2011年8月27日土曜日

織江の唄

お盆のころ3日間両親の介護を兄に任せて九州北部を訪ねてドライブしてきました。筑豊、伊万里、唐津、平戸、佐世保、有田、吉野ヶ里遺跡と駆け足で巡ったのですが、中でも五木寛之の小説「青春の門:筑豊編」の舞台となったかつての炭坑の町、田川は印象深いところでした。

今は田園風景が広がる田川ですが、田んぼの下には廃坑となった縦穴、横穴がモグラの巣のように広がっているそうです。三井田川鉱業所がそのままの形で「田川市立石炭・歴史博物館」になっていましたが、博物館がなければここが「筑豊」の中心地だったとは気付かないでしょう。

「青春の門」の主題歌で五木寛之自身が作詞した「織江の唄」。山崎ハコの哀愁漂う、やや投げやりな声の調子に昭和30年代の筑豊の悲しみが余すところなく込められています。歌に出てくる遠賀川、ボタ山、カラス峠、田川、香春岳(かわらだけ)などが博物館のテラスから遠くに近くに手にとるように見えました。

あまりに暗く、あまりに貧しく、あまりに悲しい昭和の物語です。いや炭坑の町、筑豊だけが貧しかったのではなく昭和という時代そのものが貧しかったのでしょうか? つい最近亡くなった日吉ミミは「恋人にふられたの、よくある話じゃないか…」と暗く歌っていたし、「十五、十六、十七と私の人生暗かった」と歌ったのは藤圭子(宇多田ヒカルの母)、「暗い目をしてすねていた弟よ」と歌ったのは内藤やす子。極めつけは「昭和枯れすすき」の「貧しさに負けた、いえ世間に負けた」でしょう。

でも昭和という時代は本当にこれらの歌に歌われたように暗かったのかというと、実際は所得倍増政策がとられ、高度成長経済を謳歌した時代でした。すでに貧しさから脱却しつつある自信があったからこそ思いっきり暗い歌を歌えたのかもしれません。

ところが東日本大震災後、いつまでも目に見えない不安が消えない放射能の影におびえる現代という時代にあって、はやり歌の歌詞を見ると「夢、希望、空、風、明日、未来、友達、勇気、力、信じる…」と歯の浮くような言葉のオンパレードです。皮肉にも現実が救いようのない時勢だから夢とか希望と歌っているのでしょう。今こそ暗い歌、悲しい歌、心に響く歌が欲しいと思います。
(織江の唄)
http://www.youtube.com/watch?v=hOGUHjdDPek

2011年8月15日月曜日

イディオシンクラシー


映画のワンシーン、ニューヨークのインテリ家庭。売れっ子詩人である才能豊かな妻に嫉妬する無能な亭主に妻が吐き捨てるように言います。「あなたのイディオシンクラシーにはもううんざりよ」。

idiosyncrasyとは辞書には「特異性、性癖」などと載っていますが、分かりやすい例を挙げると、例えば近所のおばあさんが毎日洗濯機を回しているが中に洗濯物はなくて水だけ回っている……。そういう意味不明の奇妙な性癖がイディオシンクラシーです。

当年65歳になる兄のイディオシンクラシーには親の介護を巡って私の悩みは深い。車を離れるとき決まってカーエアコンをOFFにする癖、食器棚の皿を変に並べ替える癖、なぜどうでもいいことにいちいちこだわるのか理解に苦しみます。そして94歳の父のために地デジ対応の大画面液晶テレビを購入したのが予期せぬ新たな悩みの始まりでした。

ハッとするほど美しい地デジ映像ですがさらに5種類ほど映像モードが選択できるようになっています。私には映像が抑え気味の[普通]がいちばん見やすいし、自然な色調で目が疲れないので目が弱ってきている父のためにも[普通]にしています。そもそも工場出荷時の設定がいちばんきれいな絵作りになっています。

