2012年8月31日金曜日

“ヒヨウ”あるいは季節労働者


 食料不足が続いた昭和30年代、農村地帯では米作の裏作として大麦や小麦が栽培されていました。しかし岡山県南の水田地帯では麦よりもはるかに大きな現金収入をもたらすイ草の栽培が一般的でした。

ところが現在では岡山県内でイ草を栽培している農家は倉敷市内にわずか3軒残るのみ。なぜイ草栽培が急速に廃れてしまったのかその理由は簡単です。イ草栽培はあまりにも過酷だったからです。

冬場、氷が張る田んぼにイ草の苗を11本手で植え、春から梅雨明けまで大きく育てます。そして梅雨が明けると同時に一気に収穫し、専用の土で染めて乾燥させなければ最高級のイ草にはなりません。

当然、農家の手だけでは足りず、農家は“ヒヨウ”と呼ばれる季節労働者を毎年雇い入れていました。夏場水不足で農作業が少ない四国の農家の若者たちが主で、高い賃金を求めて連絡船で海を渡ってきました。

庭瀬駅には村役場の臨時出張所ができヒヨウさんを農家にあっせんしていたものだ、とは父の昔話です。一方、彼らを受け入れる農家も大変です。働き盛りの若者を45人、母屋の一番いい部屋に寝泊まりさせ、食事は1日数回用意し、夜は酒も飲ませなければなりません。

背丈を超えるまで育ったずしりと重いイ草を鎌で刈る。すぐに泥に漬ける、泥水をたっぷり含んでいちだんと重くなったイ草を田んぼや道べりに広げて乾燥させる。すべての作業はギラギラすべてを焼き尽くす真夏の太陽の下で行います。

ところで“ヒヨウ”という岡山弁らしき呼称、何やら差別的なニュアンスが気になり広辞苑で調べてみました。何と標準語で「日傭」と書き、日雇いの意味でした。

そのヒヨウさんたち、10日間ほどの重労働を終えたときには日当が今のお金で数十万円ぐらいになったのではないでしょうか。なにしろ早朝から深夜までずっと働いて食って寝るだけの生活でお金は一銭も使う機会がないからです。

ようやく重労働から解放され宇高連絡船に乗って四国に帰っていく彼らが無事家に帰って家族に分厚い財布を渡せたかというとそうはいきません。父の話では高松港周辺には賭場と娼館が林立し、彼らの稼ぎはすっかり巻き上げられたということです。(次号に続く)
 

2012年8月26日日曜日

NHK第44回思い出のメロディ

 お盆に何気なしにテレビを見ていたら毎年恒例のNHK「思い出のメロディ」をやっていました。司会の市川猿之助(亀治郎改め)のまじめくさった顔がおもしろい。「人形の家」(弘田三枝子)、「別れのサンバ」(長谷川きよし)など例年になく選曲にセンスが光っていました。
 私の学生時代、ぴちぴちきゃぴきゃぴだった弘田三枝子が今ではNHKホールの豪華な舞台が痛々しく感じられるほど容姿と声が衰え、私はそこに同じ時代を生きてきた自分自身の衰えを重ねてしまいました。

ところが同じ老いでもド迫力の老い、すさまじい生き様の集大成というべき老いの姿があることをこまどり姉妹によって知らしめられました。舞台に登場した彼女たちはもう本物のおばあさんです。1938年生まれなので今年74歳。まさに壁のように分厚く塗った化粧姿を見て何故かギリシャの廃墟を連想しました。

デビュー当時あれほどきれいなハーモニーを奏でた艶と伸びのある美声は今ではすっかり失われていました。しかし心が激しく揺さぶられるのです。この感動はいったい何なのか、ウィキペディアを参照してみたらその秘密が少し分かったような気がしました。北海道の炭坑労働者の極貧家庭に生まれ、樺太に渡り、戦後は苦しい家計を助けるために姉妹で門付けをして日銭を稼いだそうです。

デビューしたあともストーカー少年に舞台の上で刃物で刺されたり、大病を患ったり、まさに波瀾万丈の歌手人生です。

「私たち、歌が好きで歌手になったんじゃないこと、皆さんご存じでしょうか?」と語る姉妹。生活のために三味線片手に歌う以外に道がなかったにしても生涯歌を捨てずに生きてきたこと、それしか選択肢がなかったことが厚化粧の下に魂の演歌歌手をはぐくんだのでしょう。

坂本冬美の「岸壁の母」。スランプに陥り歌えなくなった坂本が二葉百合子から一子相伝のように引き継いだまさに命の一曲にはひっくり返りそうになりました。目が完全にイッテいて神憑り状態。いままで坂本冬美は美貌で歌がうまい(だけの)歌手だと思っていたのが大変な間違いだと気づかされました。

体をよじり、声(=魂)をしぼりだす演歌はすごい。これぞ芸であり日本の宝だと認識した次第です。

(関連動画)
http://www.youtube.com/watch?v=45w9jKHekXI
http://www.youtube.com/watch?v=48HVAWfp0zU
 

2012年8月13日月曜日

London 2012 戦い終えて

 ロンドン・オリンピックの期間中に父が元気に95歳の誕生日を迎えることができました。いっしょにテレビ観戦できたことは父の最晩年のあたたかな記憶として私の心に永久に残ることと思います。

父にオリンピックの一番古い記憶はどの大会だったか尋ねたら、「ロサンジェルス大会」(1932)と答えていました。そのとき父は15歳だったはずですが、この大会の記録を検索してみると何と日本がメダル獲得数で第1位でした!

