2012年12月7日金曜日

墓碑銘ふたつ


2012年は年末になって著名な芸能人が次々亡くなりました。なかでも中村勘三郎、小沢昭一を失ったことは残念至極です。

57歳という歌舞伎役者としてはまだこれからという若さでしたが、勘三郎は古典芸能としての歌舞伎を現代の文脈の中で解釈し直すことに大胆に取り組んだパイオニアでした。

2009年4月、こんぴら大歌舞伎で勘三郎の「俊寛」を舞台間近で見たことがあります。一人死を覚悟し絶海の孤島に残った俊寛の顔にはかすかなほほえみが。これは悲劇の結末としては伝統を破る演出で、先代の同意が得られなかったものです。

人は過酷な運命を甘んじて受け入れざるを得ない状況においてもなおそこにある種安堵を見いだしうる存在であることを勘三郎はよく知っていたのだと思います。勘三郎自身、あれもやりたかった、これもやりたかったという無念の思いを残しつつも最後はほほえみながら旅だっていったと願わずにはおれません。

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私が小沢昭一の名前を知ったのは第一次石油ショックのころでした。世は狂乱物価で騒然とし、トイレットペーパーがスーパーから消えてしまった時代です。そういう時代風潮に対し彼は「小沢昭一的こころ」というラジオ番組で「トイレットペーパーがないのならケント紙で尻をふいてやる」と言い放ちました。

ケント紙は製図なんかに使う上質紙で堅いうえに水を吸わないので、お尻をふくのには不向きでケガする危険もあるのですが、その心意気は見上げたものです。ちょっと考えればおかしいと分かることでもマスコミや政府がいうとすぐにその気になって流される日本人の国民性を彼は嘆いていたのです。

小沢昭一は徹底して反戦の人でした。日中関係が悪化して以来、週刊誌の見出しには「日中開戦」などという言葉が踊るようになりました。領土を守るためには戦火もいとわないという勇ましい意見が今ほど多くの国民に違和感なく受け入れられている時代はなく、そういう意味で戦争の絶対悪を説く「小沢昭一的こころ」その人を失ったことは残念です。

小沢昭一は「戦争はかすかな気配が兆してきた段階で止めなければ手遅れになる」という言葉を残しています。年始に当たり、本年が平和で穏やかな年でありますように。

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