2015年12月16日水曜日

温泉から室内プールへ(下)

 町中の温浴施設は年中無休で早朝から深夜近くまで営業しています。“いつでも温泉に入れる!”というのはいいものです。雨がしょぼしょぼ降るわびしい夜、パッと思い立って大家族の湯まで車を走らせ、熱い温泉のお湯に浸かりサウナで汗をかいたらひきかけた風邪もあっという間に退散です。降り止まない冬の小雨のなか露天風呂でのんびりしていると気分は奥飛騨慕情です。
温浴施設でも十分運動になるのですがもっと本格的な運動効果を得るためにあちこちの室内プールを探訪しました。まず訪れたのは岡山市南区豊成にある市営の屋内温水プールです。このプールに来たのは40年ぶりです。当時50メートルの室内温水プールは全国的にもまれな存在で岡山市民として誇らしく思ったものです。
ところが久々に出かけてみて感じたことですが、施設全般の経年劣化が激しいということでした。なによりも水深が浅いのは致命傷です。岡山市の財政状況はきびしいのでしょうがぜひとも早期に豊成のプールの建て替えをお願いしたいと思います。
次に行ってみたのは倉敷市屋内水泳センタープールです。このプールも岡山市民プールと同じぐらい昔にできたものですが落成当初から立派なものでした。とりわけ50メートルプールは水深が1メートル60センチとやや深いので泳ぎやすい。
日本のプールは一般の利用者の安全を考えてか水深が浅すぎる傾向にあります。水球やシンクロナイズドスイミングにとって浅いプールは致命的でこれらのアスリートたちは練習場の確保に大変苦労しているのではなかろうかと思います。
1970年ごろドイツ人の友人に招かれドルトムント近くの人口9万人の町に滞在したことがあります。プールに出かけて驚きました。50メートルプールの床は使用目的に応じて上下する可動床で、そんな設備を見たのは生まれて初めてのことでした。日本でも最近この方式による深いプールが普及し始めました。

岡山市民プールの建て替え計画があるのかどうか存じませんが、次はぜひ現代のニーズにマッチしたレベルの施設にしてほしいと願っています。プールに出かける高齢者が増えれば増えるほど老人にかかる医療費は減るでしょう。私も運動を始めて血圧の薬と別れることができました。

温泉から室内プールへ(上)

 かつて大阪で働いていた30年近い歳月のあいだ飽くことなく休日には紀伊山中の温泉に出かけたものです。龍神温泉や川湯温泉は四季を通してほんとうに美しく、日本の情緒ここに極まれり、といった風情です。
 日本に大挙して押し掛けてくる外国人観光客のあいだでも急速に日本の温泉が知れ渡ってきているようですが、マナーの問題や習慣の違いによるトラブルはあるにせよ国際親善にとって温泉ほどいい雰囲気をかもしだすところは他にないと思います。
 外国人が驚き抵抗を示す筆頭は何といっても他人の前で素っ裸になって温泉に入る点につきます。あの恥という概念がまったく欠如していると思われる中国人でさえ温泉で裸になれと言われると柄にもなく顔を真っ赤にして恥ずかしがります。今はまだ温泉が中国人によって占拠されたという話は聞きません。でも彼らが温泉の快楽を覚えるのは時間の問題でしょう。
 かつては生ものを絶対食べなかった中国人も今では脂ぎったおおとろのとりこになっているし、冷たいものは毒だと信じて疑わなかった彼らも今では冷たい生ビールやアイスコーヒーに慣れ親しんでいます。
 さて、もともとは温泉大好き人間だった私も両親の介護のために岡山に帰って以来、温泉場でゆっくりする精神的余裕をなくしてしまったのか、あるいはしょっちゅう上海に出かけるせいで気持ちが中国人化したのか温泉に対して何となく抵抗感を感じここ十数年一度も温泉に出かけたことがありません。醜くたるんだ100キロの巨体をひとまえに晒すのはさすがに恥ずかしいことです。
 ところが医師から執拗にフィットネスを勧められついに体を動かすことにしました。まずは水中歩行から。いきなりプールに行く前にまずは町中のスーパー銭湯で“服を脱ぐ”練習をしよう! そして出かけたのが近くの「大家族の湯」でした。

 オープン以来店の前をよく通りかかるのですが広大な駐車場を埋め尽くす車の数に恐れをなして今まで敬遠していました。しかし勇気を出して行ってみてびっくりです。20数種の風呂のほかにプール、フィットネスジムまで完備し、まさに空前の規模の「湯」でした。今ではすっかりとりこになってしまい2日と置かず出かける始末。さっそく入浴効果を実感しています。(続く)

母の弟(下)

太平洋戦争の末期にフィリピンで戦死した叔父の人物像や人となりについて、戦後生まれの私には何の記憶も思い出もありません。しかし母が負った悲しみ、心の傷は母の最晩年に至る今も母を苦しめています。
今回の国からの戦没者遺族に対する特別弔慰金の申請に当たって、叔父の戸籍謄本を取り寄せて初めて叔父がいつどこで死んだのか分かりました。戸籍謄本には「昭和20年6月30日時刻不明比島レイテ島カンギポット山に於いて戦死」と記されています。
太平洋戦争の天王山と言われたレイテ島の戦いは大変な数の犠牲者を日米双方に出しました。84,000名もの日本軍将兵が派遣されたのに捕虜になるなど生還できた人はわずか2,500名だったそうです。叔父が亡くなった6月末は敗戦間近であり、叔父はぎりぎりまで筆舌に尽くしがたい過酷な状況の中で生きていたことが想像されます。
母のもとに叔父から届いた一枚のハガキが残っています。証券会社で働いていた叔父はスポーツマンで明るい性格で人気者だったそうです。叔父のハガキに書かれた文字は流麗で、さりげなく家族を気遣う文面でした。遺骨も戻ってこなかった叔父の遺品といえばこのハガキ以外何もなく母にとっても私にとってもこの上なく大切なものなのにそういうものに限って引き出しに無造作に入れたりしているうちに紛失してしまうものです。今探しても行方不明です。
さて、特別弔慰金の請求を開始して分かったことですが、国からの“お見舞い”をいただくのに役所はどこまでハードルを高くすれば気がすむのかとあきれることばかりです。戸籍謄本は直系の尊属卑属にしか取れないという原則があり、新しい籍に移った伯父伯母の戸籍には手が届きません。
具体的には母と同一順位である伯父伯母9人の死亡年月日を申し立てないといけないのですが、私にはそんなもの「みんなとうの昔に死にました」という以外申し立てるすべがありません。

国や自治体には年金受給記録、戸籍、住民票、死亡届けなどすべてのデータがまさにビッグデータとして完璧に存在しています。弔慰金を正しく支給するために必要な情報は国が職権で調べてくれてもよさそうなものです……。年取った遺族を苦しめる手続きの煩雑さは、まったく弔いにも慰めにもなりません。