2012年12月7日金曜日

墓碑銘ふたつ


2012年は年末になって著名な芸能人が次々亡くなりました。なかでも中村勘三郎、小沢昭一を失ったことは残念至極です。

57歳という歌舞伎役者としてはまだこれからという若さでしたが、勘三郎は古典芸能としての歌舞伎を現代の文脈の中で解釈し直すことに大胆に取り組んだパイオニアでした。

2009年4月、こんぴら大歌舞伎で勘三郎の「俊寛」を舞台間近で見たことがあります。一人死を覚悟し絶海の孤島に残った俊寛の顔にはかすかなほほえみが。これは悲劇の結末としては伝統を破る演出で、先代の同意が得られなかったものです。

人は過酷な運命を甘んじて受け入れざるを得ない状況においてもなおそこにある種安堵を見いだしうる存在であることを勘三郎はよく知っていたのだと思います。勘三郎自身、あれもやりたかった、これもやりたかったという無念の思いを残しつつも最後はほほえみながら旅だっていったと願わずにはおれません。

*   *   *

私が小沢昭一の名前を知ったのは第一次石油ショックのころでした。世は狂乱物価で騒然とし、トイレットペーパーがスーパーから消えてしまった時代です。そういう時代風潮に対し彼は「小沢昭一的こころ」というラジオ番組で「トイレットペーパーがないのならケント紙で尻をふいてやる」と言い放ちました。

ケント紙は製図なんかに使う上質紙で堅いうえに水を吸わないので、お尻をふくのには不向きでケガする危険もあるのですが、その心意気は見上げたものです。ちょっと考えればおかしいと分かることでもマスコミや政府がいうとすぐにその気になって流される日本人の国民性を彼は嘆いていたのです。

小沢昭一は徹底して反戦の人でした。日中関係が悪化して以来、週刊誌の見出しには「日中開戦」などという言葉が踊るようになりました。領土を守るためには戦火もいとわないという勇ましい意見が今ほど多くの国民に違和感なく受け入れられている時代はなく、そういう意味で戦争の絶対悪を説く「小沢昭一的こころ」その人を失ったことは残念です。

小沢昭一は「戦争はかすかな気配が兆してきた段階で止めなければ手遅れになる」という言葉を残しています。年始に当たり、本年が平和で穏やかな年でありますように。

2012年12月5日水曜日


やっちもねえ

10年ほど前に開いた中学校時代の同窓会2次会でのことです。Kさんという主としてヨーロッパ各地の芸術祭で活躍している女性舞踏家が何十年ぶりかで顔を出しました。

今では舞踏はそのまま“butoh”として通じるぐらい日本発の最先端前衛芸術として国際的に認知されていますが、彼女がフランスに渡ったころは舞踏など評価以前の存在で当然のことながら日常生活も苦労の連続だったと思います。

いっぽうIさんという女性も同じころ同じパリの屋根の下で商社駐在員夫人としてリッチな生活を営んでおられたようです。彼女の話が芸術よりもブランドやグルメの話に傾くのは致し方ありません。我々男性陣は50代半ばというのに今も脚線美を誇るIさんを取り囲んで彼女が少しも型くずれしていないことを褒めそやしていました。

そこにKさんがやってきました。彼女は我々一同が他愛ない世間話で盛り上がっていることにあきれたのかひとことつぶやいて去っていきました。「やっちもねえ!」

びっくりしました。長年フランスで暮らしていた女性がこんな古典的な岡山弁を覚えていて、しかもこれ以上適切なタイミングはないだろうというときに放った毒矢の威力! 脚線美に悩殺されていた男達を一瞬にして黙らせる効果がありました。

この事件(?)以来、私もときおり「やっちもねえ」とつぶやくことがあります。テレビのワイドショーがオリンピック金メダリストの柔道家が起こした強姦事件の公判の様子を取り上げていました。

法廷では赤裸々な応酬が繰り広げられたようです。しかしこの種の密室で起きる事件は果たして法廷で争うようなことなのか疑問に思います。被告が未成年に酒を飲ませたというけれど、18歳にもなった大学生が酒を飲んでいいかどうか自分で判断できないはずがありません。

そして以前から女子学生に懇切丁寧な“シドー”を繰り返しているといううわさがあった金メダリストと同じ部屋に入ったこと自体、事件の免責性を物語っているように思えます。「やっちもねえ!」

冒頭紹介しました舞踏家のKさん、最近は日本公演もあるようですが、YouTubeで彼女の芸術の一端を見ることができます。Sumako Koseki で検索してみてください。

「はなして翻訳」 by NTTドコモ

NTTドコモがスマートフォンの冬モデルを発表し新聞各紙に新機種の派手な広告を載せていました。その広告に付随してドコモ提供の「はなして翻訳」という無料アプリが紹介されていたのでさっそくインストールしました。広末涼子がテレビコマーシャルをしているあれです。

使い方として、対面で使うのと広末涼子のように電話で使うのとふた通りあるのですが、私はもっぱら一人で使っています。早い話、いくら勉強しても耳になじまない中国語のレッスンに使用しているのです。

スマホに向かって日本語をしゃべる→日本語の聞き取り文章が画面に表示→翻訳された中国語の文章を表示、かつ女性の声で読み上げ。同様に私が中国語でしゃべりかけると日本語訳が表示され、きれいな日本語で読み上げてくれます。

驚くべきは翻訳・通訳の正確さとそのスピード感です。しかもスマホがしゃべる日本語や英語、中国語、韓国語は抑揚のないロボット的合成音ではなく、生身の人間がしゃべる自然なイントネーションです。パソコンの翻訳ソフトはいまいちできが悪いのにスマホのアプリはすごい!

ただ何しろ相手は機械です、少しでもこちらが横着な発音をすると聞き分けてくれません。とりわけ中国語は子音の種類が多く、たとえば「去」「喫」「七」「幾」はどれも私の耳には「チー」と聞こえるのですが中国ネイティブには全然別の音だということです。一度中国の方にしゃべってもらってスマホがこれらの音を聞き分けることができるかどうか確かめてみたいものです。

日本語→中国語の場合、私はそれなりに標準語できちんとしゃべっているつもりですが、やはりあいまいな発音をしているようです。その証拠にNHKのアナウンサーの声を聞かせたらきわめて正確に聞き取ります。

さて、これさえあればもう外国旅行で言葉が通じなくて困るようなことはないと喜ぶのは早計です。実際の翻訳・通訳作業は通信回線を通じてクラウドコンピュータが処理しています。そしてここがドコモのにくいところですが、無料のWi-Fi接続では作動しません。1日2,980円の海外パケ・ホーダイを使わざるをえない仕組みです。

そのうちWi-Fi接続で使える通信料不用の同種アプリが出てくるのではないかと大いに期待しています。

2012年11月16日金曜日

上海旅行 高松空港税関の憂鬱


年に3、4回上海に出かけていると帰国時、税関職員から毎度毎度同じ質問をされます。「なぜ上海へ頻繁に出かけるのですか?」

ビジネスでも観光でもなくしかもしょっちゅう出かける、おみやげを持っていない、手荷物もない、着替えすらない……これはかなり怪しい。きっと上海の裏社会とつながりがある……。このように税関職員様は想像しているようです。

でも、そうではないのです。おみやげはあげるべき人がいない、着替えがないのはホテルで夜のうちに洗濯してバスタオルで水気を切り、ドライヤーで乾かして翌日また同じものを着るから。

40年も一人旅を繰り返しているうちに旅具は極端に少ないのが一番、本当は手ぶらがベストであることを学びました。財布とパスポート、スマホ以外何も要りません。旅行日数が長くなればなるほど荷物をもたないのが快適な旅のコツです。

さて、税官吏の一番の関心事である私の素行ですが、職員は私に「上海のどこで何をしたのか」と聞いてきました。私は「そんなプライベートなことにはお答えできません」と返事を拒否。しかしあらためてどこで何をしたのか思い出してみると、食べる、寝る、町をうろつく、地下鉄やバスに乗る……ぐらいしかしてないのです。今回はフィギュア・スケート観戦という充実した時間を過ごすことができたのですが、いつもは本当に何もしないでただゆっくりした時間を過ごしています。

旧フランス租界は今でもシックな町並みが保たれ、素敵なカフェやレストランがそこここにあります。フレンチの店でフランス人のガルソン(ボーイ)相手によもやま話をするのが好き。もう何十年もしゃべったことのないフランス語が案外調子よく口から出てくるのはおいしいボルドーワインのせいでしょう。

プラタナスがトンネルを作る裏通りに面したカフェではスマホがWi-Fiでつながりタダで日本まで長電話できます。日本語でしゃべっていても中国人のお客が殴りかかってくる心配はありません。なにしろここは洗練された旧フランス租界。粗野な中国流マナーは通用しません。

今度税関でまた同じことを聞かれたら、上述のようなとりとめのない話を「起きて寝て……」と延々聞かせてやろうと思います。

2012年11月7日水曜日

チャイナ・グランプリ補足

フィギュア・スケートを生で見たのは初めての経験でした。同窓会の友人たちに送ったメールを多少加筆修正してブログに転載します。

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会場は騒々しかったのですが、スケーティングはほんとに音がしないスポーツですね。エッジをきかすときかすかに氷を削る音がするぐらいで、スケーターが無音の広いリンクを猛スピードで移動する様はCGを見ているような感じでした。

日本は今回優勝した町田樹(まちだ・たつき)もそうですが、ワールドチャンピオンレベルの選手がゴロゴロいますが、(レクサス)チャイナ・カップに登場した各種目10人ほどのうち前半の5人のレベルはとても低かったです。とくに地元中国の男子選手たちはかわいそうなくらいレベルが低くトップスター達の前座にすらなっていませんでした。

高橋は精彩を欠いていて残念でしたが王者の貫禄がありスタンディングオベーションでした。演技内容がきわめて芸術的でスポーツというよりオペラを見ているような気分になりました。このようなタイプの選手はもう二度と現れないような気がします。ちなみに高橋の出身高校、倉敷翠松は高橋のおかげですっかり有名になり、神奈川県出身の町田樹も高橋にあこがれて倉敷翠松に高校留学したそうです。(大きな声ではいえませんがこの高校は昔は○○学園という岡山では偏差値最□の女子校でした。あんたとこの娘さん、どこの高校いきょん?と聞かれてもうつむくしか)

アクシデントもありました。テレビ中継されたかどうか知りませんが、男子フリーの後半4人が5分間のウォーミングアップをしていたとき中国の選手とアメリカのリッポンが衝突し、中国人選手が氷の上から立ち上がれないまま退場するというアクシデントがありました。リッポンはちょっとだけ気にして倒れている選手に声をかけていましたがすぐに練習に復帰。ところが事件に無関係の高橋は中国人選手を気遣ってそばにいっていました。こういうところが高橋のいいところですね。人間の良さが出ています。

結局、中国人選手は担架で運ばれていき、試合には復帰できませんでした。そして、5分間の練習も中途半端だったので、仕切直しになりもう5分追加されました。こうした様子を見ていて私は神経が細い高橋に悪影響があるのではないかと、高橋の表情を2メートルほどの距離から見ていたのですが、やはりでした。