ところが兄が帰ったあとは必ず画面がギラギラ、テカテカ。目が痛くなります。そう、憎っくき[ダイナミック・モード]に画質を変えているのです。そもそも兄が父のテレビなど見ているわけでもないのに何というおせっかい。本当にイライラ。

こうして[普通]→ [ダイナミック]→ [普通]→ [ダイナミック]とエンドレスの戦いが始まりました。何だか子供のころのチャンネル戦争の再来の観があります。ところが無限に続くと思われたこの戦争、意外な結末を迎えました。

私が父に[普通]と [ダイナミック]のどちらが見やすいか尋ねたら予想に反して「ダイナミックの方がきれい!」というのです。何だそうだったのか!、これからは私が兄をイラつかせる番です。私が介護を担当したあと[普通]にしておく、兄がイラついて[ダイナミック]に戻す……、でも以前との違いはイライラ作戦の主導権を持っているのは私です。

弟の私も相当イディオシンクラティックな人間でしょうか?

2011年7月25日月曜日

草食動物の勝機


 3月11日に東日本を襲った巨大地震と津波、そしてそれによって引き起こされた福島原発のメルトダウンという千年に一度あるかないかの大惨事に国全体が打ちひしがれているなか、なでしこジャパンがワールドカップで優勝するというこれまた百年に一度あるかないかの快挙はみごとでした。

 優勝候補のドイツ、スウェーデン、アメリカ人選手のあの高さ、あのガタイ、スピード、パワーをまえにしてか弱い“なでしこ”に勝機があるとはだれも想像していませんでした。

 ちょうどドイツ戦の前日、たまたまドイツの友人ウド君が私の誕生日祝いにメールをくれていたので、お礼の電話をかけました。ひととおりよもやま話をしたあと、ウド君が「ところで明日のサッカーの日独戦どう思う?」と聞いてきました。

 正直いって女子ワールドカップにほとんど注目していなかった私は返答に困りながらも、「身長差があれだけあるのははなはだ不利ではあるけれど、ドイツの選手は背の低いチーム相手の試合には慣れてないだろうから、その辺が日本にとって有利かもしれない…」などとコメントをしました。そして日本はそのように勝ち進みました。

圧倒的なパワーとスピードを誇る欧米チームに伍して金メダルに輝いたのはわが“なでしこ”。勝因をめぐってはいろいろ専門的な分析がなされていますが、私なりに考えてみると、欧米チーム対日本の戦いは肉食獣対草食獣との戦略の違いのようなものがあったのではないかということです。

 ライオンやチータなど肉食獣がサバンナで群れをなす草食獣に狙いをつけて忍び寄る光景。草食獣に勝ち目はないと思われるのですが、案外草食獣は機敏に方向転換を図りながら逃げ切ります。最初の一瞬を逃した肉食獣はすぐにスタミナ切れをおこして長追いはできません。

 ねばりにねばって延長戦に持ち込んで競り勝った日本の戦いぶりは理にかなったものだっと思います。映像的にもピッチの上で何か種類の違う2種類の競技が行われているような印象を受けました。

 こうしてみると来年のオリンピックに向けたアジア予選はある意味欧米チーム相手より手ごわいかもしれません。草食同士、おのずと戦術に工夫が要りそうです。

2011年7月13日水曜日

朝食ビュッフェ

 旅の楽しみはいろんな土地でいろんな食べものに出会うことに尽きるといっても過言ではありません。ところが国内でも国外でもホテルの朝食といえばセルフサービスのビュッフェと相場が決まっています。

所狭しと並べられた大皿は遠目にはどれも豪勢に見えるのですがいざ自分の皿にとって見るとベーコンエッグ、焼き飯、パン、サラダ、スパゲッティ、ワカサギの甘露煮、チンゲン菜のうま煮、シュウマイ、ライチ・・・と突飛な組み合わせの食材がゴテゴテ盛られ何だか食べる前から残飯状態です。

