2014年12月13日土曜日

変わりゆく上海


 年末に4泊5日で上海に行ってきました。昨年の春節(旧正月)に訪れて以来ほぼ1年ぶりの中国旅行でした。

日中間に不協和音が漂うなかなぜ上海へ行ったのかというと、ニュース映像やワイドショーを通じて接する中国のイメージは果たして今の中国の市民生活や感情を正確に反映したものかどうか、また自分の中に徐々に育ってきている中国に対する憎悪(ヘイト)の感覚は根拠があるものかどうなのか、疑問に思えることが多くなってきたからです。

 結論からいうと上海の市民意識(いわゆる民度)は1年前に比べびっくりするぐらいよくなっていました。ところかまわず大声でしゃべる人が少なくなりました。地下鉄車内が静かになったこと、ある程度降りる人優先になってきていること、整列乗車が見られるようになったこと、車内で営業する親子連れのものもらいが姿を消したことが印象的でした。

 大衆食堂では一人一人の食器セット(コップ、皿、茶碗)があらかじめプラスチックで厳封されたものがテーブルの上に用意されています。B型肝炎撲滅のために衛生当局が食器を清潔に保つよう指導しているものと想像します。箸とお手拭きも密封されたものが出されます。

 また道路に痰を吐いたりゴミをポイ捨てする人がまれになり、以前は歩行者をはね飛ばす勢いで交差点に突っ込んできていた車が歩行者に気を使うようになっていました。このように、百年経っても変わらないだろうと思われたかつての劣悪なマナーが短期間にずいぶんよくなっているのには本当に驚かされました。

 豊かになったせいで人々の心にもゆとりが出てきたのでしょう、微笑み、はにかんだ様子、申し訳なさそうな顔……これらは伝統的な中国人のイメージをひっくり返すものですが、随所でそういう心温まる表情に出会いました。

 国際政治や外交世界での無礼なふるまいは国家の戦術であって必ずしも市民の感情ではないのにマスコミはそうしたことは伝えてくれません。私自身、中国がこんなにもスピード感をもってマナー向上に努めていることは予想もしていませんでした。

 今年はこのところ中断していた中国語の勉強を再開して上海以外に、西安や北京、内陸の自然が美しい町にも出かけてみようと思います。

2014年11月27日木曜日



中国の野心と衆院選

11月に北京で開かれたAPECでは主催国の習近平国家主席が安倍首相を散々コケにした映像が繰り返しテレビで流されました。客人を待たす、まともに目を合わせない、あいさつを無視、会見場に国旗を置かないなどまさに目に余る無礼なふるまいでした。

露骨な挑発に乗らない安倍さんには「お仕事ながらご苦労さま」とねぎらいの言葉を心の中でつぶやきました。今から思えば首相は衆議院の解散を念頭に淡々と国際会議での役目を果たしていたのでしょうが、中国との溝はいよいよ深まった感じがしました。

そもそも今回のAPECの主題と成果は何だったのか、改めて問われるとよく分かりません。しかしながらひとつだけはっきりしたことがあります。「中国は大国として太平洋の西半分を支配する権利がある」という厚かましい願望を世界に向けて公然と言い放ったことです。

以前から中国は奄美沖縄がある南西諸島を第1列島線と称し、伊豆、小笠原諸島からグアム、サイパンに至る海域を第2列島線と呼んでこの2つの列島線を突破するという野心を温めてきた経緯があります。

第1列島線を突破するためには尖閣諸島が決定的に重要な位置を占めているので中国に尖閣をあきらめさせることは非常に困難です。さらにAPECの最中、これ見よがしに八丈島、小笠原の領海やEEZ(排他的経済水域)で200隻ものサンゴ密漁船が中国国旗をなびかせていました。このおぞましい光景は私には密漁というより、中国による第2列島線の“実効支配”を印象づけるためのデモとしか思えませんでした。

今、年の瀬が迫るなか衆議院選挙戦の真っ最中です。大義なき選挙と言われるだけあって争点のよく分からない選挙戦です。しかし今本当に問われていることは消費税問題や景気問題などいわゆる当面の国民生活をどうするかよりも10年後、50年後、100年後の日本をどうデザインするかではないでしょうか?

ハワイから西の空と海が中国の支配下に陥った世界を想像したら寒気がします。国際問題が選挙イシューにならないのはよく分かりますが、我々が選挙で作る次期内閣が日本の命運を握っています。棄権や白票ではなく、これまでの実績を参考に、賢い選択をしたいと思います。

遺族年金の怪


 今年6月初めに父が96歳の生涯を閉じました。2歳年下の母は94歳にして未亡人になった訳ですが、家で寝たきりながら平穏な生活をしています。数年前からアルツハイマー病が最終ステージまで進行し、夫の死も自分が結婚していたことさえ幸か不幸か理解することなく未亡人(遺族)になりました。

役所の手続きのうち一番摩訶不思議だったのが遺族年金の手続きです。父も母も長年教師をしていたのでどちらも共済年金をもらっていました。年額の比率でいうと5対3ぐらいで父の方が多かったのですが、学校共済組合から送られてきた遺族年金制度の仕組みは複雑すぎて理解できないままギブアップしました。

母は自分の年金をもらい続けるのがいいのか、父の遺族年金をもらう方がいいのかよく分かりません。私は何が何だかよく分からないまま「よきに計らってください」との一文を備考欄に記入して提出。そして3ヶ月近く経過したころ遺族年金裁定書なるものが送られてきました。

そこには今後母が受け取る年金額などが記入してありましたが、いったい母のもともとの年金はどうなったのかなど依然として私には理解不能でした。結局10月の年金が銀行口座に振り込まれて初めて今後母が受け取ることになる年金の全体像が分かってきました。

回りくどく書いていますが、要するに父が生きていたころの父と母の年金の比率(5対3)でいうと母の年金は4になりました。とりあえず増えたのでよかった、よかった! 相変わらず物わかりの悪い私は、母の自分の年金3に遺族年金1が追加されて4になったのかと思ったのですが、実は母の年金は今までの半額1.5になりそこに遺族年金の2.5が足されて4になったようです。

その結果、つまり母本来の年金額が半減した結果、母の所得は半額になり所得税がゼロになりました。現実の所得は増えたのに……です。その訳は遺族年金は非課税の年金であるからということらしいです。

「よきに計らってください」と言ったらその通りになってよかったのですが、敵(政府)もさるもの!すでに法改正して私が考えたような(自分の年金を満額受給し、遺族年金を足す)仕組みになっているそうです。もちろんこの方が同じ受取額であっても所得税が取れるからです。

音楽: 音の楽しみ


 11月初めの日曜日、岡山シンフォニーホールで「華麗なるロシア音楽」キエフ国立交響楽団の演奏会があり、最前列で感動のひとときを過ごしました。さまざまな楽器が音を奏でるようすや演奏者の表情がすぐ近くに見えコンサートの始めからから終わりまで飽きることがありませんでした。

 目の前でスペクタクルが展開するオペラと違って純粋に聴覚に頼るオーケストラ曲はレコードとかCDで聞く方が音楽に集中できるので、私は今まであまりコンサートに出向くことをしてきませんでした。大きな間違いだった、と生演奏のすさまじさにびっくりし、感激し、すっかり興奮してしまいました。

 半世紀前、中学生になったとき数学の最初の授業で謹厳実直な教師が「これから君たちが勉強するのは算数ではありません。“数学”という学問です。他の科目で学問を表す“学(がく)”が付く教科はないでしょう!?」と誇らしく言われました。するといつもみんなを笑わせていたK君が手を挙げて「先生、音楽があります」と答えて謹厳な先生も思わず苦笑いされていました。

 そう、音楽の楽は学問の学ではなく文字通り「音を楽しむ」ものであることを今回のコンサートで改めて実感した次第です。チャイコフスキー、ピアノ協奏曲第1番の圧倒的な迫力、力強さは驚異的でした。目の前で聞くとピアノの音が地鳴りか雷鳴のように聞こえます。CDやレコードでは有名な第1楽章が終わると残りの楽章は退屈なのに全然そんなことがなく最後まで楽しめました。

 ただ残念なこともありました。すぐ後ろの席(つまり2列目)の初老カップルが演奏の最中にずっとおしゃべりしているのです。演奏者にも聞こえていたのではないかと思うとたまりませんでした。

 また岡山シンフォニーホールは客席数2千の大ホールですがおよそ半分ぐらいの入りでした。日本人にもなじみの深いボロディンやチャイコフスキーを本場の演奏で聞く機会はめったにないのですが。

宣伝が下手なのか、(根がケチな)岡山という風土のなせるわざなのか? 音楽大学まである岡山県なのにお寒い光景でした。晩秋の日曜日の昼下がり、中高生や大学生の皆さんにも勉強やバイトをちょっと休んで聴きに来て欲しかったなあ。

2014年11月8日土曜日

なにわの霊媒師

 秋には3連休が何度かありますが、こういうときマネーの世界は要注意です。10月31日金曜日、文化の日の3連休を前に日銀の黒田総裁が追加金融緩和を発表しました。同じ日の夕方、独立行政法人のGPIFは年金基金の運用先として国内国外の株への投資を大幅に増やす方針を発表しました。

 黒田総裁の会見はまだ東京株式市場が開いているうちにあったのですぐに株価が大きく上がりました。私は血の気が引くのを感じました。実は10月に株価全体が急落していたとき私としては大胆(無謀)と思える数量の株を信用取引で買い立てていたのですが、思わくどおりには上がらないのにしびれをきらして1株残らず売ってしまっていたのです。黒田バズーカの2日前に。

 年初からチマチマ稼いだ株の収益全体に匹敵する利益を取り逃がしたショックに私の理性は吹っ飛びました。急騰した株は必ず反落するはずなので市場が閉まる前に相当数の株を空売りしました。ところが月曜日(祝日)東京市場が休みのあいだにシカゴ先物市場で日経平均がさらに上昇しています。お先真っ暗。火曜日には大損を抱えること必死です。

 1980年代末期バブル絶頂期のころ、なにわの料亭の女将で“尾上縫”という実業家・霊媒師・詐欺師がいました。彼女のもとへ長期信用銀行の行員が日参して彼女のご託宣を聞いては投資判断するというおよそ現代社会では信じがたい現象が現実にありました。どんな金融理論も占いには勝てないということです。

 尾上縫事件を思い出した私はなにわの友人に電話をかけました。株などに手を出すやつではなく堅実な地方公務員をしている若者ですが霊感があって当面の株価の動きをイメージする特技を持っているのです。しばらく沈黙の時間があったあと次のようなお告げがありました。

 「火曜日は上がります。しかし水曜日、木曜日と下げます」

 私は若き霊媒師の言葉に賭けてみました。爆上げしたまま火曜日をやり過ごし水曜日を待ちました。すると大きな含み損をほぼ解消するだけ株価が落ち、ただちに決済して黒田ショックの難を逃れることができました。なにわの霊媒師GJ。感謝!