浅田真央は中国人にとってもアイドルのようで高橋同様大人気でした。すごくきれいで品がありますね。

上海の地下鉄は便利なのですが、終電がほとんどの駅で10時台。フリーのあとペアー、さらに表彰式まで見ると終電に乗れないので男子フリーを見終わったところで会場を離れました。初日には会場付近に飲食施設が絶無であることを知らずに午後3時から午後10時過ぎまでパンひとかけらで耐えるというつらい目にあったので、2日目は、コンビニ弁当、サンドイッチ、おにぎり2個、水代わりのミカン4個を持ち込みました。帰国して録画していたテレビ中継を見たら、弁当にくらいつく白髪薄毛デブのおっさんが写っていました。

フリーの日の席は選手が入場するコーナーのすぐ上で、演技直前の緊張した選手の表情が手に取るように分かる位置でした。私はフリーの試合は最初のプログラムであるアイスダンスが終わってから会場に入ったのですが、やはり席には先客がいました。日本人グループで大学生らしき男が座っていました。無言でチケットをちらりと見せてどかしたのですが、するとヤツは私のことを中国人と思ったらしく、連れの女に「このおっちゃんが席をあけろというから後にいくわ」などと言っていました。
「ここはもともとおっちゃんの席ですけど、それが何か?」と言ってやればよかった。

尖閣問題の影響についてはほぼゼロでした。日本人だと言っても別にいやな目にあうこともなく、いつもと変わりませんでした。ただ国営マスコミがしきりにあおっていました。沖縄の暴行事件を詳しく報道し、沖縄では民衆による反米、反政府運動が盛り上がっている、と余計なお世話の報道に熱心。尖閣の次は沖縄を狙っているのが見え見えです。

フィギュアスケート、グランプリシリーズ中国杯観戦記


尖閣諸島国有化以降、いまだに日中の首相が国際会議の場で顔を合わせてもお互いに顔をそむけるという異常事態が続くなか、3泊4日の上海旅行に出かけました。

出発前の心配は無用でした。町はいたって平穏、地下鉄やバスに乗ると「ご老体、こちらへどうぞ」と何度もしつこく席を譲られました。日本より若者が多い中国では白髪薄毛の私はりっぱな老人です。

滞在中、思いがけない幸運に恵まれました。フィギュア・スケートのグランプリシリーズ、中国杯の開催とぶつかったのです。高橋大輔、浅田真央、男子シングルで優勝した町田樹(たつき)らの華麗な演技をVIP席から観戦できました。

 VIP席というのは何も私が要人というわけではなく単にリンクに一番近いセクションの名称にすぎません。一般席とVIP席の境には警備員がいて安いチケットでVIP席に侵入してくる観客を阻止しているのですが、そこは中国のこと、トイレから帰ってくるともう見知らぬおっちゃんがデンと座っています。

 「そこは私の席ですけど」と言うと、彼らは他の空いている席を指さして、「おまえがそっちに座ればいいじゃないか、いちいちうるさいこと言うな」と逆切れ。

 こういう場面では現地駐在日本人奥様族はあっぱれでした。私のすぐ前の列の上海マダムは、自分の席を占拠していた不法侵入者を優雅なあご先とにらみだけで撃退、ひとことも発することなくです。

そしてすぐに奥床しい笑顔に戻り隣席の日本からの追っかけファンに「真央ちゃん、かわいいわね、オホホホホホ」と口元に手を寄せてささやきかけていました。一連の仕草は優美かつ毅然としていて、生き馬の目を抜く上海社会にみごとに適応しているようすがうかがえました。

中国人観客の多くが大ちゃんや真央ちゃんの熱狂的なファンで、日本式にDai-chan, Mao-chanと呼ぶのがクール。真央ちゃんの演技が終わるやいなやぼうだいな数のぬいぐるみや花束がリンクに投げ込まれました。

すぐにちびっ子スケーターたちが回収にかかるのですが、舞台裏を見下ろしていると、そうした贈り物はいきなりゴミ袋へ。黒のポリ袋のまま選手に届けられるのかそのまま捨てられるのか知りませんが、こういうところがいかにも中国的でした。

新県知事(岡山)に期待する


 石井知事の後任に伊原木隆太前天満屋社長が選ばれました。選挙の争点が曖昧だったせいか有権者は何を基準に投票すればいいのか迷ったようです。投票率の悪さにそのことが如実に表れています。

しかし争点が曖昧ということは裏返していうと、知事が果たすべき緊急かつ重要な課題が岡山県は他都道府県に比べて相対的に少ないということを意味していないでしょうか。

原発をかかえているわけではないし、来るべき東南海地震の津波予想も太平洋に面した県の被害予想とは1桁違います。台風は四国山地が防波堤になっている。うっとうしい領土問題とも無縁で、最初から知事に対する負荷は低いはずです。

そんな岡山県の新知事の抱負は、「産業振興と教育の立て直し」(知事談)とのことですが、どうもピンときません。特に「教育の立て直し」の中身が「道徳教育の充実」とは少々アナクロではありませんか?

道徳教育というと論語や孟子など儒教道徳を連想しますが、現実の中国を動かしている中国人の思考パターンを見るとマキャベリも真っ青のウルトラ現実主義です。とにかくやることなすこと品がない。こういう風土だからこそ儒家たちによって道徳が声高く叫ばれたのでしょう。

いっぽう卑弥呼で有名な魏志倭人伝(3世紀末)には「日本には盗みがなく、訴訟が少ない」と明記してあります。太古の時代から日本人は一貫して中国人が驚くほど道徳的な民族だったのです。今更年若い知事が「もっと道徳を!」と叫ぶのは何か違う気がします。

むしろ日本の若者に必要なのは黒を白と言いくるめて何ら恥じない中国人の厚かましさ、ねばり強さです。逆境でもなりふりかまわず生き抜く強さ、自己主張する能力と技術を子どもたち、特に岡山の子どもたちに身につけて欲しいと思います。

新知事は、非常にリベラルな校風が特徴だった中学校の20年ほど後輩でいらっしゃるとのことなので、あえて当選直後の抱負に水をさすようなことを書いてしまいましたが他意はありません。バックグラウンドも経歴も輝かしく、官僚の悪弊にも染まっていない若い知事の誕生を心から祝福し期待します。

だれにも遠慮することなく、いい子になることなく、思う存分腕を振るっていただきたいと願います。

2012年10月25日木曜日

春秋航空、尖閣のとばっちり


 尖閣問題の影響が長引いて日中間の航空需要が低迷しています。すでに表だった暴動は収まったとはいえ、上海の日本レストランで食事をしていた日本人が中国人数人から暴行を受けたなどという物騒なニュースを聞くと、この時期中国に観光に出かけようという人が激減したままであるのも無理ないことです。

 いっとき銀座や心斎橋にあふれていた中国人の買い物客がめっきり姿を消したように、日本行きの便もガラ空きです。日中間に定期便を飛ばしている航空各社にとって受難の時期はしばらく解消しないものと思われます。

 そんな中、中国のLCC(格安航空会社)である春秋航空が上海・佐賀便と上海・高松便に“1円キップ”なるものを投入しました。しかしわずか1日か2日で販売を中止してしまいました。

中国のネット社会で「春秋航空は愛国的でない」という批判が起きたためだそうですが、どうもその理屈がよく分かりません。要するに日本人に激安運賃で便宜を提供することが気にくわなかったのでしょう。ちなみに この“1円キップ”は中国では“0元”で売り出していたので何も日本人にだけ安く提供しようとしていたわけではありません。

 ビョーキです。中国の運輸当局が日本いじめの一環としてこうしたお達しでも出したというのならともかく、一民間航空会社の営業戦略にまで大衆が理不尽なイチャモンをつけ、企業はそれを考慮せざるをえないところに、今の中国のそうとう深刻な社会病理が見えてきます。

 さて“1円キップ”はまぼろしに終わったのですが上海・高松便がガラ空きで飛んでいることに変わりはなく、出発直前まで片道4千円という最低料金で予約、搭乗できます。燃料サーチャージ、税金などを加えたトータル金額でも往復2万円ちょっとです。

 春秋航空は香港、深セン、バンコク等上海乗り継ぎ便も格安。11月早々に“敵情視察”も兼ねて上海と上記のどこかの都市に出かけることにしました。尖閣問題で中国は一人芝居のように行動をエスカレートさせていますが、中国に行けばそれなりに問題を肌で感じるところがあるでしょう。まさに“百聞は一見にしかず”です。今回は久々に海外旅行保険に加入しようと思います。

村のお葬式


 実家の両親の介護をするようになって、私自身の住民票はよそにあるのに、何かと父の名代で地区の行事に参加する機会が多くなってきました。なかでもお寺関係の行事や近隣の葬式の手伝いは断りづらくいやいやながらこの11年こなしてきました。

小学校3年までしか地元にいなかった割には今でもみんなが64歳の私のことを“ちゃん付け”で呼んでくれるのは悪い気がしません。若いころふる里を捨てて世界に羽ばたいたつもりだったのに、結局は好きでも嫌いでもここが私の終焉の地になるのでしょう。地元の人々に受け入れられていることはありがたいことです。

きょうも村の日蓮宗のお寺で大きなお葬式があり、私にも裏方世話人としての呼び出しがありお勤めを果たしてきました。しかし何度お葬式に出ても暗記も理解もできないのが延々と続く読経です。

手元の岩波仏教辞典によると「南無妙法蓮華経」と題目を唱えることが成仏の唯一の法であり、この題目に釈尊のもつすべての功徳が譲り与えられているそうですが、葬式において果たしてこうした高邁な哲学思想が親しい人を亡くしたばかりの遺族、親族や友人の悲しみを慰めるのに直接役にたっているのでしょうか。

10数年前、カナダに移民した伯父が91年に渡る長い波瀾万丈の生涯をアルバータ州のある町で終えたとき、私は休暇を取ってはるばる日本から通夜と葬式に参列しました。

教会での葬儀は、牧師が分かりやすい言葉で聖書の幾章かを読み、参列者一同賛美歌を合唱し、私もアメイジング・グレイスをみんなといっしょに歌いました。Amazing grace! How sweet the sound, that saved a wretch like me…… 6人の子供や大勢の孫たちのスピーチは親密な言葉で語られ、涙あり、笑いありの感動的なものでした。生涯心に残るあたたかいお葬式でした。

神の恩寵、愛と赦しを説くキリスト教とひたすら成仏を念ずる仏教方式との違いは信仰の問題なので簡単に比較できませんが、分かりやすさ、親しみやすさにおいては教会に分があると思います。最近は仏式でもこうしたことに留意し、式後スピーチをされる住職がいます。しかし大体は通俗的なお経の解説であり、遺族の心を慰めるにはまだ一工夫も二工夫も足りないという気がします。

2012年10月18日木曜日

山中教授ノーベル賞受賞


 ここ10数年日本人がノーベル賞を受賞するうれしいニュースを金木犀が香るこの時期毎年のように聞きます。ところが国をあげての大フィーバーも年が明けるころにはすっかり記憶から薄れてしまいます。白川さん、下村さん、鈴木さん、田中さん、根岸さん、小林さん…の業績は?と問われてもさっぱり。

しかし今回の山中伸弥教授の医学生理学賞は違います。湯川秀樹博士以来の大物感が漂っています。ノーベル賞が通例、功なり名とげた大家たちの過去の業績に対するオマージュとして授与されるのと異なり、山中先生のiPS細胞の研究は難病で苦しむ世界中の人々に光明をもたらす画期的かつ独創的な研究である点が評価されたのです。

