2014年9月21日日曜日

朝日新聞

 天候不順のまま一気に秋が訪れました。久々にからっと晴れた青空にまたしても暗雲漂う黒い影を落としているのが一連の朝日新聞記事ねつ造・誤報事件の顛末です。

かつて「日本には4つの権威がある」と言われたものです。東大、岩波、朝日、NHK。今でも日本の権威として君臨している4者ですがずいぶん色あせたこのごろです。

学生時代、朝日ジャーナルという硬派の週刊誌が朝日新聞社から出版されていて、真面目な学生にとってはバイブルのような存在でした。ある号でアメリカの活動家フレデリック・ダグラス(1818-1895)の著書からの引用翻訳文が朝日ジャーナルに掲載され大変感動したことがありました。

私はダグラスの英語原文が読みたくて、さっそく有楽町にあった朝日新聞本社に出かけました。当時は今のように建物に入るのにセキュリティチェックはなく、仰々しい受付なんかもなくて(あったかもしれませんが)、そのまま5階か6階までエレベータでのぼり朝日ジャーナル編集部の職員にお願いしてその場で原文のコピーをもらいました。

編集部といってもだだっ広く雑然とした新聞社のフロアーに朝日ジャーナルの小さな「島」があって数名の編集部員がいるだけでした。そして隣には週刊朝日の「島」がありました。こちらも同じぐらいの小さな編集部だったのが今でも強く印象に残っています。全国に影響を与えている週刊誌もこんな少人数のスタッフによって作られているのかと大変驚きました。

その次に朝日新聞東京本社(築地)に出向いたのは恩師の井筒俊彦先生(哲学者・イスラム学)が朝日賞を受賞され私も受賞パーティに招待されたときです(1982)。その年の受賞者は司馬遼太郎、英文学者の中野良夫などそうそうたる顔ぶれで、私は立食パーティであつかましく司馬遼太郎に話しかけたりしたものです。

新聞社内にしつらえられた宴席の料理は質素でしたが、エスカルゴが6個載った皿が目に入りました。私が皿ごと手に取って食べていたら、サルマン・ラシュディの小説「悪魔の詩」を翻訳出版して、後に筑波大学構内で暗殺されたイスラム学の五十嵐一さんが近寄ってきて、「それどこにあったの?」と尋ねるのです。

「そこに…」と言ったもののテーブルの上にはもうエスカルゴはありませんでした。どうやらもともと6個しかなかったようです。それを私が一人で平らげたので五十嵐さんは少しムッとしていました。

五十嵐さんは19917月筑波大学の研究棟のエレベータの中でいまだ正体不明の何者かによって有望な前途を空しく絶たれました。こんなことならあのときエスカルゴを分け合っておくべきでした。

今となってはエスカルゴを争ったこともいい思い出ですが、何百人ものパーティにエスカルゴをたった一皿しか用意していなかった朝日新聞社にはどこか思いっきりのよさに欠けるなにかをふと感じました。

 それから30何年かが過ぎメディアの世界も様変わりしました。なんといってもインターネットを通じて、かつては容易に独り占めできていた極秘情報が瞬く間に日本中はおろか世界中に伝播する時代になりました。ウソの記事を書いてもほどなくばれます。

 こうした時代背景にも関わらず朝日新聞は東電福島第一原発事故の吉田調書を極秘に入手し恣意的かつ悪意ある解釈を施してスクープとしました。疑問を投げかける他紙や週刊誌には攻撃的な恫喝を加え告訴し批判を封じ込めようとしました。

 一番ひどいと私が感じたのは朝日新聞に批判的な意見をいっさいシャットアウトしたことです。「何でも自由に書いてください」とお願いしておきながらジャーナリストの池上彰氏の紙面批判を掲載拒否し、世間の批判を受けると一転掲載するなど日和見的対応に終始したのには呆気にとられました。

何という思い上がりか、と思いますがこれでは通常の記事でも朝日が気にいらない事象にはこれまでも平気で真実にウソを混ぜて報道してきたのではないか、という疑念を多くの読者にもたせました。

今になって朝日新聞は社説やコラムを総動員して反省と謝罪記事を連日書いていますが、個人の過ちならともかくこういう会社の方針として犯した組織犯罪は二度と名誉挽回することはできません。太平洋戦争のとき戦意高揚記事を書いて軍国日本に協力した過去などすっかり忘れているようです。

「解体的出直し」をすべきなどと世間も朝日新聞自身もかまびすしくかけ声をかけていますが空しい言葉です。

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