2012年3月1日木曜日

世にも不思議な物語


子どものころ「世にも不思議な物語」というアメリカ製の実話っぽい怪奇テレビドラマがありました。タイタニック号には進水時から不吉な前兆があった話や天国に行った男の話など今でもよく覚えています。天国ではギャンブルは負け知らず、女性にはもてもて、すべて意のままです。しかしギャンブルや恋の結末が最初から分かっていては全然楽しくありません。そう、そこは天国という名の地獄だったのです。

こんな話もありました。少年がある場所を通るとき、きまって体にかすかな電気のような衝撃を感じていました。ある日興味本位にいつものピリッと電気が走る場所で立ち止まります。すると少年は異次元の世界にワープしてしまいます。そこがあの世の入り口だったのですね。

小学生のころ、いつも通る切り通しが私にとってそういう場所でした。学校帰りにそこでは決して立ち止まらないように注意したものです。学校と家の中間点にあるその切り通しにかかると今まで見えていた学校が見えなくなる一方、まだ我が家は視野に入ってきません。そこが危ない。学校と自宅という現実世界がともに見えなくなる場所で魔物は巧妙に現実の風景そっくりのセットを切り通しの向こう側に用意し、私を欺き誘拐しようとしている……。

大人になってからはあまりこうしたシュールな恐怖感に苦しめられることはなくなりました。しかし先日の午後、久しぶりにマンションの部屋を片づけていたときのことです。戸棚から昔買った高級ウィスキーが出てきたのでストレートでコップ3分の1ほど飲みました。久しぶりの酒はよく効きます。

夕方には2キロほど離れた実家に帰って両親の食事の世話や痰の吸引をしなければならないというのに酒が入っていては車の運転ができません。結局タクシーで移動したような気がするのですが……。

確かに実家で両親に夕食も食べさせたのに何か変です。醒めることのない夢の中にいるような気分。本当は車を運転して事故ったのでは? 自分はあの日死んでしまったのではないか、今本当に生きているのかどうかどうやったら確かめられるのだろう。今こうして生きているつもりの私は現実の自分なのか。よく分からない……。よく分からないのに税金の確定申告書なんか作っています。

たて続く判決ニュース


 法律に関してはずぶの素人ですが裁判員裁判が始まっていらい大きな事件の結末がどうなったか、少しは新制度の特質が発揮されてきているのかいつも注目しています。

 最近あった最高裁判決ですが、成田空港に覚醒剤を持ち込もうとして逮捕された男の無罪が確定したという事例です。事件の経過は省略しますが一審の千葉地裁の裁判員裁判では無罪。しかし高等裁判所は一審とは逆に有罪。ところが最高裁は裁判員裁判の結果を尊重し、男の無罪が確定したというものです。

 高裁のプロの判事たちの目にはおそらく経験的にこの被告はクロという心証があったのでしょう。しかし最高裁は高裁の役割を明確化し、高裁は地裁の裁判手続きや審理過程に過ちがなかったかどうか、証拠類を正当に評価したかどうかなどをチェックするのが高裁の役割であるとしました。つまりは一審重視の流れが見えてきたのです。

 最高裁にしてみればせっかく導入した裁判員裁判の判決をプロ(職業裁判官)がいとも簡単に否定する事例が続いたら、市民はあほらしくて時間的、精神的負担が大きい裁判員制度にそっぽをむくようになることをおそれたのではないかと思います。

 山口・光母子殺害事件。事件発生当時からニュースを見るのもおぞましかった事件の犯人、元少年の死刑が確定しました。事件の特異性、弁護のあり方、少年法の問題などさまざまな問題が議論されましたが、なんといっても世間の注目を浴びたのは被害者母子の夫であった本村洋さんのすさまじいばかりの執念でした。ドストエフスキーの世界に迷い込んだような錯覚を覚えたものです。

 20代半ばにも達していなかった本村さんはひるむことなく、被告の人権はあっても被害者の人権などなきに等しかった刑事事件のありようを根本的に変えさせました。いままで被害者は検事にすべてをまかす以外法廷での発言権がなかったのです。もし本村さんの司法への戦いがなかったら、地裁、高裁が判断した相場どおり(永山基準)の無期懲役で終わったと思います。

今後はこんな残虐で途方もない問題をはらんだ事件の裁判にも市民が参加しないといけません。被告の悲しい生い立ちなどを聞いたらすぐにぐらついてしまう私など裁判員はつとまらないと思いました。 

我流と美学の相克(おおげさ?)


