2023年4月12日水曜日

去る者日々に疎し

コロナ禍で3年も人流がストップしていましたが、昨年の秋あたりから繁華街は訪日観光客でごった返すようになりました。私の身近でも年末にブロディとサラというカップルが来日。カナダの従姉の義理の孫になる若者たちです。日本の城に興味があるという彼らに国宝にして世界文化遺産でもある姫路城は外せません。姫路駅で落ち合い、遠目にも威風堂々の白鷺城に向かいました。

今時の若者は旅先で必要な情報は実にきめ細かく調べていて、あきらかに従姉(77歳)やその子ども世代(50代)とは違って、案内役などいなくてもスマホ片手にすいすいと旅を楽しんでいる様子でした。それに子どものころから日本のアニメや戦乱時代の武将ものゲームなどもあるのでしょう。私は日本史の細かいことを聞かれてたじたじでした。

姫路城の後は新幹線で岡山へ。定番の後楽園と新装なった岡山城や県立図書館を案内し、夕食後ホテルまで送りました。彼らは岡山の後は広島、福岡、長野と回り、成田から帰国する予定とのことでした。

さてここからの展開が外国人と日本人の気性というか習慣の違い、あるいは世代の違いなのか、何か変なのです。ホテルの入り口で「じゃあ気をつけて」、「ありがとう」の挨拶を最後に翌日になっても帰国間際になってもいっさいメール連絡がなく少々心配でした。カナダの親元にはどこかでわんこそばを100杯も平らげている楽しそうな写真が届いていて、それが転送されてきて、ああ元気に旅しているなと分かる始末。

こういう経験はカナダの若者に限らず、後楽園などで困っているヨーロッパからの観光客などを助けて感謝されメアドまで交換してもこちらからのメールに返信もくれない場合がほとんど。日本人ならほぼ間違いなく「先日は大変お世話になりました」みたいなお礼メールのひとつも送ってくるものですが……。 

そう言えばアメリカのTVドラマ、“Sex and the City”など見ていると車の中で濃厚なキスをしている男女でも車から降りたら彼女が名残惜しげに後を振り向くなどまったくありません。そういうものなのでしょうね。“Out of sight, out of mind”「去る者日々に疎し」どころか、別れた瞬間にもう気分の切り替えができてしまう彼らはやはり日本人とは違うなと率直に思います。

後期高齢者となる年の春を迎えて

一人暮らしは気ままなものですが大晦日を一人きりで過ごすのは侘びしく思われ、空港に行ってみました。JALのカウンターで混み具合を聞いたところ空席多数とのことでシニア料金で搭乗しました。大晦日の東京なんて学生時代以来数十年ぶりのこと、さぞかしにぎやかな年の瀬かと思いきや、新宿の繁華街でさえ閑散としていたのにはびっくりでした。

上京した際によく行く新宿の飲み屋に行ってみました。さすがは大都会、こういう場所には私のような行き場のない孤独な人が集まって、見ず知らずの人たち同士で盛り上がっていました。カラオケのテレビモニターには紅白歌合戦が映っていましたが、知っている歌手と言えば加山雄三ぐらいのもの、もうとっくの昔に消えてていい番組なのにまだNHKはこんなものに莫大な費用をかけているのですね。居酒屋で紅白歌合戦が終わるのを待つというのもつまらなく思われ「ゆく年くる年」を待たずホテルに引き上げました。

元旦は沖縄に住んでいる友人がちょうど上京中と聞いていたので、連絡してみたところ閑そうで、彼の娘さんを含め3人でファミレスに行きました。弁護士の友人は中学校時代のクラスメートですが、実際に会って話をすると仕事がらみのメールでは感じられない友の「老い」が見えてきます。でもその「老い」は悲惨なものではありません。ファミレスみたいなカジュアルな店で正月早々まったり話をしていると、我々もほのぼのいい爺さんになったものだ、人生の苦しみの多くはすでに経験済みで今生きていること自体が何となく楽しい、そんな気分になりました。

それでも近年同年代の友人たちとの交友関係は一人また一人と少なくなってきました。死別という場合が多いのは確かですが、多くの場合、なしつぶし的に、あるいはあからさまに「もう連絡して来ないで」と言われて交友が終わることもあります。かつてあれほど親しいと思っていた友人たちがある日去っていくのです。私の友人に対する接し方に問題があったのでしょう。若い頃はそれでもつきあってくれていたのが、残り時間が少なくなった今、みなさん自分の時間を大切にすることに正直になってきたせいかと想像します。

