2022年12月26日月曜日

インプラントその後

インプラントの人工歯根を埋め込むための手術を大学病院の口腔外科で受けてきました。私の場合、人工歯根を支えるだけの骨の厚みが不足していたので、人工骨で歯槽骨をかさ上げし、そこに人工歯根を埋入するというかなり大がかりな手術でした。

所要時間はたっぷり2時間。麻酔を打ちその後は口を大きく開けたままにしておくのですが、助手をつとめるシニア・レジデントの学生さんが金具で頬をずうっと引っ張り続けます。歯茎を切開する痛みは麻酔で消されているのに対し、頬に金具が当たる痛みは相当のもの。「頬が痛いのですが……」と申し出たら、先生は何と頬に麻酔をチュチュッと打たれるではありませんか!「こんな対処の仕方もありなの!?」

歯科の診療台の周囲には手術を担当している教授のほかにインプラント科の教授、レジデントや学生さんが34人見学しています。ガリガリガリと歯茎の中の骨が削られる音を聞きながら、ふと困った感覚が、最初は遠雷のように、そして次の瞬間にはすぐそこまで迫ってきました。トイレです。

「すみません、トイレに行かせてください」-「あとどのくらいがまんできますか?」

「漏れそうです」-「じゃあトイレに行ったらすぐ帰ってきてくださいね」

衆人環視の中でこういう会話をするのはなかなか非日常感が伴いますが、自然の要求には抵抗できません。白内障の手術では紙おむつをはかされるそうで、それに比べればまだマシ、トイレに行くくらいどうということはないとも言えます。

人工歯根の埋め込み作業も終わり、口腔外科の先生は額に汗を光らせながら30針とも40針とも数え切れないぐらい傷口を縫っていかれます。耐え難い時間。その日は病院に1泊して翌日帰宅しました。しかし本当の地獄はむしろ退院してから23日後に訪れました。頬の腫れが尋常ではないのです。

目も開かないほどの腫れが術後1週間も居座り、いやはや。インプラントのメリットは絶大ですが、難しい部位へのインプラントは歯科医師と十分話しあって、決して無理をしてまで強行すべきではないと思いました。後は人工骨がうまく定着することを祈るのみです。

2022年11月13日日曜日

インプラント手術で顔がパンパン

 春に抜歯した右上奥歯があった場所にインプラントの人工歯根を埋入する手術を受けました。大学病院に1泊しての大変な手術でした。上の歯の歯茎は副鼻腔までの距離がとても薄く、口腔外科の先生が先ず歯槽骨の増量かさ上げの処置をし、引き続きインプラント科の先生が歯根埋入されました。

退院後、2日3日と日にちが経過するにつれ、顔の腫れが信じられないぐらいパンパンに。そろそろ引き始めてくれないと、外出もままならないです。




2022年11月2日水曜日

岡山大学学長、槇野博史君

今年1月ごろ右上の奥歯が原因で副鼻腔にまで炎症が拡がり大変なことになりました。かかりつけの歯科医さんで抜歯してもらったところ炎症は劇的に改善したのですが、その後のインプラント処置は大学病院にお願いした方がいいということで、岡山大学病院のインプラント科を紹介していただきました。

担当のK教授は気さくな方で腰が低く「白い巨塔」の財前教授とは正反対、私のおしゃべりにもちゃんと応じてくださいます。それをいいことに、最初の診察のとき、年齢を聞かれた際に、「74歳です。学長の槇野君と同じ年です」と、それとなく(えっ、見え見えですか?)槇野学長と親しいことをアピール。我ながら本当にいやな性格です。

「学長とお知り合いですか?」 待ってました、そう来なくちゃ。「中学校時代の幼なじみなんですよ。あさってはコロナ以来初めての飲み会があって久しぶりに会う予定です」。K教授は「驚きましたねえ、学長先生のお友達ですか」と相づちを打ってくれました。謹厳実直な先生なら「それが何か?」と返されても仕方ない場面です。

実は中学校時代の3年間、1学年5クラスあったのですが、槇野君とは同じクラスになったことはなく、いっしょに遊んだり勉強したりするような仲ではありませんでした。高校、大学も別々。ただ大人になってから同窓会や同期のメンバーで作っているメーリングリストを通じて交際してきたというのが実状です。

