見られると思いきや、総計5人で行動すると一人でささっと名所巡りをするようにはいきません。でも詰め込みはあまり意味がないと思いました。日本がほとんど初めての観光客にとってはどのお寺を見ても古びた同じような建物にしか見えないのではないでしょうか。
ともかく京都を強く印象づけるには金閣寺が一番。庭の池に燦然と輝く金閣こそ万事派手好きなアメリカ人や中国人をうならせるものがあるのに対し、渋い銀閣など見せても「何これ?この地味な安普請の建物の何がいいの?」となること請け合いです。
金閣寺は今や年中観光客であふれかえり、一方通行の順路に従いどんどん移動していかなくてはならず、立ち止まって三島由紀夫が描いた金閣寺の美にひそむ精神性、怖さといったものなどに思いを致すゆとりなどありません。でもそれはそれで何だか楽しい面もあります。
外国人についで多いのが修学旅行の中高生です。制服の刺繍を見ると東京や千葉といった関東方面の学校から来ている生徒が多いように思いました。いとこ達が生徒に英語で話しかけるとけっこう英語で答える子も多く、徐々に日本の国際化が進んできているようです。いとこたちも簡単な会話でも楽しげです。

2日目はこれまたこれぞ京都という清水の舞台に行きました。あいにく修理中で舞台もほとんど幕で覆われていたのですが、私が舞台のことを英語でステージと直訳したら、何のためのステージがこんなところにあるのか質問されて困りました。その質問は適当にごまかし、日本では「清水の舞台から飛び降りる」という言い回しがあることなど紹介。いとこたちはいっせいに「こんなところから飛び降りたら死んじゃうよ」ともっともな反応をしていました。(続く)

2018年6月7日木曜日

ひかりの蜜の垂るるつき

空いっぱいひかりの蜜の垂るるつき五月がこつりとひとを死なせる
(古関すまこ、フランス舞踏日記1977-2017より)

「空いっぱいひかりの蜜の垂るるつき」とはシスレーやピサロら印象派の画家がカンバスに残したセーヌ下流の実在する光景かもしれない。しかし同時にそこには深い象徴性を帯びた「ひかり」の本質が丸裸で呈示されている。「つき」とはmonth の意味か、あるいはmoon かもしれない。month なら真昼のしたたる光、moon なら満月の狂おしい黄金の光であろう。

別の言い方をすれば、ここではひとつの光景の中にふたつのリアリティーが描かれている。ひとつは印象派の画家達が発見した光がもたらす我々にも馴染みのあるリアリティー。もうひとつは「知覚の扉」でハクスレイが例えてみせた、バルブが開かれた状態でのみその本性が顕現するリアリティー、言わば本質そのものが剥き出しになったリアリティー。この異常事態を日常の言語で歌に詠んでしまったスマコの天才に私はたじろぐ。

いったんこんな光の存在に魅いられたら、無防備なひとは蜜がしたたる悦楽のなかでこつりと息絶えるほかない。

古関すまこさんの短歌

古関さんの著書「フランス舞踏日記」についてはxxさんがすばらしい読書感想文を書かれていました。なかなか難解な文体と内容を正確に読みとるのは困難ですが、繰り返し読んでいるうちに、文体の魅力に取り憑かれていくのを感じます。
210ページから212ページにかけて15首の短歌が「短歌日記」というタイトルのもとに掲載されています。

情緒豊かであり、(感傷的ではなく)、男性的(と言ったら怒られそうですが)、珠玉の名篇だと私には感じられました。本に掲載されたもののほかにきっと多くの短歌を作られているのではと思います。ぜひ歌集を出版してください。

ここに何首か引用してみます。

春から夏
・ブルターニュに横に降る雨夕暮れて人らクレープ焼けるを待ちをり
・空いっぱいひかりの蜜の垂るるつき五月がこつりとひとを死なせる

舞踏
・クレタにて七つ星あり白しろと波かしら寄る暗き海あり
・ボヘミアの野に満月を残し来ししづかに猫のみづを呑む音

Half
・地に生ふる根なくば爪をHalfとは二つの異境に立ち尽くすこと
・秋の日にパチンとつめ切るはさみの音 君は遠くの国を語れり

「大地をつかむ根がないのなら爪を立てよ」息子に対する母親の深い愛情と激励を感じます。

古関さん、対談のご案内

「舞踏を語る、舞踏から語る」 古関すまこ x すずき道剛
6月8日(金)夜7時から
岡山禁酒会館2階ホール
参加費 1000円

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(ついでに)