でも団塊世代の人間としては仕方ありません。子供時代ずっと食べるものに事欠いて育ったせいか大皿いっぱい並んでいる料理を見たらたちまち理性をなくしてしまい、経験的にはかなりの高級ホテルの朝食と言えども大したことはないと分かっているのに、とりあえずひととおり取ってみないと気がすまないのです。そして常に満足感なき満腹感とともにレストランを後にします。

それでもたまにはビュッフェで珍しいものに遭遇することがあります。先日台北のホテルで思いがけず生まれて初めてベーコン巻のマコモを食す機会がありました。タケノコとアスパラガスをミックスしたようなさっぱり味の珍味で、日本ではお目にかかったことがありません。大皿に20本ほどあったのを1人で3本もとってきました。

ノルウェーの小さなホテルでは朝食にニシンの酢漬けやスモークサーモン、ボイルした手長エビなどがハム、ソーセージ、チーズなどとともに並べられていました。そこの朝食は世界標準のビュッフェ料理とは一線を画す印象深いもので、ひとつひとつの素材に料理人の魂と土地の味がこもっているような気がしました。

日本の観光旅館のさりげない朝食も捨てがたい魅力があります。夜の宴会で名物料理をたらふく食べ最後は雑炊までかきこんで身動きならない状態のまま寝たというのに、朝になれば食欲は復活しています。

炊きたてのご飯にアジの干物、ノリ、卵、つくだ煮、味噌汁で構成された旅館の朝食をご飯一膳で済ますことは不可能。外食チェーン店のチリ産のサケを使った焼き魚定食とは比較にならない美味しさです。やはり素材のレベルが10倍ぐらい違うからだと思います。

2011年7月9日土曜日

古紙再生工場


 いつのまにか書斎や廊下に重苦しくたまる新聞や雑誌の山。さっさと資源ゴミ回収の日に捨ててしまえばいいのに、月1回の資源ゴミ回収日に合わせて段ボールを折りたたんだり、新聞をひもでくくるのはなかなか大変で山はどんどん成長します。

 そんなおり、耳寄りな話を聞きました。近所の製紙工場が段ボール、新聞紙、雑誌、雑紙、アルミ缶をいつでも引き取ってくれおまけにポイントまでくれるというのです。岡山市南区大福にあるアテナ製紙という古くからその場所にある製紙工場が行っているサービスです。

 アテナ製紙株式会社の沿革を見てみると昭和11年に同地に創業したそうで、私が子供のころは「日清製紙」という名前でした。“日清”というのは「日清製粉株式会社」の関連企業でそのような名前になったそうですが、地元の人は単に“製紙”と呼んでいました。

今は岡山市になっていますが、昔は“製紙”があったあたりは純然たる農村(都窪郡福田村)でした。“製紙”は村で唯一の近代産業工場で、村の財政にとって“製紙”がもたらす税収は少なくなかったと思います。ただ一般の村民には製紙工場との関わりはほとんどなく、広大な敷地は近寄りがたい場所でした。ところが時は流れ、今やエコの時代、“製紙”は一般人が資源ゴミを気軽に持ち込めるとてもありがたい場所に変身していました。

梅雨の晴れ間、車に新聞紙と段ボールを積み込み出かけてみました。初めてで要領が分からなかったのですが、受付の女性が手順を説明してくれ、現場では男性職員が懇切丁寧に指導してくれ無事ポイントカードも手に入りました。10キロの古紙で70ポイントget! 500ポイント貯まれば500円の商品券に交換してくれるそうです。

古新聞や段ボールが片付いてほっとしたところで缶コーヒーを買って飲みましたがこちらは120円。車のガソリン代などコストを計算すると少々のポイントでは割に合いません。

でも気になる資源ゴミを安心して任せられる場所にお返しでき気分は爽快。捨てるのがためらわれる雑誌やパンフレット類もこの工場にお任せしたらきれいな段ボールに生まれ変わるのだと思うとがぜんポイント集めに熱が入りそうです。