槇野君は高校時代に当時としては日本の高校生がアメリカに留学できるほとんど唯一の機会だったAFSの選考試験に合格し、アメリカの地方都市で1年間を過ごした経験をお持ちです。岡山県全体でも1学年に2、3人の超難関試験だったと思います。私が通っていた高校にもAFS留学帰りの女子生徒がいましたが、帰国直後は日本語を忘れていましたね。

その後、彼は岡山大学医学部に進学、卒業後も母校に残り、教授、附属病院長、学長と順調に出世(いやな言葉ですが)され、また専門の腎臓疾患の権威として学会でも重責を担っておられるようです。

「来年、カナダの親戚が来るので、彼らを連れて大学訪問してもいい?」と尋ねたら「学長の任期は3月末までなので、来るのならそれまでに来てね」とのことでした。6年間の任期は彼にとって長い歳月だったのか、あっという間の日々だったのか、とにかくお疲れ様でした。


大木になりすぎた庭の肥後椿

昔々、1960年代ごろ今の天満屋岡山店の近くに甲本種苗という種物屋がありました。天満屋とは県庁通りをはさんで向かい側にあった小さな店です。当時岡山にはほかに大きな種苗店がなく、もちろん現代のようにネット通販で何でも注文できるような時代ではなく、草花や果樹を育てるのが好きだった私にとっては魅力的な種物屋さんでした。

 たしか高校生のころだと記憶していますが、ある日学校の帰りに甲本種苗の店先に高さが5センチほど、茎の太さはマッチ棒ぐらいしかないとても小さな肥後椿の苗が売られているのを見つけました。肥後椿は直径が10センチもある大輪の花をつけるらしく、こんなちっぽけな弱々しい苗木にいつかそんな巨大な花が咲いたらどんなに見事なことだろうと夢がかき立てられます。

 大学生になって家を離れ、大阪で就職、それ以来実家に帰省するたびに肥後椿の生育ぶりを見てきました。大きくなるのが何と早いことか! 家の庭が気にいったのか、周りの先輩の木々に負けることなく、年々背丈が伸び横にも枝を広げ、春先には巨大な花を咲かせるようになりました。そして花が終わるとボテボテ豪快に地面に落ちて庭は深紅の絨毯を敷き詰めたようになります。

 ところで、椿は忌木で庭に植えることを嫌う地方が各地にあるといいます。花がボトリと落ちるところが打ち首を連想させるからとか、病人が絶えないからとか、家運が傾くからなどと言われているようです。ところが我が家の椿は大した悪さをすることもなく今や樹齢60年を超え、ますます元気いっぱい。とはいえ、ここ数年この大木にも困ったものだと感じるようになってきました。

 広くもない庭のしかも真南に年中葉がある常緑樹があると庭だけでなく家の中まで暗くなります。特にこれからのシーズン、太陽は低くなり座敷まで太陽の暖かい日差しが届かなくなるのです。「だから病人も出るのか、なるほど」と昔の人の知恵には感心させられます。そこで……。

 秋晴れの今日、梯子をかけてかなり大胆な剪定をしました。家の中が少し明るさを取り戻し、久しぶりに傍若無人に存在を主張する肥後椿にブレーキをかけた気分です。ただ山のように出た太枝や葉っぱをどうやって片づければいいのか、庭の植物との戦いはきりがありません。

2022年10月17日月曜日

医師のコミュニケーション能力不足

 医師の患者に対するコミュニケーションスキルを磨いてほしい

9月末頃、夜間ドライブしていたら右目の端あたりにストロボライトのような閃光が2、3秒に一回くらい光るのが見えました。最初は道路の照明灯が目に反射しているのかと思ったのですが、ずっと続くし車を停めても光り続けます。「いままで視力がいいのを自慢してきたけれどとうとう網膜がやられたのか!」と覚悟を決め、近所にある小さな総合病院の眼科を受診しました。

視力、眼圧、眼底などの検査を受け、次いで中年の男性医師による診察がありました。ところがこの先生「上見て、右見て……」と言葉少なく私に指示するものの、事前の諸検査の結果も含めほとんど何も言ってくれません。目薬の処方もないし、「はい、終わり」と言われた私は、いったい自分の目の状態がいいのか悪いのかさっぱり分からないまま。

あまりに愛想がないので、ついでにと思って「白内障はありますか?」と質問したら「立派な白内障ですよ、目が見えにくくなったらまた来て下さい」で終わり。「だれがこんな目医者に2度とかかるか!」と家に帰ったものの、あのなぞのピカピカする閃光は消えないし不安だけが増大します。そして週明けに倉敷にある医科大附属病院の眼科に予約を入れ、その翌週また眼科を受診しました。