 株で得するのはインサイダーだけです。究極のインサイダーとは安倍政権とGPIFではないでしょうか。

三つ子の魂百まで

 穏やかな10月の週末、中学校卒業後50周年のホームカミング・デイの催しがありました。約250名の卒業生のうち30余名が参加しました。50年の歳月を隔てて初めて会う幼なじみもいました。

昼間母校訪問と授業参観があり、夜は当時の恩師や現在の校長、副校長先生の臨席を仰いでパーティ、翌日はかつて臨海学校に行った香川県の豊島(てしま)再訪というなかなか凝ったイベントでした。後輩のために些少ながら寄付金目録を校長先生にお渡しするセレモニーもありましたが、やっと母校に少しは恩返しできたかなという気がしました。

50年の歳月が我々にもたらしたもののうち目につくものは外見のどうしようもない劣化です。では内面は劇的に変化したのかというと?

官僚として頂点を極めた人、大学教授、社長、所長、院長などと“長”がつく人もいっぱいいてそれなりにみんな努力を重ね自己研鑽に励んできた半世紀であったことは確かです。しかし性格とか癖、雰囲気というものは少しも変わらないものですね。どなたも中学生のときのままでした。

よくしゃべる人は今もよくしゃべる。気取ったやつは今もそのまま、気配りできる人は今でも気がききます。根性の悪いやつは今もその片鱗が残っている。数学ができなかった人は今も数字に弱い(私のこと)、音楽や美術が好きだった人は今も。

つまりは50年の歳月をもってしても人間の内面は変えられない、言い換えれば人格を磨くことなんか無理。もし人格や性格、気質が別人のように変わる性質のものならその方が怖い気がします。底意地の悪かったA君が寛容で思いやりのある人格者になっていたらそれはもはやなつかしいA君ではありません。「あいつ、相変わらずだなあ」とみんなに言わしめてこそ幼なじみというものでしょう。

人格の諸要素のうち総じてネガティブなものはいくつになってもそのままのようです。そうであれば家庭や学校で子どもをあれこれ叱ったりけなしたりしてもそれほど意味がありません。どうせ変わらないのならいい点を誉めるに限ります。

嫌いなことを克服するために過度の努力をするよりも好きなことを極める方がよほど理にかなっている……そんな感慨にひたったホームカミング・デイでした。

政治家の品格


 夏から秋へと切れ目なく続いた天変地異がやっと収まったこのごろにわかに政治バトルが活況を呈してきました。中央政界では安倍政権の目玉だった2人の女性閣僚が就任以来わずかな日数で仕事らしい仕事もせずに辞任しました。

きりっとした眼差しの小渕さんの場合は、疑念をもたれていることの重大さは別にして、「彼女は本当に何も知らないお姫様だったのだなあ」という感じですが、法務大臣だった松島みどり氏については安倍さんの女性観を疑います。よりによってどうしてこんな人を大臣に!

あのおばさん、品のかけらもない発言を就任直後から連発していました。とりわけ私が許し難いと思ったのは民主党の蓮舫議員から“うちわ”問題で追求されたことを「雑音」と切り捨てたことです。代議制民主主義のわが国では国会議員は政治を国民から負託されていて、蓮舫議員の国会議場での質問は主権者たる国民からの質問です。それを「雑音」とは国民をなめきっています。

一方、大阪では橋下大阪市長がある団体代表との間で吉本新喜劇顔負けのバトルを繰り広げていました。

代表「あんた」

市長「『あんた』じゃねぇだろ」

代表「『お前』でいいのか?」

市長「お前なぁ」

代表「『お前』って言うなよ」

市長「うるせぇな、お前」

橋下さんは会見の最後まで相手を「お前」で通していました。一度は取っ組み合い寸前までいって警護の警察官や職員が双方を引き離し着席させました。会見というのに2人の距離は数メートル離れて設定。異様な光景です。机の上のものを投げつけられても身を避けるだけの時間をかせぐためでしょうか?

 何か見てはいけないものを見てしまった感じですが、橋下さんをある意味見直しました。悪いものは悪いときちんと相手を諭していました。どなりまくる相手に同じレベルでどなり返すのは修羅場に慣れた人でないとなかなかできないことです。

 橋下さんはおそらく子ども時代からあの調子でたくましく生きてきたのでしょう。高校時代にラグビーで体を鍛えたのも無駄になっていません。威嚇する相手から絶対逃げない姿勢はさすが百戦錬磨の貫禄があり喧嘩上手です。品格には多少欠けていても胆力はすごいですね。

2014年10月15日水曜日

高橋大輔引退を惜しむ

 
 

  高橋大輔に出会った人は例外なく彼を賞賛します。直接接した人もフィギュアスケートの映像を通して大輔とともに幸せな数年をともにした人も。賞賛は高橋の華麗な演技に向かうと同時に、高橋の素敵なパーソナリティーにも向かいます。


岡山で引退会見をしたもようが朝からワイドショーで繰り返し流されています。「高橋を育てた3人の母」とか「ケガを乗り越えて」のようなお涙頂戴の切り口は愛嬌ですが、本人は苦労を苦労と感じない根っからの明るい若者という気がします。

そういう舞台裏の事情はともかくひとたび高橋がリンクに立つと世界中の人が高橋の演技に魅了されてしまいます。何か特別な才能と感覚をもった特別なスケーターが高橋。

その何かとはスポーツと芸術を完全に融合させてみせる彼の天才に他なりません。長いフィギュアスケートの歴史を振り返ってみて高橋に匹敵する芸術的な演技を見せてくれたのはカルガリー・オリンピック(1988)で金メダルを取った旧東ドイツのカタリナ・ヴィットぐらいしか思い当たりません。

カルガリー大会では日本の伊藤みどりが5種類の3回転ジャンプを7度決め2万人の観客からスタンディング・オベーションを受けたのですが、芸術点が低く抑えられて5位入賞でした。そのとき伊藤みどりについて感想を求められたヴィットは「ゴムまりみたいにぽんぽん飛ぶだけではダメ」と辛辣なことを言いました。

ジャンプでは伊藤みどりにかなわなかったヴィットの悔し紛れの言葉だと長いあいだ思っていましたが、トリノ・オリンピック以来の高橋のパフォーマンスを見てカタリナ・ヴィットが言いたかったことが分かるような気がしました。ジャンプがすべてではないと。

フィギュアスケートはスポーツ競技というよりバレエのような身体による表現芸術そのものではないかと思います。いっそ4回転ジャンプしてもいっさい加算されないルールにしたらあと数年我々は高橋大輔の身体パフォーマンスを見続けることができたのに!引退が惜しまれます。

スローモーションで見ると高橋大輔は足だけではなく頭、頭髪、目、首筋、肩、腕、手、指先、背中と身体のすべてを使って演技しています。氷上の能舞台。幽玄の世界です。

岡山の出番


 

 
岐阜県と長野県の境にそびえる御嶽山が突然水蒸気爆発を起こし10月2日現在で47人の方が亡くなりました。思いもよらない突然の悲劇であり、火山事故としては雲仙普賢岳の火砕流(1991)による犠牲者数を上回って戦後最悪の事態になりました。


御嶽山の爆発直後から、日本にはこんなにも大勢の火山学者がいたのかとびっくりするぐらい多くの専門家がテレビに登場していますが、ほぼ全員が口をそろえて「爆発は予知できなかった。今の予知能力のレベルはこんなものだ」と開き直りともとれる発言を繰り返しています。

莫大なお金を火山研究に投入しながら「こんなもの」程度の予知しかできず登山客に警告すら発することができないのなら、そのお金ですべての活火山にシェルターや頑強な避難施設を作ったほうがよほどマシです。

東北大震災の結果、日本という国土を曲芸のようにバランスを取りながら載せている4枚のプレートが大きく動き、あらたな歪みを生じさせている現在、あちこちの火山が不気味な動きを見せています。富士山が爆発し首都圏が壊滅状態になることが必ずしもSFの世界の話ではなくいますぐ起きても決しておかしくないのが日本の現実です。

 東京が地震や火山噴火で機能しなくなったときそれがそのまま日本の終わりであってはなりません。そこで注目をあびるのがこの岡山ではないでしょうか。安定したユーラシアプレートの上に載っている岡山県には活断層がほとんどありません。

交通インフラが整い、世界中どこにでも直行便を飛ばすことができる空港がある、火山がない、原発がない、水は豊富にある……長らく中断している首都機能移転論議にとって岡山、それも岡山空港を取り巻く吉備高原都市以上に理想的な土地は災害列島のどこにもありません。

伊原木県知事は「もんげー」などという下品な岡山弁まで繰り出して岡山の売り込みに躍起になり東京まで農産物の宣伝に出かけられていますが、岡山の一番の売りは千年、万年のスパンで破局的自然災害から免れたこの土地柄そのものです。

いつでも首都機能をもってくることができるよう準備を今すぐ始めても決して無駄にはならないと思います。県知事様、いかがでしょうか?