白夜と狂気、ムンク


 昨日は夏至でした。夕方5時過ぎ牛窓に行った帰り、薄曇りの天気の中、国道2号線を倉敷方向に向かって車を運転して、ふと今の時間太陽はどこにあるのだろうと思いました。しばらくして雲の間から現れた太陽は思いのほか高い位置にありました。さすがは夏至です。

 もうかなり昔のことですが夏至のころノルウェーを旅したことがあります。首都オスロではちゃんと夜があったのに対し北方のロフォーテン諸島は北極圏にあるため深夜零時を回っても外は明るいままでした。

といっても昼間の明るさとは違う陰影のない間接照明のような明るさです。深夜窓から入ってくるこの異様な光にさらされていると精神錯乱を起こすのではないかという気がし、ベッドから起き出して町に出てみると何だかにぎやか。過疎地の島なのに人々は町の中心に集まり白夜を騒いでは楽しんでいました。

白夜の季節太陽はいったいどういう動きをするのかというと、夕刻太陽は西の地平線に沈むのではなく地平線上を北の方向に水平に移動していき、やがて日付が変わるころ真北の地平線ぎりぎりのところで沈むと見せかけてそのまま今度は東に移動しつつ高度を上げていきます。つまり北の空で太陽は楕円の輪を描くようにぐるぐる回っているという感じでしょうか。

一年を通して東の空から昇りやがて西に沈む太陽しか知らない日本人の私にはロマンチックな白夜もなんだか空恐ろしく不気味なものに感じられました。いや日本人だけでなくノルウェーの人々にとってもあの沈まない太陽は狂気を誘う存在ではないか? オスロ市立美術館を訪ねて「叫び」をはじめおびただしいムンクの傑作を見たときそう思いました。

ムンクが描く太陽はギラギラした光線を意地悪く放射するだけで、四季折々暖かく、情熱的に、穏やかに、さわやかに大地を照らす日本の太陽ではありません。でもなぜか日本人はムンクが大好き、毎年どこかの美術館でムンク展をやっています。これは日本人にも極北の白夜の下で暮らしていた民族の血がいくらか流れているせいかもしれませんね。

8月まで東京の出光美術館においてオスロ市立美術館蔵のムンクが3点見られるようです。http://www.idemitsu.co.jp/museum/honkan/index.html

2011年7月1日金曜日

父の本音

3泊4日で台北に行ってきました。短期間の旅行でも高齢の両親を病院に預け、留守番の12匹の猫たちに餌、水を十分与え、また締め切った家の中で熱中症にならないように空調にも気を使い、戸締りその他万事OKであることを確認して関西空港へ向かいました。それでも新幹線が岡山駅を出てまもなく台所においてある糠床を冷蔵庫に入れるのを忘れていることに気付きましたが時すでに遅しです。

一事が万事、気になることをあれこれ気にしていては旅になど出られません。父は私の旅行に異議は唱えませんがきっと心の中で「あのバカ息子は親を病院に放り込んでおいて台湾とはけっこうなことですな」と言っているに違いありません。

台北では特に行きたいところも見たいものもなく、ただ街に溶け込んで骨休めにつとめました。泊まったホテルの隣に北京ダックの有名店があったので友人と2人で出かけました。

日本で食べる北京ダックは皮はほんのちょっぴり、味など分かりません。しかしさすがは本場、ローストされたアヒル一匹丸ごと持ってきて見せて「これをさばいてきます」といったん退場。ほどなく大皿の上にきれいに並べられた皮と薄餅(バオビン)、ネギ、味噌ダレがやってきました。さっそくひと口。「うーむ」。

正直言ってフグのミリン干しの方が美味かな?などと思いつつ、大の男2人黙々とノルマを果たしていると今度は肉がドーンと運ばれてきました。皮だけでも食べきれないのにとんでもない誤算でした。