私の母も、私が学生時代に休学してアルジェリアに滞在していたとき、パリから送った絵はがきに対し、ボードレールの詩「旅のいざなひ」の一部を引用した手紙をくれたことがあります。

わが児(こ)、わが妹(いも)、
夢に見よ、かの
国に行き、ふたりして住む心地よさ。
長閑(のどか)に愛し、
愛して死なむ
君にさも似し かの国に。
                (L'Invitation au voyage 鈴木信太郎訳)
少女時代にポール・ヴァレリーやボードレールに心酔していた母は息子が「君にさも似しかの国」にいることを喜んでいたのではないかと思いました。(「かの国」がフランスなのかベルギーなのかよく分かりませんが)

2018年5月30日水曜日

学長会見ババア乱入

https://youtu.be/4lr4orff9ho

ババア:「学長潰しに行くんで私を使って下さい」
内田:「やらなきゃ意味ないよ」

日大アメフト反則事件も連盟の明確な裁定があり落ち着くところに落ち着いてきた感じがします。それにしても会見があるたびにいろんな役者が登場し、まるで中世のファース(笑劇)を観劇しているような錯覚に陥りました。
主役の宮川元選手の会見は圧巻で、このような見事な謝罪会見は空前絶後だと思います。三島由紀夫の「豊穣の海」4部作の3作目の「奔馬」の主人公、飯沼勲少年のモデルは宮川泰介元選手のような日本男児であったに違いありません。
この悲劇の主人公の引き立て役がまた素晴らしい!内田監督、井上コーチ、学長、理事長、広報部のおっさん、日大アメフト部員、、、、関学サイドの面々(彼等も相当の役者ぞろい)。そしてそこに乱入したのがこの「ババア」。72歳だそうですが我々は世間的に言わせれば、ジジイ、ババアなんですよね。
でもこの板橋のせつこさんの話を聞いていたらしみじみ同世代の人だなあと思いました。

「日大はねえ、わたしが娘だったころはケツから2番目の学校だったんだよ!」確かに私は高校時代500人中いつも350番目から400番目くらいの成績だったけどさすがに日大受験という選択肢はなかった。このせつこ婆さんがいうドンケツ大学というのは、亜○○大学とか国○○のことだろうか?(決して現在のこれら大学のことを言ってるのではないので誤解なきよう)。
「お前らがこういういい子をつぶしているんだよ」と婆さんは老いの一徹で会見場に殴り込みをかけたわけですが、ジジイ支配の日大に勇敢に切り込んだのも正義のババアで存在感がありました。

2018年5月24日木曜日

日大アメフト反則事件

今回の大学アメフト反則事件ほど胸くそ悪い話は今まで聞いたことがありません。日大の監督やコーチ、それに大学の首脳陣は双方の学生の命と尊厳をどのように考えているのでしょうか?日大監督の記者会見を聞いていると、彼らは父兄からお預かりさせていただいているはずの大切な学生をボロ雑巾くらいにしか考えていないことがよく分かりました。
そんな救い難い卑怯な大人たちに対し反則プレーをしてしまった宮川選手の会見は涙を誘うほど感動的でした。犯したことに対する罰は受けなければならないのは当然ですが、彼は心から謝罪し、関学のQBも謝罪を受け入れているようです。宮川君の罪はすでに贖(あがな)われているのではないか、そんな風に思います。
日本社会の上層部の倫理観がいかに低下しているかを象徴しているような今回の出来事に接し、満州事変から敗戦までに幾多の若者が国家のために捨てゴマにされた父の世代のことが脳裏に浮かびました。私はそんな父の時代より一世代後のベビーブームのど真ん中に生まれ、戦後の自由でおおらか、理想主義がうたわれた時代に育ちました。ところがそんな我々世代もいつの間にか年を取り、会社や組織のトップになって、蓄財と保身に明け暮れ下の世代に理不尽な圧力をかけているのを見ると本当に恥ずかしくなります。
私立大学は定年が75歳くらいのところが多く、そのことも日大のみならず多くの私大の劣化の要因になっていることが今回の事件によって見えてきました。経済界や政界は、成果を出し、また選挙という洗礼を受けなければならないので無能かつ邪悪な老人が居座り続けることは困難です。それに対し、天下り官僚が理事になっている財団法人や私大経営陣には歯止めというものがない。日本の構造的な闇が浮かび上がったような事件であるような気がしてなりません。
反則タックルを受けた関西学院の選手に後遺症が出ないこと、日大の宮川君がこの試練を乗り越えて心穏やかにふつうの青春を取り戻せる日がくることを心から祈ります。若者には希望があります。