第二次世界大戦が終結し焦土に茫然と立ちつくしていた日本人にとって、まだ42歳だった湯川博士のノーベル物理学賞受賞の快挙は日本人に生きる勇気と誇りを取り戻させ、これからは学問を主体とした平和な文化国家を作ろうという決意をもたらしたといいます。

山中先生の受賞はなんだか湯川博士のときと情況がよく似ています。今やGDPは中国に抜かれ第3位に転落、円高不況に加え政治も混沌。中国・韓国など周辺国とのつきあいは暗礁に乗り上げお先真っ暗の日本。

しかしインタビューに答える山中先生の研究への情熱、謙虚な姿勢、国や周囲の人すべてに感謝する気持ちの表出などを拝見しているうちに我々日本人はこれまでどおり自信をもってやっていけばいいのだということを教えられた気がしました。

日本の文教政策、学校制度に対する批判は山ほどあるのは事実ですが、とにもかくにもノーベル賞だけでなく、数学や芸術分野も含め世界的に権威ある賞を欧米一流国と肩を並べて受賞し続けている点において、日本の教育制度はそんなに間違っていないと思います。

マスコミが山中先生に受賞を知った瞬間のことを尋ねていました。「正直な話、受賞すると思っていなかった。家にいて洗濯機がガタガタと音がするので、直そうと、洗濯機の前で座り込んだ時に私の携帯電話がなった」と、どこまでもクールで控えめな方です。

「今年こそはと携帯を握りしめて待っていました」と答えてくれたら座布団1枚進呈したのですが。

不思議の国のアリス症候群

スマホにかえて以来2ヶ月になりますがあることに気づきました。かつて20代から50代にかけて、近眼のち老眼になって、車を運転するにしても読書するにも眼鏡をかけたり外したり、視力に不自由していたのですが今ではスマホの極小フォントが何の苦もなく読め、なおかつ中距離、遠距離/昼間、夜間ともとてもよく見えます。いずれの場合も眼鏡不用、裸眼です。かつては虫眼鏡を要した保険の契約書条項もばっちり。

つまり視力に関して言えば10歳ころのベストの状態に戻っているのです!どういうわけでしょうね。ふつうは歳をとると水晶体が弾力を失いピントを合わせる機能が落ち固定焦点化してくるのが常識のはずなんですが。運転免許証に昔は必ず書かれていた「眼鏡等」の制限も50歳ごろから記載されなくなりました。

視力の問題とは別にものの見え方についても幼児時代にも不思議な体験をよくしていました。和室に転がって障子の桟を眺めていると、障子がミニチュア化して見えるのです。通常サイズの障子とミニチュア化した障子が同一の視野のなかに併存して、どっちが本当の障子かなあとよく考えていました。6,7歳ごろになったらそういう経験はしなくなったのですがそれから数十年、いつもあれは何だったんだろうと時折思い出していました。

ところが最近、そういう現象はよくあることでちゃんと名前まで付いていることを知りました。「小視症」といって幼児によくある現象です。子供が「ものが小さく見える」などと訴えるので親は視力異常と思って眼科に連れていくのですが、目を検査しても異常は発見されません。「ものが小さく見える」で検索すると多数の例が出てきます。

http://soudan.qa.excite.co.jp/qa6516823.html?order=DESC&by=datetime
の例では視覚異常だけでなく、時間の感覚まで早くなったり遅くなったりする症状が報告されていて興味深いです。いずれにしても小学校に上がるくらいの年齢になればいつのまにか解消するようです。「小視症」で説明がつくのが「不思議の国のアリス」だそうです。
「不思議の国のアリス症候群」参照。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8D%E6%80%9D%E8%AD%B0%E3%81%AE%E5%9B%BD%E3%81%AE%E3%82%A2%E3%83%AA%E3%82%B9%E7%97%87%E5%80%99%E7%BE%A4
上述例のようにいろいろなバリエーションがあるそうですが、現象の発生メカニズムとしては中枢神経系の情報錯乱に行き着くようです。幼児の脳は未発達なのでものの見え方の基準がしっかり確立していないからイメージ(像)の誤処理が起きるのだと思います。またヘルペスウィルス(EBウィルス)の感染が関与している例も説明されているので私の場合もそれだったのかもしれません。

そして64歳の今の私は網膜上のピンぼけ画像を非常に鮮明な画像に合成するだけの高性能画像処理エンジンを獲得したということかな?ひとくちに老化現象といってもいろんな不思議なことが起こるものです。

2012年10月3日水曜日

21世紀の世紀末

 先日台風17号が近畿地方に接近した日、来日中のカナダの親戚一家と大阪で会いました。道頓堀や心斎橋を案内しようと計画を立てていたのですが、おりからの暴風雨でホテルから出ることができず近くのしゃぶしゃぶの店で夕食を取りました。

 50代の夫婦(デニスとデボラ)と20代の息子、娘の4人家族ですが、夫婦はどちらもすでにリタイアし、子供達はようやく働き始めたところです。日本では定年を65歳まで延長させる話が議論されていますが欧米では多くの人が1日も早くリタイアして第2の人生をエンジョイしたいと口をそろえて言います。

 実際、デニスとデボラは日本に来る前フランスやイタリアの田舎に1ヶ月滞在し、自転車を借りて毎日サイクリングし、おいしいワインと食事を堪能したと楽しそうに語っていました。息子と娘はそんなに長い休暇を取れないのでシンガポールと香港を旅したあと東京で両親と合流し大阪にやってきたそうです。

 しゃぶしゃぶの食べ方を一同に伝授しながら、40年前自分も20代の若者だった! 今目の前にいる、すっかり中年のおばさんになってしまったデボラも昔は中学生か高校生だった! 過ぎ去った歳月がいかに疾く過ぎ去ったことか、私の父の兄である伯父夫婦はすでになく、従兄弟たちもすっかり年老いてしまった……などとセンチメンタルな思いに捕らわれました。

 そして隣に座っている子どもたちに肉を取ってやりながらこんなことを尋ねました。「21世紀の世紀末って世界はどうなっているかなあ? 世界はまだあるのだろうか? 20世紀前半生まれのおじさんは、どっちみち21世紀後半を見ることはできないけど」。

 彼らは何とも答えず笑っていましたが、たぶんカナダは大丈夫でしょう。広い国土、リベラルな政治風土、高い教育・生活水準、資源も食料も十分あるうえ、隣り合う国はアメリカ合衆国だけと地政学的にもリスクは最小です。

 それにひきかえ、日本の50年後を想像することは困難です。千年に1度あるかないかの巨大地震が起き、絶対安全と言われていた原発はあっけなく崩壊・爆発し世紀末的予兆はすでに現実のものとなりました。そして何よりも怖いのが困った隣人中国の政治的、経済的暴走、暴発です。

2012年10月1日月曜日

胃ろう


 「医療ルネサンス」という医療、介護に関する読売新聞の長期連載記事があります。内外の最新の医療技術や知識、思潮を一般の人にも分かりやすく紹介している優れた特集です。高齢の両親を在宅介護している私は介護の方法や方針で悩んだり壁にぶつかったときいつも有益なヒントをこの連載から得ています。

 その医療ルネサンスが最近連続して胃ろうにスポットライトを当てています。論調を一言でいうと「胃ろうは不用」という立場のようです。食事から十分な栄養がとれなくなったとき、胃に直接穴を開けてチューブ経由で栄養食品を流し込むのが胃ろうですが、記事によると延命効果があまりない、胃から栄養剤が逆流して気管に入り肺炎を起こしやすいなどと総じて否定的です。

 こうした記事の影響かどうか「胃ろうをつくらなくてよかった」という読者の声も多く寄せられています。しかし私は老いた親に胃ろうをつくるかどうか迷っている人に対して胃ろうのメリットについても十分考慮してほしいと思います。母に胃ろうをつくることを決断してよかったと信じている私の意見を述べてみます。

 まず第1のメリットとして、胃ろうから栄養が十分とれるようになると体力がつきます。しばしば枯れ枝のようにやせ細っていた老人がずしりと重くなるという副作用を呈しますが、体重が増加するということは体力がつくことでもあり、風邪を引かなくなる、肺炎になりにくくなる、褥創にもかかりにくくなります。

 第2に介護する家族にとって重度の認知症で寝たきりになった高齢者にご飯を食べさせる重労働が著しく軽減されます。基本的な栄養は胃に入っているわけですから、あとは情況に応じてプリンでもシャーベットでもヨーグルトでも好きなものを口から食べさせてあげればいいのです。

 第3に「食事の楽しみがない人生なんて生きている意味がない」などと思うのは食欲が十分ある元気な人の固定観念に過ぎません。体が欲しているのは究極的には「栄養」であって「食べる楽しみ」ではありません。親を餓死させてはいけません。

 私の母は胃ろうになってからすでに5年が経過しこの夏93歳になりました。95歳の父にとっても息子の私にとっても、認知症で寝たきりとはいえ元気に家で過ごしている母の存在が生きる原動力になっています。

2012年9月23日日曜日

尖閣問題


 この夏、竹島問題に火が付いたと思ったら、9月にはより手強い中国相手の尖閣問題炎上です。第一次大戦のきっかけもささいな事件が引き金を引いたのですが、領土問題はいつの時代でもナショナリズムを強く刺激します。地域紛争というとイギリス対アイルランド、イスラエル対パレスチナの例のように常にどこか遠い場所で起きるものと思っていたら極東で火を吹いているのですから驚きです。

最近の韓国・中国の日本に対する態度を報道で見ていると古今東西いつの時代でもどこでも起きる地域紛争の発生メカニズムと気分が何となく分かるような気がしてきました。売り言葉に買い言葉が飛び交い、ナショナリズムがあおり立てられます。こうなると洋上の小さな島嶼の帰属問題が双方にとって核心的利益を争う大問題に発展し、武力行使も辞さずという気分が醸成されていきます。

こうした国家間の対立の局面で冷静さを忘れ、まるで我が家の敷地がかすめとられたかのように怒り、ヒートアップするのは常に社会の発展段階が未熟な側です。幸か不幸か、日本人は冷静というか多くの国民は尖閣問題に対してある意味シラケているのが実状ではないでしょうか。

尖閣炎上の直接のきっかけは東京都による購入話でした。その話に多くの国民が感動し、10数億のお金を都に寄贈したのですが、島所有者は国がろくに査定もしないで即金で205千万出すといったらさっさと東京都との約束を反故にしました。もとはと言えば尖閣諸島は国が民間人に無償で譲渡した土地です。こんな取引話に一般国民が愛国心をかき立てられるはずがありません。

8月下旬、台湾が尖閣帰属をめぐって国際司法裁判所に提訴すると表明しました。日本政府はこの話を無視しましたが大失策です。台湾の提案こそ日本にとって(台湾にとっても)もっとも有利かつ賢明なものであったことは疑う余地がありません。

裁判を受ければ、尖閣の日本への帰属が国際社会から再確認されるだけでなく、海洋政策で拡張主義に陥っている中国に対して深刻な打撃を与えることができ、日本はベトナム、フィリピン、インドネシアから末永く感謝と尊敬の念を勝ち取ることができたでしょう。万一負けた場合、結果を受け入れるのは当然ですが。