前の病院と同じく視力、眼圧などの検査がありましたが、若い女性医師は、ピカピカ光るのは眼球の組織の一部がはがれそれが網膜に当たり、ピカピカ光るように見える、いわゆる老化現象のひとつで心配要りませんと、はがれた組織が写っている写真を見せてくれながら説明してくれました。

白内障についても年相応にあるけれど視力がいい間は何もしなくていい、点眼薬はあるにはあるけれどあまり効果がない、と処方しない理由を説明してくれました。この若い女性医師の診断はたぶん前の中年男性医師と大差なかったのでしょう。しかし同じように専門医に診てもらっても、片や不安が増大、片や不安が解消では大違いです。

最近の若い医師は医学教育課程で患者や病院スタッフに対する接し方をちゃんと学んでいると聞きます。「やさしく、分かりやすく、ていねいに」。 ぜひとも病院経営者には中高年の横着、横柄な男性医師たちを再教育してもらいたいものです。

2022年10月1日土曜日

朋あり遠方より来る

朋あり遠方より来る、また楽しからずや

(9月23日、秋分の日に沖縄の友人、組原洋君来岡。組原君がまとめたそのときの日記を加筆訂正のうえ適宜編集したものです。同窓生とあるのが本ブログ筆者。中学校のときの同期生ですが、交流が始まったのは50歳を超えてから。文中の「40代の旅と日常」は同君の近著。東京 学文社、2022)

※※※

山陽本線、福山発岡山行き電車で、岡山駅から2駅手前の庭瀬駅に14:19に着くと同窓生が迎えに来てくれていた。普段はまず近くの行きつけの喫茶店に行くのだが、たまたま秋分の日で、その関係の用事があったらしく喫茶店はお休みになっていて、同窓生は私の身体障害者用の5割引のETCカードを使って神戸まで行こうと言う。


同窓生に会いに行ったのはおしゃべりするためだから、行先はどこでもよい。彼の自宅近くに行って、出発の準備をしてから、まず牛窓に行った。Wikipediaによれば、牛窓は東と南は瀬戸内海に面している。特に観光業に力をいれており、「日本のエーゲ海」と称している。マッシュルーム(全国シェア30%)の生産地であり、香川県の小豆島とならび、日本二大オリーブ産地の一つでもある。


牛窓にはこれまで3回ぐらい同窓生に連れてきてもらっているが、「日常の記」を検索してみたら、130311140428の2回出てきて、いずれの時も小林宏さんというミュージシャンの人がやっている喫茶店「てれやカフェ」に行ったのだが、小林さんは今は県道から少し奥の方に入ったところに新しい店をリニューアルオープンさせていて、入り口近くのカウンター席でコーヒーを飲んだ。


2階はお座敷タイプで、窓から海が見えるが、床の間にほうずきが飾られていて、私の『40代の旅と日常』もほうずき色のバックでカバーを作ったので、記憶に残った。結構ゆっくり休んでから神戸に向かって出発した。


しばらく自動車専用のブルーラインを走り、備前インターから山陽自動車道に入り、姫路東インターで高速を降り、そのまま播但連絡道経由で姫路バイパスに合流しようとしたのだが、同窓生は間違って一般道に降りてしまい、コンビニで人に道を聞いて再び姫路バイパスへ。加古川バイパス、第二神明道路、阪神高速3号神戸線を走って、京橋出口で高速を降り、ポートアイランド沖にある神戸空港に向かった。同窓生の車にはナビがなく、外は暗闇でだだっ広いポートアイランドの中でまたも道を間違えたりしながら、午後8時前に空港駐車場に着いた。


空港ターミナルの洋食レストランで一緒にカレーを食べてから別れ、21:00SKYで那覇に23:00着。23:30発のモノレール最終便で帰る。

2022年9月28日水曜日

忍び寄るコロナの影

新型コロナの感染者数は減少しつつあるとはいえ数字的には相当なものです。岡山県においては8月のピーク時には1日の新規感染者数が4千人に達し、その後は減り続け最近は千人程度で推移しています。県内感染者累計を見ると27万人、死亡は4百人余りとなっています。

岡山県の総人口が190.6万人(2018年2月)であることを考慮すると実に7人に一人の県民が感染経験をしている勘定になります。しかしこの頻度に実感が伴わないのはなぜでしょう。みんなコロナに罹っても知らん顔して隣近所のうわさにならないように気を付けているのでしょう(賢明な判断です!)。