これは父だけでなく当時の日本人すべてにとって驚愕すべき大事件だったに違いありません。とりわけ男子競泳は5種目中4種目まで金で400メートル自由形のみ銅メダルという圧倒的な快挙でした。

1912年の第5回ストックホルム大会に日本が初参加して以来100年の歳月が流れ、その間今回のロンドン大会を含めて獲得したメダル数はちょうど400個になったそうです。

ロンドン大会では38個のメダルを獲得し史上最多ということですが、日本もなかなかやるなあというのが率直な印象です。お家芸といわれた柔道男子の金メダルがなかったのがいかにも残念。それにひきかえ後半戦でも女性のがんばりが鮮やかでした。レスリングの金3個は圧巻! サッカー、卓球団体の銀、バレーボール、アーチェリー団体の銅など長年取れそうで取れなかった種目でついにメダルが取れました。

前半でもいろいろな場外バトルがありましたが、男子サッカー3位決定戦では韓国選手の常軌を逸したマナー違反が深刻な問題を引き起こしました。「独島は我が国の領土だ」という政治的バナーをピッチ上で掲げたのですからメダルはおろか出場資格すらなかったというべきです。

このことに関してはネットで韓国非難の嵐が起きていますが、韓国サポーターはかつて試合場に「日本の大地震をお祝います(ママ)」などという精神構造を疑われる横断幕を掲げた前科があり、確かに民度が低いといわれても仕方のない行為です。

そうした隣国のスポーツの場での品格ゼロの行為にほとんど反応しない日本はさすがですが、こと政治的に鈍感なのはいかがなものでしょう。韓国大統領の竹島上陸に対し日本がどう出るかロシアと中国が興味津々です。オリンピックが終わってまたきびしい政治の季節がきました。

2012年8月6日月曜日

London 2012 前半あれこれ

 いろいろなスポーツ発祥の国、イギリスで開催されているロンドン・オリンピックはこれまでにないぐらい多くの“場外バトル”的な話題を提供してきました。柔道の審判結果があっという間にひっくり返ったり、体操団体では日本の抗議が受け入れられて4位から一気に銀メダルになったりでびっくりの連続です。

 中国、韓国等によるバドミントンの無気力試合もひどいものでしたが、それを言うならなでしこジャパンの対南ア戦は何だったのでしょう。

あえてドローに持ち込みリーグ2位通過を画策したのは決勝トーナメントを有利に戦うための戦略だったと、佐々木監督自身がぺらぺらマスコミにしゃべっているのをテレビで見て、何だかなでしこジャパンに対する気持ちが萎えてしまいました。

とはいえ、身体能力に恵まれていないやまとなでしこがアメフト選手のような体格ぞろいの欧米人相手に勝ち進むためにはきれいごとを言っている場合じゃないこともよく分かります。ネット上の外野席でああでもないこうでもないと好き勝手な意見や監督批判が飛び交うのを閲読することも今時のオリンピックの楽しみのひとつかもしれません。

 柔道81キロ級の中井貴裕はまさに日本男児を絵に描いたようなルックスの持ち主。これぞ瑞穂の国の風格と凛々しさを兼ね備えた選手の登場と期待大。結果は力及ばず惜しくもメダルに届きませんでした。致し方ないことです。

ところが中井選手、試合直後にメダルが取れなかったと言って人目もはばからず号泣。わずか1分ほどのインタビューの間に10回ぐらい「メダルが欲しかった、どんな色のメダルでもいいから欲しかった……」とメダルに対する執着を吐露。(日本男児でなく単なる幼児?)男の子がデパートのおもちゃ売場に座り込んで「ガンダム欲しい、ガンダム買って、ガンダムゥゥ」と地団駄踏んで悔しがるのにそっくりでした。

すぐに泣き出す男性陣に比べ女性は本当に強い。オオカミのような面構えで金をとった57キロ級の松本薫、鼻っ柱の強さがそのまま顔に出ているバドミントン銀の藤井・垣岩ペアー、競泳で銀と銅2つのメダルを取った鈴木聡美(平泳ぎ)など女性の活躍が印象的です。

後半はどんなドラマが待っているのか、眠れない夜が続きます。