2014年9月21日日曜日

朝日新聞

 天候不順のまま一気に秋が訪れました。久々にからっと晴れた青空にまたしても暗雲漂う黒い影を落としているのが一連の朝日新聞記事ねつ造・誤報事件の顛末です。

かつて「日本には4つの権威がある」と言われたものです。東大、岩波、朝日、NHK。今でも日本の権威として君臨している4者ですがずいぶん色あせたこのごろです。

学生時代、朝日ジャーナルという硬派の週刊誌が朝日新聞社から出版されていて、真面目な学生にとってはバイブルのような存在でした。ある号でアメリカの活動家フレデリック・ダグラス(1818-1895)の著書からの引用翻訳文が朝日ジャーナルに掲載され大変感動したことがありました。

私はダグラスの英語原文が読みたくて、さっそく有楽町にあった朝日新聞本社に出かけました。当時は今のように建物に入るのにセキュリティチェックはなく、仰々しい受付なんかもなくて(あったかもしれませんが)、そのまま5階か6階までエレベータでのぼり朝日ジャーナル編集部の職員にお願いしてその場で原文のコピーをもらいました。

編集部といってもだだっ広く雑然とした新聞社のフロアーに朝日ジャーナルの小さな「島」があって数名の編集部員がいるだけでした。そして隣には週刊朝日の「島」がありました。こちらも同じぐらいの小さな編集部だったのが今でも強く印象に残っています。全国に影響を与えている週刊誌もこんな少人数のスタッフによって作られているのかと大変驚きました。

その次に朝日新聞東京本社(築地)に出向いたのは恩師の井筒俊彦先生(哲学者・イスラム学)が朝日賞を受賞され私も受賞パーティに招待されたときです(1982)。その年の受賞者は司馬遼太郎、英文学者の中野良夫などそうそうたる顔ぶれで、私は立食パーティであつかましく司馬遼太郎に話しかけたりしたものです。

新聞社内にしつらえられた宴席の料理は質素でしたが、エスカルゴが6個載った皿が目に入りました。私が皿ごと手に取って食べていたら、サルマン・ラシュディの小説「悪魔の詩」を翻訳出版して、後に筑波大学構内で暗殺されたイスラム学の五十嵐一さんが近寄ってきて、「それどこにあったの?」と尋ねるのです。

「そこに…」と言ったもののテーブルの上にはもうエスカルゴはありませんでした。どうやらもともと6個しかなかったようです。それを私が一人で平らげたので五十嵐さんは少しムッとしていました。

五十嵐さんは19917月筑波大学の研究棟のエレベータの中でいまだ正体不明の何者かによって有望な前途を空しく絶たれました。こんなことならあのときエスカルゴを分け合っておくべきでした。

今となってはエスカルゴを争ったこともいい思い出ですが、何百人ものパーティにエスカルゴをたった一皿しか用意していなかった朝日新聞社にはどこか思いっきりのよさに欠けるなにかをふと感じました。

 それから30何年かが過ぎメディアの世界も様変わりしました。なんといってもインターネットを通じて、かつては容易に独り占めできていた極秘情報が瞬く間に日本中はおろか世界中に伝播する時代になりました。ウソの記事を書いてもほどなくばれます。

 こうした時代背景にも関わらず朝日新聞は東電福島第一原発事故の吉田調書を極秘に入手し恣意的かつ悪意ある解釈を施してスクープとしました。疑問を投げかける他紙や週刊誌には攻撃的な恫喝を加え告訴し批判を封じ込めようとしました。

 一番ひどいと私が感じたのは朝日新聞に批判的な意見をいっさいシャットアウトしたことです。「何でも自由に書いてください」とお願いしておきながらジャーナリストの池上彰氏の紙面批判を掲載拒否し、世間の批判を受けると一転掲載するなど日和見的対応に終始したのには呆気にとられました。

何という思い上がりか、と思いますがこれでは通常の記事でも朝日が気にいらない事象にはこれまでも平気で真実にウソを混ぜて報道してきたのではないか、という疑念を多くの読者にもたせました。

今になって朝日新聞は社説やコラムを総動員して反省と謝罪記事を連日書いていますが、個人の過ちならともかくこういう会社の方針として犯した組織犯罪は二度と名誉挽回することはできません。太平洋戦争のとき戦意高揚記事を書いて軍国日本に協力した過去などすっかり忘れているようです。

「解体的出直し」をすべきなどと世間も朝日新聞自身もかまびすしくかけ声をかけていますが空しい言葉です。

デング熱


 50年前、中学校の保健体育の授業で蚊やネズミが媒介する感染症についてひととおり習いました。ペスト、日本脳炎、マラリア、つつがむし病、そしてデング熱。恐ろしい病名の割には終戦直後の一時期をのぞいて日本でこうした感染症が大流行したことはありません。

ところがそろそろ秋の新学期という時期になって、中学校卒業して以来聞いたこともなかったデング熱が突如東京のど真ん中に出現したのには少々驚かされました。

「教科書に出ていた病気が実在していたのだ!」というのが率直な感想ですが、日を追って感染者が全国に広がり、ついに岡山県でも患者が見つかり、これは要注意だと思いました。

今のところすべての患者が東京の代々木公園に行ったことがあるという共通点があるのにとどまり、デング熱にかかった人を媒介してさらに全国的な規模で感染が拡大している様子はうかがえません。

蚊といえば日本脳炎を媒介するコガタアカイエカが有名です。私が子どものころ、家の中にまで入ってくる蚊は例外なくこのアカイエカで、ヤブカは竹藪や林に行かないと見られないものでした。

ところが今では住宅地でもアカイエカを見ることがほとんどなく、代わって大繁栄しているのがヤブカです。洗濯物を干しに玄関を出るとすぐにヤブカが襲ってきます。

車に乗ろうとドアを開けると人より先に車に乗り込んできて、車の操作でままならない人間の血を心おきなく吸い込んではショッピングセンターでいち早く降りていきます。小さくても頭のいい連中ですね。

地球温暖化と活発な国際交流のせいで日本にも簡単に熱帯病が入り込んで定着する素地ができています。マラリアだってそのうち珍しくなくなるような気がします。

蚊を避けるためにいろんなグッズや薬剤がドラッグストアに並んでいますが我が家のようなヤブカ大量発生地域では蚊取り線香で受動的に防ごうとしても無理だということが分かりました。私の経験では皮膚に直接吹きかけるスプレーが一番よく効きます。各種愛用しています。

ヤブカとの戦いが終わるころすでに晩秋。土砂災害のあとはデング熱と災害の多い年ですがたまにはいいニュースを聞きたいものです。

2014年8月27日水曜日

みょうがご飯


 食欲がなくなるこの季節、自分でも何を食べたいのか、何を食べたら胃も心も満足できるのかさっぱり分かりません。そんな折りテレビの料理番組(NHKきょうの料理)で土井義晴さんが「みょうがご飯」の作り方を紹介していました。いままさにみょうがの旬です。何だかおいしさの予感がします。

材料(4人分)はとてもシンプルですぐ覚えられました。米カップ2、みょうが120g、油揚げ1枚、塩小さじ1、これですべてです。みょうがは小さいものはそのままで、大きいものは二つか三つに切ってよく洗ってぎゅっと絞る。油揚げはみじん切りにするそうです。

ここでなぜ油揚げが入るかというと土井先生は「油揚げは西洋のベーコンといっしょで、料理に“こく”を出す役割がある」と解説していました。油揚げ=ベーコン! こういう本質をついた知識をひとつひとつ会得していくことが料理上手になるコツだろうと思います。

「米は洗ってざるにあげ、30分寝かせる」ここもポイント。そしていよいよ炊飯器に入れてスイッチ・オンですが、私は炊飯器の設定をあえて「倍速」(早炊き)にします。わずか20分ほどで炊きあがります。そのまま10分ほど待って、今度はおひつに移します(ここ重要)。

いまどきおひつにご飯を入れる家はまずないでしょう。私も保温を炊飯器まかせにしては“ご飯がまずい”と嘆いていました。「やはりおひつなんだ」、土井先生の言葉にしたがって、台所の天袋から昔のおひつを引っぱり出してみました。大丈夫、木のいい香りがします。

おひつに移したみょうがご飯はふわーっと食欲をそそります。暖かいうちもおいしいし、冷めてからもおいしい! 結局4人前のみょうがご飯を一人で食べてしまいました。

 「こういうものを食べたかったのか!」ということに目覚めた私は、さっそく「炊き込みご飯変奏曲」を試してみました。油揚げ=ベーコンならいっそ素朴な油揚げではなく美星町で作られている地場のベーコンならなおいいはず。上出来です。

 百合根と貝柱(缶詰の汁も使う)、エリンギと鶏のもも肉……要するにほくほくする野菜とこくがでるタンパク質のふたつがあればOKで余分な食材は入れません。毎日2合飯を平らげて食欲不振とおさらばです。

広島の土砂災害に思う


 広島市北部で起きた土砂災害の死者、行方不明者数は広島県警によると8月21日現在90人にのぼるそうです。上空からの痛々しい映像は水の力の恐ろしさをまざまざと見せつけていますが、住宅地の後背地の山はいかにもなだらかな丘陵といった感じです。今にも崖崩れがおきそうな急斜面が迫っているような場所ではないだけに、被害にあわれた地域の人には“まさか!”というやりきれなさがあることでしょう。

しかしテレビ番組に引っ張り出された地質学や土木工学の専門家に言わせると、土砂災害が起きた地域の土壌は花崗岩が風化してできたマサ土(真砂土)であり、強い降雨にあったら土壌表面が一気に流れ出す特徴があるとのこと。

こんなことを聞くと広島周辺の山土が特異的に危ない印象をもちますが、マサ土は何も広島特有の土ではなく西日本に広く分布しているごくごく普通の山土です。

有機質をほとんど含んでいない非常に清潔な土で、赤松がよく育ちマツタケの生育にも適しています。岡山の白桃がおいしいのもこの土のせい。小学校の運動場の土もマサ土を入れているので校庭が非常に明るくすがすがしい。校庭だけでなく岡山や広島のなだらかで美しい山里の風景をいっそう晴れやかで解放的にみせているのもマサ土のおかげです。

