2018年11月14日水曜日

広島平和記念資料館

 だれもが一度は訪れたことがあるであろう、広島の原爆資料館に何十年ぶりかで行ってみました。私が初めて行ったのは学生時代、1970年前後だったと思います。背中の皮がベロンと剥がれた人が逃げまどうレプリカなどが展示してあり、原爆の恐ろしさが如術に伝わってきました。
 ところが半世紀後の現在、公園はきれいに整備され木々が茂り、館内に入ってみると明るい空間が広がり、修学旅行生や外国人観光客でいっぱいでした。外国からの訪問客は一様にゾッとしたような表情でたたずんでいたのに対し、修学旅行生たちは割合平静な様子でした。
私も「何かおかしい、展示物が昔ほどは私に訴えかけてこないのはなぜ?見た後しばらくは夜中にひきつけを起こすくらい強烈な印象だったのに」と思いました。かつてのあの救いがたい感覚、恐怖、暗さ、絶望が入り交じった感覚がわいてきません。その理由を少し考えてみました。
 耐震工事中のせいもあって展示場の面積が縮小されていること、明るい照明と快適な空調の展示室からは以前の生々しい悲惨な展示物が減り、逆に日記や手紙など間接的な資料が増えているように見受けられました。
 いっとき原爆の悲惨さを描いた漫画「はだしのゲン」が図書館の書架から撤去され、子どもの目に直接触れないようにした事件が話題になりました。学校では幼い子どもにそういう配慮も必要でしょう。しかし広島原爆資料館は長崎とともに原爆の悲惨さを伝える世界で唯一の施設です。いかにそれが正視しがたい残酷なものであっても、現実に起きたことをそのまま伝えること以外にこの資料館の存在理由はありません。
  ためらいながらも私は事務所を尋ね、担当の方に展示方法について上記のような印象をお伝えしました。人が焼けこげるニオイ、絶望が伝わってくる、かつての展示方法に戻すべきではないか、説明文ではなく展示物をしてみずからヒバクを語らしめるテクニックが貧弱なのではないか、と。しかし資料館の印象が薄くなった本当の原因は、展示方法のまずさもさることながら、194586日の灰燼に帰した広島も70余年の歳月とともにすっかり復興し、原爆の恐ろしいイメージも時代とともにすっかり風化してしまったことに依るのではないか、そんな気もしました。
 余談ですが、館内にはボランティアの「語り部」のおばちゃんがそこここにいて、おばちゃんどうし楽しげに談笑していました。声をかけると急に真面目モードになりよどみなく原爆被災の様子を生き生きと語ります。彼女たちは見たところ70歳代で直接被爆体験した世代ではないようです。意義ある生活をしている実感があるし、老化防止にぴったりのお仕事です。資料館の外の公園には被爆したアオギリの木があり、ここではおじさん語り部が原爆から生き残ったアオギリの説明をしていました。

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