2017年2月18日土曜日

朝はカリカリベーコン

外国に出かけると私はひまさえあれば現地のデパートやスーパーの食品売場を見て回ります。50年前、初めてヨーロッパを旅したとき、当時の日本に比べ野菜、果物、食肉、加工食品等、彼の地の食品の質の高さと種類の多さに驚いたものです。
その後日本でも海外のオレンジや熱帯産の果物がどんどん解禁され、食の欧風化もあってワインやチーズ、パスタも昔とは比べものにならないくらいいいものが手に入るようになりました。逆にかつてヨーロッパの食品売場では目にすることのなかったかまぼこ(sourimi)、豆腐、椎茸、エノキタケなどの日本食材がどこでも日本名のまま売られるようになりました。食のグローバル化はこれからもどんどん進んでいくでしょう。
 それでも私が依然として外国に比べて日本が貧弱だなあと思うのはハム、ベーコン、パテなど加工食肉製品の分野です。こんなことを言うと日本でもおいしいハムやソーセージが売られているではないかとお叱りを受けそうですが、やはりヨーロッパ各国の特産地域名を冠した商品に比べると味が単調な気がします。
デパートの輸入食材コーナーはどうかというとイタリアのハムなどあるにはあるけれど品揃えが貧弱なうえに高価で、同じ加工食品でも日本各地から入荷する魚介塩干物の豊かさとは著しい対比をなしています。
 いったいなぜ日本では地域に根ざした食肉加工品が発達しなかったのでしょう。明治時代になって突然日本人が肉を食べるようになったとき、食肉加工品の製造、販売は大手業者が独占し、地場の小規模かつ特色ある店が育つだけの時間がなかったという歴史的背景が考えられます。
 一方、豆腐や味噌、醤油、酒などを作る商店は江戸の昔からどんな小さな町にも1軒や2軒はあり、地方色豊かな商品が地域の人々に届けられてきました。ちょうどヨーロッパで町ごとに自慢のハムやチーズ、ワインが競っているように。

 しかしうれしいことに近年岡山県下でも志ある個人や自治体、農業高校の畜産科などがローカルで高品質なチーズ、ハム、ベーコンを作ってレストランに納品したり、また道の駅などで販売するようになってきました。手間ひまかけて作られた本物志向のベーコンは弱火で気長に焼くとカリカリになりいいにおいがして食欲が沸き、朝から元気がでます。

入国審査場でのできごと

1月の終わりにベトナムのホーチミンへ出かけました。旧正月を祝う市民や観光客で夜遅くまで広場や店がにぎわっていました。かつてのベトナム戦争、サイゴン陥落の残酷で不幸なイメージはどこにもありません。人々の表情が明るく、食べ物もおいしく人気の観光地になっているのもうなずけました。
さてそんな楽しい旅行の最後に待っていたのが関西国際空港の入国審査です。日本人にとっては帰国の記録を取るだけなので手続きはスムーズなのですが、今回はちょっとしたハプニングがありました。
入管審査ブースは日本人および特別永住者用と外国人用のふたつに大きく分かれていますが、日本人用は指紋を取ったりすることもなくすいすい流れるのが常です。したがってブースも3つだけオープン。私は勘を働かせてこの列が一番早いだろうと判断した列で待つことにしました。
ところが緑色っぽいパスポートを持った旅行者の順番になったとき異変が起きました。ちっとも処理が終わらないばかりか、応援の係官が指紋採取機らしきものまで抱えてやってきて、ああでもないこうでもないみたいなやり取りを始めました。
しばらく待っていたのですが、これは列を移動した方が早いなと思い他の列の最後尾に並び直しました。多くの人がそうしたのですが、すぐ次の順番だった老夫婦は決断できずじっと待っていました。結局私の順番が来たとき、問題のブースはまだ何かもめていました。老夫婦もお気の毒にぽかんと待っています。
中国やタイ、ベトナムなど外国の空港ではこういうときの対処は実にスムーズです。問題発生と同時にそのブースを閉鎖し、強面の係官がどこからかすっ飛んできて問題の人を別室にご案内します。ところが今回はまだ新米らしい職員が特別永住者にお愛想笑いをしながら何やら不手際をわびているような仕草までしているのです。おわびされたいのは訳もなく待たされている我々の方であることは言うまでもありません。