 このごろイキのいいママカリをスーパーの鮮魚コーナーでよく見かけます。ママカリは自分で作った酢漬けが一番、すでに酢漬けになった加工品は調味液に食酢と塩以外にも何か入っているようであまり好きではありません。

 下準備としてまず包丁でうろこを落とし、次に頭と小骨が多い腹をそぎ落とします。問題はこの頭と腹を切る方法です。小魚と言っても20匹もいると手順を上手にやらないと時間がかかるし美的にも減点です。

右利きの私はママカリの頭が右、腹が向こう側になるようにして、包丁で頭を落とし、ママカリを90度時計回りに回転させ(つまり縦向きに)、右手の包丁で腹を肛門からえら方向にはねて落とします。

ここでいつも悩むのは割烹の精神、あるいは美学から言って、小魚といえども、そして調理段階といえども、魚を一瞬でも腹を向こう側に向けたり頭を右にするような作法があるのかどうか、果たしてそういう処理の仕方は許されるのかと悩みます。

もちろん頭は右、しかし腹は手前に置いてもできないことはないのですが、作業にリズム感が出ません。「そんなことどうでもかまわない、好きにしたら」と言われそうですが、プロの技はどうなのか気になります。なぜこんなことを気にする性分になったかというと、遠い昔、小学校の4年か5年のころ教師から受けた叱責がいまだに忘れられないからです。

習字の墨を摺るのに手間がかかるのがめんどうで一工夫しました。文鎮で硯に5ミリ幅の傷を何本もつけて硯の表面をザラザラにしたのです。それを見つけた女性教師が何でそんないたずらをするのかと追求するので理由を説明したら、「それがいい工夫ならはじめから硯に傷がついてます!」と怒られました。

「そうかなあ?」。自説を信じること数十年、最近テレビで、硯も墨をすっているうちに表面がツルツルになり摺れなくなるので表面をザラザラに研ぐといい、というのを聞いて溜飲を下げました。でも先生はきっと私の行為に不純な動機、何か美的でない、伝統に背くにおいを嗅ぎ取られたのでしょう。(心を静めて無心に墨をするのが書道です)

ママカリの頭を落とすのにこれがベストと思う方法でやりつつもなお50年前の先生のあきれ顔がちらつきます。道の奥は深いです。

2012年2月13日月曜日

妹尾の火事


 外出中、テレビニュースを何気なく聞いていたら、JR瀬戸大橋線が妹尾駅付近で発生した火災のため運転を休止していると伝えていました。私が住んでいるマンションがまさに妹尾駅前にあり、ひょっとして電気ストーブでもつけっぱなしにして外出して我が家が火元になっているのではないかと真っ青になりました。

 あわてて帰ってみると火事が起きたのは近所のアパートでした。昼間の火災でしたが狭い路地しかない妹尾では消火活動も自由にできずアパートは全焼し、住人のお年寄りが1人行方不明になっています。

 火事の現場となった岡山市南区妹尾は江戸時代の町割りがそのまま現代に続いていて、とにかく道が狭くメイン・ストリートですら車のすれ違いが困難です。まして道幅1メートル半ほどの裏通りに救急車や消防車が入っていくことは不可能。消失したアパートがもし広い道に面していて消防車が自由に近づけていたらあそこまでひどい燃え方はしなかったのではないかと残念です。

 1971年に旧都窪郡妹尾町は吉備町、福田村などとともに岡山市と合併しました。隣の早島町は今現在でも独立した町制を保っています。早島町がその後開通した国道2号線バイパスに直結する道路を何本も整備したのと対照的に合併後の妹尾、吉備、福田地区は大規模な都市基盤整備がなされないまま40年が過ぎました。これら地域にはいまだに図書館すらありません。何のための市町村合併だったのかと思います。

 町や村が市と合併するということは町村議会を失うことを意味し、その地域において主体的に行政課題を掘り起こし解決する機能を放棄したのと同じことです。地区から1人か2人市会議員が出ていても彼らは都市基盤を根本的に見直すビジョンを始めからもっていないし、また市を動かすだけの力もありません。早島町民の賢い選択がいまさらながらうらやましい限りです。

 中世の町並みがそのまま残っている妹尾の町は住民の誇りでもありますが、そこで生活している人々は1年365日狭い道で車の頭をぶつけてにらみあいしなければなりません。

今回のアパートの火事はさいわいなことに類焼をまぬかれました。しかし妹尾町内全域が炎上する火災がもし起きてもなすすべがないのは火を見るよりあきらかなことです。

貿易赤字転落


 戦後奇跡の大発展をとげた日本経済ですがバブル崩壊以降すっかり潮流が変わってしまいました。小手先の経済刺激策が取られるたびに市場はいっとき小康状態になるもののそのあと必ず冷や水をぶっかけられ青息吐息になるのが昨今の情勢です。