大学生になって初めて関東の土に触れたときは本当に驚きました。真っ黒で細かいほこりのような土。運動場で雨が降れば体操服が真っ黒になります。かっこいいはずの湘南海岸の黒砂のおぞましさ!ふるさと岡山の海の明るい砂浜がなつかしい!といつも思っていたものです。

そんなマサ土が広島に大きな災厄をもたらしました。広島市は岡山市と比較して平地が少なく、人口増に従って今回の悲劇が発生した安佐南区や安佐北区といった山間地に住宅地を拡大せざるを得なかった事情があったのはよく分かります。

しかし地滑りを起こすことが分かっているマサ土地帯を開発するのに当たって学者と行政は今回のような大災害の発生を予測していなかったのでしょうか。なにやら福島原発事故と同じように今回の大惨事も人災の側面があると思いました。

土砂に埋もれた我が家に残された子供に呼びかける母親の悲痛な叫び声がいたたまれません。

2014年8月8日金曜日

台風11号が岡山方面へ向かって近づいています。嵐の前の静けさです。心が落ち着きます。

父が亡くなって寂しくもあるのですが、日が経つにつれ、手がかかった父の介護から解放された安堵感をありがたく感じるようになってきました。父の遺品や遺稿の整理が進みませんが、これは父ゆずりの性格なのでいかんともしがたいものです。

このところブログの更新が少ないのは、もともと夏休みで書くことを要請されていないからです。お盆が終わるとまた週1回の掲載に戻るつもりです。

今年はことのほか異常、異様な事件が多く世の中どうなっているのかという感じがします。しかし季節はすすみ、家のまわりの草地にミョウガが出てくるようになりました。土井善晴先生のミョウガごはんの作り方をテレビで見ました。いつも庭先でとれる大量のミョウガの使い道に困っていたのですが、ミョウガご飯にすると大量に食べられるような気がします。物忘れがはげしいのはミョウガのせいではなく年のせいです。

いとこの来訪(2)高野山巡り

  カナディアンロッキーを遠望するアルバータ州レスブリッジという町に育ったいとこ達にとって大自然とはロッキー山脈や底知れない深みをもったコロンビア大氷原であったり、昔の人が海の端はこんな光景だろうと想像したようなナイアガラ瀑布であったり、オーロラが輝く極北の地であったり、そんな桁外れの自然の驚異だと思います。

高野山もまた周囲を山に囲まれた大自然の懐にあります。しかしカナダの自然とはずいぶん趣が違います。紀伊半島の奥深くに位置し、樹齢千年の杉の大木が空に向かって屹立し、かつては人を容易に踏み込ませるような場所ではありませんでした。

カナダの自然はあくまで人間の手がついてない地球誕生以来そのままの自然であるのに対し、高野山は太古の自然と人間の営みが渾然一体になって溶けあって形成された独特の、いわば霊的な自然が広がっている場所と言っていいと思います。

密教の奥義を携えて留学先の唐から帰国した弘法大師空海はこの地を修業の場として真言宗をうち立てました。1200年後の現在、高野山は世界遺産に登録され、密教センターとして世界各地からの若者に修行の場を提供しています。

そんな高野山をカナダ育ちのいとこ達にどう説明したらいいのか、というかそもそも説明なんてできっこないのでとにかく見てもらうことにしました。一番視覚に訴えるものは杉木立と武将の墓です。なぜここに全国の武将のお墓があるのか実は私もよく知りません。おそらく宗派を問わずすべての魂はこの霊地に集まると考えられているのでしょう。

次に訪れたのは総本山金剛峰寺です。見所の多い高野山でもここだけは絶対外すことはできません。

古い農家のスタイルを保った寺院建築ながら内部はお寺というよりむしろ宮殿そのものといった感じです。日本一の規模の石庭や豪華絢爛とした狩野派による襖絵、秀次自刃(じじん)の間など通り一遍の拝観コースをたどるだけでもう我々に残された時間は尽きてしまいました。

いとこ達には日本の長い歴史が今も生き続けている霊場とそれをとりまく環境をじかに見てもらったわけですが、両親の祖国の原初の姿と日本人の精神が形成されてきた歴史の一端を高野山の随所から感じてもらえたのではないかと思います。

いとこの来訪(1)高野山へ

   いとこ(従兄弟、従姉妹)というのは不思議な存在です。兄弟とはしばしば骨肉の争いをする我々ですが、日常生活において適度な距離を保って接することができるいとこは兄弟とも友人とも違う何かなつかしいような感覚を長い人生を通して共有していける存在ですね。

私の両親はともに兄弟のなかでは末っ子に近かったので、私にはもう一人もおじ、おばが残っていません。その代わり父は5人兄弟、母は11人兄弟でしたので大勢のいとこが残されました。

なかでも19歳でカナダに渡った伯父には6人の子どもがいて、いとこたちとは日本とカナダのあいだで離れて住んでいるものの長い交流の歴史があります。7月中旬、父の四十九日の法要にはるばるカナダから2人が参加してくれました。

ヨリコとブルースの姉弟でヨリコは78歳、末っ子のブルースは私より2歳年下の64歳です。来日初日は大阪だったので、翌日岡山へ来る前に、いとこたちを和歌山県・高野山に案内しました。大阪・難波から南海特急で2時間ほどの高野山ですが、思い立たないとなかなか行けるところではなく、私にとっても十数年ぶりの高野山でした。

南海電車が郊外の田園地帯に入っていったころヨリコが私に尋ねました。「あの緑の芝生のような背丈のそろった草は何なのか」と。見れば切手ぐらいの大きさの田んぼに青々と茂っている稲でした。

カナダの人たちにとって農地とは地平線のかなたまで続く麦畑であったり砂糖大根畑であったりジャガイモ畑なので、猫のひたいのような田んぼで米を作っていったい農家はどうやって生計をたてているのか理解不能という感じでした。

大都市近郊の農家の収入の仕組みを英語で分かりやすく説明することは困難でしたが、岡山の我が家の近所の農家のガレージにはトラクターやトラック、軽自動車のほかにベンツや国産高級車が2台ぐらい並んでいるのは珍しくありません。収入面においてカナダの大規模農家と何ら遜色のないのが日本農業の恐ろしさといったら言い過ぎでしょうか。

そうこうしているうちに電車は終点の極楽橋駅に到着。ケーブルカーに乗り換えていよいよ世界遺産であり、世界の密教センターとしてにぎわう高野山参りが始まりました。

2014年7月17日木曜日

ゴミ箱はどこへ行ったのか


 中国人はじめ諸外国から日本を観光で訪れる外国人が一様に驚くことがあります。「日本人の民度は恐ろしいくらい高い。日本ではゴミ箱がほとんどないのにもかかわらず町にはゴミひとつ落ちていない」と半ば神話のように自国のブログに書き連ねています。

こんな率直な賞賛を聞くと素直に喜んでもいいのですが、私は日本の現状をこころよく思っていません。そもそもゴミ箱が日本の街角や事務所、病院の待合い、図書館、ガソリンスタンドから消えてしまったのは、ゴミ箱が爆発物の隠し場所になって危険だからという理由からだったと思います。

実際ゴミ箱に爆弾が仕掛けられるような事件はあったのかもしれませんが、ごくごく例外的なケースだったと思います。それなのにゴミ箱が消えた理由はひとことで言って、テロを口実に施設管理者がゴミ箱の維持コストに労力と金をかけるのをやめたからに他なりません。

そして「ゴミは持ち帰りましょう」という言葉が美徳のように語られ、あっというまにゴミ持ち帰りが定着してしまいました。日本人はどうしてこれに怒らないのでしょうか?

数年前に日本の西の端にある西表島に遊びに行ったことがあります。港には「島にはいっさいゴミを置いて帰りません」みたいな押しつけがましい宣言が掲げられていて、自販機のそばには空き缶やペットボトルを投入するゴミ箱がありませんでした。

皆様、何かおかしいと思われませんか?空き缶は荷物に入れて本土まで持って帰れというのなら、そもそもゴミを発生させる原因である自販機の設置を許すほうがおかしいと思います。空き缶やペットボトルの処理費用も含めて商品販売代金を設定しているはずで詐欺だと思いました。

ところが、数年後の現在、何とこの西表方式がここ岡山でも浸透してきているではありませんか。近くの焼きたてパン屋の軒先には自販機が4台も置かれているのにゴミ箱はまったく設置していないばかりか「ここにゴミを捨てるな!」という警告文まで自販機の横に貼っています。

この理屈が通るのなら、そのうちレストランや喫茶店が「トイレはありません。飲食の結果のおしっこやうんちは自宅にお持ち帰りください」と言い出すに決まっています。

喘息

 週末金曜の夜寝ていたときのことです。突然激しくせき込んで目が醒めました。もともと鼻が悪い私は口を開けて寝ていることが多いようです。ぽかんと開けた口に蚊かゴキブリの赤ちゃんが入ってきてそれをそのまま吸い込んでしまったに違いありません。(ありえない?)