老いの道はかくのごとく孤独なものですがそれはそれ、若い世代の人々と仲良くしていきたいものです。

2022年12月26日月曜日

2022年を振り返って

今年も残り少なくなった今日このごろ1年を振り返ってみるといろいろ感慨深いものがあります。ウクライナ戦争はウクライナの善戦が伝えられているものの戦線がぶつかり合う現地に住んでいる人々にとっては、地獄の日々に違いありません。

日本は幸いなことに太平洋戦争を最後に70数年平和と繁栄を享受してきましたが、ここにきて東シナ海がずいぶんきな臭くなってきました。また経済的にもいつのまにか先頭グループから置いてきぼりをくらっているような情けない状況です。

コロナに関しては欧米でもアジアの多くの国々でももはや何の規制もない以前の状態に戻っているのに対し、中国のゼロコロナ政策の異様さは際だっています。日本ははっきりした政策を欠き、欧米とも中国とも違うあいまい戦術でコロナに対処しているところがいかにも日本的だと感じます。

大事件もありました。安倍元総理が夏の参院選の応援演説をしている最中に背後から手製の銃で暗殺されるというショッキングな出来事。この件は旧統一教会問題という予期せぬ事態を露呈させました。

イギリスのエリザベス女王の急逝にも驚かされました。世界史上最長の在位を誇った君主かと思っていたのですが、調べてみると第1位はフランスのルイ14世で72年と110日、第2位のエリザベス2世女王陛下は70年と127日だそうです。こうした神話級の記録が破られることはもはやないでしょう。

個人的な出来事としては、おおむね健康に恵まれた1年だったものの、11月に受けた歯茎の手術で頬がパンパンに腫れたのには本当に参りました。友人に腫れた顔の写真を見せたら“通天閣のビリケンさんそっくり、拝んだら御利益がありそうなくらい!”とまで言われました。

来年は久しぶりにカナダの親戚の子たちが桜の咲くころ日本に来るというので私も通訳として彼らに同行し京都や山陰の春を楽しみたいと思います。桜が咲き花見ができるのは何と平凡で幸せなことかと思います。

(お詫びと訂正)

本誌117日号に掲載した当コラム中において「甲本種苗店」と記しましたが、正しくは「こうもと種苗店」(代表者名:河本勝吉)でした。ご指摘いただいた読者の方には心より御礼申し上げます。

伯母の戒め

 小学生のころの夏休み、母に連れられて東京見物に出かけたことがあります。渋谷の道玄坂でビジネス旅館を経営していた伯母はしっかり者で世知に長け、母にとっては姉というより母親的な存在でした。文学少女がそのまま大人になったような母とはあらゆる面で気性も経済感覚も異なっていました。
 渋谷にも大きなデパートがあるのに、伯母は地下鉄銀座線に乗ってわざわざ三越本店まで買い物に出かけていました。もともと新潟生まれの伯母にとって呉服店「越後屋」が発展してできた三越には古里のにおいがあったのかもしれません。東京滞在の三日目ぐらいだったか伯母がその日本橋三越に連れていってくれました。「好きなもの、何でも買っていいから」と。
 私は遠慮がちな田舎の子どもだったし、当時の天満屋でさえ巨大なデパートに思えていたのに三越本店の偉容にはすっかり怖じ気づいたものです。伯母がこれはどうか、あれはどうか?と催促してきても私は「要らない」を連発。リッチな大人のためのデパートに子ども向き商品はそれほどなかったような気もします。それでもせっかくの伯母の好意を無下(むげ)にするのも悪いので、東京タワーの模型を買ってもらいました。
 ところが……。楽しかった数日間の東京旅行を終えて岡山に帰った日の夜のこと、ふと両親の寝室から母の嗚咽(おえつ)の声が聞こえてきました。母は父に取りすがって「東京で姉さんに酷いことを言われた、悔しい」と泣いているのです。
 後に何を言われたのか母が語ってくれたのはこうでした。「あんたたち夫婦は子育てを間違っている。つましい教員なんかやっていて子どもに倹約を強いているのだろう。そのせいで子どもがいじけているではないか。何を買ってやると言っても『要らない』の一点張りだった……」
 私は母に対し申し訳ない気持ちでいっぱいになりました。なぜほどほどに値の張るおもちゃとか洋服でもねだって、伯母さんの自尊心をくすぐってあげなかったのか、大失敗でした。
“三つ子の魂百まで”、今でもデパートは食料品売場以外は苦手です。それでも伯母に似ていて上京したら用はなくても新宿の伊勢丹に寄ります。もっとも伯母に言わせれば「伊勢丹なんか……」でしょうが。 