ライブドアショック、リーマンショック、ギリシャの破綻、ユーロ危機、東北大震災、タイの洪水、マニフェスト違反の消費税増税議論、イラン制裁にともなう原油不足……。

これだけジャブを浴びせかけられてもなお高い技術力神話に支えられてきた日本経済は今しばらくもちこたえるのではないかと楽観的だった私も、貿易収支が31年ぶりに赤字に転落したというニュースを聞いては楽観論をひっこめざるを得ない気分になりました。

思い返せば、大学生活を終えそろそろ就職しないといけないなと考えはじめていた1972年ごろ、欧米ではすでに週休2日制が定着し、ヨーロッパではだれでも夏のバカンスの4週間5週間を海や山で楽しむのは当たり前でした。実際真夏のパリでは商店やレストランが軒並み閉まっているのに閉口したものです。「バカンス中につき休業、9月15日から再開します」などという“ちばけた”張り紙が誇らしげにドアに貼られていたものです。

そのころ日本はどうだったかというと、4週5休とか隔週土曜日を交代で休むなどというけちくさい“週休2日制”が試行されはじめたころで、まさかその後完全週休2日制が企業だけでなく学校にまで及ぶとは夢にも思っていませんでした。

しかし、週休2日制が定着したころから日本が根本的に変質し始めたような気がします。かつて効率よく外貨をかせいでいた製造業が斜陽化し、代わって旅行、飲食、通信、ゲーム、大規模小売業、医療・介護、冠婚葬祭など消費・サービス型産業がメインになってきました。

学校教育も大学進学率は増えても大学生の学力水準は低下する一方です。学校教育から競争性を排除した“ゆとり教育”の最大の被害者がほかならぬ東京大学で、いまごろあわてて9月入学を実現して国際水準に追いつこうとしていますがどうでしょうか。モノづくりをやめ教育にまで“ゆとり”などという低い目標を設定してやってきたあげくの果ての貿易赤字転落は歴史の必然です。

上海メモラビリア

  NHKのラジオ講座を頼りに中国語の勉強を始めてもう数年になります。還暦を過ぎての外国語学習は若かったころのようにすんなりといかないのは仕方ないですが、それにしても努力の割にちっとも成果があがらないのは不思議なことです。

地下鉄車内であれ路上であれ機関銃を「ダダダダダッ」と撃ちまくるような中国人の会話は私にはほんの短いやりとりすら聞き取れません。彼らはいったい何を話題にしているのだろう?しゃべっていることの内容が分からない会話はいっそう興味をそそります。

一方で、話したり聞いたりは絶望的であっても中国語の読解の方は何とかなりそうな気がします。辞典を片手にパズルを解く感覚で読んでいけばいいのですから。さて何を読むかですが、長編小説などは荷が重すぎます。やはり現代の文筆家の手になる短編集やエッセイが量的にも無難です。

最近中国人としては異例のみずみずしい感性にあふれた女性のエッセイ集に出会いました。陳丹燕(ちん・たんえん)の「上海メモラビリア」(草思社、2003)というエッセイ集です。1958年生まれの彼女は多感な少女時代に文化大革命にも遭遇しているし、現代の最先端都市上海がまだドブ臭かったころの記憶が残っている世代です。さっそく中国語の原著を探しだし、手元にある日本語訳の助けを借りながら読んでいくことにしました。

まず読むべき箇所と量を決めて、新出語句を辞典で調べます。多義語の中から適切な語義を選択するのが大変困難。やっかいなことに単語の意味は何とか分かっても文章として意味がすっきり理解できることはめったにありません。が、しかしここが大学受験英語で磨いた腕の見せ所で、ちょっと文字面を見る目を離して全体の意味を想像します。「こんなとこだろう」と自分なりに解釈できた時点で訳本を見ます。

「上海メモラビリア」を読んで、素敵なカフェやレストラン、因縁めいた横町やオールド上海の面影を残しているところが随所にあることが分かりました。今度上海にいったら私も少しディープな上海を探索しようと思います。原題は「上海的風花雪月」。「風花雪月」とは「花鳥風月」のことです。日本語では「雪」が「鳥」に代わっていますね。