2012年9月5日水曜日

続“ヒヨウ”の話

   先週号に続いてイ草刈りの季節労働者であるヒヨウ(日傭)の話を。
イ草農家に出稼ぎにやってくる若者は彼ら自身農家の次男三男が多く、長子相続制が一般的だった時代、分家して家族を持ち田畑を耕して生計を立てていくことはほとんど不可能でした。多くの次男三男は都会に仕事を求めて出ていったのですが、ヒヨウとして出稼ぎに来てそのまま岡山に留まった人もいました。
ヒヨウを雇いいれる農家も毎年違う人を役場であっせんしてもらうより、その人のひととなりが分かっている者に来てもらう方が安心できます。そして中には、イ草農家の主人の目にかなった若者がそのまま婿入りするケースがあったそうです。
 我が家の近所にもそうした婿養子殿がいます。私が小学生のころ彼はやってきました。昔から「米糠3合あれば養子に行くな」という格言がありますが、格言が警告するとおり、婿入りしたこの若者はたばこ銭にも事欠く肩身の狭い日々を送っていたのでしょう。
 ある日、草野球の帰り私の兄がグローブを広場に忘れたのを彼が届けてくれたことがあります。ところがタダではグローブを返してくれず謝礼として「5円」よこせと言うのです。5円というのは戦前の価値ある5円ではなく昭和30年ごろの話で今の価値でいっても50円か100円ぐらいのものです。
兄は仕方なく小遣いの中から5円払ってグローブを取り返しました。私の両親はどちらも教師でしたが、夕方帰宅して兄からその話を聞いてカンカンに怒り“ヒヨウ上がり”の青年に対する軽蔑の情を我々子どもの前で隠しませんでした。
 この若者、このように金銭に汚く、近所の農家からクワや鎌がなくなるという噂も広がりました。さらに隣接する田んぼのあぜを夜な夜な削っては領土拡張に余念がなく、家では妻とその親に滅私奉公。ついに近所の人からは「農奴」という芳しくないあだ名を頂戴しました。
そういう性分は一生直らず、高齢の今でも村人達とは少し距離を置きうち解ける様子はないのですが、相変わらずよく働きます。トラクターで田を耕し、孫を保育園まで送り迎えし、犬の散歩もし、買い物までこなすスーパーじいさん。まさに金のわらじを履いて探し出したような婿殿です。

2012年8月31日金曜日

“ヒヨウ”あるいは季節労働者


 食料不足が続いた昭和30年代、農村地帯では米作の裏作として大麦や小麦が栽培されていました。しかし岡山県南の水田地帯では麦よりもはるかに大きな現金収入をもたらすイ草の栽培が一般的でした。

ところが現在では岡山県内でイ草を栽培している農家は倉敷市内にわずか3軒残るのみ。なぜイ草栽培が急速に廃れてしまったのかその理由は簡単です。イ草栽培はあまりにも過酷だったからです。

冬場、氷が張る田んぼにイ草の苗を11本手で植え、春から梅雨明けまで大きく育てます。そして梅雨が明けると同時に一気に収穫し、専用の土で染めて乾燥させなければ最高級のイ草にはなりません。

当然、農家の手だけでは足りず、農家は“ヒヨウ”と呼ばれる季節労働者を毎年雇い入れていました。夏場水不足で農作業が少ない四国の農家の若者たちが主で、高い賃金を求めて連絡船で海を渡ってきました。

庭瀬駅には村役場の臨時出張所ができヒヨウさんを農家にあっせんしていたものだ、とは父の昔話です。一方、彼らを受け入れる農家も大変です。働き盛りの若者を45人、母屋の一番いい部屋に寝泊まりさせ、食事は1日数回用意し、夜は酒も飲ませなければなりません。

背丈を超えるまで育ったずしりと重いイ草を鎌で刈る。すぐに泥に漬ける、泥水をたっぷり含んでいちだんと重くなったイ草を田んぼや道べりに広げて乾燥させる。すべての作業はギラギラすべてを焼き尽くす真夏の太陽の下で行います。

ところで“ヒヨウ”という岡山弁らしき呼称、何やら差別的なニュアンスが気になり広辞苑で調べてみました。何と標準語で「日傭」と書き、日雇いの意味でした。

そのヒヨウさんたち、10日間ほどの重労働を終えたときには日当が今のお金で数十万円ぐらいになったのではないでしょうか。なにしろ早朝から深夜までずっと働いて食って寝るだけの生活でお金は一銭も使う機会がないからです。

ようやく重労働から解放され宇高連絡船に乗って四国に帰っていく彼らが無事家に帰って家族に分厚い財布を渡せたかというとそうはいきません。父の話では高松港周辺には賭場と娼館が林立し、彼らの稼ぎはすっかり巻き上げられたということです。(次号に続く)
 

2012年8月26日日曜日

NHK第44回思い出のメロディ

 お盆に何気なしにテレビを見ていたら毎年恒例のNHK「思い出のメロディ」をやっていました。司会の市川猿之助(亀治郎改め)のまじめくさった顔がおもしろい。「人形の家」(弘田三枝子)、「別れのサンバ」(長谷川きよし)など例年になく選曲にセンスが光っていました。
 私の学生時代、ぴちぴちきゃぴきゃぴだった弘田三枝子が今ではNHKホールの豪華な舞台が痛々しく感じられるほど容姿と声が衰え、私はそこに同じ時代を生きてきた自分自身の衰えを重ねてしまいました。

ところが同じ老いでもド迫力の老い、すさまじい生き様の集大成というべき老いの姿があることをこまどり姉妹によって知らしめられました。舞台に登場した彼女たちはもう本物のおばあさんです。1938年生まれなので今年74歳。まさに壁のように分厚く塗った化粧姿を見て何故かギリシャの廃墟を連想しました。

デビュー当時あれほどきれいなハーモニーを奏でた艶と伸びのある美声は今ではすっかり失われていました。しかし心が激しく揺さぶられるのです。この感動はいったい何なのか、ウィキペディアを参照してみたらその秘密が少し分かったような気がしました。北海道の炭坑労働者の極貧家庭に生まれ、樺太に渡り、戦後は苦しい家計を助けるために姉妹で門付けをして日銭を稼いだそうです。

デビューしたあともストーカー少年に舞台の上で刃物で刺されたり、大病を患ったり、まさに波瀾万丈の歌手人生です。

「私たち、歌が好きで歌手になったんじゃないこと、皆さんご存じでしょうか?」と語る姉妹。生活のために三味線片手に歌う以外に道がなかったにしても生涯歌を捨てずに生きてきたこと、それしか選択肢がなかったことが厚化粧の下に魂の演歌歌手をはぐくんだのでしょう。

坂本冬美の「岸壁の母」。スランプに陥り歌えなくなった坂本が二葉百合子から一子相伝のように引き継いだまさに命の一曲にはひっくり返りそうになりました。目が完全にイッテいて神憑り状態。いままで坂本冬美は美貌で歌がうまい(だけの)歌手だと思っていたのが大変な間違いだと気づかされました。

体をよじり、声(=魂)をしぼりだす演歌はすごい。これぞ芸であり日本の宝だと認識した次第です。

(関連動画)
http://www.youtube.com/watch?v=45w9jKHekXI
http://www.youtube.com/watch?v=48HVAWfp0zU
 

2012年8月13日月曜日

London 2012 戦い終えて

 ロンドン・オリンピックの期間中に父が元気に95歳の誕生日を迎えることができました。いっしょにテレビ観戦できたことは父の最晩年のあたたかな記憶として私の心に永久に残ることと思います。

父にオリンピックの一番古い記憶はどの大会だったか尋ねたら、「ロサンジェルス大会」(1932)と答えていました。そのとき父は15歳だったはずですが、この大会の記録を検索してみると何と日本がメダル獲得数で第1位でした!

これは父だけでなく当時の日本人すべてにとって驚愕すべき大事件だったに違いありません。とりわけ男子競泳は5種目中4種目まで金で400メートル自由形のみ銅メダルという圧倒的な快挙でした。

1912年の第5回ストックホルム大会に日本が初参加して以来100年の歳月が流れ、その間今回のロンドン大会を含めて獲得したメダル数はちょうど400個になったそうです。

ロンドン大会では38個のメダルを獲得し史上最多ということですが、日本もなかなかやるなあというのが率直な印象です。お家芸といわれた柔道男子の金メダルがなかったのがいかにも残念。それにひきかえ後半戦でも女性のがんばりが鮮やかでした。レスリングの金3個は圧巻! サッカー、卓球団体の銀、バレーボール、アーチェリー団体の銅など長年取れそうで取れなかった種目でついにメダルが取れました。

前半でもいろいろな場外バトルがありましたが、男子サッカー3位決定戦では韓国選手の常軌を逸したマナー違反が深刻な問題を引き起こしました。「独島は我が国の領土だ」という政治的バナーをピッチ上で掲げたのですからメダルはおろか出場資格すらなかったというべきです。

このことに関してはネットで韓国非難の嵐が起きていますが、韓国サポーターはかつて試合場に「日本の大地震をお祝います(ママ)」などという精神構造を疑われる横断幕を掲げた前科があり、確かに民度が低いといわれても仕方のない行為です。

そうした隣国のスポーツの場での品格ゼロの行為にほとんど反応しない日本はさすがですが、こと政治的に鈍感なのはいかがなものでしょう。韓国大統領の竹島上陸に対し日本がどう出るかロシアと中国が興味津々です。オリンピックが終わってまたきびしい政治の季節がきました。

2012年8月6日月曜日

London 2012 前半あれこれ

 いろいろなスポーツ発祥の国、イギリスで開催されているロンドン・オリンピックはこれまでにないぐらい多くの“場外バトル”的な話題を提供してきました。柔道の審判結果があっという間にひっくり返ったり、体操団体では日本の抗議が受け入れられて4位から一気に銀メダルになったりでびっくりの連続です。

 中国、韓国等によるバドミントンの無気力試合もひどいものでしたが、それを言うならなでしこジャパンの対南ア戦は何だったのでしょう。

あえてドローに持ち込みリーグ2位通過を画策したのは決勝トーナメントを有利に戦うための戦略だったと、佐々木監督自身がぺらぺらマスコミにしゃべっているのをテレビで見て、何だかなでしこジャパンに対する気持ちが萎えてしまいました。

とはいえ、身体能力に恵まれていないやまとなでしこがアメフト選手のような体格ぞろいの欧米人相手に勝ち進むためにはきれいごとを言っている場合じゃないこともよく分かります。ネット上の外野席でああでもないこうでもないと好き勝手な意見や監督批判が飛び交うのを閲読することも今時のオリンピックの楽しみのひとつかもしれません。

 柔道81キロ級の中井貴裕はまさに日本男児を絵に描いたようなルックスの持ち主。これぞ瑞穂の国の風格と凛々しさを兼ね備えた選手の登場と期待大。結果は力及ばず惜しくもメダルに届きませんでした。致し方ないことです。

ところが中井選手、試合直後にメダルが取れなかったと言って人目もはばからず号泣。わずか1分ほどのインタビューの間に10回ぐらい「メダルが欲しかった、どんな色のメダルでもいいから欲しかった……」とメダルに対する執着を吐露。(日本男児でなく単なる幼児?)男の子がデパートのおもちゃ売場に座り込んで「ガンダム欲しい、ガンダム買って、ガンダムゥゥ」と地団駄踏んで悔しがるのにそっくりでした。

すぐに泣き出す男性陣に比べ女性は本当に強い。オオカミのような面構えで金をとった57キロ級の松本薫、鼻っ柱の強さがそのまま顔に出ているバドミントン銀の藤井・垣岩ペアー、競泳で銀と銅2つのメダルを取った鈴木聡美(平泳ぎ)など女性の活躍が印象的です。