2018年5月16日水曜日

百貨店の塩乾物売場のおばちゃん

 瀬戸内海の新鮮な魚介類に恵まれた岡山では天然物の塩蔵紅ザケがなかなか手に入りません。スーパーで売っているのはほぼ100%南米チリ産の養殖鮭を加工したものです。チリ産の鮭に偏見があるわけではありませんが、鮭はもともと北半球の川と海を行き来しながら一生を送る魚です。そんな鮭を南半球で養殖することに私はちょっとひっかかるのです。
 チリのフィヨルドの海に網を張って人工餌を与えて養殖するのですが、網の中の鮭は南米の川を遡上しようとはせず、脳の奥深くに刻まれた本能に導かれ、ふる里の北半球を目指していつも海の方を向いているそうです。そうした望郷の念をかかえたまま水揚げされて日本に運ばれる鮭の存在が何だか哀れなのです。
 それはともかく話をおいしい天然物の紅ザケに戻しましょう。岡山でもさすがデパートは別格で、北海道産やロシアあるいは北米産の色鮮やかな紅ザケが並べられていて食欲をそそります。あぶらが乗ったおおぶりな甘塩の切り身をじゅわっと焼いてご飯といっしょに食べる幸せ! 何物にも代え難いごちそうです。
 岡山駅前のデパートの地下の塩乾物売場を覗くと塩鮭のほかにも鰺の干物やタラコ、ウニ、イクラ、イカの塩辛など見ているだけでも幸せな気分になる加工品ばかりです。いろんなものに目移りすること自体が大きな喜び。ところがです。私が塩鮭の切り身を品定めしようと商品棚に近づくと、たちまち売場のおばちゃんが真横に来て、私の行く手を阻むようにピタッと寄り添い、「今日は雨の日だからおまけして4切れ千円!」などと迫ってきます。
私がおばちゃんを無視してタラコの方へちょっと動こうとすると重たそうなおばちゃんもタラコの方へ後ずさりして「この明太子は……」と講釈を始める。私が押せば引く、引けば迫るで常に密着対応。いつものことながらうんざり。そもそもなぜ店員がお客サイドに出しゃばってきて接客するのか意味不明。私も一二度「ゆっくり選びたいので離れて」とお願いしたことがありますが馬耳東風です。

今日もおばちゃんは商品ケースの角の絶妙の位置に陣取ってどの方向から客が来てもすぐ密着接客する体制が万全で、私がこっそり紅ザケに到達することなど到底無理。私はあきらめてスーパーのチリ産養殖塩ザケでがまんすることにしました。

2018年5月12日土曜日

姫路城前で自衛隊勧誘

加古川の友人と合流し姫路城の下見をしました。20数年ぶりの姫路はすっかりきれいになっていました。わびしかった駅前には小賢しくもサンクガーデンなんかできちゃって!
たまたまだったのですがカーニバルのようなものをやっててかなりの人出でした。

お城の前の広場では自衛隊の戦車なんかも来ていて若者の勧誘をやっていました。茶髪の若者が自衛隊員に取り囲まれて話をしていました。「俺、高校時代ごっつバカだったから担任の先生から自衛隊に行けと勧められたけど断ったわ」と隊員に言っていました。隊員はひきつったような笑顔で対応していたのですが、私は隊員に「そこで怒れ!」とけしかける勇気はありませんでした。




姫路城下見

1週間後にやってくるカナダのいとこご一行様のアテンドの準備に忙しくしています。本日は姫路城の下見です。大阪城、岡山城は通りすがりに見えますが、城としてはいまいちで、やはり途中下車してでも白鷺城を見せるべきかどうか、実際に歩いて判断することにしました。姫路駅で大きな旅行カバンを預けることができるかどうかもチェックポイントです。
各駅停車の旅はのんびりしていていいです。席の向かいに座っていた山登りスタイルのオジサンに声をかけたのが運の尽き。本当に岡山のオジサンはおしゃべり!えっ?お前のことだって?熊山で降りてくれてほっとしました。