インプラントその後

インプラントの人工歯根を埋め込むための手術を大学病院の口腔外科で受けてきました。私の場合、人工歯根を支えるだけの骨の厚みが不足していたので、人工骨で歯槽骨をかさ上げし、そこに人工歯根を埋入するというかなり大がかりな手術でした。

所要時間はたっぷり2時間。麻酔を打ちその後は口を大きく開けたままにしておくのですが、助手をつとめるシニア・レジデントの学生さんが金具で頬をずうっと引っ張り続けます。歯茎を切開する痛みは麻酔で消されているのに対し、頬に金具が当たる痛みは相当のもの。「頬が痛いのですが……」と申し出たら、先生は何と頬に麻酔をチュチュッと打たれるではありませんか!「こんな対処の仕方もありなの!?」

歯科の診療台の周囲には手術を担当している教授のほかにインプラント科の教授、レジデントや学生さんが34人見学しています。ガリガリガリと歯茎の中の骨が削られる音を聞きながら、ふと困った感覚が、最初は遠雷のように、そして次の瞬間にはすぐそこまで迫ってきました。トイレです。

「すみません、トイレに行かせてください」-「あとどのくらいがまんできますか?」

「漏れそうです」-「じゃあトイレに行ったらすぐ帰ってきてくださいね」

衆人環視の中でこういう会話をするのはなかなか非日常感が伴いますが、自然の要求には抵抗できません。白内障の手術では紙おむつをはかされるそうで、それに比べればまだマシ、トイレに行くくらいどうということはないとも言えます。

人工歯根の埋め込み作業も終わり、口腔外科の先生は額に汗を光らせながら30針とも40針とも数え切れないぐらい傷口を縫っていかれます。耐え難い時間。その日は病院に1泊して翌日帰宅しました。しかし本当の地獄はむしろ退院してから23日後に訪れました。頬の腫れが尋常ではないのです。

目も開かないほどの腫れが術後1週間も居座り、いやはや。インプラントのメリットは絶大ですが、難しい部位へのインプラントは歯科医師と十分話しあって、決して無理をしてまで強行すべきではないと思いました。後は人工骨がうまく定着することを祈るのみです。

2022年11月13日日曜日

インプラント手術で顔がパンパン

 春に抜歯した右上奥歯があった場所にインプラントの人工歯根を埋入する手術を受けました。大学病院に1泊しての大変な手術でした。上の歯の歯茎は副鼻腔までの距離がとても薄く、口腔外科の先生が先ず歯槽骨の増量かさ上げの処置をし、引き続きインプラント科の先生が歯根埋入されました。

退院後、2日3日と日にちが経過するにつれ、顔の腫れが信じられないぐらいパンパンに。そろそろ引き始めてくれないと、外出もままならないです。




2022年11月2日水曜日

岡山大学学長、槇野博史君

今年1月ごろ右上の奥歯が原因で副鼻腔にまで炎症が拡がり大変なことになりました。かかりつけの歯科医さんで抜歯してもらったところ炎症は劇的に改善したのですが、その後のインプラント処置は大学病院にお願いした方がいいということで、岡山大学病院のインプラント科を紹介していただきました。

担当のK教授は気さくな方で腰が低く「白い巨塔」の財前教授とは正反対、私のおしゃべりにもちゃんと応じてくださいます。それをいいことに、最初の診察のとき、年齢を聞かれた際に、「74歳です。学長の槇野君と同じ年です」と、それとなく(えっ、見え見えですか?)槇野学長と親しいことをアピール。我ながら本当にいやな性格です。

「学長とお知り合いですか?」 待ってました、そう来なくちゃ。「中学校時代の幼なじみなんですよ。あさってはコロナ以来初めての飲み会があって久しぶりに会う予定です」。K教授は「驚きましたねえ、学長先生のお友達ですか」と相づちを打ってくれました。謹厳実直な先生なら「それが何か?」と返されても仕方ない場面です。