後半はどんなドラマが待っているのか、眠れない夜が続きます。

2012年7月23日月曜日

60代も半ばになって

7月7日に64歳になりました。すでにこんな高齢になってしまったと思うと同時に「まだ」64歳、四捨五入で言えば60代前半にいるともいえるので貴重な若さだと思います。

人間は年を取ると故郷回帰が強まるといいますが、ここ3ヶ月ぐらいしきりと心理学関係の本を読むようになりました。

xx大では教育学部の教育心理学科というところに籍をおいていました。一方、文学部にも心理学科がありました。教育学部では主として実験心理学に重点が置かれサイエンスとしてのアプローチが試みられていたのに対し、文学部ではフロイトやユングなど精神分析学の流れを重視していたように思います。

いずれにしても教員のレベルといい、学生のレベルといい、当時の欧米の水準からいえばきわめてプリミティブな、心理学のまねごとのようなレベルだったと思います。そのプリミティブなレベルのxx大の心理学の諸々の科目すらよく理解できなかったのだから私の頭脳に問題があったのは明白です。統計学に至っては単位を落とし、2年も同じ科目を勉強(恥)。

1968-69年の学生運動の騒乱もあって、私は実験にこだわる心理学に興味を失った反面、ゴダールやアラン・レネ、パゾリーニ、アントニオーニなどによって次から次へともたらされた映画のとりこになり、彼らの映画を直接理解する必要性もあってフランス語とイタリア語を同時並行で勉強しました。フランス語はxx大と飯田橋の日仏学館で、イタリア語は東京外国語大学のイタリア語科教授だったxx先生、早大の日本人やイタリア人教師からほとんど個人教授のような形で4年間教えてもらいました。

大学4年の秋、心理学科の卒論作成に行き詰まって(というより手をつけていなかった)ころプラントメーカーのxxがアルジェリアの建設現場で必要なフランス語の通訳を募集していることを知り、xxの横浜本社で簡単な面接を受け、即採用になり、大学には休学届けも出さないでアルジェリアに行きました。翌年の秋、帰国して、卒論をでっちあげ翌春卒業しました。

卒業した年はカナダやイギリス、ヨーロッパで3,4ヶ月過ごした以外、何をしていたか記憶がありません。xx大学図書館に就職したのはさらにその翌年だったと思います。(本当は国会図書館職員になろうと目論んで受験したのですが失敗)

当時の図書館は何をするにも手作業でおそろしく能率の悪い職場環境でした。しかし勉強する時間が無限にあったのと毎年4,5週間の夏休みを取ることができたのがラッキーでした。ラッキーというより私が長期休暇をとるパイオニアみたいなものでしたが(笑)。とにかく能率の悪い図書館システムの代表が紙に書かれた目録の存在でした。ところが大学には大型計算機があるのに目をつけ、研究者がほぼ占有していた大型コンピュータを図書館目録の作成に使う試みを始めました。1984年ごろにはすでに初期のパソコンが出現していたのでそれを計算センターの大型機にモデムで接続することでスムーズな漢字入出力が行えるようになりました。そのころは毎日深夜0時ごろまで残業してプログラミングに熱中。昼間いくら考えても解決できなかったアルゴリズム(計算手順)が夢の中で突然啓示を受けたように浮かんだこともあります。

数年かけて目録システム、オンライン検索システムを自力で完成させたころ、時代はメーカーによるパッケージソフトの導入へと変化してきました。私も個人で作った、しかも当時の処理系に全面的に依存するシステムから文部省が進めていた学術情報センターのデータベースと連動するシステムへの切り替えが必要であることを受け入れ、プログラミングから離れていきました。

長々と半生記を書いてきたのですが、要するに大学で専攻したことと無関係な職業につき、その職を辞めたあとは親の介護というまたまた脈絡のないことをやり、いつのまにか60代も半ばになっているのに気づいたのですが、それが冒頭のふるさと回帰にたどりついてきた感じなのです。

心理学といっても学生時代の心理学を学び直す意志など毛頭なくまして他人の悩み事を聞いて法外な金を取るカウンセリング・サイコロジーなどではなく、古くて新しい人類永遠のテーマである「意識」について2012年の世界の研究レベルを垣間見ておきたいということです。やがて自分が認知症になって「正常な意識」を失うことになるであろう前に少しでも理解できたらなあと願っています。
(たぶん認知症になることはそんなに空恐ろしいことではないのかもしれません。なぜならこうして生活している日々の暮らしのなかで広義の認知症は徐々に進行しているのにちっとも苦しくありません)

そもそも「意識」とは7月7日(しつこいようですが誕生日)にヒッグス粒子の存在がほぼ確認されましたが、その不可思議な性質は「重力」の問題とそっくりな気がします。18番目の素粒子(そんなものはないそうですが)として「意識」が考えられるのではないか。アレゴリーではなく本当に・・・でもビッグバンと同時に「意識」がばらまかれ宇宙の隅々まで拡散していったとすれば生命もまたそこから生まれることができたのではないか・・・・・・

神経細胞としての脳の存在が意識の存在にとって絶対条件なのかどうか、などというとオカルト研究、あるいは統合失調症の症例に登場する世界観、あるいはファンタジーのようでもあるのです、それでも何千年に渡る人間の知の歴史が解明してきた成果は少なくありません。

そんなことを考えるのにあたってこれまで脈絡なく関わってきた、心理学、英語、フランス語、イタリア語、中国語などの外国語、コンピュータのプログラミング言語の実際の知識が役にたつかもしれません。

また、認知症という病状を通じて人間の意識がどのように変化していくのかをまざまざと見せてくれる両親の存在、およびガランタミン(レミニール)のような薬の存在、つまり脳を直接支配する化学物質の存在等、「意識」について考えるきっかけがそろってきました。

2012年7月11日水曜日

勘違い税関職員


海外旅行は楽しいものですが、いつも憂鬱になるのが帰国時の税関検査です。関空などではありえない、ヒマな田舎空港の税関職員の対応には思わずキレそうになります。今日も上海からの帰路、高松空港でこんなことを聞かれました。

「荷物はたったこれだけですか?」(「大きなお世話!」と言ってやりたかった。以下同様)

「別送品はないですか?」(申告書に「ない」と記入しているよ!)

「旅行の目的は?」(あんたの知ったことか!)

「上海ではどちらへ?」(どちらへって上海は上海ですが……)

「よくバンコクや上海に出かけられていますね」(それがどうしたというの?)

税官吏は延々とこんなことを聞いてきます。関税定率法の主旨とまったく無関係なバカげた質問であるばかりかあきらかにプライバシーを侵害しています。

以前は免税範囲内なら口頭申告だけでよかったのに平成19年から入国者全員に申告書を書かせるようになりました。申告者は記載内容に間違いがないことを自署しているわけですから、もし不審な点や疑いがあるのなら無意味な質問をするのではなく即刻荷物を開けさせて調べればすむことです。文書で申告済みのことを重複して口頭でも尋ねるのなら申告書を提出する意味がありません。

彼らは勘違いしています。“怪しいヤツは税関職員の何気ない質問に動揺してボロを出す。そのわずかな動揺を見逃さず拳銃など禁制品の密輸を摘発するのがプロ”だと。

しかし密輸犯に固有のプロファイル(特徴あるタイプ)など存在しません。きちんとした身なりのビジネスマンとサンダル履きのタトゥありのニイちゃんのどちらが怪しいかなどは荷物を隅から隅まで調べない限り神様でも分かりません。

何を尋ねてもぱっとした答が返ってこない私に対し税官吏はリュックを開けるよう要求しました(無駄なおしゃべりをせず最初からリュックを見ろよ)。しかし洗濯物しか入ってないことが分かるとヤツは信じがたいことを言い放ちました。

「お腹が出ていますが、腹巻きをしているのですか?」

何という屈辱! 私はシャツをはだけて体重93キロのみごとな太鼓腹を拝ませてやりました。

2012年7月5日木曜日

神の粒子

   7月7日の七夕を祝うように宇宙に関するビッグニュースが飛び込んできました。「神の粒子」と呼ばれるヒッグス粒子が予言通りスイスにある巨大加速器による実験で実在がほぼ確認できたというものです。このことはそもそもの宇宙の起源はビッグバンであることを証明したのと同じことだと思います。

ところで世界の多くの宗教が呈示する宇宙観もビッグバン説とほとんど違いません。旧約聖書の冒頭に「神は光あれと言った。すると光があった」と記されています。そこでは天地創造のすぐあとに人間が創られていますが人類生誕までの137億年をはしょっただけのことだと思います。

しかし、考えてみればニュートン以降、アインシュタインの相対論から最新の量子力学や超弦理論まで、古い理論の矛盾を解決しながら明らかにしてきた科学的世界観と宗教的直観によるイメージはそんなに大きく異なるものではないようです。いずれも何もないvoid、虚無……のところから何かが揺らいで、あるいは何者かの息吹によって宇宙が始まったという共通のイメージです。

宇宙の始まりがどうして起きたのか、どんな状態だったのかについては宇宙観測や素粒子物理学の成果、あるいは宗教的直観のほかにもう一つの驚くべきアプローチがありました。それはアメリカの脳科学者ジョン・C・リリィ(1915-2001)による人間の意識の探求です。

リリィは人間の脳には人類誕生以来の記憶が残っているという仮説を立て、それをビジョン(視覚)として把握しようとしました。具体的には外部の刺激をいっさい遮断したタンクの中に特殊な水を入れて浮かび、しかも致死量に近い幻覚剤のLSDを摂取して意識の底にあるものを探る危険な実験でした。

幻覚の中でリリィはどんどん過去に戻っていき、地球の誕生はおろか宇宙の始まりであるビッグバンまで目撃します。そこで神に遭遇したのかあるいは自分が神そのものだと思ったのか彼の著作を精読してみなければなりません。(ケン・ラッセルの映画「アルタード・ステーツ」に実験の様子が描かれています)

人間は広大無辺の宇宙から素粒子の粒ひとつまで目に見えないものをまるで見てきたかのように解明していく動物ですね。想像力のスピードは光速をはるかに超えています。

2012年7月2日月曜日

父との生活(3)学歴コンプレックスの威力


NHKの朝の連続テレビ小説「梅ちゃん先生」。主人公ががんばって医師に育っていく物語は戦後の覇気と元気にあふれています。1日に何度も再放送があるし、録画して父と食事しながら同じ話を繰り返し見ています。

父は毎日のストーリー展開はおろかこれが連続ドラマであることすら理解できていないようなのですが、びっくりするようなことがありました。梅ちゃんが働いている「帝都大学附属病院」の威風堂々とした時計台がしばしば画面に登場します。

時計台の映像を見ながら父が私に「これは早稲田か?」と尋ねるので「一橋大学みたいよ」と答えたら「ふーん」と言っていました。ところがそれから1週間ほど経過したころ、また時計台のシーンがありました。すると父が「この子は一橋の学生か?」と尋ねてくるではありませんか。ちゃんと覚えていたのです。

父は子ども時代勉強がよくできたそうですが、家計の制約から旧制高校、旧制大学へと進学することができず、お金のかからない師範学校へいって教師になり、長い教師生活をまっとうしました。それでも心の底では普通の大学に行けなかったことが94歳の今でもコンプレックスとして父を苛(さいな)んでいるらしく、逆にそこを刺激されるとちゃんと記憶回路が作動するのです。

父が毛嫌いしているデブタレの石塚クンがいます。「あいつはバカか」と石塚クンがテレビに出てくるたびに軽蔑の言葉を吐くので、私がそっと「お父さん、この人、バカみたいに見えるけどどうも東大法学部卒らしいよ」と吹き込んだのです。

それ以来、オーバーオールをだらしなく着、満面の笑みをたたえた石塚クンがテレビに出ると、父は「この男は東大出じゃそうだな」と尊敬のまなざしで私に言うのです。「そんなのウソに決まってんじゃん。お父さんの学歴コンプレックスをからかっただけじゃー」。父は悲しげな顔をしていました。

見当識が混乱したある日、私を父の兄(故人)と思い込んで話しかけてきました。「兄さん、就職したらきっと金は返すからワシを普通の高等学校へ進学させてくれ」。泣けてきました。お父さん、東大なんか行かなくても、あなたは教養も人格も申し分ない尊敬に値する人ですよ!