2012年1月22日日曜日

老衰した人の栄養摂取

   いきなり“老衰した人”などという不的確な言葉を使うのは他にいい言葉が見つからないからですが、どんなイメージかというと超高齢になって食が細くなり、ごちそうを楽しもうにも入れ歯では十分噛む力がないうえに、もはや具体的に何をどのような調理法で食べたいか訴えることもなくなった状態です。

94歳になる私の父がこんな感じですが、これ以上栄養状態が悪化すると一挙に老衰がすすみやがて多臓器不全という最悪の結末が待っています。何とかして食べてもらわないと。ふつうの食べ物はもはや弱った咀嚼力と借り物の歯ではまとまった量を食べることができず、いろいろ試行錯誤した結果ミキサー食が一番いいということが判明しました。

どんな料理もミキサーにかけるとどろっとした不気味な濃いスープのような代物になり、とてもじゃないけど見た目食欲がわきません。ところが意外にも父はけっこうおいしそうに食べてくれるのです。ミキサー食の中にご飯やジャガイモなども入れているので、ほかに主食やおかずはなくても老人に必要な栄養やカロリーは摂取できる計算です。

でもミキサー食だけの食卓では味気ないので、茶碗にもご飯をよそおい、豆腐やサラダ、温泉たまご、デザートにプリンやヤクルトなども添えてミキサー食のグロテスクさが目立たないよう工夫しています。

ところで、父はこのごろスプーンを持ち上げるのさえめんどうがり、私が見ていないと何とヤクルトの小さなストローをミキサー食や豆腐に突き刺してチューチュー吸い込もうとしているのです。

 しかし、父のなさけない姿を見ていてある日気付きました。「そうか、人間は年を取ると子供に返るというけれど、今や父は赤ちゃんにまで戻って母親のおっぱいに吸い付いている気分なんだ」と。

 歯の生えていない赤ちゃんは生まれ落ちたその瞬間、誰に教えられることなくものすごい力でおっぱいを吸います。人間に最後まで残るのがこの吸引パワーであることをはからずも父が教えてくれました。ストローなら誤燕しないことも驚異的。

 ではもっと遡って胎児にまで戻ると…そう、へその緒です。寝たきりの母が今その段階です。胃ろうというへその緒で理想的な栄養を摂取しています。不幸せ?いや幸せです。

タイで風邪をひく

   今年はインフルエンザが大流行しているわけでもないのに、知り合いに風邪引きが多いことに気づきました。風邪をひいている友人たちはそろって医者嫌い。罹ってから1ヶ月も長引かせていること、みんな60代半ばという共通点があります。電話口から彼らの鼻声が聞こえてくると私は口を酸っぱくして、医者へ行け、それも内科より耳鼻咽喉科の方がいい、とアドバイスしています。

そういう私も正月明け、たまの息抜きにと思って出かけたバンコクで風邪を引いてしまいました。熱帯のバンコクでは商店もホテルも冷房がよくきいているのですが、その冷やし方が半端じゃありません。とりわけマッサージ屋では冷房を思いっきりきかせていて、いくら「寒い」と言っても聞き入れてもらえません。

確かに文句を言ったときは温度を上げたりスイッチを切ってくれるのですが、すぐにまた冷房が最強になっています。それはそうでしょう、こちらはほとんど裸で横たわっているだけなのにマッサージ師は大変な重労働で施術中暑く感じるのは当然です。強ばった筋肉をほぐしてもらうためのマッサージなのにかえって自律神経失調症になりそうです。

同じマッサージでも王宮前広場の緑地などで営業している青空マッサージはとても快適。中年のおばさんがゴザをひろげて観光客に声をかけています。清潔感に多少欠けるものがあるとはいえ涼しい風が通り抜けていく芝生の上のマッサージは極楽です。お値段は1時間100バーツ。たったの250円です。

それはともかく90分の極寒マッサージから解放されるころには体は芯まで冷え切って何かやばい感じがしました。こうなっては舌がしびれるようなグリーンカレーを食べ、トウガラシで赤く染まったトムヤンクン(スープ)を流し込んでタラタラ汗をかいても手遅れです。

風邪は体の中に蓄積した矛盾を解消するために体が必要としているプロセスなのでときおり風邪をひくことは健康な証拠だという説を聞いたことがあります。そういう意味では私の友人たちのように風邪と1ヶ月つきあってもいいのですが、在宅介護をしている身としては超高齢者に風邪をうつすことは避けなければなりません。毎年1度か2度必ずお世話になっている耳鼻科の先生にこれから診てもらうことにします。