実は中学校時代の3年間、1学年5クラスあったのですが、槇野君とは同じクラスになったことはなく、いっしょに遊んだり勉強したりするような仲ではありませんでした。高校、大学も別々。ただ大人になってから同窓会や同期のメンバーで作っているメーリングリストを通じて交際してきたというのが実状です。

槇野君は高校時代に当時としては日本の高校生がアメリカに留学できるほとんど唯一の機会だったAFSの選考試験に合格し、アメリカの地方都市で1年間を過ごした経験をお持ちです。岡山県全体でも1学年に2、3人の超難関試験だったと思います。私が通っていた高校にもAFS留学帰りの女子生徒がいましたが、帰国直後は日本語を忘れていましたね。

その後、彼は岡山大学医学部に進学、卒業後も母校に残り、教授、附属病院長、学長と順調に出世(いやな言葉ですが)され、また専門の腎臓疾患の権威として学会でも重責を担っておられるようです。

「来年、カナダの親戚が来るので、彼らを連れて大学訪問してもいい?」と尋ねたら「学長の任期は3月末までなので、来るのならそれまでに来てね」とのことでした。6年間の任期は彼にとって長い歳月だったのか、あっという間の日々だったのか、とにかくお疲れ様でした。


大木になりすぎた庭の肥後椿

昔々、1960年代ごろ今の天満屋岡山店の近くに甲本種苗という種物屋がありました。天満屋とは県庁通りをはさんで向かい側にあった小さな店です。当時岡山にはほかに大きな種苗店がなく、もちろん現代のようにネット通販で何でも注文できるような時代ではなく、草花や果樹を育てるのが好きだった私にとっては魅力的な種物屋さんでした。

 たしか高校生のころだと記憶していますが、ある日学校の帰りに甲本種苗の店先に高さが5センチほど、茎の太さはマッチ棒ぐらいしかないとても小さな肥後椿の苗が売られているのを見つけました。肥後椿は直径が10センチもある大輪の花をつけるらしく、こんなちっぽけな弱々しい苗木にいつかそんな巨大な花が咲いたらどんなに見事なことだろうと夢がかき立てられます。

 大学生になって家を離れ、大阪で就職、それ以来実家に帰省するたびに肥後椿の生育ぶりを見てきました。大きくなるのが何と早いことか! 家の庭が気にいったのか、周りの先輩の木々に負けることなく、年々背丈が伸び横にも枝を広げ、春先には巨大な花を咲かせるようになりました。そして花が終わるとボテボテ豪快に地面に落ちて庭は深紅の絨毯を敷き詰めたようになります。

 ところで、椿は忌木で庭に植えることを嫌う地方が各地にあるといいます。花がボトリと落ちるところが打ち首を連想させるからとか、病人が絶えないからとか、家運が傾くからなどと言われているようです。ところが我が家の椿は大した悪さをすることもなく今や樹齢60年を超え、ますます元気いっぱい。とはいえ、ここ数年この大木にも困ったものだと感じるようになってきました。

 広くもない庭のしかも真南に年中葉がある常緑樹があると庭だけでなく家の中まで暗くなります。特にこれからのシーズン、太陽は低くなり座敷まで太陽の暖かい日差しが届かなくなるのです。「だから病人も出るのか、なるほど」と昔の人の知恵には感心させられます。そこで……。

 秋晴れの今日、梯子をかけてかなり大胆な剪定をしました。家の中が少し明るさを取り戻し、久しぶりに傍若無人に存在を主張する肥後椿にブレーキをかけた気分です。ただ山のように出た太枝や葉っぱをどうやって片づければいいのか、庭の植物との戦いはきりがありません。

2022年10月17日月曜日

医師のコミュニケーション能力不足

 医師の患者に対するコミュニケーションスキルを磨いてほしい

9月末頃、夜間ドライブしていたら右目の端あたりにストロボライトのような閃光が2、3秒に一回くらい光るのが見えました。最初は道路の照明灯が目に反射しているのかと思ったのですが、ずっと続くし車を停めても光り続けます。「いままで視力がいいのを自慢してきたけれどとうとう網膜がやられたのか!」と覚悟を決め、近所にある小さな総合病院の眼科を受診しました。

視力、眼圧、眼底などの検査を受け、次いで中年の男性医師による診察がありました。ところがこの先生「上見て、右見て……」と言葉少なく私に指示するものの、事前の諸検査の結果も含めほとんど何も言ってくれません。目薬の処方もないし、「はい、終わり」と言われた私は、いったい自分の目の状態がいいのか悪いのかさっぱり分からないまま。