2012年6月21日木曜日

向精神薬

   613日放送のNHKクローズアップ現代で向精神薬の子供への過剰投与問題が取り上げられていました。子供の行動に何か問題があると「はい、この薬を追加しましょう」とどんどん薬が増え子供はよくなるどころか廃人同様になっていくショッキングな様子が映しだされていました。

番組への反響は大きく、多くの視聴者は日本の児童精神科医療の現状に恐怖を感じたようです。素人ながら私も、果たして子供にこんなにもたくさんの危険な薬を投与していいものかと率直に思いました。

喜怒哀楽の感情を自由奔放に出すのが子供の本質なのにちょっと騒がしいからとか授業に集中できない、クラスの秩序を乱すという理由で子供は児童相談所に連れていかれます。

臨床心理士からカウンセリングを受け、精神科に回され、そこで“軽い”薬を処方され、いったん薬物が投与されたら次から次へと追加投与される……。おおよそこんな事態が教師や学校、児童相談所、精神科医たち専門家によって繰り広げられているのが日本の現状のようです。

クローズアップ現代が取り上げていたのは子供への過剰投与に限定しての話でしたが、薬の過剰投与に限らず精神科に関しては昔からいろいろと疑問や批判が渦巻いています。「精神科は今日も、やりたい放題(内海聡著、三五館、2012)」という本は、センセーショナルなタイトルがかえって内容のすばらしさを貶めていますが、一読して向精神薬の薬漬けにされているのは大人も子供も同じだということを知りました。

617日付け読売新聞朝刊に掲載された抗不安・睡眠薬依存に関する記事も身近な薬に潜んでいる危険性に触れているだけに衝撃的でした。

医師から「安全です」と言われ気楽に処方される睡眠薬のほとんどはベンゾジアゼピン系の睡眠薬であり、日本は世界最大の消費国です(年間18億錠!)。若者による乱用の問題もあります(ハルシオン等)。

この系統の薬は依存症になりやすく、薬からの離脱は困難でありまた危険を伴うということです。父のために医師に処方してもらっている睡眠薬がこの系統の薬だったので今はなるべく薬に頼らず父が夜中に起きているときはいっしょにテレビを見たり、少し食べ物を腹にいれてあげたりして何とか睡眠薬から離れられるよう努めています。

愛車とともに20年

 20年前に買った我が愛車、日産パルサーX1Rは長い年月のうちにいろいろな事件に遭遇し、時代の変遷を見てきました。前年(1991)に火山が大爆発を起こし火砕流が多数の人々の命をのみこんだ長崎県・雲仙普賢岳を見に行ったのが最初の長距離ドライブでした。

 学生時代に免許を取っていましたがそれまでもっぱらオートバイを愛好してきて、車に乗りだしたのは四十も半ば近くなってからのことでした。島原のビジネスホテルに泊まったものの翌朝狭い駐車場から出られず、ホテルの従業員に車を道路まで出してもらうという情けないペーパードライバー卒業旅行でした。

 阪神大震災(1995)の朝、神戸市東灘区の学生マンションに住んでいた姪の救出に水や食料を積み込んで大阪から神戸に出かけたのもこの車です。往路は1時間で行けたのに帰路は神戸脱出の車や救援の車で国道2号線も43号線も未曾有の大渋滞。時速100メートルという気の遠くなるような時間の中で倒壊し炎上する神戸の地獄図絵を見ていました。

 神戸連続児童殺傷事件(1997)、いわゆる酒鬼薔薇聖斗事件が起きたときは、何事も現場で考えたいと思い、男児の首が置かれた友が丘中学校まで行きました。おびただしい数の警官が警戒しているなか“なにわ”ナンバーでは怪しすぎ、校門前に車を停止させるわけにいかず、中学校の周りを2,3周走行しながら現場の雰囲気を把握しようとしたものです。

 楽しい思い出もいっぱいありました。大学で働いていたので週末ごとにひまな学生を誘っては紀伊半島の山中に出かけて山登りしたり温泉に浸かったり。この車によってドライブの楽しさを知った私は狭い日本に飽きたらず何度も長期の休みを取ってはアメリカ、カナダ、ハワイでのロングドライブを満喫しました。

ラスベガスからイエローストーン公園、モンタナの氷河を超えてカナダに入りカルガリーからカナディアンロッキーを超えて太平洋岸の町バンクーバーに出、再びアメリカのシアトルで車を返すまで5千キロのドライブをしたこともあります。

大阪を離れ岡山に帰った今も“なにわ”ナンバーで岡山の町を走っています。走行距離28万キロ。ボディは傷だらけ。最近タイヤを新品に取り替えたので次は38万キロ(地球から月まで)を目指そうと思います。

2012年6月11日月曜日

薬剤師さん、上手の手から水を漏らさないで


高齢者の健康維持に欠かせないのが医師が処方するお薬です。昔(おおざっぱに昭和時代)は町の診療所でも病院でも、薬を渡される際にそれがどんな名前の薬であるかさえ告げられませんでした。

「朝、“白”を1錠、夕食後“ピンク”を2錠飲んでくださいね」

錠剤を保護しているアルミシートにも薬剤名が明記されておらず、患者はそれが何であるのか分からないまま医師、薬剤師、そして何よりも“赤”や“ピンク”の物体の効能を信じて(あるいは命をまかせて)服用したものです。

時代が変わって、現在調剤薬局での投薬は過剰なぐらい情報を提供しています。しかし情報をタダで提供しているのではありません。ちゃんと「薬学管理料」あるいは「薬剤服用歴管理指導料」として課金。報酬を得ている点においてそこにプロの自負と責任があるはずです。

ところが最近立て続けに、院内処方および町の調剤薬局で薬剤師のプロ意識の存在を疑わせる事例に遭遇しました。

事例1.高齢の父に処方されている血圧降下剤のサイズが大きく飲むのに苦労していたので、医師に相談の上、サイズの小さな別の薬に変更してもらいました。ところが手渡された薬の袋には以前の大きな薬もそのまま入っていました。血圧降下剤を超高齢者が倍量飲むとどうなるのでしょう?

事例2.長年、調剤薬局はここと決めている薬局で「ジェネリック薬品を試したけれどやはり先発メーカーのものがいい」と前回薬剤師に申し出ました。ところが今回何の説明もなくジェネリックに戻っていました。

事例3.同じ調剤薬局で。渡された袋の中に長期服用している高脂血症の薬がなかったので薬剤師に尋ねたら「処方箋になかったから」と答えていました。医師が書き忘れていたからですが、こんなときこそ服用歴の管理指導がなされてしかるべきでしょう。

院内投薬や調剤薬局のミスに対してはその都度「プロの仕事をしてくれ」とやんわりお願いするのですが、薬学管理に不備があっても、服用歴管理指導を患者である私が“指導”しても薬局はぜったい管理料や指導料を請求しますね。

2012年6月4日月曜日

アルツハイマー病に劇的効果


 まもなく95歳になる父ですが今年の春先ごろから急速に日付や場所、家族関係などいわゆる見当識が混乱・混濁してきました。私のことを亡実兄と思い込み、「兄さん、兄さん」と呼びかけられることのつらさ、絶望感は想像以上です。

 高齢のおばあさんが娘時代に戻ってしまい、結婚したことも子供を産み育てたことも忘れてしまうことは珍しくありません。父も少年時代に引き戻されている時間が次第に増えてきていました。

 今までは高齢者にこのような言動が見られるようになっても「もう歳だから」とか「幸せだった時代に戻っているのだから」という言葉であきらめたり無理に納得するしかありませんでした。ところが昨年(2011)、アルツハイマー病の新薬が3つ認可され、従来からあったドネペジルと合わせ4種類の治療薬から最適なものを選択できるようになりました。

 先日、父に何とか“現実感”を取り戻させたいと大学病院の神経内科を訪れました。脳のCT画像や認知能力検査の結果と照らし合わせて診断が下され、新薬のガランタミンが処方されました。

 驚いたことに最初の1錠を飲んだ直後から卓効が出て、混乱していた見当識がほぼ正常になりました。積極的に専門医に父を見せたことは我ながら実に適切な判断であり、また勇気を伴う行為であったと思います。

試しに父にこんな質問をしてみました。「私(父のこと)にとって、私(息子である私)って誰ですか?」と手で父を指さし、次いで自分を指さしながら訊ねたのです。父は明快に答えました。「本人じゃが!」。ごもっとも。ごもっとも。

 こんなこともありました。月水金と人工透析に病院に通っている父ですが、火曜日の朝、私が勘違いして(呆けて?)父の通院の支度を済ませ、介護業者が迎えにくるのを待っていたのですがいっこうに来ません。ようやく透析日でないことに気付き、父に「お父さん、僕が惚けてたわ、今日は透析に行く日じゃなかった」と言ったら、父は「自分が呆けていることに自分で気付いたお前はなかなか大したものだ」と誉めてくれました。

ご家族などにお心当たりのある方、認知症は今や十分治る可能性がある病気です。ためらわず専門医を訪ねることをお勧めします。

2012年5月26日土曜日

古代七つの文明展

 先日東京から友人が訪ねてきたので定番の後楽園を案内したあと岡山市立オリエント美術館に寄ってみました。ちょうど今「古代七つの文明展」が開催中で思わぬ収穫がありました。(624日まで)

 オリエント、エジプト、中南米、ギリシャ・ローマ、シルクロードとインド、中国の古代文明の遺産に関しては今までも内外の博物館・美術館や特別展でお目にかかってきました。こうした遺跡や遺物は紀元前3千年とか4千年という気の遠くなるような昔の文明の痕跡であるにもかかわらず、まるで昨日それらが消滅したばかりというぐらい鮮明にまた完璧に保存されています。

ところが今回の展覧会が非常にユニークだと思ったのは、上記6つの文明に加え、我が日本の縄文文明がエジプトやメソポタミアに負けず劣らずの迫力で肩を並べていたことです。正直言って縄文時代とは“いまだ文明以前”ぐらいに漠然と思っていた私には大ショック。何に驚いたかというと、十日町市博物館蔵の国宝・縄文式火焔型土器の推定年代として紀元前3500年―2500年頃と明記したあったことです。

年代の古さにおいても美的価値においても古代エジプトやメソポタミアのものに全然負けていません。日本で古代史というとせいぜい邪馬台国はどこにあったのかとか、卑弥呼とは誰だったのか、のあたりで思考が停止してしまっていて、それ以前はおおざっぱに縄文、弥生時代とひとまとめにしていたのが我々の古代史観ではないでしょうか。それが一気に5500年も遡れるなんて!