楽しい時間はすぐに過ぎ去り猫12匹が待つ家に帰りました。猫たちは私の不在に腹を立てているようすもなくあくびしながら「どこか行ってたの?」という顔でお出迎え。そして翌日両親を迎えに病院に行きました。

私の到着を待ちながら父は看護師さんたちに私のことをしゃべっていました。たぶん「孝行息子さんを持ってしあわせですね」ぐらいのことを言われたのでしょう。父は「バカ親から生まれたバカ息子じゃ」などと本音らしきことを看護婦さんたちに漏らしていました。

私が「どこのバカ息子の話?」と言いながら病室に入って言ったら、それでもうれしそうに「やっと来てくれたのか」と生き返ったような顔になりました。

2011年6月21日火曜日

害獣動物園

体中あちこちかゆくてたまりません。庭の椿に毛虫が大発生したのを放置していたら1週間もしないうちにやつらは葉を食い尽くし、椿の大木は枯れ木のような哀れな姿を梅雨空にさらしています。

毛虫といえども無闇な殺生はしたくない私の優しさ(決断力のなさ)が災いしたと思い知らされ、遅ればせながら殺虫剤を散布し家の中に入って昼寝しました。

なんだか変。首筋がチクチクすると思って起きてみたらシャツの上を毛虫が3,4匹ぞろぞろはっているではありませんか。表だけでなくシャツと肌の間に入り込んでいるのもいます。殺虫剤をお見舞いしたことに対する彼らのリベンジは手強く、風呂に入って全身の毒毛を洗い流してやっと一息つきました。

夜、猫のちびちゃんが天井を見上げて大興奮。私には何も聞こえないし見えないのにちびちゃんは何かを感知しています。と、ちびちゃんがテレビの上に飛び乗りそこを足場に本棚の上板にジャンプ。そして長押伝いに天井近くを移動しながら5センチほどのヤモリを捕まえて降りてきました。

ヤモリは特に悪さをするわけではないのですがちびちゃんの野生の本能を大いにくすぐるらしく散々いたぶり回しています。あわててちびちゃんからぐったり仮死状態になったヤモリを取り上げ窓の隙間から庭に逃がしてやりました。

夜中またもガサゴソと怪しい音に目が覚めました。視野の片隅にウルトラマンに出てくる昆虫のような触手をもった巨大怪獣が登場。人間より大きい怪獣の出現に私は「これは夢に違いない。何かの悪夢だろう」と思っていったん目を閉じたもののすぐに我に返って飛び起きました。

巨大怪獣の正体は目の横3センチに迫った大ムカデでした。こんな化け物に目玉をやられたら間違いなく失明します。事実昨年も梅雨の時期寝ていてムカデにやられ、手がグローブのように腫れ上がり大変な思いをしました。

天井裏には正体不明の大型動物か魔物が生息している気配がします。そして屋外の電気温水器は野良猫の寝床に。しとしと雨の降る夜、我が家はさながら害獣動物園です。何とか手を打たなくてはと思いつつも梅雨があけて彼らが出ていってくれるのをただ待つだけの日々です。

2011年6月16日木曜日

旅芸人パオロ

先日東京に行った帰り、岡山行きの飛行機に乗りました。隣には白人の中年男がTシャツ姿で座っていました。日本人同士なら見知らぬ隣人とお互い取り立てて話なんかしないものですが、外国では飛行機や列車で隣り合わせた人とはあいさつ程度の会話をするのはマナーで、日本でも外人さんの横で黙っているのは妙に落ち着かないものです。

離陸してまもなく、お茶が配られるころ隣人は私に日本語で「寒い」と話しかけながらバッグからしゃれたシャツを取り出して着始めました。私も「ナイス・シャーツ!」と言葉を返しそこから会話が始まりました。聞けば翌日倉敷でシャンソンを歌うというのでコンサートかと思って聞き返したらそうではなく、天満屋倉敷店で開催中のイタリアン・フェアーで歌うとのことでした。