たまたま今回だけのことなのかいつものことなのか不明でしたが、後日関空の入管事務所に電話して改善をうながしておきました。クレーマーと思われるのはいやなのですが、「こういうのは年を取り世間に用のない閑な人間の義務だ」と思いあえてお上にご意見した次第です。

2017年2月7日火曜日

初めてのベトナム旅行

 1月終わりから2月始めにかけての数日をベトナム南部の大都市ホーチミン市で過ごしました。もとのサイゴンです。かつてフランスの植民地として栄えた面影はオペラハウスや威風堂々としたホテルなどの建造物に残っていましたが、かつて公用語として使用されたフランス語は完全に消滅し、英語に置き換わっていました。商店や飲食店でも英語がよく通じます。かつてベトナム戦争で地獄の苦しみを味わわされたベトナムの人々ですが、マクドナルドやスタバだけでなくアメリカ資本を取り込み空前の繁栄を誇っているように見受けられました。大統領がねちねちと“千年恨みます”などと70年前のことにしがみつき、呪詛の言葉を周囲にまき散らしながら自ら崩壊の道をたどっているどこかの国とは大違いです。
 4日間の滞在中そんな活気あふれるホーチミンを楽しんだかというと、出発前から体調をくずしていたのがますますひどくなり、ほとんどの時間をホテルのベッドの中で過ごしていました。そもそも関空10時半発の飛行機に乗るために岡山の地元駅を朝6時前に出発しなければなりませんでした。早朝の新幹線に寝坊して乗り遅れないように徹夜で過ごしたうえに、飛行機の中でビールとワインを立て続けに飲んだのが悪かったようです。
 トイレで戻そうと思ったのですが何も出てきません。機内で失神でもしたら大変なので4席空いた場所で横になって耐えていました。機内は日よけが全部閉じられてもともとうす暗かったのですが、ときおり漆黒の闇につつまれている気がしました。たぶん横になったまま何度か失神を繰り返していたのだと思います。それでもホーチミンに到着するころには気分も落ち着いてきて、ホテルにチェックインすると同時にベッドにもぐりこみました。時間はまだお昼を過ぎたころでした。同行のK君(昔の職場の後輩君)はホーチミンにかつて一度来たことがあるらしく、すぐに観光に出かけました。
 翌日もホテルで過ごし、3日目になってようやく今回の旅の目的である「愛人 ラマン」の舞台になった高校を見にK君と出かけました(K君は前日すでに下見していた)。歩いていると空気が肌にまとわりついてきます。30分ほど歩いてやっと高校があるところに到着したのですが喫茶店でダウン。アイスティーを飲み終えて、私はホテルに帰ることにしました。ふらふらになりながら30分かけてホテルへ。タクシーはあるのですが、どういう性分か日本でも外国でもタクシーに乗るのはきらいなのです。
 同じインドシナにあるバンコクに比べるとホーチミンの方がはるかに町がきれいなのですが、私には猥雑なバンコクの町の方が合うような印象でした。積極的にまた来てみようという感じにはなれませんでした。
 結局、4日間何もしないで帰国したのですが、つくづく体力が落ちたことを痛感しました。このままでは健康な老後は送れない、健康を取り戻せるかどうか、まだ何とか病気ではない今がラストチャンスです。少しずつでも運動をし、体重を落とし、身の周りを片づけようと思います。
 