そのことを生まれて初めて知っただけでも「古代七つの文明展」を見た価値があります。エジプト学の世界的権威である早稲田大学名誉教授・吉村作治氏監修の非常にレベルの高い催しものがこの岡山で開催されていることにも感激しました。

美術館に入ったのが4時過ぎだったのでゆっくり見学するひまもなくあっという間に閉館時間に。しかしもうひとつ驚きがありました。館外で吉村先生とばったり出会ったのです。すると友人は先生に親しくあいさつしたのでびっくり。何でも昔アルジェリアでサハラ砂漠探検をする吉村先生、曽野綾子さんを接待したことがあるそうです。古代悠久の歴史もおもしろいのですが、人の出会い、再会もまた奇なりと思いました。

2012年5月17日木曜日

岡山県庁のミュージックサイレン


 ○○誌前編集長の○○氏は職を辞して以来、郷土史に名を残した著名人の伝記を精力的に上梓されています。最近偶然書店で氏の最新作である「三木行治の世界:桃太郎知事の奮闘記」(岡山文庫、日本文教出版社、2012)を目にしました。

 同著には私が知らなかった三木知事(知事在職1951-1964)に関するさまざまなエピソードが網羅されていて興味が尽きません。例えば、資料として添えられている三木さんのパスポートには“身長1.57メートル”と記載されています。恰幅のいい大男のイメージが記憶に残っていますが、実は小柄だったのですね。

 さらに同書を読み進んでいくと、今も正午と午後5時に県庁の屋上から美しいメロディを鳴り響かせているミュージックサイレンに関する詳細な記述がありうれしくなりました。三木知事が現庁舎ができるとき「ひとつだけわがままを言わせてくれ」とこだわって最高級の機器を設置したという逸話です。

 私の中学生時代、正午にはシューベルトの「菩提樹」を、そして夕方学校帰りにはドボルザークの「家路」を聞くのがとても楽しみでした。○○さんの本によると昔はサイレンの音をさえぎる高層建築がほとんどなかったので県庁から5キロメートル離れたところでも聞こえたと書かれていますが、私が住んでいた妹尾は10キロ近く離れているのに夜9時、風向きがいい日には「子守歌」がはるか遠く聞こえていました。

大学生になって岡山を離れ、53歳のとき親の介護のために仕事を辞めて再びふるさとに帰ってきた私を何よりも暖かく迎えてくれたのが県庁の「菩提樹」と「家路」でした。思春期のころの胸がうずうずする感覚がよみがえってきます。「早春」、「あこがれ」、「友情」、「初恋」、「旅への誘い」、「郷愁」……。

青春は過ぎ去り老いを感じ始めた今、なつかしいサイレンの音色を私は特等席で聞いています。県庁の真向かいにある県立図書館です。まもなく正午というとき決まって正面玄関から外に飛び出し、図書館の太い柱にもたれながら至福のメロディにしばし身と心をゆだねます。

泉に沿いて茂る菩提樹……

ここに幸あり、ここに幸あり。

プァー(正午の瞬間)

桃太郎知事からのプレゼントは世代を超越した県民の宝物です。

2012年5月10日木曜日

恐怖の高速ツアーバス


連休中の交通事故件数は例年より少なかったという新聞記事を見て思わず“ウッソー”とうなってしまいました。が、統計的にはそれが事実なのでしょう。

しかし記憶としては、連休前にあちこちで発生した登校途中の学童の列に車が突っ込み大勢の痛ましい犠牲者を出した事件に高速ツァーバス居眠り運転事故の衝撃映像が重なり、日本の道路行政、運輸行政、通学路の安全確保等はいずれもお寒い限りだということが露呈したのが連休前後の約3週間でした。

私自身2,3年前、岡山・東京を往復するのに高速ツァーバスをよく利用し本欄にも体験記をつづったことがあります。ツァー代金は鉄道の半額から4分の1だし夜行なので宿泊代と移動中の時間が節約できることが最大の魅力でした。

岡山路線は各社とも距離(約700キロ)の制約から乗務員が1人で運転することは許されず、実際私が乗車したどのバスにも交代の運転手がいました。しかしある会社のバスは車内にトイレがないのにいったん岡山を出発したら最初のトイレ休憩は何と岐阜の養老SAという強行軍で大変驚きました。途中でトイレに行きたくなることがないよう車中での飲食は極力我慢したものですが、その間運転手が過酷な状態の中でバスを運転していることには想像が及びませんでした。2回目のそしてそれが最後の休憩地だったのは何と神奈川県の海老名SAでした。

 今回の事故の詳細が明白になるにつれ、もし乗車前にそれが分かっていたら200パーセント、誰もこんな危険なバスには乗らなかったでしょう。無責任な会社、違法であるうえ過酷で低賃金、孤独な日雇い運転手。しかも中国出身のこの運転手は今回の運行経路に土地勘がなく道路案内標識を十分理解するだけの日本語能力に欠けていたといいます。

更に何よりも許し難いのがこのようなバスが深夜日本中の高速道路を走っている現状を放置・是認してきた国土交通省の無為無策無責任行政です。国交省に限らず、些細なことには口うるさく規制する割に肝心のところで大抜けしている日本の行政システム。これを総点検することは今や待ったなしの政治課題です。

悲惨をきわめ、決してあってはならない事故の犠牲となられた方々に深く哀悼の意を捧げます。

2012年4月29日日曜日

原発ゼロの日

 福島原発の事故以来、全国に50数基ある原発が定期検査をきっかけに順次停止しまもなく稼働中の原発はゼロになろうとしています。当初、政府のシナリオどおりなし崩し的に休止中の原発が再稼働するだろうと思っていたのですが、大阪維新の会の橋下大阪市長の発言力が増してきた現在どうやら原子力発電がゼロになる日が来ることはまちがいなさそうです。

 日本という大電力消費国にとって原発の存在は生命線のはずでしたが、すでに9割以上の原発が停止した現在、何か不測の事態が起きているかというとそんなことは何もありません。比較的電力供給に余裕がある中国電力管内にすんでいるせいかもしれませんが、今現在電気が足りないという実感はありません。

原発事故直後、大規模停電を避けるために計画停電を実施した関東の大騒ぎは何だったのでしょう。原発が止まっても東電の供給能力は事故から一年経過した現在ほぼ以前の水準に戻っています。工夫さえすれば電気はどこからでも沸いてくるものなのか、それとも今までの統計が原発なしではにっちもさっちもいかないような印象を与えるために歪められていたのか、とにかく不思議なことです。

今しきりに真夏の電力不足が言われていますが、いったい日本の電気は足りないのか足りているのか、原発に頼らなくてもやっていけるのかどうか、ここはひとつ原発ゼロのまま真夏を迎えることが一番だと思います。節電も必要でしょう。

節電というとすぐに電気がなかった時代に戻るかのような議論が始まるのですが、本当にあぶないのは真夏のピーク時に限定され、日数にしても1週間から10日ぐらいの話です。しかも一番暑いのは午後から夕方にかけての数時間だけです。

つまり太陽がカンカン照りでまぶしい時間帯にエアコンがいちばん欲しい。ということはいったん稼働したら昼夜を分かたず電気を作り続ける原発よりも電気が必要なときに一番効率よく発電する太陽光発電こそ論理的にも政策的にも今もっとも推進すべきインフラだと思います。

建設するにしても廃炉にするにしても10兆円もの金がかかる原発に依存するよりはるかにやすい投資で夏のピーク問題は解決すると思います。夏が来るのが楽しみです。

2012年4月11日水曜日

メディカルカフェおかやま


桜が満開の4月8日の日曜日、日本泌尿器科学会100周年記念事業の一環として山陽新聞さん太ホールにおいて市民公開講座「メディカルカフェおかやま」という市民啓発講座が開催され、大変意義深い講演とパネルディスカッションを聞くことができました。

公開講座の具体的な内容は山陽新聞が4月26日の紙面で特集記事を組むと予告していますので男女問わず中高年の方はぜひ目を通していただけたらと思います。

この公開講座を聴講しようと思ったのは、私も還暦を過ぎて人並みに“おしっこの出が悪くなった”という自覚症状があったからです。とくに混雑した駅のトイレなどで後ろに人が待っていると余計出にくくあせります。

そんな時あまり時間をかけていると後ろの若者が「ちぇっ! これだからジジイの後ろになんか並ぶんじゃなかった」と言っているような気がして、まだ出ていないのに出たふりしてトイレから去っていった経験が1度や2度ならず。そこで去る3月、専門家に診てもらったところ、がんなどではなく単なる前立腺肥大症ということで薬を処方され、その薬がよく効いて悩みはすっきり解決しました。

泌尿器科という診療科はどうも行きにくいところだとだれもが感じていると思いますが、実は先生方もけっこう泌尿器科という名称にある種のコンプレックス(複雑な感情)をもっていたりするものだなあということがパネリストのトークの中に感じられました。医者も人の子です。

泌尿器科の女医の草分け的存在であるパネリストの1人、Y先生は医師になったころ、父親自身が医師であったのに、泌尿器科を選択すると告げたら、「おまえはチンポコ医者になるのか」と嘆かれたというエピソードを披露されていました。今でも状況は同じで女子学生が泌尿器科を選択するのは勇気がいるようです。

余談ながらY先生、実は中学校時代の同級生で母もお世話になったし、私自身、ことあるごとに電話相談して彼女を煩わしています。でもさすがに“見て”もらう勇気はありません。ある同級生は尿管に石が詰まって七転八倒したとき彼女に“見て”もらったそうです。「苦しさのあまり恥ずかしいだのなんだの言っている余裕はなかった」とのことでした。

使い勝手の悪い介護保険


  介護保険料が新年度から負担増になりました。介護保険制度はこの先どういう方向にいくのかビジョンがはっきりしないままの値上げです。

介護保険ができたときは在宅での介護を支援するというのが大きな目標のひとつだったと記憶していますが、12年も両親を実家で看ていて、在宅支援のための介護保険サービスの使い勝手の悪さはますますひどくなっています。

介護保険サービスを利用するにはまずもってケアマネージャーが作成する介護計画表にしたがってサービスが行われます。父(94)は週3回人工透析療法を受けるために自宅から病院まで通っていますが、朝ご飯は家族(と言っても私か兄)が用意したものを父は8時までに食べ終えなくてはなりません。8時から9時まで父の身体ケアをしてくれるヘルパーさんがやってくるからです。

そして9時になったら私か兄が足腰の立たない父を何とか車に乗せて病院へ連れていきます。帰りは送迎専門の業者さんが車椅子ごと車に乗せて家まで届けてくれます。なぜ出かけるときにもその業者さんに来てもらわないのかというと、ここが介護保険の使い勝手が悪いところなのですが、朝のヘルパーさんが帰ったあと2時間あけないと次の業者さんを利用できないそうです。

介護を要する人のニーズや生活パターンに合わせて柔軟な運用ができないことは摩訶不思議というほかありません。そんなわけでこの4月から父の送り迎えを同一の業者さんにお願いすることにし、朝の身体介護で入っていたヘルパーさんはお断りせざるをえなくなりました。

ところがこのことはとても残念なことかと言うとそうでもありません。父にとってヘルパーさんから次々と「はい、パジャマを着替えましょう」、「歯を磨いてください」などと指示されるのがうっとうしいことこの上ありません。もういつ亡くなっても大往生という年齢になっているのに、あれこれ指図されるのは息子の私から見ても気の毒な気がします。