気管に違和感があり必死でそれを吐き出そうと思いっきりくしゃみをしたり、うがいをしたのですがすっきりしません。気分が悪いまま朝になりました。ゴキブリが気管に詰まっているのを放置していても自然に出ていくはずがないと思い土曜日も診療をしている倉敷の川崎医科大病院に駆け込みました。

血液検査、X線検査の結果を見て医師は「特に異常はないのですが……」と首をひねるので、「いや、たしかに気管に何か詰まっているような気がします」と粘ったらCT検査をすることになりました。だんだん話が大きくなって肺ガンにでも罹っていたらどうしようなどと恐怖にかられたのですが、結論は軽い喘息が疑われるということでした。

「ネコを飼っていますか?」と聞かれたので「はい」と答えたもののさすがに12匹飼っているとは申し上げることができませんでした。

考えてみるとこの時期毎年のように耳鼻科か呼吸器科のお世話になっています。ネコの毛が空中を漂うような家で暮らしていて喘息にならないほうがおかしいのはよく分かっているのですが、ネコを手放すなんてとてもできません。家を清潔にし、きょうにも高性能の空気清浄器を買いに行くことにしました。

それにしても川崎医大とのつきあいは内山下の川崎病院時代から数えるとすでに半世紀にもなります。中学生のころ初めて川崎病院に行ったのも気管支炎を見てもらうためでした。そのとき処方された薬が全然役にたたず結局は近所の老内科医師が処方してくれたブロン液がよく効いて一発で治りました。

半世紀後の現在、気管支炎や喘息の発作に対しいろいろな薬ができていてこのたびも何種類も薬を処方されました。しかし咳も痰もひどくなる一方。あまりの苦しさにドラッグストアでブロン液を買って飲んだらやはりこれが一番よく効きました。病院に行く前にブロン液を試すべきでした。中学生のときの体験から何も学習していないばかな私です。

キリギリス


 
6月初め、96歳の生涯を終えた父の遺品を整理していたら父が喜寿のとき書いた詩が出てきました。ときおり父はなんとはなしに「チョンギース」とキリギリスの鳴きまねをすることがありました。父はキリギリスの美しさにポエジーを鋭く感じとっていたようです。息子の私からみてもなかなかの出来映えなのでここに全文を引用してご紹介します。


* * *

「キリギリス鳴く」(1994.8.20)

キリギリス鳴く 炎天の叢の中 みつ よつ

相手をもとめて全身を震わせ震わせ鳴く

なぜ こうも必死に鳴く?

おまえに命をくれた神へのお礼か

おまえの相手を呼ぶためか

おまえの健康で完全無欠な躰の機能と美声はすばらしいぞ

 

おまえの親はこの美しい姿を見ることはない

おまえもまたわが子の美しい姿を見ることはない

でもいいじゃないか 二寸先だ母さん生き写しの彼女がきたぞ

彼女の燃える瞳に父さんが見えてるだろが

自由に旋回する触覚 宝石のような複眼 頑丈な顎 バランスのとれた

三対の脚 後脚がいい どんなスポーツ選手もおまえのにはかないはしない。

それに緑とセピアの上着がすばらしい

 

なんとなく秋の気配がするぞ 愛する人は母さんに似とるぞ

横で鳴く彼は父さんに似とるからな

そうだ バトンタッチの朝までは

おまえたちのすばらしい遺伝子を残らずインプットしておけよ

妙なる声も忘れずにな

 

声高く鳴けよキリギリス
 
キリギリス声高く鳴けよ

 

(岡澄雄1994

* * *

父はわずか3歳のとき自分の父親を病気でなくしました。そして結婚相手に選んだ人は自分の母親によく似ていたそうです。この詩からそんな父の思いが伝わってきます。

 あわただしい葬儀が終わりふと実家の庭を見たら夏虫の季節にはまだ少し早いのに、百合の花にみごとなキリギリスが一匹とまっていました。緑とセピアの美しいキリギリスです。言い伝えどおり愛した動物がいちばんに迎えにきてくれました。

2014年6月17日火曜日

長い人生


大正6年8月生まれの父が97歳の誕生日を待つことなく梅雨の合間の青空にかえっていきました。まったくの私事に過ぎない父の訃報をおおやけにすることはためらわれるのですが、長年介護し、そのようすをこのコラムに書き連ねてきましたので一応のご報告をさせていただきたいと思います。

今や大正1桁世代もまれになってきましたが、父が生まれたころは江戸末期から明治生まれの人が周りに大勢いたはずで、子どもの父はそういう人の話も聞いていたと思います。そして90歳を過ぎた父が曾孫に昔話を聞かせたとしたら、人間の記憶というものは一人の長寿の人を介して200年ぐらいのスパンをほぼダイレクトに語り継ぐことができます。そんなにも長い人生でした。

人生においてなすべきことを余すところなくなし終えた人の平和で穏やかな死でした。

容態が急変し救急車を呼んで病院に搬送し、一時は安定するかにみえたのですが2日余りの入院ののち永眠しました。直接の死因は誤嚥性肺炎でした。長年人工透析をしながらも天寿をまっとうしたことは現在腎不全で人工透析を受けられている全国の多くの患者さんに希望を持っていただけるのではないかと思います。

葬儀や煩雑な事後処理が終わり父の書斎を片づけていたら父が喜寿(77歳)のころにワープロで作成した文集が何冊か出てきました。教師として過ごした40年の思い出とはまた違った多彩な趣味人としての父の素顔が見えるような文章で、いずれちゃんとした本にしてあげようと思います。その中の一つをご紹介します。

伊勢物語の「かきつばた」の真似なのか自分の名前である「おかすみお」を句の上に据えて人生の現実と夢を語っていました。
 
 
[現実]

お さないときからきまぐれ人生

か ねにはとんと縁薄く

す み家は雨もりセメント瓦

み なりはいつもちぐはぐで

お 粗末人生黄昏だ、申し訳ないことばかり

[]

お さないときから学者がのぞみ

か ねもしっかりためこんで

す み家は豪邸長屋門

み なりにいつも気をつかい上から下まで一流品

お えらい人といわれたい


ウワッ・・・喜寿だ!


 父の遺稿文集「かなし」より

2014年5月28日水曜日

驚異的に若返った視力

 人間だれでも年を取ると目の老化に悩まされるものです。私は20代の中頃から軽度の近視になり、映画館や車を運転するときなど眼鏡をかけていました。当時の免許証には“眼鏡等”という記載がありました。また乱視も併発していて夜三日月を見ると三日月が4つか5つずれて重なって見えていました。

 その後40代終わりごろから老眼が始まりました。もともと近眼だったので老眼がそれを打ち消し、眼鏡がなくても遠くのものはよく見えるようになり、逆に地図や辞書の細かい字が見えにくくなりました。普通ならここで遠近両用の眼鏡を考えるところです。

 しかし眼鏡を購入することもなく視力に不便を感じながら過ごしているうちにだんだん目がよくなってきたのは驚きでした。長年免許証に記載されていた“眼鏡等”の条件も外れました。そして65歳の現在、遠くの景色もよく見えるし、パソコンや文庫本の文字はもちろん、スマホの極小文字も楽に読めます。

遠近ばっちり、視力に関する悩みゼロ。人間の生理的老化現象に反する奇跡が自分の目に起きたのです。私のような例がほかにもあるのかどうか文献を調べていないのでよく分かりませんが、たぶん医学の常識に反する珍しいケースでしょう。

 目が焦点を合わせるためにはレンズである水晶体が弾力性を保ち、水晶体の厚みを調整する毛様体筋が俊速で自由に緊張、弛緩しなければなりません。子どもや若い人の目はそのようにできています。 

老眼とは水晶体や毛様体が老化して固定焦点化する現象ですが、遠近ともにぴしゃりと焦点があう私の目は驚異の若返りをとげたということになるでしょう。もちろん手術や視力アップのための怪しげなトレーニングはいっさい受けていません。

 ではなぜそんなミラクルが起きたのか?“眼鏡をちゃんとかけなかったから”という以外思い当たることがありません。夜寝付けないとき暗闇の中でスマホを目に近づけて1時間ぐらいニュース記事を読みます。ドライブにもよく出かけます。つまりは目をよく使っているから健康な視力がよみがえったのでしょう。使わない機能はたちまち衰えます。視力において実現したことがなぜ私の脳味噌に起きてくれないのか?分かっています。使わないからです(笑)

老婆との夕食

 先日4年ぶりに知り合いのフレンチレストランに出かけました。カウンター席でかなり高齢のおばあさんが一人夕食を食べていました。シェフのお母さんかと思って話しかけたらお客さんでした。

こうして見知らぬおばあさんとの夕食が始まりました。もっともすぐ隣に座るのは遠慮しイスふたつ空けて座りましたが。老婆のご主人は97歳で近くの病院で過ごしているそうで彼女は毎日そのレストランで昼食と夕食をとっているそうです。

「常連なのでほかのお客の顔はみんな知っているけれど、男の人の顔は一度見れば絶対忘れないのに女性の顔は覚えられない。これは私が女だからだと思う。ところが毎日ご飯を作ってくれるここのマスターの顔だけは、家に帰ってから思い出そうとしてもどんな顔だかどうしても思い出せない。呆けが始まっているのだろうか?」と私に聞きます。

私はちょっと考えてから言いました「呆けの正反対でしょう。特定の人のイメージが結ばないというのは脳の中で複雑な情報処理がなされているからでしょう。感情の選別と選択的記憶ができるということは頭脳明晰な証拠です」。それにしても話の内容がちょっと謎めいています。いったい若いころ何をしていた人なのか職業を尋ねてみました。

「私も主人も生涯一度も働いたことがありません。親からもらった株の配当金で生きてきました」。岡山にも鳩山兄弟のような優雅な人が戦中戦後のきびしい時代にいたのですね。世間など気にもせずに生きてきた強いオーラが彼女の全身から立ちのぼっていました。

お客がみんな引き払ったあとシェフに「上品な方ですね」と言ったら、意外にもシェフは「そうですか?」と彼女の上品ならざるひととなりを聞かせてくれました。ちょっとかなわないなあと思っているようです。

そこで初めて冒頭のおばあさんの質問の謎が解けました。毎日食事を作ってくれるシェフではあるけれど心の中では「品のないバアサン」と思っている……そうした複雑な気持ちが無意識に作用して「顔が思い出せない」のでしょう。この老婆のすべてが現役の女性なのですね。

色気、食い気、お金に対する執着が実り豊かな人生をまっとうする秘訣であることを私はこのスーパー婆さんから学んだ気がしました。

「年の差婚」考

 現在放映中のNHKの朝ドラ『花子とアン』はいつもの女立志伝のワンパターンから逸脱しない作品です。最初見てなかったのですがこのごろ何やら面白くなってきて今では毎日熱心に見るようになりました。