五木寛之「新 青春の門」に期待

 文学にあまり興味がない人でも五木寛之という作家あるいは「青春の門」という作品(小説、映画、テレビドラマ)を全然知らない人は少ないのではないでしょうか。とりわけ今6070代の戦中戦後生まれ世代にとって「青春の門」は自分史とぴったり重なる、まさに疾風怒濤の青春を象徴する作品であると思います。
 今年84歳の五木寛之が「新 青春の門」第9部漂流篇を週刊現代に連載を始めたというのでわくわくしながらページをめくってみました。私がいちばん驚いたのは、1969年に第1部筑豊篇が発表されて半世紀近い歳月が流れていることだし、新たな連載は主人公伊吹信介が作家同様功成り名遂げ、今や老境を迎え人生に対する諦観でもテーマにしているのかと思ったら大違い。1961年のソ連、夏の終りのシベリアが舞台になっているではありませんか!
 五木寛之はこのところ親鸞や蓮如といった宗教や信仰の問題に深く入り込んだ作品を多く書いてきたので「青春の門」に登場した生々しい群像、地を這う人々の営み、アドベンチャーなどはもう遠い過去に捨ててしまったのかと思っていました。
 ところが、あたかも著者自身が青年時代に戻って、半世紀も前の旧ソ連に密入国し、いきなりKGBに追いつめられる……といった展開です。長い間忘れていた小説を読む喜びに再びひたれるような連載の始まりです。「作家としての最後の力をふりしぼっての今回の挑戦に、どうか青年の気分でおつきあいください」と五木は連載開始に当たって読者にメッセージをおくっています。
 私は五木寛之より一回り以上若く、生まれも貧しい筑豊の炭坑町ではなく温暖平穏な岡山育ち、両親が教師だったせいもあり、五木と直接ダブルことはないのですが、それでも早稲田大学を途中で投げ出し見知らぬ異国に飛び込んでいった共通点があります。五木は“強制収容所”と言われたソ連へ、私は“ここは地の果て”と歌われたアルジェリアへと。

 五木の魂がみずみずしく再びシベリアの荒野をさまよい始めたのに勇気をもらって私も近隣アジアへの小旅行ではなく、もう一度アルジェリア、モロッコの大地を駆けてみたい欲望にかられます。もちろん今では世界中どんなところに出かけてもホテルにはWi-Fiが完備され、本物の冒険はもうできないと思いますが。

父が遺した自転車

今年になってヒザ関節がますます痛むようになり整形外科で診てもらいました。病変は大したことはないが加齢に伴う筋力低下が進み太りすぎの体重がヒザに負担をかけている、とのことでした。さっそく始めたリハビリメニューのひとつに自転車こぎがあり、15分間ただ無心に重いペダルを踏むのがめんどう。
それなら通院を車から自転車に切り替えればいいと思いつき、むかし父が愛用していた自転車を軒下の物置から引っぱり出しました。平成7年に購入したものらしく22年も経過しています。タイヤとチューブは朽ち果て、錆と汚れで粗大ゴミ同然の自転車でしたが、一流品好みの父の遺品をゴミに出すのも気が引けて、自転車に貼られていたシールを頼りに購入店に電話してみました。するとすぐ軽トラで取りに来てくれその日のうちに修理が終わりました。
4段変速、ベルトドライブの当時としては最新鋭の自転車だったと思います。そして何よりも驚いたのは22年間のほとんどの歳月を軒下で雨ざらしになっていたのにもかかわらず変速機やベルトは修理不用でちゃんと動きます。さすがはMade in Japanです。
これまで車でしか行けないと思っていた喫茶店やスーパーが自転車に乗って出かけてみると案外近くに感じられます。しかも景色や街のディテールをゆっくり見る余裕があります。まるで初めてみる街のように新鮮。高校生のころ自転車通学していたときには決して感じなかったフィーリングです。それはそうでしょう。
高校時代、成績はいつも低空飛行、数学や物理はまったく理解できず教室ではいつもびくびく。スポーツも得意ではなく実技が苦痛。今でも高校時代の夢をみます。学校へ急いでいるのに自転車がちっとも進みません。ペダルが異様に重くこのままでは遅刻しそうな夢。雨が降るなか自転車のブレーキが効かず渋滞で止まっている車にぶつけてしまう夢。

それが今や高校どころか大学も卒業し、仕事もやり終え、人生の卒業だって目に見えてきた!自転車に乗る感覚が全然違います。どこまでも楽しい、ヒザの痛みも感じない、もはや受験の苦しみも介護の苦しみも兄弟との葛藤も何もない。これこそ今の自転車の限りない爽快感のみなもと。自転車を残してくれた親父ありがとう。