2011年12月15日木曜日

母ゆずり


介護生活も12年目を迎え、この夏、誕生日がくれば父は95歳、母93歳、そして私は64歳になります。父は相変わらず、死が避けがたい現実であることを絶対認めず、体は年々次第に弱ってもう自力ではイスからベッドへ移動することもできないくせに「自転車はまだ乗るから捨てるな」と口だけは達者です。

文学少女だった母は若いころからおりにふれエッセイを書きためていましたが、70代の終わりごろから認知症が徐々に進み始め、80歳のとき、岡山女子師範学校の国語教師だったN先生への追悼文を書いたのが最後のエッセイになりました。

現在でもこじゃれた文章などで「山が笑う」という比喩にお目にかかることがよくあります。母が女学生時代、あこがれのN先生の授業でのこと。「山が笑う」という漢文の一句にみんなが感心するなか母は「山がゲタゲタ笑うなんてナンセンス」と抗議。「そうか、ふーん、アハハハハ」、先生は大声で笑われた、と最後の記憶をふりしぼってN先生追想集に言葉を寄せています。

話変わって私自身のこと。昨年は牛窓の「てれやカフェ」で文芸学の第一人者である西郷竹彦先生から直々に石川啄木、宮沢賢治、夏目漱石、森鷗外の名品を例に西郷文芸学の手ほどきを受けました。まもなく92歳になられる先生ですが、いささかの衰えもなく理路整然と作品を分析・解説され、生徒にもちゃんと考えることを要求されます。

鷗外の「山椒大夫」を読んだときのことです。厨子王が盲目の母と佐渡で再会を果たす感動的な場面。「安寿恋しや、ほうやれほ。厨子王恋しや、ほうやれほ」と鳥を追い払いながらつぶやいている母の前にうつ伏す厨子王。「その時干した貝が水にほとびるように、両方の目に潤いが出た」と鷗外は母の様子を描写しています。私は異議を唱えました。

「イメージとして分からないこともないが、干した貝が水を得てほとびるというのは目の比喩としてちょっと変じゃないですか」と。先生は「君はつまらないことに引っかかるなあ」と笑っておられましたが、いくら名作中の名作といわれる作品でも陳腐な言い回しには「ナンセンス」と言わずにはおれないところは我が母ゆずりです。両親には今年も元気で過ごしてもらいたいと願わずにはいられません。
  

2011年も終わりに

   年々、一年が過ぎていくのが早くなっているような気がするのはいつものことですが、今年に限っては若い世代の人々も同じようなことを言います。なぜあっという間に一年が過ぎてしまった気がするのか、その理由をちょっと考えてみました。

千年に一度の大震災と原発爆発という日本の歴史上かつてなかった大惨事が3月に東日本で起きて以来、首相交代程度のつまらないニュースにはいちいち心が動かなくなりました。いわば空前絶後の悲惨な事態を前にして、ほかのいっさいのことがかすんでしまい、まるで記憶に残るような大きな事件は何もなかったかのような錯覚におちいってしまった、これが日本人に共通した心理状態ではないでしょうか。こんなとき時間は駆け足でむなしく過ぎていきます。

狂ってしまった時間感覚を正常に戻すためには、震災からの復興と原発に対して今後どう対処していくのか国民が覚悟を決めることが一番だと思います。政府と東電が脱原発に対してはっきりした方針を示さないまま場当たり的な事故収束に明け暮れるなか、年末になって地方が動き始めました。

福島県の佐藤知事は11月30日に記者会見を開き「国と東電に対して、県内の原発10基すべての廃炉を求める」と復興計画に明記することを発表。大英断です。知事の決断に先立って10月、県議会が全原発廃炉の誓願を賛成多数で議決していますので福島県民の決意はほんものです。

私は内心、いったん原発マネー依存体質になったら、例え今回のような重大事故が起きても全廃に踏み切ることは困難ではないかと思っていたのですが、県民総意で全廃を打ち出したところに福島の深い絶望と再生への希望を見る思いがします。

一方、原発銀座と呼ばれる福井県は福島ほど危機感がないのか、高速増殖炉「もんじゅ」の廃炉を除いて、脱原発の話は聞こえてきません。しかし関電の筆頭株主でもある大阪市長に市民の圧倒的な支持を得て橋下徹氏が当選し、記者会見で橋下さんは株主の権利を行使して関電に脱原発を求めていくと話しています。

主体的に動かない政府と東電に対しこれら地元が明確な態度を表明したことで、やっと狂った時計がまた正常な時を刻むようになった気がします。来年に希望がでてきました。