貧農の家に生まれ場違いなお嬢様学校で英語を勉強している花子に受け入れがたい事態がおきました。“腹心の友”の伯爵家令嬢が九州の炭坑王と見合い結婚するというのです。花子は親友がお金のために親ぐらい年齢の離れた成金と愛のない結婚するのを黙って見ておれません。必死に思いとどまらせようとします。

ところが裕福な家に育ったといっても家庭的な愛を知らない蓮子は花子より5歳も年上で、しかもすでに一度結婚して出戻りしている苦労人です。人生は乙女チックな夢想のようにはいかないことを蓮子はよく理解しているのです。

伯爵家の財政的窮地を救うために泣く泣く承諾した人身御供のような結婚が果たして花子が思うほど本当に不幸なことかどうか、それはこれからのお楽しみです。

蓮子の結婚のような年の離れた金持ちとの婚姻に対して花子ならずとも多くの人が嫌悪感をもつようですが、結婚が意味する社会的、経済的仕組みとして、年の差婚はそんなに悪くはない、と私は思います。

フランスの小説などでは上流階級の年の差婚がよく主題になります。金も権力もある初老の男がずっと若い女と結婚。そのうち夫は死に妻は莫大な遺産を相続する。未亡人は若いツバメと再婚、やがて年老いた妻は夫に財産を残して死ぬ……。

つまり世代がずれた結婚はなかなか合理的なのです。夫か妻が死ぬとき配偶者は元気で財産の管理も相続もちゃんとできます。“愛の問題”はノープロブレム。上流階級では若い妻や若い夫が外で遊ぶのは見て見ぬふりをするのがマナーなのです。あくまで小説の世界の話ですが。

しかしこの年の差婚は現代においてこそ意味があるのではないでしょうか。同年代の男女が結婚するとどちらもいっしょに年を取り、いっしょにぼけてワヤです。

花子のような浅はかな若い女性に考えてもらいたい。若いだけで金も知恵も生活力もない男より蓮子の夫のように財力も経験もありその上老い先そんなに長くなさそうな男性こそ理想の結婚相手であると。

2014年5月11日日曜日

父の愛

 韓国のフェリー沈没事故は事故発生から3週間以上が経過しているのにまだ行方不明者の捜索が続いています。大震災の被災者でもないのに寒々とした体育館でわが子の帰りをまっている家族があわれです。なぜ家族にせめてホテルの部屋を用意しないのか、船会社や政府の冷たい仕打ちにはあぜんとするばかりです。

日本でも痛ましい水難事故がありました。新潟の海辺で遊んでいた子どもたちが引き波にさらわれ、助けようとした若者も水死しました。“水は怖い”ということを大人は子どもに徹底的に教えなければならないと思います。小さな子どもが波の高い海岸で遊んでいるところを大人は目撃もせず注意もしなかったのでしょうか。

昔と違って現代の日本の風潮としてよそ様の子を注意したり叱ることはきわめてしにくい雰囲気があることはよく分かりますが、いったん水難事故が起きたら失うものがあまりにも大きいものです。

私は岡山市郊外の周囲にたんぼや小高い丘、池や川がある自然豊かなところで育ったのですが、父(96)は決して子どもが池で泳ぐことは許してくれませんでした。「池の底はすり鉢状になっていて急に深くなる。川よりもずっと危険」と力説していました。父は水辺だけでなく子どもが喜びそうな食べ物にも警戒心を怠ることがありませんでした。

昭和30年代、小学生のころのことです。毎年七夕になるとふだんあまり人気のない妹尾(岡山市南区)の町に夜店がずらっと並びイカ焼きのいいにおいが通りにあふれます。ところがこれも父に言わせれば「不潔この上ない代物」で食べると赤痢になると真顔で力説し、その迫力に負けて一度も買い食いできませんでした。

子ども心にそんなことを気にもしないよそのお父さんをうらやましく思ったりもしたのですが、実際、夏休み中に小学生が古井戸に落ちて死んだり池でおぼれ死ぬということがありました。大きなニュースになることも、親が行政や学校に責任を転嫁することもなく、小さな遺体には粗末なコモがかけられていました。赤痢が大流行したこともあります。

子どもの悲しいニュースを聞くたびに水難事故や食中毒、感染病から私を守ってくれた父の愛を遅ればせながら感じるこのごろです。

韓国フェリー事故と韓国紙


未曾有の大惨事になった韓国のフェリー事故。第一報をテレビで見たときはまさかあのまま500人近い乗客が船もろとも沈没してしまうとは思いもよりませんでした。しかし事態は乗務員の現場放棄、救援当局の初動の遅れのなか一気に悪化し、422日時点で救助されたのはわずか174人、300余名の高校生らが犠牲になりまた行方不明となっています。

事件発生以来、ネットに無料掲載されている韓国紙「中央日報」日本語版で事故の詳報と救援活動の様子を連日追ったのですが、“責任者”たちの行動の異様さ、無責任ぶりには唖然としっぱなしでした。しかしそれを伝える中央日報などマスコミの論調そのものも奇妙でした。

社説や論評を通して救援活動に適切なアドバイスをするでもなく、論調にはある種、陶酔感が満ち満ちているのです。悲劇の主人公になったような気分なのでしょうが彼らはもちろん当事者ではありません。

政府高官の行状を批判し、逃げ出した船長、航海士や機関士をののしり、「韓国のような先進国でなぜ?」と訝(いぶか)ってみせたり、はたまた「韓国は3流国だった」と自虐的な記事を書いたりしているのですが、要は評論家気取り、高みの見物というスタンス丸出しです。

この奇妙さはいったい何なのかと思います。東北大震災のときの日本のマスコミ報道も決して手放しで誉められるものではなかったのですが、少なくとも被災者の心に寄り添おうとする気持ちはどの記事からも感じられました。こうした点が韓国と日本の報道の根本的な違いであるように思えてしかたありません。

乗客を置いて一番に逃げ出し、水に濡れたお金を乾かす船長のおぞましい限りの醜態。事故対策を指揮する安全行政省の高官は現場の死亡者名簿の前で“記念写真”を撮って遺族の怒りを買い着任からたった4時間で解任。事故発生直後に日米など外国の援助申し出を拒否し、今になって官僚をなじり、「船長の行動は殺人に等しい」と感情をあらわにする大統領。こんな大人たちに殺された300人の若い犠牲者が哀れです。

号泣し、怒りをぶちまける家族を「国民のレベルが低いから国のレベルも低い」とあざ笑う与党セヌリ党国会議員の息子というのもいました。必ずしも的はずれとは言えないだけにコメントしようがないです。

2014年4月13日日曜日

松江、高知まで



 前回、「母もそろそろお迎えか」と悲観的なことを書いていつも愛読されている方々にはご心配をおかけしたと思います。医師による検査結果は「特に異変はない」とのことでした。そのことの意味を冷静に考えたら異変を起こしていたのは介護によるストレスにさらされ続けている私の方であることに気づきました。

1週間でも、とにかく介護の現場から離れ休養することにし、平成4年登録の愛車パルサーに乗って山陰と四国への旅に出ました。30万キロ走った車なのでトンネルの中でエンストしたらどうしようという恐怖を抱えながらのドライブです。最初の目的地は桜が満開の松江でした。子どものころ家族全員で1泊旅行したことがあるなつかしい町です。

松江は現在の都市景観の中にかつての城下町の情緒が色濃く残っています。歴史博物館では松江開城の歴史を手際よく映像で紹介しています。それに比べ、岡山市も同じような城下町なのにしっとりした情緒に欠け、また美術館や博物館が積極的に歴史を紹介しているわけでもなく、県知事の岡山イメージアップ作戦は空回りしているような気がします。

いったん岡山に戻り、今度は瀬戸大橋を渡って高知へ行きました。桂浜へ行く途中に県立美術館があり立ち寄ってみました。ちょうど企画展の準備中とかで、地元の画家による展覧会ぐらいしか見るものはなかったのですが、運営方針に関してびっくりすることがありました。年末年始を除いて年中無休なのです!

いったいなぜ美術館、博物館、図書館は週1回、しかも決まって月曜日に休館するのでしょうか。長年そうしているから……という以外に本当の理由はありません。心が折れそうになったとき1冊の本、1枚の絵をたまらなく見たくなることがあります。そういうときに限って「本日休館」なんですよね。

現在全国的に図書館や美術館の開館日数の見直しが行われていますが、高知県立美術館の英断はやる気さえあればできることを実証しています。岡山市立中央図書館が今年度から開館日数を“他館並み”にするというニュースを聞きましたが、ぜひ年中無休をめざしてほしいものです。

かつて教育文化の先進県だった岡山県(市)もいつのまにか周辺各県にずいぶん遅れをとってしまったことが痛感される小旅行でした。
 
(写真は四万十川に架かる沈下橋のひとつ)

2014年4月4日金曜日

天人五衰


 老いることを極度に恐れた三島由紀夫も生きていればもう90歳近い老人になっていたはずです。早稲田で学生生活を送っていたとき授業中に「三島が割腹自殺した」という衝撃のニュースが飛び込んできたときは本当に驚きました。事件現場となった自衛隊市ヶ谷駐屯地は早大からそんなに遠くはなかったからです。

人はみな老いることはいやだけれども三島由紀夫のように老いを恐れてまだ若さが残っているうちに派手に死のうなどとは思いません。人の自由意志の手が届かないところにあるのが老いと死でしょう。

ここしばらく健康状態が安定していた母(94)ですが、ふと気がつくと顔の艶がなくなり、バラ色だった肌が土気色にくすんでいます。三島由紀夫の最後の作品になった『天人五衰』という小説があります。『豊饒の海』4部作の最後の作品ですが、「時間のない世界」に連れ込まれたような不思議な虚無感を覚えます。

天人五衰とは小説の中で詳しく解説していますが、おおざっぱにいえば年を取らないはずの天人にも5種類の衰えがくるというものです。花飾りは乱れ(髪が薄くなること?)、体から臭いにおいがでるようになり、若かったころはここかと思えば早やあそこというぐあいにあちこち活動していたのに、同じところに留まって動かなくなります。若いころは水浴びしたら水滴が玉のように肌の上を転がっていったのに、脂肪分が抜けた老人の肌には水がべったり広がってしまいます。