ところがごく最近、たまに幼なじみに会ったりする機会に「実は先月コロナに罹った」などという話をちょいちょい聞くことがあり、コロナの存在が現実味を帯びてきたような気がします。もっとも身の回りの例では、症状は軽く、ほとんどは無症状、症状があってもせいぜい2、3日熱が出たけど解熱剤を飲んで寝ていたら治ったという感じです。

流行初期のしばしば重篤な肺炎を引き起こし、エクモを装着され、死の淵を彷徨う恐ろしげな病気とはまるで別物になっているようです。

ところが……。先日、秋分の日に沖縄の友人が上京した際、はるばる岡山の私を訪ねてくれました。久しぶりの再会で喫茶店で話をしただけでは足りず、帰りの飛行機が出る神戸空港まで私の車で送ることにしました。友人は耳に障害があり大声でないと会話が成り立ちませんが、車の中ならいくら大声でもOK、神戸に着くまであれこれ話が弾みました。

そして週明けに思いもよらぬメールが来ました。「夜中に微熱があり、昼間はせき、くしゃみが出る」と。ちょっとあわてました。何しろ私は一度もワクチンを打っていないし、助手席の友人とは3時間も大声でしゃべっていたのですから。

友人も私もコロナに効果があると期待される寄生虫駆虫薬のイベルメクチンの効能を信じていて、すぐに飲みました。そのせいかどうか、あるいは友人の発熱は単なる風邪だったのか、症状はまもなく収まり、私も体調に変化なく過ごしていますが、忍び寄るコロナの影に一瞬たじろいだのは確かです。なお製薬会社と大学のイベルメクチンの治験結果は「有意な効果は認められず」でした。


2022年9月20日火曜日

エリザベス女王葬儀

「盆と正月が一緒に来たよう」というと例えとしてはまずいのですが、史上最強レベルの台風襲来とエリザベス女王の国葬があった9月19日はテレビ局にとってはそういう日であったに違いありません。おまけに台湾で大地震もあったのですが、このニュースなどすっかり片隅に追いやられてしまっていました。

台風の方はさいわい「経験したことがない」と言うほどの被害はなく、やはり注目されたのはエリザベス女王の荘厳かつ完璧な葬儀の様子でした。どの映像も伝統と格式、様式美にあふれてうっとり。かてて加えて、人々に愛された女王とのお別れに市民が親しく立ち会えるよう最大限の配慮がみられたことは羨ましくさえ感じられました。国葬までの約10日間、遺体は各地を巡回し、ロンドンでは24時間だれでもお通夜に参加できたことは驚きでした。

ウェストミンスター寺院での国葬の後、最終的に安置されるウィンザー城までの長い沿道でも葬列はゆっくり進み、そこでも多くの国民が花一輪、最後の献花をすることが許されていました。さすがはイギリス、伝統と格式に留まらず王室と国民の距離が近いと感じました。私も若いころロンドンに行ったことがありますが、そのとき一番驚いたのがバッキンガム宮殿のたたずまい。堀や森で隔離され、隠された皇居と異なり、「この壁のすぐ内側に女王がおられる」という圧倒的な近しさでした。実際はどうか知りませんが、とにかく王室と国民の距離が近い。日本の皇室の儀式はともすれば政界関係者と外国要人のために存在しているかのような印象が強く、「一般国民はテレビでも見ていなさい」というのは何とかならないものでしょうか。

エリザベス女王の国葬で感じたもうひとつのことは、国王の葬儀であれ庶民の葬儀であれ、キリスト教の葬式は分かりやすく、遺族はしみじみ心が癒されるセレモニーだということ。難解な仏式に比べ、分かりやすい説教のあいまにみんなで賛美歌を歌い、澄み切った気持ちで故人とお別れできるのが何よりいい。

イギリスの公共放送BBCの中継スタンスも立派でした。ひたすら儀式の進行と遺族の姿に焦点を当て、バイデン米大統領等各国要人の映像はいっさい流しませんでした。やるじゃないかジョン・ブル! 誇りと気骨がありますねえ。

グリーンモンスター、クズの脅威

最近在来線の電車や高速バスで大阪までよく出かけ、スローな旅を楽しんでいます。市街地を離れるとすぐに緑豊かな田園地帯を電車やバスは走っていくのですが、一見“緑豊か”に見える道路脇や鉄道沿線、里山の緑の正体が秋の七草のひとつクズであることに驚かされます。