シャンソンを歌うというのでフランス人かと思ったのですが、モナコ生まれで当年60歳、パオロと名のり、在日40年の波乱に満ちた半生記を岡山空港に着くまでの小1時間興味深く聞かせてもらいました。

「バブル絶頂期のころ初めて日本に来て毎晩赤坂のコパカバーナでシャンソンやカンツォーネを歌っていたよ。ギャラのほかにお客さんが気前よくチップをくれるんだ、一晩で20万、30万になったよ。それが今じゃリヤン(nothing)! ゼロさ」。

「今は2度目の妻とのあいだに女の子がいて27歳になる。最初の妻とは出会ってすぐ結婚して、毎日ケンカしてすぐ別れた。お互い若すぎたせいだろう。今のとは平和だよ」。バブルのころ日本人ギャルがガイジンさんにまぶれついていた(岡山弁?)光景が目に浮かびます。

「ところで社長さんは何の仕事をしているんだい?」。「社長さん」という言葉にバブルの余韻があります。「両方とも90を過ぎた親の介護をしている。それで時々こうして東京へ息抜きに行ってるんだよ」。

「そうか、介護は金がかかるから大変だな。うちも女房の親の介護で金は出ていくばかりさ」。ラテン気質まるだしで右手をふところに突っ込んでは出し突っ込んでは出しして金が逃げていく仕草をします。

かつてコパカバーナでブイブイ言わせていた伊達男も昨日は長崎、今日は倉敷とギターを抱えて旅暮らし。「お互い今が正念場。がんばろうね」と言って別れました。

2011年6月9日木曜日

コーヒー

学生時代以来還暦をとうに過ぎた現在までわが人生で一貫しているのはコーヒーに対する度を過ぎた執着です。銘柄やいれ方にこだわる“通”なんかではなくインスタントでもおばちゃん喫茶のモーニングでも何でもOK。でもフレンチローストのような濃いコーヒーかエスプレッソがあればいっそうしあわせです。

1日に7、8杯飲むとしてこれまでの40年間で10万杯のコーヒーが貴重な時間とともに胃袋の中に流れていった勘定になります。

適度な量の酒は体によいというのが通説ですが、コーヒーはいったい体にいいのか悪いのか、もし悪いのならすでに相当健康を害しているはずですが胃腸はいたって快調。こころの健康にとっても必須です。

そんな楽観論を裏付ける研究が最近アメリカの権威ある医学誌に掲載されました。(Wilson, Kathryn : Journal of the National Cancer Institute, May 17, 2011)

論文の要旨は1日に1~3杯のコーヒーを飲む男性は前立腺ガンになるリスクが全然飲まない人に比べて30%減るというもの。しかも6杯飲んだらリスクが60%も減るというおよそ学術論文としてはにわかには信じがたい内容です。しかしコーヒー中毒の私には願ってもない朗報であることに違いありません。

今まで、過度のカフェイン摂取は本当は体によくないのではないかと密かに心配していたのですが、コーヒーには体に害をなす要素はとくにないばかりか中高年男性にとって一番の気がかりである前立腺ガンを予防するというのですからますます喫茶店通いに拍車がかかります。

むかしパリによく行っていたころかの地でもカフェは私にとって唯一快適な居場所でした。歩道にはみだしたテーブルでデミタスを飲みながら絵はがきを書くけだるい愉楽。とどのつまり、才能や名声、富に恵まれていようがいまいが人生の究極のしあわせとはこういう瞬間にあるのではないかといつも実感します。

今ふるさとの岡山に住んでいてほとんど毎日、ときには午前と午後の2回出かけるのが岡山市南区妹尾崎にある喫茶店ロッキーマックスです。マドモアゼルがいれてくれる1杯のエスプレッソ。すっかり忘れていた若き日のなつかしい記憶が次から次ぎへと脳裏によみがえってきます。閑雅な午後のコーヒータイムです。