あまりに愛想がないので、ついでにと思って「白内障はありますか?」と質問したら「立派な白内障ですよ、目が見えにくくなったらまた来て下さい」で終わり。「だれがこんな目医者に2度とかかるか!」と家に帰ったものの、あのなぞのピカピカする閃光は消えないし不安だけが増大します。そして週明けに倉敷にある医科大附属病院の眼科に予約を入れ、その翌週また眼科を受診しました。

前の病院と同じく視力、眼圧などの検査がありましたが、若い女性医師は、ピカピカ光るのは眼球の組織の一部がはがれそれが網膜に当たり、ピカピカ光るように見える、いわゆる老化現象のひとつで心配要りませんと、はがれた組織が写っている写真を見せてくれながら説明してくれました。

白内障についても年相応にあるけれど視力がいい間は何もしなくていい、点眼薬はあるにはあるけれどあまり効果がない、と処方しない理由を説明してくれました。この若い女性医師の診断はたぶん前の中年男性医師と大差なかったのでしょう。しかし同じように専門医に診てもらっても、片や不安が増大、片や不安が解消では大違いです。

最近の若い医師は医学教育課程で患者や病院スタッフに対する接し方をちゃんと学んでいると聞きます。「やさしく、分かりやすく、ていねいに」。 ぜひとも病院経営者には中高年の横着、横柄な男性医師たちを再教育してもらいたいものです。

2022年10月1日土曜日

朋あり遠方より来る

朋あり遠方より来る、また楽しからずや

(9月23日、秋分の日に沖縄の友人、組原洋君来岡。組原君がまとめたそのときの日記を加筆訂正のうえ適宜編集したものです。同窓生とあるのが本ブログ筆者。中学校のときの同期生ですが、交流が始まったのは50歳を超えてから。文中の「40代の旅と日常」は同君の近著。東京 学文社、2022)

※※※

山陽本線、福山発岡山行き電車で、岡山駅から2駅手前の庭瀬駅に14:19に着くと同窓生が迎えに来てくれていた。普段はまず近くの行きつけの喫茶店に行くのだが、たまたま秋分の日で、その関係の用事があったらしく喫茶店はお休みになっていて、同窓生は私の身体障害者用の5割引のETCカードを使って神戸まで行こうと言う。


同窓生に会いに行ったのはおしゃべりするためだから、行先はどこでもよい。彼の自宅近くに行って、出発の準備をしてから、まず牛窓に行った。Wikipediaによれば、牛窓は東と南は瀬戸内海に面している。特に観光業に力をいれており、「日本のエーゲ海」と称している。マッシュルーム(全国シェア30%)の生産地であり、香川県の小豆島とならび、日本二大オリーブ産地の一つでもある。


牛窓にはこれまで3回ぐらい同窓生に連れてきてもらっているが、「日常の記」を検索してみたら、130311140428の2回出てきて、いずれの時も小林宏さんというミュージシャンの人がやっている喫茶店「てれやカフェ」に行ったのだが、小林さんは今は県道から少し奥の方に入ったところに新しい店をリニューアルオープンさせていて、入り口近くのカウンター席でコーヒーを飲んだ。


2階はお座敷タイプで、窓から海が見えるが、床の間にほうずきが飾られていて、私の『40代の旅と日常』もほうずき色のバックでカバーを作ったので、記憶に残った。結構ゆっくり休んでから神戸に向かって出発した。


しばらく自動車専用のブルーラインを走り、備前インターから山陽自動車道に入り、姫路東インターで高速を降り、そのまま播但連絡道経由で姫路バイパスに合流しようとしたのだが、同窓生は間違って一般道に降りてしまい、コンビニで人に道を聞いて再び姫路バイパスへ。加古川バイパス、第二神明道路、阪神高速3号神戸線を走って、京橋出口で高速を降り、ポートアイランド沖にある神戸空港に向かった。同窓生の車にはナビがなく、外は暗闇でだだっ広いポートアイランドの中でまたも道を間違えたりしながら、午後8時前に空港駐車場に着いた。


空港ターミナルの洋食レストランで一緒にカレーを食べてから別れ、21:00SKYで那覇に23:00着。23:30発のモノレール最終便で帰る。