いったんこんな徴候があらわれたらもう手遅れ、衰えから回復することはできないと三島は天人五衰の言われを解説しています。

しかしながら、若さに翳りがおき加齢臭をまき散らすようになったって人間は死にません。平凡な人には三島のような死は決して訪れません。それなりに実り豊かな人生の最後に穏やかな死を迎えたいものです。

さて、母の肌が土気色になっているのに恐怖を覚えた私はただちに病院へ連れていき血液やCT検査をしてもらいました。意外なことに「数値に異常は認められません」ということでした。

* * *

サイエンティストである医師の言葉には間違いはなかったことが診察を終えて帰った夜に思い知らされました。母に異変が起きていたのではなく、長期の介護による極度のストレスから私の精神に変調が起きていたのです。

もう取り返しのつかない段階にきているのかと思うとこのまま心臓が止まるのではないかという恐怖におそれおののきながらも、とりあえず両親を1週間、近所の病院で預かってもらうことにしました。

そして本日(金)午後、母を診察してくれた医師に私自身の心身の危機的状況を話しました。診察を待つあいだ、心臓が破裂しそうなぐらい動悸を打っていたのですが、医師と話を始めたら落ち着いてきました。「私はこのままだめになるのでしょうか」という訴えに医師はマイナートランキライザーを処方してくれ、「大丈夫、完全によくなりますよ」と励ましてくれました。「不安がこうじて心臓が止まるのではないかと怖いのです」という訴えには「100%そんなことはない」と言われました。

それでも不安は亡霊のように繰り返しやってくるので、大迷惑な話ですが、大阪の友人に来てもらうことにし、週末を一人で過ごすことは避けることができそうです。

こうして自分には心身症など縁がないとタカをくくっていた私の半世紀でしたが医師や社会福祉制度、年金制度、かけつけてくれる友人の力にすがりながら人生最大の危機を乗り越えていこうと思います。不安感(“感じ”などという生やさしい気分ではなく死を実感する感覚)が徐々に減っていっているのはよい兆候です。
 
*オリジナル原稿の最終パラグラフは削除し、サイエンティスト以降は母の受診からきょうまでの心の状態をオリジナル原稿に加筆したものです。タイトルから大幅に逸脱した内容になっていますが、タイトルはそのままにしました。

中国の若手作家、韓寒(かん・かん、ハン・ハン)


学生時代(1968-1973)にヨーロッパの映画、文学、ポップ音楽に傾倒したのは、それらが当時の世界の最先端芸術潮流のエネルギーにあふれていたからです。それらをよりよく理解するためには翻訳や字幕に頼るのではなく直(じか)に触れたいと思い、専攻科目(心理学)そっちのけで外国語の勉強に励みました。

そのおかげでドイツやフランス、イタリアなどを旅行しているあいだにたくさんの人々と出会い、交流は今でも続いています。ひとえに言葉が理解できた故です。ところが50代の半ばを過ぎてから始めた中国語はしつこく勉強している割には身につかず、よく上海に出かける割には生の中国人がさっぱり見えません。

なぜだろうと考えてみたら、かつてフランスやイタリア映画に入れあげていたころのワクワクするような作家や作品にいまだ出会っていないせいだということに気づきました。

ところが今年3月、NHKラジオ講座の「レベルアップ中国語」という語学番組で1982年生まれの作家、韓寒(かんかん)という青年の作品「1988:ぼくはこの世界と語りたい」がテキストとして取り上げられていて、私はすっかりこの作家のとりこになりました。

日本語の翻訳小説も出版されていて早速、図書館から「上海ビート」という本を借りてきて一気に読みました。著者自身のことであろう早熟な文学少年の中学生時代から高校をドロップアウトするまでの青春グラフィティ作品ですが、とうてい15,6歳の子どもが書いた文章とは思えない成熟感があり、驚き感心しすっかりはまってしまいました。

主人公は上海の名門中学、高校の文芸部に所属し、そこでの友人たちとの葛藤やスーザンというガールフレンドとの交際と破局、学校生活の破局が感傷的になることなく描かれています。随所に引用されている古典文学の知識が教養というより完全に血肉化されて華麗な文体を生み出していることにも舌をまきます。

韓寒は作家であるほかにもブロガーとしての発言力があり、さらにカーレーサーとしても活躍しているとのことです。清朝中期(18世紀中頃)に書かれた「紅楼夢」以降、中国にはろくな小説がないと思っていた私に、現代中国の最先端文学の存在を知らしめてくれたNHKのラジオ講座には大感謝です。

2014年3月15日土曜日

和食2軒、勝負あり

   子どものころから母親の手伝いをよくやらされていた私は家庭料理を作るのは今でも好きです。ステーキやすき焼きは肉さえいいものを買ってくれば専門店で高いお金を払わなくても自分なりに満足いくものができます。ただ真似しようにも最初からできないなと思うのがフランス料理と本格的な日本料理です。

春の味覚を求めて岡山市内の料理屋さんを2日連続で2軒訪ねてみました。初日は岡山市北区丸の内の料亭「桜川」で5千円(税別)のおまかせコースをお願いしました。「京の味」と看板に出ていました。

京都で修行したというご主人は京料理の繊細さ、華麗さを岡山の地に持ち帰られた一方、京の店の気位の高さ、敷居の高さは京都に置いてこられたようで、私のようにぱっとしない一見(いちげん)の客にも心を込めて、時にはご亭主自らおもてなししてくれました。ソラマメ、タケノコ、黄ニラなど春の食材が控えめに季節を演出していました。

2日目は桃太郎大通りに面した「アートダイニング武蔵」です。大阪からやってきた若者をお供にやはり5千円(税別)のコースを選びました。ちなみに創業70年のこの店は昔からお昼の炊き合わせ定食が絶品。お腹にやさしい野菜が何種類か鉢にもられてくるのですが、ひとつひとつの野菜が絶妙のハーモニーを奏でます。しかもたったの750円! 一番安いメニューが一番グッドです。

さて、夜のコースは? 先付には酢味噌が添えられたベラタが供されました。春の気配が一気に口に広がります。その後でしたか茶碗蒸しが運ばれてきたとき、しまったと思いました。連れは甲殻類アレルギーがあるのを伝えるのを忘れていたのです。遅ればせながらその旨伝えたところ、「以後のお料理はエビ・カニ抜きにします」とのことでした。

自分の不注意を棚に上げて言うのもなんですが、ここは「すぐ、作り直してお持ちします」と言って欲しかったです。そう言われれば「いえ、お気遣いなく、私が2人前いただきます」などと応じることができたのですが……結局、私が茶碗蒸しを2つ食べ、連れには絶品炊き合わせを2鉢食べてもらいました。

そんなこんなでこの勝負(?)軍配は「桜川」に。いやあ日本人に生まれてよかった、としみじみ思う春の連チャン宴席料理でした。

2014年3月4日火曜日

タナトス

このところ実家周辺でタナトスが頻繁に目撃されます。2週間前は南隣のクソ婆ァが連れて行かれ、とばっちりで自宅弔問の受付役をさせられ大迷惑。同じ日、裏隣の幼馴染みのセーちゃん(69)が末期大腸がんで。そして昨日は町内会会長さんが。
奴の標的になっている我が家は警戒レベルを最高に設定しているつもりですが昨夜は危なかった。 痛み止めの向精神薬リリカの副作用が疑われ、医師と相談して親父にリリカを飲ますのを止めたら、からだ中あちこち痛みを訴えてただならぬ気配でした。「死にそうなの?」と聞いたら「そんなことはない」というので母の部屋で寝ました。
夜中3時ごろ夜の静寂の中、門扉がカチャリと開く音がしたのであわてて飛び起き玄関ドアを見に行ったらロックされていませんでした。すぐさまダブルロックしチェーンをかけ親父を見に行ったらスヤスヤと。ひと安心してまた寝たら今度は風呂場のドアがきしむ音がしたので、「しまった、奴は風呂場の窓から入ってくるつもりだ」と直感。風呂場に行ったら窓ガラスが開いていて網戸だけに。ガラス戸をしめロックしやっと安心して寝ましたがもう朝になっていました。
ラジオをつけてフランス語講座とイタリア語講座、中国語講座を聞いたのち起床。親父に朝飯を食べさせながら長谷川式テストをしました。私は誰?コウジロウ君。誕生日は?大正6年8月10日。100引く7は?93, 86。今何月? 7月。部屋の温度は7月並だから仕方ないか……これから父の主治医に面会してリリカを復活させるべきか相談するつもりです。
昨夜、タナトスを撃退したとき奴は窓越しに「オレが連れに来たのはジイサン、バアサンじゃないぞ」と確かにそう言ったような気がします。冗談じゃないよ、まったく。(3月3日早朝)

注:タナトスとは死神の謂い。

『レオナール・フジタとパリ1913-1931』展


『レオナール・フジタとパリ1913-1931』展
「藤田嗣治 渡仏100周年記念」と冠した展覧会が岡山県立美術館で開催中です。セザンヌ、ゴッホ、ゴーギャンなど後期印象派の巨匠たちが去ったあと、ヨーロッパの画壇はピカソやモジリアニ、アンリ・ルソーなど20世紀絵画の時代を迎えました。
パリを中心に20世紀前半ごろ大活躍した一派は絵画史ではエコール・ド・パリ(パリ派)と呼ばれています。ルソー、ヴラマンク、ドラン、ユトリロ、ローランサン、シャガール……の名画の数々は岡山県人にとっては子どものころから大原美術館でおなじみですね。
そのなかでひときわユニークな存在感を示しているのが藤田嗣治(レオナール・フジタ)で、単に日本人画家であったというよりエコール・ド・パリを代表する画家であったことは案外日本では知られていないのではないでしょうか。
藤田の作品は国内の主要美術館にたいてい2,3点所蔵されているはずですが、一挙に100点近くの藤田を見られる機会はめったになく、4月6日の会期末まで何度か足を運ぼうと思います。なお画家の名前が「藤田」であったり「フジタ」であるのは晩年、藤田がフランスに帰化し、カトリックに改宗したためで、絵画史的にはフランスを代表する画家の一人ということになります。
そのような意味で、今回の企画展では岡山にゆかりのある画家でアメリカに帰化した国吉康雄の作品が多数展示されていて、なかなか気のきいた展覧会だと感心しました。
国吉はアメリカ美術史においてもっとも芸術的に成功した画家としてゆるぎない地位を確立した人ですが、藤田同様日本での知名度がやや低いのが残念です。県立美術館の国吉作品の多くは福武書店からの寄託を受けたものですが、ふだんは館蔵作品が3,4点展示されているだけなので、今回は見ごたえがあります。
こうした企画展を通して日本人の足跡をたどってみると大正・昭和初期、経済的には苦しいなか、船で40日もかかる長旅をものともせずアメリカへ、フランスへ雄飛し、超一流の芸術家たちと肩を並べて才能を開花させてきたことがよくわかります。彼らは現代日本の直接の先輩世代のアーティストたちで、そのエネルギッシュなことに脱帽です。