パジャマなんか毎日着替える必要は全然ありません。それなのに毎日ヘルパーさんがパジャマを着替えさせるのは、数年前に作った計画書に基づくマニュアルにそのように記載されているからです。朝ご飯を食べさえすれば顔も拭かないまま病院へ行って何が悪いという気がします。

2012年3月30日金曜日

老・幼・病・残・孕


半年ぶりに上海に行ってきました。3月末、格安航空の春秋航空が上海・高松便を増便し週3便(日、火、木)体制にしたので、2泊3日の手軽な上海旅行ができるようになったのです。

 今までも何度も上海に出かけているので目新しいことはこれといってなかったのですが、地下鉄の優先座席の表示が変わっていることに気づきました。半年前は優先座席のところに漢字でそっけなく“老・幼・病・残・孕”と書かれていました。

“老”は老人、“幼”は赤ちゃん、“病”は病人、“孕”は妊婦であることはすぐ分かります。しかし“残”とはいったい何でしょう? 驚くなかれ、身体障害者(*)のことです。この種の言葉に異常なまでに神経をとがらす日本ではとうてい考えられないような語感の言葉に唖然とします。(*最近は“身体障がい者”と書くようですが)

 “残”の語源が何なのかよく知りませんが、私は老残の残を連想します。ちなみに、20代のころ初めてパリの地下鉄に乗ったとき、優先座席に“invalide(アンバリッド)と書かれてあることに衝撃を受けたものです。パリの観光名所のひとつに“廃兵院”(アンバリッド)があります。ナポレオンの巨大な棺が置かれていますが、そこは戦争で傷ついて「価値がなくなった(invalide)」兵の残余の日々を看取る施設です。まさに“残”と同じ発想法です。

 さて中国の優先座席の話。これがこのたび日本風のずいぶんおだやかなものに変身していました。“老”とか“残”の文字は消えて、老人や妊婦さんのイメージを表すピクトグラムになっていました。上海でも“老幼病残孕”はいくら何でもひどいんじゃないの、と世論が当局を動かしたのかもしれません。

 ただ私は何事もあいまいにせず、おおげさなくらい単刀直入に表現する中国人の気質と言葉がきらいではありません。中国では日常会話でもものすごい単語を使っています。

 朝、奥さんは亭主に「このネクタイにしたらどう?」と“建議”し、亭主は奥さんに「今日は帰りが遅くなるよ」と“告訴”。奥さんは「じゃあ私は夕方、髪型設計に行ってきますね」などと夫婦で会話しているのでしょう。建議=提案する、告訴=伝える、髪型設計=ビューティサロンほどの意味です。

2012年3月21日水曜日

父との生活(2)

  先日、父(94)がちょっと元気をなくしていたので「お父さん、120歳まで生きるはずなのに、涅槃の境地のような顔をしていてはだめじゃないですか」と激励しました。すると父は「120まで生きて、息子の葬式を見るのはつらいからのう」と言い返してきました。

からかったつもりなのにまたしても父に逆襲されて本当に腹がたちます。自分の死は断固拒否しているくせに、息子はきっと90歳にもならないうちに死ぬと思っているのです。最晩年になった今も明晰な頭脳を誇っているそんな父ながら、このごろ理解に苦しむことをしつこく訴えるようになってきました。

夕食後、30分もしないうちに「もう寝る」と言ってベッドに横になるのですが、しばらくすると「寝かせてくれ、ベッドに横にしてくれ!」と私に懇願。「お父さん、すでにベッドに入って寝ている人間をいったいどうやってさらに寝かせろっていうの?」と言うと、「理屈じゃないんじゃ、ええから寝かせてくれー」とつらそうに言います。

また、午睡から覚めた父が40年近く前に亡くなった自分の長兄の名を呼ぶことがよくあります。「兄さん、起こしてくれー、兄さーん、兄さんが台所におるのは影で分かっとる」。

父の夕食を作りながら私は声色を使って、「わしの名前を呼び続けるのはスミオか? やっとこっちへ来る気になったか」と応戦。「お父さん、死んだ人の名前を呼び続けるのは危険ですよ。本当に呼びにきたらどうするの、そういえばさっき伯父さんが玄関口に立っていたなあ」とおどしたら急に現実に返って「そうじゃのう」と言うのですが、翌日にはまた伯父の名を呼んでいます。

父は理性ではあの世など全然認めていないのですが、入眠時や起き抜けの意識がぼうっとしたときには、あたかも霊魂の世界が現実とすぐ隣り合わせにあるかのような言動を繰り返します。最近、父の不条理な訴え、「寝かせてくれー」の本当の意味が分かってきました。

「眠られない」という不眠の訴えなら弱い睡眠薬で間にあうことです。しかし「寝かせてくれー」はそういう身体生理学的意味を超越して、人生においてなすべきことを余すところなくなし終えた人の魂が発する叫び声ではないか、永遠の休息を求めた……。そんな気がするのです。

2012年3月13日火曜日

NTT商法


午後7時、そろそろ父に夕食を食べさせようと思っていたら、足腰が立たずほぼ寝たきり状態になった父がベッドから「失禁しそうじゃ」と私を呼んでいます。腎不全でおしっこが出ない父の失禁とは「大」のほうでなかなか介助が大変です。あわててポータブルトイレを部屋に持ち込んで片手で重い父を抱きかかえ、パンツを降ろし便座に座らせホッとしたときインターホンがピンポン。

受話器をとると「NTT何とかですが、何とかの用件で来たのでドアを開けてください」と言う。“ドアを開けろ”とは普段のセールスではなくNTTが何か重大な用件で来たのかと思い、父をトイレに座らせたまま玄関のドアを開けました。

「本日は電話回線を高速光回線に取り替えることをお勧めに参りました。インターネットはご利用ですか?」と若い男がセールストークを始めたので私はぷっつん。「そんなもん、永久に取り換えん、さっさと帰えらんか」と思わずぞんざいな口調で若者を追い返しました。

男が退散したあとも私の怒り(というか八つ当たり)はますますヒートアップ。そうか、あの兄ちゃんを追い返したのは失敗だった、「あんたにこの家の惨状を見せたる。ちょっと上がってこい、親父をポータブルトイレから抱き起こすから手伝え! そうしたら光ファイバーを検討してもいい」と言ってやればよかった、と重い父を抱き上げ、パンツをはかせながら考えたものです。

そもそも親の家に電話が入ったのは昭和40年代だったと記憶しています。妹尾電報電話局の電話回線は慢性不足で住宅用は申し込んでから3年待ちが常識でした。3年待って債権だか加入料だか7万2千円という親父の月給の2ヶ月分ぐらいの金を払ってやっと電話が開通しました。

今度またNTTからセールス電話なりセールスマンが来たら「あのときの7万2千円を返してくれたら、光ファイバーを検討しましょう」と言ってやろうと思います。

ちなみに長らく無人の館だった元の妹尾電報電話局の事務棟が最近工事を始めておしゃれな外観に変身しました。NTT関連のショップかなと思ったら何と、焼き肉屋がオープン。またしてもかつての公有財産がこんな情けない姿になって、とあきれてしまいました。何ともいいようのない怒りが収まりません。

父との生活


生来抹香臭いことが大嫌いな父は94歳の現在でも自分がまもなく生を終えるだろうことなど考えもしないようです。3,4年前に「いったい何歳まで生きるつもり?」と尋ねたら「120」と答えていました。これを世間では「大還暦」というようですが、日本の歴史上それを達成した人はいないと思います。

つい先日のこと、父から言うと本家の本家、いわば総本家のバアさんが100歳の大往生をとげました。東京生まれの母がこんな田舎の父のもとに嫁いできたとき、当時30前後だった近所のこのバアさんは母が勤めていた小学校の校長と親戚だったのをいいことに、田舎の因習など全然知らない母のことを逐一校長に告げ口し、母はそのたびに校長室に呼び出されて説教されたと晩年認知症を起こすまで悔しがっていました。

あわただしくバアさんの葬儀があり、本家の従兄弟に香典の金額を相談したところ、「うちの親がなくなったとき3万円もらっているから、分家のそっちも3万円にしろ」と理不尽なことを言います。本家はそうかもしれないけど分家の我が家ではいまだかつて一度も葬式なんか出したことがなく人様から一銭だって香典をもらっていません。

そこで父に相談してみたところ、「あんな家、1万円で十分」とずいぶん値切ってきました。私:「お母さんをいじめていたバアさんだし、本家よりは一歩下がって2万円でどう?」ということで決着がつきました。(おばさん、香典を1万円値切ったのはあなたの人徳のなさのせいですから天国で怒らないでね!)

 ***

 昨年の確定申告の時期にあの東北大震災と原発事故が起き、めんどうくさがりやの私は「日本が沈没するかもしれないというのに確定申告どころではない」と変な理由をつけてとうとう昨年は申告せずじまい。先週、去年のと今年の申告書を作りました。還付金は中古の軽自動車が買えるぐらいの額になりました。

 「お父さん、これから税務署に行ってくるけど、還付金を僕にくれない?」。「おう、全部やるから一銭でも多く取り戻してこい!」と激励されました。父の後押しを受けて少額の医療消耗品まで申告。いろいろ忙しかったし、両親の還付金をありがたくいただいて月末、上海まで気晴らしに出かけることにしました。

2012年3月1日木曜日

世にも不思議な物語


子どものころ「世にも不思議な物語」というアメリカ製の実話っぽい怪奇テレビドラマがありました。タイタニック号には進水時から不吉な前兆があった話や天国に行った男の話など今でもよく覚えています。天国ではギャンブルは負け知らず、女性にはもてもて、すべて意のままです。しかしギャンブルや恋の結末が最初から分かっていては全然楽しくありません。そう、そこは天国という名の地獄だったのです。

こんな話もありました。少年がある場所を通るとき、きまって体にかすかな電気のような衝撃を感じていました。ある日興味本位にいつものピリッと電気が走る場所で立ち止まります。すると少年は異次元の世界にワープしてしまいます。そこがあの世の入り口だったのですね。

小学生のころ、いつも通る切り通しが私にとってそういう場所でした。学校帰りにそこでは決して立ち止まらないように注意したものです。学校と家の中間点にあるその切り通しにかかると今まで見えていた学校が見えなくなる一方、まだ我が家は視野に入ってきません。そこが危ない。学校と自宅という現実世界がともに見えなくなる場所で魔物は巧妙に現実の風景そっくりのセットを切り通しの向こう側に用意し、私を欺き誘拐しようとしている……。

大人になってからはあまりこうしたシュールな恐怖感に苦しめられることはなくなりました。しかし先日の午後、久しぶりにマンションの部屋を片づけていたときのことです。戸棚から昔買った高級ウィスキーが出てきたのでストレートでコップ3分の1ほど飲みました。久しぶりの酒はよく効きます。

夕方には2キロほど離れた実家に帰って両親の食事の世話や痰の吸引をしなければならないというのに酒が入っていては車の運転ができません。結局タクシーで移動したような気がするのですが……。

確かに実家で両親に夕食も食べさせたのに何か変です。醒めることのない夢の中にいるような気分。本当は車を運転して事故ったのでは? 自分はあの日死んでしまったのではないか、今本当に生きているのかどうかどうやったら確かめられるのだろう。今こうして生きているつもりの私は現実の自分なのか。よく分からない……。よく分からないのに税金の確定申告書なんか作っています。