クズは漢字で書くと「葛」であり、むかしなじみの葛餅、葛湯などの食品として、また風邪によく効く漢方薬、葛根湯の原料として人間の生活に役立つ存在でした。ところが今では人間の怠惰がもとでクズは最凶の迷惑植物となってしまいました。

実際、空き地に廃車を捨てたり廃屋を放置したりするとすぐにどこからともなくクズが繁殖を始め、電柱があればそれによじ登り、小川をまたいでどこまでも勢力範囲を広げます。高速道路の法面など日当たりのいい場所はクズにとって理想的な繁殖地になります。かつてアメリカは荒れた表土の保全のために日本からクズを輸入したそうですが、今ではグリーンモンスターとしてやっかいもの扱いです。

アメリカでも日本でもモンスターと化したクズの退治方法はあるのでしょうか? アメリカ軍がベトナム戦争のときに使用した枯れ葉剤のような薬品を使ったとしても効果は限定的で莫大な金もかかる一方、他の動植物や環境に与えるダメージは大きく現実的ではありません。

戦前までの日本の農村風景の美しさ、手入れのよく行き届いた山野の自然の美しさは外国人の驚嘆の的でした。たしかに安藤広重の浮世絵に描かれた農村は雑草一本生えていないうっとりする美しさ。若いころ初めてスイスを旅したとき、都市も農村もアルプスの山岳地帯もどこをとっても舐めるように美しく管理されていたことに感激したものですが、かつての日本もスイスに負けない絵になる国だったと思います。

どうやったらグリーンモンスター、クズに占拠され、松林は枯れ、足の踏み場もなくなった里山を復活させることができるのか。頭をひねっても、薪炭を捨てすべての燃料を輸入に頼り、小麦や大豆、家畜の飼料のほとんどを外国から安く輸入している現状ではお先真っ暗です。ここは奄美のハブ捕獲ではないですが、刈り取ったクズを1トン焼却炉に持ち込んだらいくらかの報奨金を支払うというのはいかがでしょう。

青春18きっぷ

 飛行機に比べ各種割引料金の設定に消極的なJRにしては珍しく長年続いているサービスに「青春18きっぷ」の存在があります。この切符に先行して誕生した「フルムーン夫婦グリーンパス」は今年を最後に廃止するとのことで、「青春18きっぷ」は全国のJR線をまたいで格安に旅行できる唯一の人気企画商品となるのではないかと思います。

この切符が登場したのは国鉄末期の1982年ということですが、実は私はこれまで一度もこれを利用したことがありません。始発から終電まで一日中鈍行列車に乗れるだけ乗って距離をかせぐというイメージが強く、旅の余裕を楽しむというより苦行のように思えたからです。

ところが歳を取ってひまになると岡山から京阪神あたりに出かけるには片道3、4時間かかる在来線の旅の方がペース的にぴったりくるのです。新幹線「のぞみ」の45分で新大阪に到着してしまう旅は速過ぎるし料金も高過ぎ。そんなところへ遅ればせながら「青春18きっぷ」という破格の存在に気づいたという次第です。今年の夏シーズンの切符の発売最終日は何と本日、8月31日まで! 利用期間は9月10日までなので、これからの10日間、小旅行を繰り返すことにしました。大阪、京都、広島、高知、松江と思い巡らすだけですでに東西南北5日分の旅程は完成です。

話は少々ずれますが、旧国鉄のネットワークの良さは新幹線の普及と分割民営化のおかげでどんどん悪くなってきました。とりわけ長距離の鈍行列車が激減。私の中学校時代には宇野発大阪行き鈍行列車があり毎日の通学に乗っていました。蒸気機関車が消滅する直前の時代です。

私は宇野線妹尾駅(現在の瀬戸大橋線)から岡山駅まで15分ほどの乗車でしたが、昭和36年当時、大阪まで闇米を運ぶ業者が通勤通学客を押しのけて、わずかな停車時間に我が物顔で多数の米袋を客車に積み込むのには閉口。その列車は夕方には闇米屋を乗せてまた岡山へ帰ってきていました。今はもう在来線で岡山・大阪を乗り換えなしで移動することはできませんが、さいわい線路はJR西日本管轄のままつながっています。北陸地方のようにかつての北陸本線が第3セクター化によってずたずたにされた地域に比べれば岡山はまだマシか、という感じです。