2014年2月23日日曜日

幻影の先輩

  昨年暮れから1月の終わりごろまで入院していた父が退院してきました。長い入院生活のせいで人が変わったように無口になっていました。相当呆けが進んだのかと心配していたのですが人格の奥底は大丈夫であることがある出会いを通してあきらかになりました。うれしくもあり、悲しくもある話ですが……。

私の友人が久しぶりに大阪からやってきました。まだ30代前半の若者で体格がよく短髪でいかにも日本男児という風貌の持ち主です。以前にも父に会ったことがあり、この度も実家に立ち寄ってくれました。若者が父にあいさつしました。

父は目をパッと開き、ベッドに横たわりながらも居住まいを正し、「いやぁ、これはxx先輩! お懐かしゅうございます。戦地からよくご無事でお帰りなさいました」と、つかこうへいの戯曲『戦争で死ねなかったお父さんのために』に出てくるようなセリフを口にしました。驚きましたね。そして若者に尋ねました。

「軍での階級は何だったのでございましょう?」

私も友人も軍の階級制度なんかまったく無知で、私が適当に「伍長だったと言っといたら?」と助言。

「伍長です」と若者が答えた瞬間、父の顔にさっと当惑の表情が拡がり気まずい雰囲気になってしまいました。それでも別れ際には「こんなむさ苦しいところまでよく訪ねて下さいました。寝たままの見送りで申し訳ありません」と感激の面持ちであいさつしていました。

その後、友人と近所の焼肉屋でビールを飲みながら、「さっきの伍長はまずかったみたいだったよね。ちょっと階級についてスマホで調べるわ」と言いつつ旧日本軍の階級制度をチェックしてみました。少佐か大尉ぐらい言っておくべきでした。

父自身は戦時中、教員だったうえ肋膜炎を患っていたので軍隊に行った経験はありません。しかしそのことが心の奥底で引け目というかコンプレックスになっていたのかもしれません。父が尊敬していた師範学校の3年先輩の方は若くして戦死されたのではないかと思います。

人はあの世にいけば懐かしい人に会えるといいます。でも人間は長生きすると生きながら西方浄土に遊ぶことができるようになるものですね。父を喜ばしてくれた凛々しい訪問者に大感謝です。

2014春節・上海

  2月初めに2泊3日で上海へ行ってきました。中国の旧正月である春節のど真ん中に出かけたのは今回が初めてでしたが大失敗でした。いつもなら定休日などない多くの小売店やレストランが軒並み正月休みを決め込んでいたのです。

当てにしていた人民広場のレストランは休業中、庶民的な麺類を食べさせる店もほとんどが休んでいました。外資系のコーヒーショップでサンドイッチばかり食べていたら胃がおかしくなりました。

それでも上海随一の繁華街である南京東路はどこの店も開いていて親子連れ家族でごった返していました。一人っ子の多い中国は子ども天国です。両親と両サイドのおじいさん、おばあさんからいっぱいおもちゃを買ってもらってご満悦。

地下鉄に乗ると親はまず子どものために席を確保してやるのですが、ドアが開くやいなや降りる人を押しのけて空いた席へ突進し、子どもを座らせるのです。子どもといっても小学校3、4年生ぐらいの年齢の子どもでも当然の顔をして座ります。乗車時間がせいぜい15分か20分でもとりあえず席を確保することの優越観は何ものにもかえがたい誇らしいものであるようです。

こうした親子の様子は実に微笑ましいものです。家族以外はすべて敵、あるいは競争相手である中国社会で家族の結束ほど大切なものはほかにありません。春節に大変な苦労をして遠い故郷まで超満員の列車やバスを乗り継いで帰るのも家族や親族に再会して自分の存在理由を再確認するためでしょう。

しかしながら家族とのつながりにおいてすべてが成り立つ中国社会では不幸にして家族が崩壊したり、家族から切り離されて孤独に生活している人々の生活はかなり厳しいようです。公的な生活援助や就労援助などないに等しく農村戸籍の人々は都市では人権すら保証されていません。中国社会では自殺が多く、また精神疾患がある人の率が先進国では考えられないほど高いと聞きます。

日本のようにとうの昔に大家族制が崩壊した国では国民が孤独に対し免疫ができているうえに、社会福祉の水準は中国人が想像できないぐらい手厚いものとなっています。ホテルの部屋まで花火と爆竹の雷鳴のような騒音が襲ってくるなか、彼らにもよい春が来ることを願いました。

オペラの魅力(3)


 サンドロたちと自転車で出かけたトッレ・デル・ラーゴでは博物館になっているプッチーニの別荘を見たり、歌劇「西部の娘」を観た記憶があります。あまり人気が出なかったこのオペラがライブだったのか映画だったのか30年以上も昔のことで記憶が定かではありません。

「去る者は日々に疎し」。今のようにインターネットがなかった時代に交友関係を維持するには航空郵便しかなく、またイタリア語で手紙を書くことは少々苦痛でもあり次第に無沙汰が続くようになり、ついには音信不通になってしまいました。

ところが今また、自分が青春時代に熱狂したすべてのもの---映画、音楽、オペラの名演、欧米の友人たちの交友---がネットやYouTubeを通じてよみがえってきました。かすかな手がかりを通じて昔の友人をネット上で発見することもしばしばです。

サンドロが現在どうしているのか、姓名、年齢、専門領域などを勘案するとぴったりの人がフィレンツェ大学の哲学科の教授にいます。まだ連絡は取っていませんが昔の交友が復活する予感がします。親の介護から解放される日もそう遠くないでしょう。悲しいことですが、私自身の人生を取り戻すことも私にとって親の存在同様に大切なことだと思います。

イタリアの熱狂的なオペラファンたちからオペラの楽しみ方を教わった私はその後今に至るまであらゆる舞台芸術に関心を寄せるようになりました。文楽や歌舞伎、能はオペラに負けず劣らず声と身体表現が完璧に調和した芸術です。

こうした芸術あるいは芸能が時代や国境を超えて人々に愛されるのはブルジョア趣味なんかではなく、人間の根元的な喜びや悲しみが激しくストレートにあるいは抑制され洗練されたかたちで遺憾なく表現されているからに違いありません。

それにこうした古典的な芸術はもう若くない私にとっていちばんぴったりくる人生の相棒のような気がします。なじみのストーリーでも演じる人が違えば新発見もあります。それに何といっても痛快なのは歌舞伎座なんかに出かけて周りのお客を見渡すと、65歳の私でも未だに若者に属することを発見することです。

いつの日かサンドロたちを日本に呼んでいっしょに歌舞伎座で芝居見物をしたいと願っています。青春遍歴パート2です。(おわり)

オペラの魅力(2)


 ヴィア・レッジョはイタリア半島の北西にある海辺の町です。近くには有名なピサの斜塔があり、フィレンツェもそう遠くありません。そんな町に住んでいるスカラ座で出会った大学生たちに会いに行きました。

ヨーロッパを旅行していると列車のコンパートメントや観光地でいろんな国の人と知り合いになります。「どこから来たの?」、「学生?」などと話がはずみ、気が合えば「きっと遊びにおいでよ」と誘ってくれます。日本の「お近くにおいでの際は是非……」というあいさつと違って本当に行っても相手を当惑させることはありません。大歓迎です。

ピサ大学で美学を専攻しているサンドロは丘の中腹にある古いお屋敷に両親と妹の4人で暮らしていました。特別お金持ちというわけではなさそうでしたが家には馬が1頭いたし、小さいながらプールもあり、丘には自前のオリーブ園やブドウ畑がひろがっていました。

季節は8月、庭のイチジクがようやく熟れ始めるころでした。午前中は遅い朝食をゆっくり食べ、昼からは海水浴です。私は水泳は不得意でしたが、そのころNHK教育テレビが毎年「木原光知子の母と子の夏休み水泳教室(だったかな?)」という番組をやっていました。木原さんは「足をバタつかせない、そう、足をまっすぐ伸ばしたまま大きく動かして、ハイッ!」とクロールの足裁きを指導していました。彼女は指導者としても天才でしたね。(私は木原さんと同学年でした)

さて、海辺では東洋人の私に興味津々の小さな子どもたちに取り囲まれ、にわか水泳コーチになりました。「足をバタバタさせないで、ひざを伸ばしたまま大きくゆっくりと、そう、こんなふうに!」。コツが分かって急に泳ぎがうまくなったイタリア人の子どもたちに私は大人気でした。水泳の後も「日本語を教えて、空手を教えて」と放してくれません。空手なんて全然できないのにね。
次の日だったか、その次の日だったか、サンドロたちとプッチーニが終生過ごした湖のほとりにある別荘まで自転車で出かけました。道路交通が日本と左右逆で、向かってくる自転車を避けるのに私はつい本能的に左に避けたら相手もどんどん左側に。「コンタディーノ!」と罵声を浴びせかけられました。「この田舎もん!」。(次号に続く)